※大学生パロ

 彼女はいつだって自由奔放で、何に関しても寛大だった。しかし、ただひとつ、彼女にとって許せない事があった。それは夜に爪を切る事。「親の死に目に会えないんだよ」僕と彼女が暮らしはじめて最初の夜、彼女は怒ったような悲しんだような大変曖昧な顔で僕から爪切りを取り上げた。その日から僕は夜に爪を切る事をやめた。理由を聞いたら、彼女の自由精神が粉々に打ち砕かれる気がして、どうしても聞けなかった。その理由を知ったのは、彼女が自殺を試みた夜だった。

 彼女の生まれが日本だと聞いた時、僕は真っ先に桜を思い浮かべた。彼女に桜について尋ねると、彼女はそれはそれは自慢気に桜の美しさを語ったものだ。「私の家にはとても桜の木があるのよ。それは私のお母さんのお母さんのお母さんのお父さんが植えたものでね。春には親戚みんなが集まってその下でお花見をするの」お母さんという単語が5つも続く事もあれば、2つで終わってしまう時もあった。とにかく大層昔のものだという事は分かるし、なにより指を折って一生懸命に数を数える彼女がとてもかわいらしかったので、僕はあえて追及しないでおいた。

 彼女の肌は透き通った色をしており、触ると絹のように滑らかで、いつもしっとりと濡れていた。そして髪の毛は睫毛は陰毛は、夜を飲み込んだ暗黒だった。僕だって黒だったけれど、彼女を前にするとニセモノのように感じられた。艶のある彼女の髪の毛を梳くのが僕は好きだった。

 先に恋をしたのは僕で、先に告白をしたのは彼女だった。大学のキャンパスで、毎日違う人を連れて歩く彼女は、いつも楽し気だった。他の人と比べてかなり小さい彼女の身長、あの夜露のように光る魅惑的な瞳、笑うと時折見えるとがった犬歯、ピンク色の小さい爪。甘く香るイチゴの香り。彼女を構成する全ての物質は、彼女をどうしたら素晴らしく惹き立てるか綿密に考えられていた。完璧だった。大学での彼女の地位は、いわゆる花のような存在で、雑草の僕なんかには到底踏み入れてはいけない領域だった。一度侵入してしまえば、僕は除草剤をまかれ、たちまち死に追いやられるだろう。だから見ているだけでいい。せめて彼女が引き立つように僕は葉を伸ばし、周りを緑で飾ろう。親友のジャンはそんな僕をよく馬鹿にしていたけれど、応援もちょっとだけしていてくれていた。

 「隣、空いてますか」カフェテリアでパソコンを向き合っていると、そう言われ僕は顔の主を確かめずにどうぞと言った。最後に時計を見たのは11:00ちょっと前。あれから1時間は経っていると思うので、きっと席が詰まってきたのだろう。ジャンの席はもう確保しているので何とも思わなかった。横でかちゃかちゃと食事をする音を聞きながら、レポートの仕上げにかかる。あと少しだからジャンが来る前に。そう思った時、僕の携帯のバイブが鳴った。それはジャンからのメールで、「2人でごゆっくり」とだけ書いてあった。メールの意味が分からず、何気なく横を見て僕は多分生きていて一番驚いた。花は僕の驚いた顔が面白かったのか、声に出して笑った。恥ずかしくなって、俯く僕に彼女はこう言った。「たまさかに、我が見し人を、いかならむ、よしをもちてか、また一目見む」日本語というものに触れた事がなかった当時の僕は、その音の羅列を日本語だとすら理解できなかった。ただ音のテンポが気持ちよくやけに耳に馴染んだ事を覚えている。僕が「ええと」と言葉に詰まっていると、彼女は含み笑いをしてまた言った。今度はドイツ語だった。「つまり貴方が好きって事よ。ねえ貴方の名前は何ていうの?」ポケットから銀紙に包まれたピンク色の飴玉を取り出して、僕の唇に押し付けながら小首を傾げた。鼻孔に甘ったるいイチゴの香りが広がる。彼女がいつも匂わせているものと一緒だった。

