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 ──そろそろかな。 
 頭上の時計を見上げると、黒い針は十九時三十分のあたりを指している。朝と昼もそれなりに混むけど、夕飯時の今は店内が一番賑やかになる時間帯。
 たぶん、もうすぐ彼らがやってくる。

 軽やかなメロディーとともに自動ドアが開くと、冬の冷たい空気と異様な圧を放つ集団がぞろぞろと入店してきた。彼らはブレザーの制服を身を包み、パンパンに膨れたエナメルバックを肩にかけ、いかにも体育会系なオーラを放ちながらやってくる、このコンビニの常連──美丞大狭山高校の野球部。

 初めてこの集団と遭遇した時もすぐに「野球部だ」と気づいたことを、はっきりと覚えている。野球部って見た目とか言動ですぐにわかるから。いつも集団でつるんでいて、なんとなく野暮ったくて、冬なのによく日に焼けているし、声は低くて話し方はぶっきらぼう。レジに立った時に鼻腔を掠める微かな汗と土の匂いがする。私の高校にもいた野球部員たちの特徴と、彼らの姿はぴったりと当てはまった。

 美丞大狭山高校は私の通っている美丞大の附属校で、噂によると男子校らしい。
 私はもちろん内部進学ではなく県立高校から美丞大に入ったので、附属高校の事情はよくわからなかった。
 大学と附属校の中間地点にあるこのコンビニには、学校帰りの美丞大狭山生がよく立ち寄る。
 夕方から夜にかけての時間帯は部活終わりの運動部員がちらほらやってくるけど、野球部は毎回集団でやってくるし、さんざん練習した後でも関係なくすごく元気だ。いらっしゃいませ、と挨拶をすれば、ニコッと人懐っこい笑顔が返ってくる。

「ちわっす! 今日も寒いっすねー」
「和田君たちがそろそろ来るかなと思って、肉まん蒸しておいたよ」
「アザーっす! それじゃあ、肉まんとカレーまん、もらいます!」

 黒縁メガネで坊主頭で一番体格がいいのが、和田君。すこく愛想が良くていつも気さくに話しかけてくれる、親しみやすい性格が特徴だ。

 バイトをはじめてまだ一ヶ月だけど、週に三回も顔を合わせるようになれば自然と立ち話をするようになって、コンビニ店員とお客様というよりも顔見知りみたいな距離感を保っている。というか、彼らの方からよく話しかけてくるので、すぐに顔と名前とよく買う物を把握するくらいには打ち解けていた。
 店長曰く「美丞大狭山は男子校だから、女子と話す機会に飢えてるんだよ」とのこと。
 男子校って女性の教員はいないのかな、とどうでもいいことを考えながらも手際よくバーコードを読み取っていく。
 私が立っている列にずらりと並ぶ野球部員たち。みんなと世間話を交わしながらもサクサクと渋滞を捌いていく。ここ最近はぐっと気温が下がり冬らしい寒さになったからか、肉まんやアメリカンドックなどのホットスナックの人気が高い。この時間のために用意していたホットスナックがみるみると減っていく。

 慌ただしく会計をこなし足早に店外へ出て行く彼らの後ろ姿を見送りつつ、カウンターにことりと置かれたブラックの缶コーヒーを手に取り、バーコードを読み取る。

「いらっしゃいませ」
「……ちわっす」
「矢野君は今日も缶コーヒーだけなんだね」
「家でしっかり飯食いたいんで、間食はしないんですよ」
「へぇ、そうなんだ」

 いつも必ず列の一番最後に並んで同じ缶コーヒーを買っていくのが、矢野君。
 坊主頭でくりっとした目が印象的な和田君や宮田君と違って、シュッとした顔の輪郭に小さな黒目は意志が強そうな雰囲気がある。さらりと伸びた前髪と、ワンループに巻かれた黒のマフラーと濃紺のPコートのせいか、他の子たちよりもスタイリッシュな印象。あんまりおしゃべりが得意じゃないのか、お会計の時に交わすのは必要最低限の言葉だけ。他の子たちみたいに世間話をすることも特にない。
 無愛想だと一言で言ってしまえばそれ以上でもそれ以下でもなくなるけど、矢野君はただ無愛想ってだけじゃないことを、私は知っている。

