×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



 ──もしかしたら明日、会えるかもしれない。

 わずかばかりの希望が胸の中で膨らんで、昨日の夜はなかなか寝つけなかった。
 夏の早起きは不得意ではないので、アラームが鳴った時刻ぴったりに目が覚めたけど、今日ばかりは寝た実感があまりない。
 もし会えたら、なんて言おう。
 どんなことを話そうかな。
 いくつものパターンを思い浮かべてぐるぐると考えてみても、どれも正解じゃない気がして。気持ちばかりが空回りしてしまう。

 県営大宮球場の高い外壁を見あげながら、スタンドへ続く階段を駆けのぼる。
 心臓の鼓動が逸って、駆けだしたくなる足がもつれそうになりながら、コンコースを抜けると一気に視界が開けた。
 目の前に広がるのは、黒土が美しいグラウンドと、入道雲が立ち昇る青い夏空。日差しの眩しさに目を細めながら、土の匂いが混じった熱い空気を吸いこんだ。
 
 今日も暑い。あの日と同じ暑さだ。
 通り過ぎたはずの季節が沁みるような痛みをともなって、まためぐってくる。
 いつまで「夏」は特別な季節のままなんだろう。いつまでこの熱さと、痛みにしがみつくんだろう、と思い悩む。
 時々、全部を手放したくなる。すべてを忘れてしまいたくもなる。写真立てに飾って「思い出」として閉じこめて、またに眺めては昔を懐かしく振りかえりたいだけなのに。それを十七歳の私が許してくれない。
 あの夏を早く思い出にしたいと願うのに、夏が巡ってくるとグラウンドの土の匂いを、鮮やかな青空を、悲鳴のようなサイレンを、ユニフォーム姿の仲間たちを、どうしても思い出してしまう。

 この感情は、まるで恋そのものだと思う。

 しかも片想いだし、この想いは永遠に報われることはない。だから、余計に恋焦がれてしまうのかもしれない。この想いを手放したくない、忘れたくない──諦めたくなくて、意固地になってしまう。
 きっとアイツも、私と同じだ。 
 まだ諦めたくなくて、今ここにいる。
 
 美丞側のスタンドにむかって人波をぬって歩きながら、辺りを見わたしてアイツの姿を探す。
 
 (……どこだろう、どこにいるんだろ)

 さすがに準々決勝ともなると、スタンドには多くの観戦者がやってくる。
 バックネット裏は古くからの高校野球ファン、内野席は控え選手、父母会、OBらしき人たち、制服を着た在校生たちであふれかえっていて、とても賑やかだ。
 美丞大狭山は県内だと中堅レベルなイメージだけど、今年はベスト8まで勝ち上がっているのだから、こんなにも多くの人が応援に駆けつけるのも納得できる。地域に愛されるチームほど、スタンドも観客で埋まるものだ。 
 それにしても、人が多すぎてアイツの姿が見つからない。
 引き返してバックネット裏でも探しに行こうかと踵を返した瞬間──内野スタンドの端の方、一番前の列に──アイツを見つけた。


「──呂佳!」


 思わず声を上げて名前を呼んでいた。
 観客たちの話し声や足音、ブラスバンドのチューニングの音にも負けずに、私の声はまっすぐに届いたらしい。
 驚いて目を見ひらく呂佳は、一瞬だけ言葉を失って「なんでこんなところにいんだよ」とそっけない言葉を返してくる。
 私は人ひとり分のスペースを空けて呂佳の近くに腰を下ろした。
 
 (……やっぱり嫌そうな顔してる)

 呂佳の表情に浮かぶのは、久しぶりの再会した高揚感ではなく、戸惑いとかすかな不快感。
 私は心の中に透明な予防線をぴんと張る。
 きっとこれから交わされる会話は穏やかなものではないだろうなって、そんな予感がするから。

