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 かみさま、どうかお願いです、
 
 時間を戻してください。一日だけでいいです。それが無理なら、一時間でもいい。それでも難しいなら十分だけでいいです。ゲームセットの前に、時間を戻してください。
 私の差し出せる物があるなら、すべて差し上げます。だから、どうかお願いします。


 両手は無意識のうちに祈りの形を結んでいて、強く握りしめた指先が白くなって震えが止まらない。いくら祈っても、願っても、都合良くタイムリープは起きない。
 こんなこと信じられないし、信じたくない。白昼夢でも見てるんじゃないかって思う。夢なら早く覚めてよって、左の腕をつねる、痛い。夢じゃ、ない。
 雨に打たれてひんやりとした皮膚の冷たさも、前髪を伝ううざったい雨雫も、泣き崩れる先輩たちのすすり泣く声も、4-5で終わったスコアボードも、すべてが現実だ。


桐青が負けたんだ。


 去年の夏、県営球場で優勝した瞬間も、初めて甲子園のアルプススタンドに立った時の感動も、昨日のことのように覚えている。嬉しくて泣くことがあるんだって、生まれて初めて知った。去年、先輩たちと甲子園に行ったことは、人生で一番嬉しい出来事だった。今でもそれは揺るがない。
 今年も甲子園に出場、全国制覇を目指すことがチームの目標だった。
 初戦の相手が決まって、名前も聞いたことがない高校で、調べてみたら新設校で部員が10人しかいないようなチームだという。負けるはずがないと思った。チームの誰しもがそう思ったに違いない。だって桐青は昨年の優勝校。どこのチームにも負けない自信があった。
 でも、その自信は驕りにすり替わり、気持ちの余裕は油断という形でチームの雰囲気を緩ませてしまった。その結果、初戦敗退という最悪の事態を招いてしまったのだ。


 三年生たちが真っ赤に目を腫らして、声を上げて泣いている。かける言葉も見つからなくて、無力な私は声を殺して泣くことしかできない。
 先輩たちは一人、またひとりと涙を無理やり拭ってぎこちない笑顔を作って、後輩たちの肩を叩きながら労い、励ます。
 

「あとは頼んだぞ」
「来年は絶対、甲子園に行けよ」
「お前たちは負けるなよ」


 たくさんの三年生たちに囲まれ励まされていたのは、高瀬だった。マウンドに立つ背中は広くて大きかったのに、今は背筋が丸まって小さく見える。頼もしかった背番号10はくしゃくしゃに歪んで、そんな姿を見ていると息が詰まりそうになる。
 次第に泣き止んでいく部員たちの中でも、高瀬は最後まで泣き続けた。


「……すんません、オレのせいで……」


 涙声で何度もそう繰り返す言葉を、耳を塞ぎたくなるのを堪えて聞いていた。いくつも溢れる涙を拭って、揺らぐ視界の真ん中にエースの背中を収める。
 この悔しさを胸に刻むために、この光景を目に焼き付けようと思う。次は、絶対に負けないために。


 やっと涙が落ち着いて、息を深く吸いたくなって空を見上げる。雨が止んだ雲の隙間から、光のカーテンが地上に向かって差しこむ。その光景はまるで絵画のようで……こんなに世界は美しいのに現実はあまりに残酷だ。

 枯れたと思っていた涙がまた一筋頬を伝って、足元を濡らした。





 重厚そうな扉の前に立つと肺いっぱいに息を吸って、大きく吐き出す。片手だけではとても無理なので、左腕をべたりと扉につけて体重をかけながら開いていく。
 ゆっくりと開いた扉の中は、直射日光が入ってこないおかげか外より幾分か涼しく感じる。ステンドグラスのキリスト像から差し込む暖かな光が、教会内を満たしていた。細かい埃が閉ざされた空間をキラキラと漂っている。

 横長の椅子がいくつも並ぶその一番前の列に、高瀬が座っていた。 やっぱりここにいたんだ。予感が当たって、嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちに口元が歪む。
 私が入って来たことに気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか、こちらを一瞥もしようとしない。おそらく後者なんだろう。振り返りもしない後ろ姿に軽く苛立ちを覚える。
 両腕を背もたれに掛けて足を組んで踏ん反り返っている態度は、敬虔な教徒というわけではないけど神の前でいかがなものかと思う。


「……なんでここにいるってわかったんだよ」
「勘」
「エスパーかよ」


 ケラケラと可笑しそうな横顔は決して私を見ようとはしない。
 長椅子の反対側に腰掛けると、同じようにステンドグラスを見上げる。十字架に磔られたキリストは、いつ見ても痛ましく、そして神々しい。
 ちらりと横目で盗み見ると、隣人は大口を開けて欠伸をしていた。こんな態度でよく桐青に入れたなと呆れてしまう。


「お前も懲りないよな」
「お昼休憩なんだから、どう過ごそうと私の勝手でしょ」
 

 振り向かない横顔を見つめながら、問いかけに答える。二人きりの教会に、私たちの声だけが響く。
 さっきまでは部員たちの掛け声と、ボールをバットが弾き返す金属音と、地を這う打球音がグラウンドいっぱいに溢れていたのに。嘘みたいに静かなこの空間は、高瀬には似合っていないと思った。
 制服に身を包んだ高瀬の傍にはエナメルが置いてあって、きっと練習に参加するつもりで準備してきたんだと察しがつく。