「……あの」
「はい?」
「髪、染めたんですね」

 レシートに乗せて小銭を渡そうとしていたのに、一瞬、動きが止まる。耳にかけていた横髪が、さらりと頬に流れた。
 確かに、昨日美容院に行ってきたばかりで髪はチョコレートブラウンに染まっている。冬にオススメの温かみのある色です、って美容師さんが言っていたヘアカラー。

「似合ってると、思います」

 視線は逸らされているけど、言葉はまっすぐに私へ届く。
 差し出された手の甲に手を添えて、レシートと小銭をそっと乗せた。
 
「ありがとう。気づいてくれたの、矢野君だけだよ」

 店の外でホットスナックにかじりついているあの子たちも、品出し中のフリーターのお兄さんも、店長でさえ気づかなかった、私のささいな変化。それでも矢野君は気づいてくれた。この色に染めてよかったと素直に思う。胸のあたりをくすぐられるようなむず痒い感覚が首筋へとじわじわと上ってきた。なんだか顔が熱い。

 「どうも」って返事はそっけないけど、きっと矢野君らしい照れ隠し。まだほんの数回、レジを挟んで数分間、何度か言葉を交わしただけだけど、なんとなくわかる。無愛想っていうよりも、ただちょっとシャイなだけ。

 ありがとうございました、またお越しください。お決まりのフレーズを口にする前に、矢野君は「また来ます」と言って会釈をしてくれる。だから、お決まりのフレーズをさりげなくすり替えて「またね」と小さく手を振った。早く「また」がこないかな。彼らを見送った直後なのに、もう次に会う時が待ち遠しくなる。

 大学と家とこのコンビニをぐるぐると回っているだけの生活にちょっとした楽しみがあるとしたら、彼らと交流するこの時間だけ。次のシフトは、金曜日。愛想のないお客様のレジ打ちも、眠たい一般教養の講義も、街中で流れるクリスマスソングに憂鬱になっても、大丈夫。私の日常は水曜日と金曜日と日曜日の夕方、ちょっとだけ賑やかになったから。 
 
 ***

 このクリスマスソング、いったい何回流れるんだろう。
 耳にタコができそうな頻度でリピートされる洋楽にうんざりしつつ、「クリスマスにチキンはいかがでしょうかー」と定期的に声を上げなくてはいけない今日が、とても憂鬱。
 お客様は心なしかどこか浮かれている様子だし、そのくせクリスマスチキンを買ってくれないし、みんなの顔を落書きしてしまいたくなる。「お客様は神様」とか、誰が言いだしたんだろう。彼らが神様じゃなかったら、油性ペンでそれぞれの浮かれた顔面にでっかく×を描いてやる、そしたら少しは鬱屈とした気分が晴れやかになるのに、と妄想してなんとか笑顔を保つ。
 今日はロングのシフトだからあと数時間はこんな感じで忙しいけど、私ははたして耐えられるのだろうか。

 入店音とクリスマスソングが入り混じり、メロディーがごちゃごちゃになって不協和音に変化する。ふと、壁掛けの時計を見上げると時刻は十九時三十分。

「ちわっす! あれ、名字さん、今日もバイトなんすね」
「いらっしゃいませぇ。ついでにクリスマスチキンはいかが? 買ってくれると嬉しいんだけどな」
「じゃあ、一つください!」
「ありがとう、宮田君!」
 
 彼らの挨拶は夜でも必ず「ちわっす」だ。ザ・体育会系って感じ。せっかくのクリスマスだというのにいつも通りに練習だったらしい。腰が痛い、肩が痛い、と嘆きの声がどこかから聞こえてくる。

 宮田君の後ろに並んでいた川島君は「男子校じゃなかったら今ごろ彼女でも作ってデートしてたと思うんですよねぇ」とグチるので慰めつつもクリスマスチキンを勧め、「川島君も買ってくれたし、ふたりもどう?」と微笑みかけると、その後ろに並んでいた石川君と松下君も買ってくれた。
 お腹を空かせた男子高校生は、結構ちょろい。
 