 僕達の交際は、僕が好きだと言う隙を与えないかのようにスタートした。夏が終わろうとしている頃だった。まず最初のデートでした事は彼女の引越の手伝いだった。ルームメイトだったジャンがいい物件を見つけて出て行く事を話したら、その空いた部屋に住みたいと言い出したのだ。付き合っても間もないのに早すぎる、とやんわり断ったけれど、彼女は折れず、僕が折れる方になった。僕がため息をついて「いいよ」と言うと、先ほどまでむくれていた彼女の頬は紅く高揚し子犬のように「ありがとう」と勢い良く抱きついた。初めての恋人からのハグはとても唐突なものだった。いや、彼女は最初から唐突だったか。

 同棲生活は何の支障もなくうまく行った。僕と付き合ってからも彼女の交友関係は変らず、男の子ともよく遊びに行った。嫉妬していないと言えば嘘になるが、僕は自分に自信がなくて「行ってきます」とお洒落をして言う彼女を笑顔で常に見送った。そんな日が1年半続いたある日、彼女は僕達の住むお風呂場で自殺を図った。手首を切るという初歩的なもので、幸い傷も浅かったので大事には至らなかった。病室で目を覚ました彼女に、どうしてこんな事をと尋ねる前に彼女は「嘘つき!」と僕を罵り喚いた。その後泣きじゃくり何度も「お母さん」と乞うた。僕一人じゃどうしようもなく、彼女は看護師に押さえられながら鎮静剤を打たれた。彼女の生い立ちを知ったのは、彼女の面倒を見ていたという彼女の叔母だった。彼女はここの病院の婦長で、僕が昔世話になった看護師だった。あの頃の彼女はまだ若々しかったのに、今は至る所に皺ができ、髪には白髪が混じっていた。

 話はとても短かった。彼女の両親祖父祖母姉はすでに他界しており、ドイツに住んでいた叔母に預けられた事。彼女の母親が一家心中を試み、家は全焼、家族は全員焼死した事。彼女はその日宿泊学習でいなかった事。彼女は心に深い傷を負った事。
叔母は淡々と話し、この度はうちの姪がご迷惑をお掛けしましたと義務的に詫びた。僕はやっと彼女が夜に爪を切らない理由を、毎晩うなされている理由を知ったのだった。

 彼女が次に目を覚ました時、彼女は僕に別れて欲しいと告げた。僕は初めて彼女の頼みを頑として受け入れなかった。

「いきなり自殺するような女になんの未練があるの?」
「なにか理由があってしたんだろう?」
「色んな男と遊び歩く私にうんざりしてたんでしょう」
「うんざりはしてなかったよ。嫉妬はしていたけれど」
「私の事何も知ろうとしなかったくせに」
「それは僕が悪かった。僕が臆病なあまりに君を」
「言い訳なんか聞きたくない!私の事これっぽちも愛していなかった。貴方も私が作った私を見ていただけ」
「これから知っていく事は無理なのかな」
「無理よ」
「でも人生は長い」
「でも永遠の愛なんてあり得ない。いつかは色褪せる」
「そうだ、まだ言ってなかったね。僕は君が好きだよ。君が僕の為に鶴を折ってくれた時から」

 歪な銀紙で出来た鶴をポケットから僕は取り出し自身の右の手のひらに載せた。そこに包まれていたイチゴ飴の残り香はとうに消え失せていたが、僕はそれを見るだけでその匂いをあの時の事を思い出す事が出来た。足を骨折し入院した10歳の時、病院でたまたま会った女の子は、手術を怖がる僕に鶴を折ってくれた。手術を終え退院する時、お礼を言いたくて探したけれど、彼女を見つける事は出来なかった。大学に入学するまでは。

 彼女は僕の手のひらごと握りしめて泣いた。さあここからもう一度愛を始めよう。

好きを敷き詰める世界

20130914
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