この時期になると訪れる向日葵畑は、小高い丘を埋めるように咲き乱れている。迷路のような作りになっている小道を辿るのは、これで三度目だった。ドイツ料理を楽しむことが出来るレストランが遠くに見えて、手作りの案山子が手招くように立っている。
あまりにも広々とした向日葵畑だからこそ、園内では自転車を借りることが出来るそうだ。しかし母と父は、遠くに行ってしまうことを懸念して、自転車の使用には渋い顔をする。
そのことを残念に思いながら、私は高く伸びる向日葵に手を伸ばす。ふわふわとした手触りは心地よくて、鮮やかな黄色はとても美しい。毎年家族で向日葵畑に訪れることを楽しみにしていた私にとって、此処は楽園だった。

どうしてここの向日葵畑を贔屓にしているのか、以前父に聞いたことがある。父は少しだけ寂しそうな顔をして「近くに友達が眠っているんだ」と教えてくれた。
父が言う友達とはどんな人だったか、知りたくて詰めよれば、母は私を優しく咎めた。あんまり聞いてはいけない話らしい。母に怒られて肩を気落ちしている私に、父は思い出話を語る。

「**。お葬式は分かる?」
「分かるよ。おばあちゃんの時、湯灌やったよね」

祖母が亡くなった時、浴槽で清める儀式を行った。徐々に洗い流されていく故人は、少しずつ頬が赤く染めあがり、祖母の口元は薄らと開いていく。まるで命を吹き返す儀式のように思えて、記憶の中に刻み込まれていた。
それが湯灌と呼ばれる儀式であり、幼いながらに感銘を受けたことをよく覚えている。その後白装束に着付け、お化粧を施された祖母は生前よりも美しくなっていた。
こうして故人は生まれ変わるのだと悟って、棺の中に納まれた祖母を悼んだ。とても悲しいはずなのに、棺の中で眠る祖母が白々しく思えて、出棺することをひどく拒んだ。祖母はまだ生きている。燃やさないでという子供の嘆きは、父と母に諫められた。
あの時は死というものをよく理解していなかった。死んだら喋ることも食べることも出来なくなるだなんて、小さな脳味噌では考えられなかった。出棺するため、黒々とした車に飲み込まれていく祖母のことを思い出し、鼻の奥がつんと痛んだ。
そのことに気付いても、父は優しく、そして厳しい人だった。私の頭部を撫で上げ、柔らかに微笑む。

「お父さんの友達も、お葬式をしたんだ。…だけど棺の中は空っぽだった」
「…?」

意味が分からなかった。この歳になり、故人は棺の中に納めるものだと知った。空っぽの棺だなんておかしいじゃないか。子供だと思って馬鹿にしているのかもしれない。非難の眼を向けると、そうじゃないと父は笑う。

「棺の蓋に、写真が貼られていた。友達の写真。…空っぽなのに、可笑しいだろう」

可笑しい、と言うくせに、お父さんは悲しそうな顔で笑うのだから、私は心配になってしまった。向日葵畑に来るといつもそうだ。楽しそうにしながら、その裏側には深い悲嘆を隠している。
母は優しく微笑み父の肩に触れた。それだけで父は困ったように微笑み、母の目元にキスをする。いつまでも仲睦まじい様子の両親に顔を顰めた。ラブラブなことは良いことだろう。しかし多感な年ごろだからこそ、そんな父と母を見ていると気恥ずかしさが勝る。