 クリスマスチキンを袋詰めしつつ、列の一番後ろをちらりと確認する。いつもの缶コーヒーを片手に持った矢野君の姿を見つけて、ちょっとだけほっとした。それと同時に、淡い期待感がふつふつと胸の中に湧く。
 今日も気づいてくれるかな。
 
「ちわっす」
「いらっしゃいませ。クリスマスも練習で大変だね」
「いえ、別にそんなことないっすけど」
 
 矢野君はいつもの缶コーヒーをカウンターに置く。節くれだった長い指先は女の子の髪を撫でることもなく、今日もボールを握っていたらしい。私たちは似たもの同士で、クリスマスを世界の外側から覗き込んでいる。それだけのことで嬉しい、と思ってしまう、私の単純さ。

 レシートと小銭を差し出す指先がかすかに痺れている。それを受け取る手のひらは、大きくて骨張っていて指先は乾燥している。まだ高校二年生とはいえ、ちゃんと男の人の手のひら。私の手は薄っぺらで指は細いけど、ちゃんと女の子らしく見えているかな。

「……あ、」
「……なに?」
「爪、きれいですね」

 ──ほら、やっぱり気づいてくれた。
 心臓が一段と大きく弾み、鼓動は速さを増す。
 淡いピンクに染めた爪。
 缶コーヒーを受け取る指先に彩りがあった方がいいかなって、なんとなく思いついて買ったマニキュア。あんまり派手な色にするのは抵抗があったから、ヌーディーなピンクを選んだ。慣れないマニキュアをていねいに塗って慎重に乾かした甲斐があって、爪の表面はツヤツヤと明かりを反射している。
 これは自画自賛だけど、私自身も爪がきれいになったと思った。でも、矢野君もきれいだって言ってくれた。ただの自意識過剰じゃなくて安心する。ここがレジじゃなかったら小躍りしたくなるくらい嬉しい。

「ありがとう。矢野君はいつも気づいてくれるよね」
「それは……まぁ、はい」

 あまりはっきりしない物言いだけど否定しないということは、そういうことなんだろう。
 矢野君はラベルを眺めるわけでも成分表示を確認するわけでもなく、手の中の缶をくるくると回してそこに視線を落とす。きみには照れ隠しのバリエーションがたくさんあるんだね、と心の中でこっそりと話しかける。

「今日、木曜なのにバイトなんですね。クリスマスだからですか?」
「どうしてもって、店長に頼まれちゃってさ。まぁ、どうせ暇だったからいいんだけどね」
「……ってことは、あの」

 口を開きかけた時、背後の気配に気づいた矢野君はさっとレジの前を避けた。会計待ちをしていた親子は私に「クリスマスチキンをください」と注文する。目だけで矢野君を見たけど、彼はいつものように軽く会釈をしてそそくさと店外へ出ていってしまった。

 ──結局あの時、矢野君はなにを言いかけたんだろう。
 ぬるいコーラの後味みたいに頭にへばりついた疑問は、忘年会と称した友達とのタコパやらカラオケオールの毎日で押し流されていった。

 矢野君はそれからも相変わらず、前髪を切った時も、香水をつけた時も、さりげなく気づいて褒めてくれた。「似合ってますね」とか「いい匂いがします」とか言われるたびに、その場で小躍りしたくなるほど嬉しかった。

 お客さまとコンビニ店員という距離感は、中学生の頃ひとつ上の先輩に恋をしていた感覚を思い出させた。
 矢野君とおしゃべりができた日には期待に胸が膨らんで「もしかして」の妄想を繰り返した。あの頃の初々しくてくすぐったい気持ちが、解凍されるようにじんわりと胸の内側に広がっていく。でも、そんな淡い恋は先輩に可愛らしい彼女ができて、あっさりと散ってしまったわけだけど。
 