「なんでって、新聞社のスコアラーのバイトやってるから」

 首から下げているストラップを指にひっかけて、ネームホルダーを見せる。そこには主催新聞社のロゴマークと「関係者」の文字。
 監督に「スコアラーのバイトがあるからやってみるか?」と紹介されて、高校野球に携われるし淡い期待もあったので、大学生になってからはじめたバイトだ。
 もう二年目に入って仕事にも慣れてきたし社員にもかわいがってもらえているので、準々決勝以降のシフトも組んでもらうようにこっそりと手を回した。
 呂佳に会えるとしたら、きっと今日がチャンスだと思ったから。
 今日は二試合目の担当なので、時間にゆとりもあるからとスタンドまで顔を出して見たら、やっぱり呂佳がいた。

「おまえ、ほんっとに暇なんだな」
「うるさいな。余計なお世話だよ」

 呂佳は私の目も見ずに嫌味ったらしい口調で吐き捨てる。
 ちょうど二年前、最後の夏が終ってから呂佳はずっとこんな感じだ。やたらと私を煙たがる。しかも、私だけではなく野球部のチームメイトですら遠ざけるようになった。

 呂佳とはまるっと二年くらい、まともに会話をしていない。
 引退してからの呂佳は、一度もグラウンドに顔を出すことも、後輩たちの応援のために球場へ駆けつけることもなかった。
 「きっと初戦敗退を引きずってんだろ。そっとしておこーぜ」と当時の同期は言っていた。私もそう思ったので、少し離れたところから呂佳の姿を見つめていた。
 ある秋の日、風の噂で「呂佳は浪人しながら美丞大狭山で野球部のコーチをすることになった」と聞いたときには心底悲しい気持ちになったことを覚えている。
 
 (私たちは遠ざけるくせに、美丞大狭山では野球やるんだ……)
 
 ショックだった。
 初戦敗退を引きずっているから、グラウンドにも顔を出さず私たちまで遠ざけているのだと思っていたのに、美丞大狭山では野球に携わっているという。
 どうやら美丞大狭山の次期監督は、呂佳の中学時代のチームメイトらしい。その縁が野球と呂佳を結びつけているのは間違いなかった。
 でも、どうして母校のグラウンドには一度も顔を出さなかったんだろう。監督のことは尊敬していたはずだし、後輩たちのことだってそれなりにかわいがっていたはずなのに。
 明確な理由はわからないけど、呂佳は私たちのことを嫌っているのかもしれない──そんな冷たい予感が心臓を凍らせていた。
 そして今も、凍えた心臓から冷たい気配が忍びよって、指先の体温まで奪っていく。
 
「せっかくスコア書けるんだもん。特技は活かさないともったいないでしょ」
「それなら大学でマネージャーでもすりゃーいいじゃねーか」
「私が通ってるの女子大なんだよね。呂佳は私に興味ないから知らなかったと思うけど」
「……」

 こちらも負けじと嫌味をたっぷりふくんだ口調で言うと、ばつが悪そうに視線を逸らす。都合が悪いときには人の目が見られないヤツ。他人に興味がないところも相変わらずだ。

「そういう呂佳だって大学の野球部にも入らないで、美丞でコーチやってんじゃん」

 引退してから野球部に顔も出さなかったのにさ。
 唇を尖らせながらいじけた調子でそう言うと、呂佳の表情はみるみる険悪になっていく。
 ……あ、この顔、怒鳴るやつだ。

「うぜーヤツだな。こっちはこれから公式戦なんだよ。気が散るから帰れ!」
「やだ! 今日逃したらまたしばらく会えないでしょ。私から連絡しても無視するし」


 ──「久しぶり、最近どうしてるの?」

 ──「たまにはみんなでご飯食べいこーよ」

 ──「生きてますかー?」


 私から送ったメッセージの数々は、無情にも無視されてきた。
 「うん」とか「すん」とかでもいいから、とにかく返事が欲しかっただけなのに。呂佳が元気なのか、知りたかっただけなのに。
 でも、一度も返事が届くことはなくて。定期的にメッセージを送る行為は、ただ虚しさを募らせるだけだった。

「卒業して二年も経つんだぞ。……いい加減に諦めろよ」

 冷たい声色に、肩がびくりと跳ねる。
 さっきまでの威勢のよさが消えうせて、声は潜められた。
 周囲のガヤガヤとした賑わいが一気に遠のいて、呂佳の声だけがやたらとクリアに聞こえる。
 頭は日差しに焼かれてジリジリと熱いのに、心臓と指先だけが氷づけになっていく。