「いつか**も一緒に行こう」
「どこに?」
「お父さんの友達に会いに」
「やだ」
「えっ」

ふるりと首を左右に振ると、父は少なからず驚いたようで目を瞬かせる。私は拗ねたように唇を尖らせて、不機嫌そうに眉根を寄せた。

「お父さんを悲しませるやつなんかに会いたくない」

ふいっと顔を背けて、私は足を速めた。頬を膨らませて、向日葵畑の中へ潜り込む。背後から「**!」父が私を呼ぶ。それすらも無視して、小さな体で向日葵の隙間を掻い潜る。
私が何故ここまで不機嫌になっているのか、父は分からないだろう。ずっと昔から感じていたことだ。この向日葵畑は父を縛っており、いつまでも続く迷宮を作り出していた。
鮮やかな向日葵畑は好きだけど、寂しそうな父の顔はとても嫌いだ。私や母がいるというのに、何故そんな顔をするのか理解に苦しむ。何より父の気持ちを理解出来ないことが悔しくて、幼稚な心が膨れていく。
要するに拗ねているだけだった。父の関心が向日葵畑に向いており、私のことなんてどうでもいいように思えて、すごく寂しかった。仕事で多忙な父に構って欲しいのに、向日葵畑に私は勝てないのだ。

向日葵の葉が肌を擽って、私を引き留めるかのように大きく揺れた。迷路のような小道に出て、ふと背後を振り向く。父や母の声は聞こえない。姿も見えない。私の体は向日葵よりも小さくて、美しい黄色の中に隠れてしまう。
きっと見失ったのだろうと考え、漠然とした寂しさに襲われた。拗ねて、父と母から逃げ出して、思惑は見事成功したのだが。追いかけてきて欲しかったな、と寂寥感を噛みしめ、私は肌を掻いた。
向日葵の葉が掠めたせいか、皮膚が痒くてしょうがない。がりがりと指先で掻いて、そっと俯いた。唇を噛んで、複雑そうな面持ちで前を見据える。お父さんもお母さんも、私に隠し事ばかりしている。
せっかく可愛らしい向日葵畑に来たというのに、なんだか面白くない。ふん、と鼻を鳴らして、意固地になった私は足を進めた。今しばらく一人の時を楽しみたい。そうして二人とも心配すればいいんだ、と生意気なことを考えて、私は孤独の探検を始めた。

向日葵迷路という呼称が定着しているほど、此処の小道は入り組んでいる。父と母を心配させようと意固地になって、ひたすら突き進んでいたら、自分の現在地が分からなくなっていた。
見渡す限りの向日葵畑は、とても朗らかで美しいというのに、私は寂しくてしょうがなかった。お父さん、お母さん、と呟いて、目元に浮かんだ涙を拭う。ひぐりと喉を鳴らして、不安に瞳を揺らした。
ちょっと困らせるつもりが、本当に迷子になってしまったようだ。おずおずといった風に前へと進み、時折足を止め辺りを見回す。奥まで来てしまったようで人気が感じられず、辺りはしんと静まり返っている。
こういうとき、どうしたらいいのだろうか。ぐるぐると考えて、やがてその場で立ち止まり、蹲る。地面を眺めていると、足元に蟻の行列が出来ていた。一列になってどこまでも伸びる蟻の様子を眺め、唐突にぼろりと涙を零す。

「うっ」

心細くて、涙が引っ切り無しに溢れ出す。ぐしぐしと目元を拭っても、涙の雫は止まらない。向日葵畑に想いを馳せる父を憎たらしく思ったのに、今では会いたくて堪らなかった。同時に優しい母の温もりを思い出し、膝を抱える。

「うう〜っ」

えぐえぐと喉を鳴らして、大粒の涙が膝上に落ちていく。きゅっと小さく縮こまり、父と母をか細い声で呼ぶ。
迷子になりたかったわけではない。ちょっとだけ両親が心配してくれたらそれだけで満足だった。すぐに父が追い付いてくれて、私を捕まえてくれる。そうしたら拗ねたように笑って、父に抱き着くつもりでいたのに。
ここはどこなのだろう。吹き抜ける風により、背の高い向日葵が大きく揺れた。鮮やかな黄色でさえ、私に関心がないように思えた。頭上に照りつく太陽のせいで頭部に熱が溜まり、くらくらと脳味噌が揺れる。