 でも、あの頃の恋と今は違う。
 そもそも、矢野君に対して抱いているこのあたたかい感情にはたして「恋」と名付けてもいいのかもわからないし、確かめようもない日々が続いていくのだと、思っていた。



 ──あれ、今日も矢野君だけ来てないな。
 一月に入ってから、たまに野球部の集団の中で矢野君だけが不在な日がある。
 最初はそういう日もあるんだな、というくらいにしか思っていなかったけど、次第に不在の頻度が増えていく。
 ついに、毎週水曜日は決まって不在で、顔を合わす回数も週に二回だけに減ってしまった。野球部のお会計に並ぶ列の最後に、矢野君がいない。小さかった違和感が少しずつ膨らんで胸の中を圧迫しはじめる。
 
 ──でも、なんで不安になんてなるの? 
 ──矢野君は不在の時、いったいどこにいるの? 
 ──もしかして、誰かと一緒にいるのかな?
 
 私はこの感情に「不安」と名前をつけてしまった。


「……和田君、あのさ」
「なんですかー?」

 カゴの中にはいろんな種類のチョコレートがどっさりと入っていて、バーコードを読み取り袋詰めしながら、本来なら「すべきではない質問」を和田君にしようとしている。
 でも、もう我慢できそうになかった。

「最近、矢野君だけいない日があるよね? 今日も来てないし。なんか理由があるのかな」

 本人がないところで動向を訊くなんて、フェアじゃないってわかってる。わかってはいるけど、でも。
 黒縁メガネの向こう側の目がニヤリと弧を描く。

「あぁ、ヤノジュンは女っすよ、女」

 にやけた口調で潜められた声が、やけに耳の中に残る。と、同時に背中に寒気を感じて全身へと広がっていく。
 
 ──オンナ、おんな……女。そうか、彼女のことか。
 まばたきをする一瞬で、理解してしまった。想像していたよりも冷静に事実を受け止められている。
 後ろに誰も並んでいないことを確認して、和田君は話を続ける。

「年末のオフに合コンやったんすよ。そこで出会った女の子に気に入られたみたいで! まだ付き合ってないっていうんですけど、最近は週一回くらいはふたりで会ってるみたいだし、実質もう付き合ってるようなもんすね」
「へぇ、そうなんだ」

 自分でも驚くほどに無感情な声が出る。
 和田君は私の異変にも気づかず、凍えそうな心臓にトドメを刺した。

「ほら、今日ってバレンタインデーでしょ。今日あたりにでも告白されてんじゃないっすか」
「ヤノジュンだけズリーよなぁ」
「俺も女子から告白されてー!」
「名字さん、俺とかどうです……?」

 竹之内君、鹿島君、斎藤君が雑に会話に乱入して、ハッと我に返る。乾いた愛想笑いしかできなかったけど、彼らの絡みを適当に受け流してその場はなんとかやり過ごした。

 矢野君不在の美丞大狭山野球部が退店した後、店内は潮が引いたように静かになる。
 人気の少なくなった空白の時間がやってきて、どこでもない空間をぼんやりと眺める。

 一つのヒントを与えられれば、問題の解答を導きだすのにそう時間はかからない。
 私のささいな変化に気づいて褒めてくれていたのは、すべてが社交辞令だったということ。
 そんな社交辞令を間に受けて「もしかして」と淡い期待をしてしまった愚かな私は、認めていないふりをしていたけど、すでに矢野君を好きになっている──ということに。

 全部、気づいてしまった。
 というよりも、気づいていたけど目を背けていた事実に、直面してしまった。
 矢野君にとって「私」はただの「コンビニ店員B」でしかなかった。ヒロインは他の女の子で、私はただのモブキャラでしかない。
「もしかしたら、矢野君は私のことを好きなのかもしれない」なんて痛すぎる妄想は、中学生の頃の片想いみたいにあっさり散ってくれるはずもなくて。どろりとまとわりついて喉を焼き、ズキリと胸を疼かせる。
 ひとりで勝手に舞い上がってはしゃいでいた、代償がこの痛み。
 