「……え、なに、もしかして……呂佳は私の気持ち知ってたわけ……?」
「……風の噂で回ってくんだよ」

 気まずそうに足元を泳ぐ視線。私はまっすぐに呂佳を見ているのに、それは決して交わらない。
 そうか、呂佳はすべてを知っていて、私のことを避けてたのか。その理由も、私の好意がうっとおしくて逃げたかったからだと、はっきりと気づいてしまう。
 虚しさと恥ずかしさが身体の芯から渦をまいて湧き上がる。全身ににじむ冷や汗が気持ち悪くて、呂佳も私からの好意をこんな風に「うっとおしい」って、嫌悪していたのかもしれない。

 (酷い……呂佳は酷い)

 私は気持ちを伝える機会すらつくれなくて、凍えていく恋心は宙ぶらりんのまま。
 諦めろって言うけど、諦める機会を与えてくれなかったのは、呂佳なのに。

「でも、私……告白もできなかったんだよ? それなのに諦めろって、酷くない?」
「オレはおまえの思ってるような人間じゃねーんだよ」
「なにそれ、どういうこと?」
「高校生の頃とはちげーんだよオレは……おまえと違ってな」

 突き放すような強い口調、眼差し。
 そして、またすぐに逸らされる視線。
 まるで透明で分厚い壁で私たちの間がへだてられているみたい。すぐ近くにいるのに、気安く話しかけることも触れることも拒絶されているような疎外感。
 それでも、まだ呂佳が目の前にいてくれるなら、私はここにいたい。少しでいいから、ちゃんと呂佳と話したい。

「じゃあ、二年経って呂佳がどんな風に変わったのか教えてよ」
「嫌だね。オレはもう桐青の野球部のヤツらとは関わらねーって決めてんだよ」
「……今の呂佳のこと知らないままで、諦めきれないよ」

 服の裾をぎゅっと握りしめる。シワになってしまうかもしれない。
 でも、最後の勇気を振りしぼるのには、どうしても気合いを入れる必要があった。

 (……がんばれ、私)

 自分を奮いたたせる強さで、手を握りしめる。
 今の私、きっと酷い表情しているはず。 
 眉根をよせて唇を噛み、首筋の汗が止まらなくて不快だ。
 嫌われるなら、とことん嫌われてしまおう。きっとそうでもしなければ、私も諦めたくても諦めきれない。
 呂佳は呆れた様子で乾いた笑みを浮かべている。

「おまえ、本当にバカだな」
「別に、バカでいいよ」

 グラウンドを見やると、すでにシートノックが始まっていた。美丞大狭山の監督がコンパクトなスイングから小気味いいリズムで鋭いゴロを放っている。
 呂佳の顔を見ながら話すのが気恥ずかしくて、グラウンドを見つめながら話しつづける。

「呂佳が美丞大狭山でコーチやるって聞いて、いつか球場で会えるかもしれないと思ったから、スコアラーのバイトをはじめたの。そしたら……やっぱり会えた」

 ぽかんと口を空けたまま話を聞いている呂佳の顔がおもしろい。

 (でも私、なんだかストーカーみたい。引かれてないかな……)

 呂佳の顔色をうかがってみるけど、浮かんでいるのは驚きの色だけで、嫌悪や不快な色はにじんでいない。

「私はね、呂佳のことも、高校野球のことも、まだ諦めきれてないんだなって……ここに来たら思い出した」

 呂佳が今も高校野球と関わりつづける理由があるように、私にも「好き」を諦められない理由があった。

 だって、まだなにもはじまっていない──私の恋も、あの夏も、はじまる前に終わってしまったから。

 私は、私が納得できる日まで「好き」を諦めないって、心に決めている。
 いつかちゃんとこの恋も、あの夏も、諦める日まで……今からがんばれることだって、きっとあるはずだ。