こういうとき、母はいつも私の頭を撫でてくれて、父は困ったように私を抱きしめる。愛されているという自覚があった。だけどそれだけじゃ足りないと思うときがある。困らせたいという幼稚な思いは、もはや子供の特権だった。
とくに父は、家を空けることが多く、電話があれば休日を返上することだってある。何度団らんの時間を邪魔されたことか。去年は私の誕生日に仕事が入り、ケーキを前にして家を出て行ったのだから、あの時は父のことを恨んだものだ。
そんな父のことを不満に思っているのは私だけで、母は気高い人だった。父に振り回されてもにこにこ微笑みだけで、怒ることなど早々ない。「昔よりはマシになったのよ」と慈愛を含んだ様子で笑うのだから、本当にすごいと思う。
私だったら誕生日をすっぽかす男なんて御免だ。重要なイベントを共に過ごすことで、親睦は深まっていく。もし今年も誕生日に父が来なければ、隣のクラスのかっこいい男の子を誘うつもりだ。本当は父と過ごしたいけど、傍にいてくれないのであれば意味がない。
私は母のようにはなれない。父の仕事がどれだけ多忙だとしても、傍にいて欲しいと思う。私がまだ子供だからだろうか。大人になれば、この考えはいくらか変わるかもしれない。それが何年先になるのかは兎も角、今は悲しい気持ちでいっぱいだった。
そうして暫く憂戚していると、不意に土を踏む音が聞こえた。がさ、と靴底の音に肩を跳ね上げて、恐る恐る顔を上げると、そこには黒々としたスーツと、サングラスをつけた怪しげな男がいた。

「………やれやれ。迷子か」

男はぼそりと呟いて、手元にあった煙草を咥える。安っぽいライターで火を点けて、ふう、と白い煙を吐き出す。向日葵畑に溶ける白濁の煙を眺めてから、私はぱちぱちと目を瞬かせた。
人気が全くなかったというのに、いつの間にか見知らぬ男がいる。父よりも少し若い、すらりとした体躯の男だった。驚きにより涙が引っ込んでしまい、しゃがみこんだまま男を見上げる。
きょとりと不思議そうな眼で見つめ、ゆっくりと足を伸ばし立ち上がった。それでも男と私とではいくらか身長差がある。自然と見上げる形になり、私は首を傾げた。

「……おじさん、だれ?」

おじさんと呼べば、男は眉根にしわを寄せた。「おじさん…」ぼそりと低い声音で復唱して、やや不満そうに煙を吐いた。おじさんと呼ばれることに抵抗があるのかもしれない。しかし私からしてみれば十分おじさんに該当する年ごろだった。

「…一つアドバイスをしてやる。こういうとき、お兄さんと呼んだ方が相手は喜ぶ」
「おじさん、ここの人?」
「……」

気配もなく現れた男に問い掛けると、彼は無言で煙草を噛んだ。華やかな向日葵畑に不釣り合いのスーツは、もしかして此処の案内人だという証拠ではないだろうか。どう考えても一般客には見えない。
父譲りの名推理を得意げに披露すれば、男はふんと鼻を鳴らす。真意を教えてくれるつもりはないらしく、遠くを眺めた。黒いサングラスが日の光を浴びて、鮮やかに輝く。
緩やかなくせ毛が風により揺れて、艶やかな黒髪がサングラスにかかる。どことなく父に似ているように思えた。顔つきが似ているわけではなく、携える雰囲気が寂しそうで、それでいて向日葵畑に囚われている。
呆けた様子で男を眺めていると、サングラスの淵を指で押し上げ、自信に満ちた笑みを浮かべた。