 ──恥ずかしい。私、ほんとに馬鹿だ。
 顔から火が噴きだしそう。いっそのこと、このまま火だるまになって燃え尽きて灰になりたい。
 でも、どんなに惨めで恥ずかしくても、臆病な私はたぶん死ねない。私は「コンビニ店員B」として働かなくちゃいけない。来月のシフトも提出しちゃったし。
 でも、なるべくこの痛みから逃げて、逃げて、逃げなくちゃ。惨めすぎて生きていけない。

「店長、すみません」
「ん、どしたの」
「二月後半のシフト、まだ修正できますか?」

 バックヤードでシフト表と睨めっこする店長が、何度かまばたきをして薄くなった後頭部を撫でつけた。

「ちょうどよかった。俺からも相談しようと思ってたんだ」

 それから数分のやりとりで、私の日常がガラリと変わることが決まった。
 

***


 何度目かになるあくびを噛みころして、壁かけ時計を見上げる。時計の針は七時を少し過ぎたあたりを指していて、夕方よりも時間の進みが遅く感じた。まだ一時間しか経ってないのか、と絶望的な気分に陥る。
 シフトに入る曜日は相変わらず水曜、金曜、日曜日だけど、時間帯を変えるだけでこんなにも心穏やかに働けるものなんだなと、どこか他人事のように思う。
 朝型のシフトに変えてからは美丞大狭山野球部と遭遇することもすっかりと無くなった。彼らは朝練の集合時間ギリギリに家を出て、おそらく朝はコンビニに立ち寄る暇すらないはずと考えていたけど、予想通り。

 彼ら──矢野君とは、ここ二週間くらい顔を合わせていない。
 そのおかげで、惨めさで顔が焼けそうになることも、心が弾んで小躍りしたくなるようなことも、一切起きていない。
 このまま穏やかに痛いだけの恋心が息絶えてくれること祈りながら、私は今日も働いている。


 とうとう我慢できなくなって、ふわっとあくびをしてしまう。退勤まであと一時間ほど。朝型シフトの日は五時に起きているせいで眠たくて仕方ない。
 軽やかな入店音とともに自動ドアが開くと、二月の朝の空気が足元に流れこむ。
 とびきり冷たくて青白い外気に身震いしながら、ちらりと視線を寄越してお客様の姿を確認すると、そこにはジャージ姿の少年が入り口で佇んでいる。
 彼の姿には、確かに見覚えがあった。

「……矢野君」
「……ちわっす」

 いらっしゃいませ、の挨拶もどこかへすっ飛んでしまった。
 矢野君は真顔を保ったまま一直線に進みいつもの缶コーヒーを取って、私に逃げる隙も与えずにレジへとやってきた。
 私は酷く動揺しているけど、引きつった営業スマイルを顔面に貼りつけて対面する。

「……この時間にくるの、珍しいよね。今日は朝練お休み?」
「今日は入試やってるんで部活は休みです。店長から名字さんは朝に出勤してるって聞いて、会いにきました」

 ──会いに来たって、なんで?
 口から飛び出しそうになった問いを、喉の奥へと飲みこむ。もう期待なんてんしないし、勘違いもしたくない。まだ傷ついた恋心にかさぶたもできていないんだから、そっとしておいてほしい。

 さっさとお会計を済ませるために冷静を装ってバーコードリーダーを持って、彼の手から缶を取ろうとする。けど、缶を離してくれない。ちょっと強めにこちらへ引き寄せようとしても、無理。矢野君は現役の高校球児で、私がしがないコンビニ店員。当たり前だけど、力が違いすぎる。
 手元に伏せていた視線を上げると、鋭いまなざしがなにかを訴えかけるように、非難するような強さで、私の目をじっと見つめている。

「あの、バーコード読み取れない」
「なんで急にシフト変えたんですか」
「朝に人手が足りないって相談されて、それで」
「あいつらも寂しがってましたよ。名字さんに会えないって」
「矢野君は」
「……え?」
「矢野君は、寂しかった?」

