うたがきこえたんだ。
ひどく切ない気持ちになるような、
どこかに早く帰らなきゃと
焦る気持ちになるような。
うたがきこえたんだ。
でもどこか温かくて、
優しい気持ちになるような。
うたが、きこえたんだ。



「そうしたらね、ワビスケを見つけた」

侘助の隣に座ってそう言うと、彼は意味が分からないと言いながら、新聞に目を戻した。私は気にせず続ける事にした。

「ワビスケの歌う歌、好きよ。あ、もちろんワビスケも好き。そういえばワビスケの家は何処にあるの?ジャパンってのはとっくに知ってるけど」

両手ではさんだコップの中の熱々ミルクに息を吹き掛けながら反応を待つ。しかし、彼は何も答えてくれなかった。きっと彼の頭は次の研究の事でいっぱいなんだろう。その証拠にさっきから新聞は一頁も進んでいない。読む気がないなら、早く私に貸してくれたらいいのに。なんて心の中だけで悪態をついた。口に出したら、字もろくに読めない癖にって笑うに違いない。確かに普通の人に比べたら読めないけれど、前よりマシになったのよ。って言ってもまた笑われるだけだから言わない。

「私はね、北の方にあるすっごく治安の悪い名前もないような街で育ったの。昼間から酒飲みがウロウロして、ホームレスもたくさんいて、異様な臭いが常に漂っていて、本当に最悪な街だったわ。私が物心ついた時にはもう母親しかいなくて、たった1人の家族なのにかなりのアル中で話が全く通じなかった。学校にも行かせてもらえずに毎日毎日働け働けってやりたくもない仕事ばっかやらされてたわ。いつか都会に行ってお金持ちになってやるってのが小さい頃からの夢で、そうやって母を放って出てきたのはいいけれど結局私もあの親と同様にお酒に溺れちゃって本当にばっかみたい。でもね、お酒飲んでるとね、あの糞だと思ってる街が何か妙に恋しくなっちゃうのよ。捨ててきた親がちゃんとやってるのかなって不安で不安でその気持ちを消すためにまた飲んで、もうその繰り返し。ワビスケに会わなかったら、私きっとアル中で死んでたね」

「七つの子」

侘助がはっと顔をこちらに向けて、よく分からない言葉を私に言い放った。

「何て言ったの?ナッツノン…?」
「ちげーよ。な、な、つ、の、こ」
「ナナツ、ノコ」

どうやらちゃんと発音できたらしい。侘助は満足そうに頷いて、新聞をぱらりとめくった。

「ちょっと、勝手にひとりで完結しないで!」

侘助の腕を揺さぶると、彼は面倒くさそうに答えた。

「俺が歌ってた歌のタイトルだよ。何だったか思い出せなくてイライラしてたんだ。やっとすっきりした」
「へえ、あれナナツノコって言うのね!ナナツ、ナナツ…不思議な響き。どういう意味?」
「俺もよく知らん」

私はその言葉が可笑しくて思わず笑ってしまった。だって、だって

「ワビスケでも知らない事があるなんて!」「歌に興味ねえんだよ」
「そうね。…ふふっ駄目、やっぱり笑える!」
「てめえ」
「いたっ!何も叩かなくたっていいでしょう!いたいいたいっ」

丸めた新聞で叩かれてるから、全く痛くないんだけれど、その優しさがなんだかくすぐったくて、ちょっぴり痛かったのは事実だ。それ以上にとても可笑しかった。立て続けにくる侘助からの攻撃を防ぐ為に頭を抱えると、彼は私が見てないと思ったのか、自分の頭を手に持っている新聞で数回叩いた。またそれが可笑しくて可笑しくて、自分の事を思ってくれてるのだと嬉しくて嬉しくて、何と表せばいいのか分からない感情が込み上げてくる。これが、俗にいう幸せなのだろうか。

「ねえナナツノコ歌ってよ」
「嫌だ」
「じゃあナナツノコって日本じゃ有名?」
「少なくとも俺の住んでる地域の奴らは知ってるんじゃないか。5時になるといっつも流れてたからな」
「へえ!いつも!何の合図なの?」
「もう暗くなるからガキは帰れって意味だよ。小さい頃は鳴りやむ前に帰らねーと化物が出るって皆慌てて帰ってたな」
「侘助も?」
「俺は元々アウトドアじゃないからな。そういう迷信も信じなかったから外に居ても無視してた」
「悪い子だったのね!でも親が心配するでしょ?」

しまった、と思った。調子に乗って聞きすぎてしまった。果たして侘助に親はいるのだろうか。今まで彼の口からその言葉を一切聞いた事がない。彼をそっと見やると、案の定どこか遠くを見つめたまま固まっていた。

「えーと、どんなメロディーだっけ?ふーふふふん…」
「…何処にいてもいっつも見つけんだよなあ、あのばばあ」

はぐらかそうと必死になる私をよそに侘助は何かをぼそりと呟いた。私には何を言ったか分からなかったけど、声色で彼が何かを懐かしんでいるというのが何故だか分かった。そして置いてけぼりをくらった子供のような感情が、ぶわっと自分の中で広がっていくのを感じた。私にも故郷がある様に、侘助にもあるのだ。分かりきっている事なのに、それが酷く嫌だった。泣き出してしまいそうになって、耐える為に下唇を強く噛み込むと鉄の味がした。生きてる味は、とてもとても不味かった。
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