「似ているな」
「え?」
「俺の知り合いに顔つきが似ている。…瞳は母親似か?」
「よくわかんない」
「…そうか」

素直に答えると、男は小さく頷いて、歩き出す。小道を悠々とした仕草で歩む男の背中を眺め、何故か追い掛けたくなってしまった。

「ま、待って!…どこ行くの」
「さあな」
「えええ…」

せっかく人に会えたのだ。一人ではないという安堵感に嬉々としたのも束の間、私を置いていこうとする男に眉尻を下げた。不満そうに唇を尖らせると、男の手が私に伸びる。
くしゃくしゃと髪の毛を掻き混ぜられて「わっ」驚いたように飛び退いた。警戒心を滲ませた視線を向けても、男は大して気にも留めていないようで、皮肉めいた笑みを浮かべた。
私の頭部から手を放し、ポケットへと突っ込んでから小道を進む。どこに向かうか分からないが、孤独を嘆いていた私は無意識にその背を追う。大きくて、高くて、何故だか好きな背中だと思った。
初対面のはずなのに可笑しいな、なんて笑いながら、私はいつの間にかご機嫌になっていた。父よりは若い風貌の、どことなく雰囲気が父に似た優しそうな男。頭を撫でられたときの感触がいつまでも皮膚に残っているような気がして、自身の頭部へと手を伸ばす。
撫で方まで父とよく似ていた。髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱して、いつも父は幸せそうに微笑む。甘みを含んだ父の顔が大好きで、私の心にまで幸福が満ちる。なんだかこの人、好きだな。漠然とそんなことを考えて、男の隣へと並んだ。

「……」
「……」

会話はない。それでも、男の横顔を眺め、ぽつりと呟く。

「……タバコの匂い……父さんと一緒だ……」

たまに父から漂う香りが、この男からする。すんすんと鼻を鳴らすと、男は何も答えず、空に向かって煙を吐き出すだけだった。

「おじさんの家が、この近くにあってな」

淡々とした口調で、唐突に男が語りだす。向日葵畑を眺めていた私は「ふうん」生返事をする。男は私の返事などとくに気にしていないようで、まるで語り部のように述べる。

「気が付くといつも向日葵畑にいる」
「…すきなの?」
「さあ」

自分のことなのに、他人事のような言い草だ。飄々とした印象はミステリアスで、どう返答すべきかいちいち悩んでしまう。変わった人だと内心呟いて、私は男と共に向日葵畑を堪能する。

「私、ここすきだよ」
「その割には、さっき泣いていたな」
「……だって」

やはり泣き顔を見られていたようだ。ばつの悪い思いで唇を尖らせ、愚痴を述べるような声音で語る。

「お父さん、友達のことばっかなんだもん」
「友達?」
「うん。死んじゃった友達。…私より、その友達の方が大事なんだ」

比べること自体可笑しいと、頭の中では理解していた。それでも構ってもらえない寂しさから、つい口から不満が零れる。
向日葵畑に来ると友達のことを思い出すようで、父は私ではなく遠くを見つめていた。友達の姿を追うように、その目は向日葵畑に集中している。せっかく家族で訪れた向日葵畑で、私は父に甘えたかった。
家族で過ごす時間は限られている。何かあればすぐに仕事を優先する父なのだ。たまには独占したいと考えてしまう娘の心をぶつけたところで、きっと意味はない。父を困らせたいような、困らせたくないような、複雑な気持ちだった。
目を伏せていると、男の顔がゆっくりと私に向いた。私を見下ろして、小さく相槌を打った。

「成程。あいつのせいか」
「…?」
「ようやく向日葵畑にいる意味が分かった」
「…あ、そう」

よく分からないが、どうやら彼の中で納得がいったようだ。良かったねと言葉をかけると、男はふうと浅くため息をつく。表情にあまり変わりがないため、感情が読み取りづらい。
本当に不思議な人だ。纏う雰囲気が独特で、人間味がないように思えた。時折男の姿が二重、三重にぶれているような気がして目を擦る。それでも男は変わらずそこにいて、煙草の煙を吐き出していた。
黒々としたサングラスで目元は隠れているというのに、薄い唇と高い鼻筋が顔の造形が良いことを物語っている。ゆったりと歩む足は私よりも長いというのに、きっと歩幅を合わせてくれているのだろう。私たちは隣り合わせで進んでいく。