 でも、来なかった。いや、来れなかったと言った方が正しいのかもしれない。

 夏大を初戦敗退で終えてから、高瀬はたびたび練習を休むようになった。
 部内では、やる気が無くなったんじゃないかとか、野球部を辞めてしまうんじゃないかとか、いろんな憶測が飛び交っている。戸惑いと苛立ちを隠せない部員たちは、時たま張本人に詰め寄って真意を聞き出そうとするけど、高瀬はそれらしい言い訳しか口にしようとしなかった。
 部員たちの焦る気持ちも理解できるから、そんな光景を見かけながらも口を挟むことすらできないでいたのだ。秋は高瀬がエースになると思っていたのに、当の本人にやる気が無いように見えるのだから、不安になってもしかたないと思う。初戦敗退で不貞腐れていると言う陰口を耳にしたこともあったけど、そんなはずがないと確信があった。不貞腐れてるとか、そんな子供みたいに拗ねて練習を休んだりするような奴じゃない。
 そんな小さい器で桐青のエースは名乗らせてもらえるはずがないじゃない、そうでしょう? なんて、隣人に思ってることをすべて話せたらどんなに楽になるだろう。
でも、口が裂けても絶対に言葉にしないと決めていた。
  

 高瀬はあの日からずっと一人で苦しんでいる。
 

 五失点で初戦敗退という結果を背負い、後悔で押しつぶされながら、自責の念で自らを焦がしているのだろう。まだその身を焦がす炎が胸の奥で燻っている。だからマウンドに立つことに躊躇しているのだと、私の勝手な想像だけどそう思っている。
 高瀬はずっと一人で苦しんでいるのに、私だけ言いたいこと言って楽になろうだなんて、そんなことはしたくなかった。
 だから、ひたすら待つと決めた。またマウンドに、エースが戻ってくるまでは。


「高瀬は朝からどんなことをお祈りしてたの? 」
「なんで朝からいるってわかるんだよ」
「眠そうにしてたから。それに今日は日曜のミサがあるでしょ」


 自分で聞いておきながら、へぇと淡白な返答をするから、露骨に睨んでしまった。またくつくつと笑い出すと「悪い」と手だけで謝罪のポーズをする。
 こいつ、絶対悪いと思ってない。顔がまだにやけてる。


「別に、なんにも。歌聴いてぼうっとしてただけ」
「そっか」
「名字ってさ、結構薄情だよなぁ」
「なんで? 」
「練習出て来てとか、大丈夫? とか、言ってこねーじゃん」
「そんなこと言って欲しかったの? 」
「……ほんと、かわいくねーな」
「うるさいよ」
 

 他の部員たちがあまりにも口うるさいから、唐突に現れて世間話だけして練習に戻っていく私を異質に感じているのだろう。
 面白くなさそうに唇を尖らせる仕草は、年齢より幼く見えてちょっと可笑しい。

 ふと腕時計に視線を落とすと、長針が午後練開始十分前の時刻を指していた。そろそろ戻らないと遅刻してしまう。
 朝からグラウンドを走り回っていたので下ろしていた腰が重たいけど、気合を入れて立ち上がる。
 

「もう行かなくちゃ」
「おー」
「投手陣はピッチング練習からだよ」
「……そっか」
「ねぇ、高瀬」


 一歩、二歩、歩み寄って視界を塞ぐようにして正面に立つ。大きく開かれた黒目の中に、私の姿が薄っすらと映る。やっと目が合った。
 いつもは私が見上げているから見下ろす光景が新鮮だな、なんてね。
 なんだよとでも言いたそうに眉をひそめる眉間に「シワになっちゃうよ」と右手の人差し指で軽く触れた。


「余計なお世話だよ」
「……待ってるからね」
「は? 」
「グラウンドで、待ってるからね」


 一瞬、ハッとした表情に変わって、またすぐに怪訝そうな顔つきで私を見上げる。「高瀬に睨まれたって怖くなんかないよ」と笑って言うと、今度は視線を逸らされてしまった。
 言葉なんて必要ない。口うるさく言わなくたって思いは伝わっていると、二年もマネージャーをしていればなんとなく雰囲気でわかるから。

 あとは高瀬次第だ。きちんと結果と向き合ってこれからの課題を見据えられた時に、胸に燻る炎を心の中に納めることができる。
 

「先に行ってろよ」
「うん」
「遅れてでも、ちゃんと追いつくから」
「……わかった」


 声色はまだ憂いを帯びているけど、目力は戻ってきているみたいで小さく胸を撫で下ろす。
 じゃあね、と告げると高瀬の横をすり抜けて、扉へと駆ける。
 きっと、エースはもうすぐマウンドに戻ってくる。根拠なんて無いけど、そんな予感は当たると確信した。
 
 重たい扉を力づくで開けると、真夏の日差しが肌を容赦なく刺す。振り返らない背中に「先に行くね」と心の中で呼びかけて、蒸すような夏の空気に思い切って飛び込んだ。



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