「……ずっと忘れとけばよかったのにな」

 私を突き放すための言葉は弱々しくて、その声を聞いているとあの日の呂佳の背中を思い出してしまう。
 ベンチに立ちつくして、泣くでもなく仲間を励ますわけでもなく、ただただスコアボードを見つめていた──あの背中。

「……ということで、まずは呂佳とゆっくり話がしたいの。バイト代もらえたら奢ってあげるから、ご飯食べ行こう!」

 ぐるる、とどこからかお腹の鳴る音が聞こえた気がする。聞き間違いでなければ、呂佳のお腹から。

「……ハァ!? オレは桐青の野球部とは関わらねーって、さっきそう言ったよな」
「だって私、今はもう桐青の野球部じゃないし!」
「……ったく、メンドクセェ……」

 頭を抱えてわしゃわしゃと髪をかく呂佳の背中をバシバシと叩きながら、私はあの頃の感覚を思い出していた。
 現役時代の呂佳は私に数々の弱みを握られていて、多少のわがままも私のペースに巻きこんでしまえば、たいていは言うことを聞いてくれていた。
 とりあえず、あともう一押ししておこう。そうすればきっと、呂佳はもう私を無視できなくなる。

「あとでメールするから。二十四時間以内に返事が来なかったら、夜中に鬼電するからね!」
「……それは勘弁してくれ」

 げっそりと青ざめた呂佳の肩を叩いて、満面の笑みをつくる。よし、ここまで詰めておけばもう大丈夫。

「私はそろそろ記者席に戻るから。呂佳もがんばってね」
「コーチががんばることなんか、なんもねーよ」

 冷めた口調でため息つくから、せっかく距離が縮まったのにまた突き放された気分になってしまう。
 呂佳はなんでそんな投げやりなのかな。
 どうして自分たちのチームの試合が、まるで他人事だっていうような、そっけない態度をするんだろう。

 (……あ、呂佳の手……)

 膝の上で頬杖をつく呂佳の手を指差すと、頭上に透明なクエスチョンマークが浮かぶのが見える。

「そんなことないでしょ。その手、バット振りすぎてボロボロじゃん」

 肉刺が潰れまくって硬く乾燥した、ボロボロの手。
 マシンでのバッティング練習は納得するまで打席に立っていたし、ティーバッティングでは何箱も空にするまで打ち続けていた。
 あの頃の呂佳と、同じ手だ。
 体格にも恵まれて、野球の才能もあったけど、毎日必死にがんばっている手。

「がんばってる手だよ、それは。昔の呂佳と変わらない」

 呂佳は想像以上に、自分のことも、他人から見た自分のことも、わかってないところがある。
 そういうところは昔から変わらなくて……懐かしくて胸の奥がきゅっと締めつけられた。
 呂佳はなにか応えようとするでもなく、ぼんやりと私の顔を見つめている。その表情の幼さが、高校生の頃の面影と重なって見えた。

 グラウンドはちょうど両校のシートノックが終わり、グラウンド整備が始まる。もうすぐ試合開始の時間だ。
  
 重い腰を上げて背中をそらして、ひと伸び。
 なんだか複雑そうな顔した呂佳を見下ろしながら、もう一度「呂佳、がんばってね」と声をかける。
 この言葉は、あの頃の私の口癖。
 「呂佳、がんばって!」「呂佳、打てるよ!」──そんな風に声をかけてベンチから送りだしていた。
 呂佳はきっと、この口癖を覚えてる。
 だって、何度も、何回も、同じ言葉を繰りかえしてきたんだもの。忘れているはずがないって、信じてる。

「……おう」

 あの頃よりもずいぶんか細いけど、ちゃんと返事をしてくれた。
 今は、それだけで充分に嬉しい。

 席を立って歩きだしつつ「じゃあね」と手を振っても、シッシッと犬を追い払うみたいな仕草で返されてしまって、苦笑いしながら記者室へと急ぐ。


 美丞大狭山の──呂佳の夏が、まだつづきますように。
 祈りをこめて、両手を握りしめる。

「呂佳、がんばれ」

 フェンスのむこう側からグラウンドと、呂佳のいるスタンドを見あげて小さくつぶやいた。




prev next
back