時折鼻孔に入り込む煙草の匂いが心地よくて目を細める。たまに父はこの匂いを漂わせていた。香しくて、大人の色香を感じるこの匂いが好きだった。だからこそこの男のことが気になるのだろう。
父と似た気配を醸し出す男は、手を伸ばせば瞬く間に消えてしまいそうなくらい儚い。風によって黒いスーツが揺れると、焦げ臭い不快な香りが辺りに舞った。この臭いはあまり好きではないと眉根を寄せる。
生臭く、花火の残り香に似ていた。何かを焦がしたような快くない臭いは、一体なんなのだろう。すんすんと鼻を鳴らすと、臭いは記憶となって残る。腐った肉を焼いたような煩わしい臭いは、ますます濃厚となっていく。
煙草の匂いは好きなのに、悪臭じみた香りには困り果ててしまう。本人に直接伝えられるほど、無邪気な悪意は持ち合わせていなかった。出来るだけ臭いを吸い込まないように、口呼吸を繰り返していれば、ふと男が懐からライターを取り出した。

「父親に、これを返しておいてくれないか」

先ほど使用していた安っぽいライター。青色のそれをじっと眺めて、怪訝な表情を浮かべる。

「父さんに?どうして?」
「君の父親から貰ったものだ」

父さんと知り合いなの、と驚きながら返事をして、ライターを受け取る。透き通る青色の中に、液体が入っていた。振ってみるとちゃぷりと揺れて、まだ燃料がそれなりに残っていることを悟る。
まさか父の知り合いだとは思っておらず、いくらか驚いていると、男はさらに言葉を重ねた。

「あと、伝えてほしいことがある」

生温い風が、私と男の間に吹き抜けた。花火の残り香のような臭いが強まる。異臭にも近いその香りが、あまりにも生々しくて、つい顔を顰めてしまった。肉をじりじりと焦がす臭いに、ライターをぎゅう、と強く握りしめた。
何故か息が詰まるほどの熱を感じて、はくりと口を開いた。喉に入り込む熱は、内部を燃やし尽くす勢いで高ぶる。ひゅっと喉を鳴らして目を見開くと、男は薄い唇を微かに動かす。
ごうごうと唸る爆音が耳裏で鳴り響き、それでも男の声はすんなりと耳に入り込んできた。不可解な心地に暫し硬直していると、やがて熱は過ぎ去り、朗らかな風が肌を撫でる。

まるで幻覚でも見ていたかのように、そこには何の変哲もない向日葵畑だけが残った。肌を焼く強い日差しの下で、私はライターを握りしめていた。呼吸を忘れてその場に立ち尽くしていた私は、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
真昼間の悪夢を垣間見たような気分で、そっとライターを見下ろした。燃料が残った安っぽいライターを父に返さなければいけない。それがあの男の願いなのだと理解して、再度顔を上げる。そこには向日葵畑が延々と続くだけで、人の気配など一切なかった。

―――**!

遠くで父と母の声が聞こえる。朧に淀んでいた意識が鮮明になっていき、私は緩やかに首を傾げた。

「……おじさん?」

残った物はライターと、焦がすような異臭と、煙草の匂い。
先ほどまで一緒にいたおじさんは、まるで向日葵畑に食われてしまったかのように消えており、まるで白昼夢を見ていたかのような感覚に陥る。不可思議な感慨に目を瞬かせ、私はすん、と鼻水を啜った。

