メールの送信完了画面を見て、翔は目を閉じる。
すべきことは終わった。どうしようか、と翔は考える。頭から血がひいて冷たくなる感触。コレが貧血だということははっきりしていた。
何年も居座り続けたアパートの天井が歪んでいるのをぼんやりと見上げる。にゃおとしんすけが鳴いて翔の頬を嘗める。温かいな、と思った。
傷は自分でなんとか縫合したが、輸血が必要だった。増血剤の類を翔は所持していなかった。
このままでは動けない。だれも助けに来ない。
猫は看病してくれない。のたれ死ぬのはやだなぁ。
畳は翔の血で真っ赤に染まっていた。血の海に溺れているみたいに見えるのだろうか、と翔は思う。
「紅い花……ね……生ぐせェしいいことねぇなぁ……」
立ち込める臭気が翔は嫌いだった。晋助の片目がなくなったときもこんな臭いがした、と翔は思い出す。
あの時、翔は晋助から離れることを決意した。
側にいても守れないものの存在に、逃げたくなったのかもしれない。
時間も何もかもがどうでもよくなった。
最後に見たい人の顔を思い浮かべて翔は笑う。
自分なりの志を持つものとして晋助とは相容れないことも事実だったし、彼を守りたい気持ちも事実だった。自分を慕う者が集まって、そいつらに対する責任が翔にはあった。
――情けねぇなぁ
翔は哂う。
足掻いて足掻いて、猫一匹に看取られて死んでいく。しかも野垂れ死に。志は未だ夢のまま。
音が遠くなる。今目を閉じればきっとよっぽど自分が強運で無い限り、次に目をさますことはないだろうと分かっていた。
もういいや。もういいよ。
自分の声がした。
瞼の裏側では薄桃色の花弁が舞い続けていた。
「……、―、……――っ、……、――翔ッ!!!!」
急に意識が浮上する。痛みはなかったが、頬をはられたのだと思った。
自分の名前を呼ぶ声を、知っていた。必死な声が可笑しかった。
目をあけているはずなのにぐにゃりと変形した輪郭しか見えない。どうしても、その顔を瞳に刻みたいのに見えない。せめて触れたい、と手を持ち上げようとするが、手が思い通りに動かない。
名前をよぼうとして吐息がこぼれる。
音だけがクリアになって飛び込んでくる。
「今、増血剤打つからじっとしてろ」
なんでそんなモノお前がもってるんだ。というかお前なんでここに来たんだよ。
そんな疑問が渦巻いて思考を支配する。
「輸血はないから…持ちこたえろ……、勝手に死ぬんじゃねぇよ!」
むちゃくちゃだな、相変わらず、と思いながら翔は笑う。心のなかだけで。表情なんて動かすことは出来ない。
「……しん、すけ……」
今度はちゃんと声が出た。黙ってろ、という声が泣きそうで、翔はやっぱり笑いたくなる。
「……はなの、うみが……みたいな……」
薄紅の花弁の波が砕けて漆黒の髪の毛を攫う。
どう足掻いても戻れはしない時間に焦がれている。
「……かえろう……しんすけ……」
「……黙って、ろ」
生暖かいものが翔の口をふさぐ。それが晋助の唇だとしって、翔は泣きたくなった。目は、閉じない。精一杯その目を見たい、と翔は思った。
夢でもいいから、死にたくないな。
翔はまたもや薄れていく意識をそのまま手放した。