※デルモの実井くん※


 扉が開く音がする。**が住んでいるアパートは、築35年と古く、扉を開け閉めする度にギィギィと喚くのだ。それはまるで下手なバイオリニストが奏でる不協和音のよう。とはいっても、**にバイオリンの経験はなく、実際バイオリンがどんな音を奏でるのかもよくは知らない。全ては憶測だった。

 **は都内の大学に通う学生であり、このアパートの一室にひとりで住んでいる。つまり、アパートの扉が勝手に開くというのは本来あり得ないことだった。

 脱走したウサギたちを追うのをやめた**は、夢の中から抜け出して、うっすらと目を開けた。目の前にあるこの四角い物体は、おそらく目覚ましだ。大学一年生の時に百均で適当に買った彼はまだまだ現役で、**を起こす役目を毎朝担ってくれている。何時かはきちんと見ていなかったので、分からないが、おそらく、明け方であろう。こんな時間に来る人間はひとりくらいしか思い浮かばなかった。(というか、それ以外の人間の場合間違いなく不審者である。)

 のそりと身体を起こして、目を擦る。親指に目ヤニがついたので、それをティッシュになすりつけて、折り込んだ後、そのまま鼻をかんだ。触れた鼻が冷たい。冬が近づいているのだ。

 半開きになった部屋を出ると、リビングがある。そこには小さな赤いソファとテーブル、そしてテレビがあった。部屋自体は狭いが、**が2年半以上かけて作り上げた我が城である。王座であるソファからひょっこり黒い頭が突き出していたので、**は夢心地の頭で彼の**を呼んだ。

「実井くん」

 そのまま、後ろから彼の首に腕を回して、自分の顔を、綺麗なつむじにくっ付ける。酒と煙草の匂いがしたけれど、今は気にならなかった。

「起きたんですか?」
「うん」

 彼の手には、スマートフォンが握られており、LINEの画面が見えた。きっと、昨日から今朝にかけて飲んでいたモデルの女の子かなにかだ。覚醒しきった頭なら、ムッとしたかもしれない。しかし、彼が、そんな子達を置いて、自分の元に帰って来てくれた事が純粋に嬉しかった。

 **の彼氏はそこそこ有名な雑誌のモデルで、なおかつ、某難関大の学生でもあるので、とてもよくモテた。また、それは彼独特の物腰の柔らかさや奥ゆかしさも影響しているのだろう。**には勿体無いほどの自慢の彼氏である。馴れ初めは少し長くなるので割愛させてもらう。

「また、そんな服を着て」
「これが一番いいんだもん。それに実井くんのにおいがする」
「**が僕から奪い取って大分経つのに?」
「そういうにおいじゃなくて」

 説明しようとしたが、眠さのせいで上手に説明ができなかった。言いたい事はあるのに、うまく纏まらない。頭の中で、言葉をくわえたウサギがぴょんぴょんと彼女の腕からまた逃げ出していく。

「実井くん」
「はい?」

 大事な言葉をくわえたウサギだけは逃すものかと、**は目の前にあるあたたかい体温をぎゅうぎゅうと抱き締めた。

「すき、」

 腕の中のウサギがこちらを見上げる。優しい目をしていた。ウサギは**にその柔らかで、少し湿った鼻を押し当てた。これはきっと夢の中の話である。目が覚めたら温かいスープでも飲もう。


朝と冬の間に

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