心配したじゃないと母に怒られて、まったくもうと父は困ったように笑う。気が付かない内に両親の元へとたどり着いていたのだとようやく察して、私は素直に謝罪の言葉を口にした。
両親を困らせようと思って致した行動が、本当に心配を買ってしまったようだ。嬉しく思う反面、やはり申し訳ないという気持ちが勝る。私の目元が赤く染まっていることに気付いた母は「泣いたのね」優しく頭を撫でてくれた。
気恥ずかしそうに眉根を寄せて顔を背けると、父は私に目線を合わせて、眉尻を下げた。

「こら」
「うっ」

こつん、と額を小突かれて、私は目を瞬かせた。じんじんと額に痛みが響いて、私は口をもごもごと動かす。怒られても仕方ないと私自身理解している。だが元はと言えば父のせいだ、という責任転嫁をしそうになって、やめた。
私の脳裏にはあの男がいる。このライターを返して欲しい、と私に願ったあの男の声が、今もなお脳味噌に残っていた。手の内にあるライターがじんわりと熱を帯びていることに気付き、私は右手をびくりと揺らす。

「お母さんも俺も心配したよ。……右手、どうしたんだ?何か………」

そこで私は右手を開く。右手に握られていた青いライターを目にして、父は言葉を止めた。鋭い眼光でライターを見つめ、息を飲む。強張った表情のまま固まった父のことを不審に思いながらも、私はライターを差し出す。

「これ、返して欲しいって言われた」

そっと青いライターを摘まみ上げ、父は唇を震わせた。緊張が滲むその顔を不思議に思い「スーツ着たおじさんから」情報を付け加えた。それでも父は何も言わず、青いライターを眺めるばかりだった。
何かまずいことでもしただろうか。父の異変に気づき、私は眉尻を下げた。叱られるかもしれないと身構えていると、父はゆっくりと青いライターを握りしめる。まるでライターの感触を確かめるかのように、手を何度か開閉させた。

「…青いライター」

ぼそりと呟いて、父は目を細める。微かに指先を震わせている父は、何か思考を巡らせているように思えた。父の様子に恐れを抱きながら、それでも男の言葉を伝えなければいけない。
それがあの男の願いなのだから、と急いだ私は「とうさん」拙い声で呼ぶ。父の灰青色の瞳が私を捉える。それを確認してから、男の伝言を述べることにした。

「もういいよ、って」
「……」
「おじさんが言ってた。伝えてほしいって」
「……」
「なんか変な臭いがするおじさんだった。…あ、でも煙草の匂いは、父さんとおんなじ」
「……」

父さんがたまに吸うあの煙草。銘柄はなんだろう。よく分からないけど、良い匂いだったよ。そう伝えると父は顔をくしゃりと歪めた。切なそうな微笑みは、悲しみというより、むしろ安堵しているように思えた。
どうしてそんな顔をするのか、やはり理解出来ない。おずおずと父の顔を眺めていると、母がそっと寄り添う。父の肩を撫でて、静かに微笑んだ。そんな母のことを見上げて、父は口元を緩めた。
よかった、ああよかった、と母と父は互いに抱き合って、何かを喜んでいる。この反応から察するに、両親共々、あの男と知り合いなのだろう。どのような繋がりがあるのか気になってじっと見上げていると、母がぽんぽんと私の頭を撫でた。
母の瞳は薄らと涙の膜が張っている。とはいえ悲しんでいるわけではないようだ。口元には柔らかな微笑みが浮かんでおり仄かに紅潮している。理由は不明、しかし両親が嬉々としている様子に、私までもが喜ばしい気持ちになる。
口角を持ち上げて、瞳に好奇心の色を含ませた。どういうことなの、教えてよ、と目で訴えかけると、父は苦笑をして、私を抱き上げた。