 そう訊いてから「まるで誘導尋問してるみたい」と冷静な声が、頭の中で聞こえる。
 私は矢野君に、私の望む答えを言わせようとしている。そして、そのやさしい答えで恋心の傷口を癒そうとしている。この後に及んでまだ、彼に慰めてもらおうとしている。コンビニ店員Bのくせに。どこまで厚かましいんだ、私は。

「寂しかったですよ」
「ダメだよ、矢野君。彼女だっているのに、他の女の人にそんなこと言っちゃ」

 鼻の奥がツンとしてきた。今が仕事中じゃなかったら泣きだしていてもおかしくない。
 矢野君の「寂しかったですよ」のたった一言が嬉しくて、うれしくて。
 でも、コンビニ店員Bのプライドで涙腺はぎりぎり保たれている。あくまで今はバイト中だから。
 不意に缶を握っていた手をするりと離して、矢野君は不服そうに眉をひそめた。

「……俺、彼女なんていませんけど」
「和田君から聞いたから知ってるよ。バレンタインデーに女の子に呼びだされたんでしょ」
「確かに告白はされましたけど、断りました」

 ほんのりと紅く染まる頬。揺れている瞳。
 本当は逸らしたいけど、我慢してまっすぐに私の瞳を射るまなざし。
 とくとく、とくとく。小さく弾みだした心臓は、あたたかな血液を全身へと送りだす。
 バレンタインデーのあの日から、ずっと肌寒かった身体に体温が戻ってくる。マニキュアを溶かした指先に、熱が灯る。

「気になってる人がいるからごめん、って」
「へぇ、そうなんだ」
「俺の気になってる人……興味ありますか」
「……興味なくはない、かな」
「俺は興味あります。名字さんに彼氏がいるのかな……とか、好きな人はいるのかな……とか」

「期待してもいいですよ」って、熱っぽい視線が遠回しに主張してくるみたい。
「勘違いじゃないですよ」って、熟れた林檎のような顔に書いてあるみたいで。
 上擦った声に好意がにじんで聞こえて、身体の内側のやわらかいところをくすぐられるような感覚がこみ上げてくる。
 これが恋じゃないなら、私が今まで恋だと思い込んでいた感情は、いったいなんだったのだろう。

「そんなこと聞いてどうするの」
「詳しいことは後で話すので……バイトが終わるまで外で待ってます」
「ちょっと待って、バイト終わるまであと一時間以上あるんだけど!」
「それくらい待てます。だから名字さん、もう逃げたりしないでください」

 お釣りを渡した手をぎゅっと握られて、その瞬間に心臓が破裂したかと思った。
 やっぱり矢野君には対面を避けて逃げていたことがバレていたらしい。
 観念してこくりと頷くと、矢野君はホッとした笑みを浮かべ「待ってます」と言い残して店外へ出ていった。

 それから全然仕事に集中できなくて、ことあるごとに窓の外にいる矢野君を横目で盗み見る。擦り合わせた手に息を吹きかける仕草にすら、ときめいてしまう。頬にじわりと熱が集まる感覚を自覚した瞬間、ぱちっと静電気が弾けるように、矢野君と目が合った。澄ましていた表情に照れ笑いをにじませながら、いつも帰りがけに見せる会釈を返される。でも、今日はまだ帰らないし、私のことを待っていてくれる。
 
 きっと今日、なにかが変わる。昨日までと違って、良い方向に進んでいける。
 そんな予感を感じて、久しぶりに小躍りしたくなるような嬉しい気持ちを思い出した。
 こんな日に限って時間の流れが遅く感じるから、焦ったくて嫌になる。速く、速く、と心の中でつぶやく。もっと速く時間が過ぎていけばいいのに。
 バイトが終わって「コンビニ店員B」じゃなくなった私は、矢野君に聞いてほしいことがある。

 あの大きくて骨張った手を取って、ちゃんと向かい合って「私の気になってる人は、矢野君だよ」って伝えたい。
 いま思い返してみれば「恋がしたい」と思ったあの日から、私は恋をしていたのだ。


「矢野君、お待たせ! あのね──」


 お客様で、歳下の男の子の、矢野君に。
 




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