「わっ」

そのまま肩に私を乗せて、父が背を伸ばす。瞬く間に視界が高くなり、慌てて父の頭に縋り付く。驚いて目を白黒させている私に、父は笑う。

「**」
「やだ、おろしてよ!」
「暴れないで。ね、**」
「…なあに」

いい年して肩車なんて恥ずかしい。顔を赤くして、むすっと頬を膨らませた。そんな様子ですら可笑しく思うのか、父はくすくすと笑みを零す。ますます羞恥を掻き立てられて、父の髪の毛を引っ張る。痛い、と抗議されてしまった。

「おじさんは何か言ってた?」
「…私の顔つきが知り合いに似ていて…瞳は母親似か?って」
「…そうか」

父は小刻みに頷いて、そっと俯いた。私からでは父の表情は見えない。それでも母は「あの人ったら」嬉しそうに眼を細めた。もしかしたら父は顔を見られたくないから、私を肩車にしたのかもしれない。
どこか遠いところを見るような声音で「もういいよ、か」伝言を復唱する。その言葉にどんな意味があるのか、私には分からない。しかし父と母からしてみれば、きっと重みある言葉なのだろう。
子供ながらに察して、父の髪の毛に鼻先を埋めた。太陽の匂いがして、まるで向日葵畑だなあ、と頭の片隅で考える。父よりも高い目線で見る向日葵畑はとても美しく、そして仰々しい。
この向日葵畑のどこかにあの男はいるのかもしれない。視線を這わせて探してみても見当たらなかった。そのことを残念に思いため息をつけば、父は歩き始める。視界が微かに上下して、バランスを崩しかけた。
慌てて父の髪の毛を鷲掴みにすれば、父が喉をくつりと鳴らす。痛いだろう、と柔らかに咎められて、少しずつ手の力を緩めていった。

「…あいつに俺の子供を見せてやりたいと、ずっと思っていた」
「叶ったね。その願い」
「だな。……」

父と母の会話に耳を傾けて、私は不思議そうに首を傾げた。なんだか奇妙な会話に思えた。まるで、本来であれば子供を見せることは難しいと言っているように思えて、私は数度瞬きを零す。
気安く問い掛けていいものか悩んでいる内に。

「……もう、ライターはいらないか」

ふっと笑みの音を零した父は、切なそうに、幸せそうな声音でそう呟いた。毎年の習慣がなくなってしまったわね、と苦く笑った母は、それでも悪い気はしていないのか、口元を緩めていた。
よく分からないが、幸せそうなら、それだけで満足だ。あの男が一体何者なのか、逡巡している内に、ふと気づく。向日葵畑の中で佇む男が一人、此方に向かって手を掲げていた。
黒いスーツのせいでよく目立つというのに、両親は目に入っていないようだった。仕方ないなぁと、代わりに私が手を振る。おじさんまたね、と声高らかに言うと、父はびくりと肩を揺らし、そうして微笑む。

「ねえ父さん」
「なんだ?」
「あのおじさん、なんて**?父さんよりかっこよかった」

その言葉に父は足を止めて「…いやそれはないだろう」不機嫌そうに唸る。一気に機嫌を悪くしてしまった父だったが、しつこく問いただすと、おじさんの**をようやく教えてくれた。その**を繰り返し、私は上機嫌に喉を鳴らす。

「まつだ、じんぺいさん」

また来年、向日葵畑に来たら会えるだろうか。そう思いながら目を細めると、父はますます不機嫌そうに、それでいて幸せそうに笑うのだから、私の胸にも暖かな感情が染み入る。降谷家御贔屓の向日葵畑で出会った男のことを、私はきっと忘れないだろう。

「誕生日パーティーに連れてきてよ。そしたら、父さんがいなくても許してあげる」

そう言えば父は「父さんの方がかっこいいから却下」ぴしゃりと言い切る。大人げない人だなぁと苦笑して、私はまつだじんぺいさんのことを考えた。父から悲しみを拭い去った男は、今もなお向日葵畑で手を振っていたのに、相変わらず両親は気付かない。代わりに私が手を振り返すと、父と母はひどく驚いていた。そんな夏の終わりの話。


end.
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