「初めまして、みょうじなまえともうします。
今日から三日間お世話になります……よろしくお願いします」
──お辞儀の角度、これで合ってたかな?
恐るおそる顔を上げると表情のない顔と目が合う。眼鏡のレンズ越しの目はまっすぐに私の目を見据えて、口は真一文字に結んだまま。初対面なんだから愛想笑いでもしてくれたらいいのに。到着して早々に先行きが不安になっちゃうじゃん。
驚くほどに無表情で無愛想──それが御幸スチールの社長である御幸さんの第一印象だった。
今日からはじまる三日間の職業体験型のインターンシップ。キャリア教育の一環としての取り組みで、毎年一年生は全員が強制的に参加する授業である。
高校の近隣にある企業にお世話になりながら、より良い進路選択をするための経験を養う──というのが目的らしい。
インターンシップの事前学習で散々やってきたお辞儀や敬語の練習も、堅物そうな御幸さんを目の前にしたらすべてが吹っ飛んでしまった。
「こちらこそ、よろしく」
とても短いあいさつ。寝癖がはねているえりあしに、無精髭。ところどころ汚れが落ちきっていない薄緑色の作業着。その胸元にはオレンジ色の糸で「(株)御幸スチール」の文字が刺繍されている。そしてやっぱり、愛想笑いすら無い。
──めっちゃ怖いんですけど……。
見た目からして歳は四十代くらいかな、とおもう。成人男性と話す機会なんて、いままで親や学校の先生くらいしかなかったせいで余計に緊張するし、身体が委縮してしまう。肩に力が入っているのが、自分でもはっきりとわかるくらいに。
「うちには君と歳の近い息子がいるんだ。帰ってきたらそこらへんうろつくかもだけど、気にしないで」
「は、はい」
歳の近い息子さんとは、いったいいま何歳なんだろう──ふとした疑問が浮かんだけど、そんな質問する暇もなく工場の外階段から二階へと案内される。
ドアの向こう側は見るからに住居スペース。急に生活感のある空間に通されて、おもわずドキッとする。突然に初対面の人の家の中に招き入れられたら、変に緊張してしまう。
あたりをきょろきょろと見渡しながら突っ立っていると、襖で仕切られた畳の部屋へと案内されて、そこで作業着を渡された。
「うちには更衣室が無いもんで、こんなところで着替えてもらって申し訳ない」
「いえ、全然大丈夫です!」
「荷物もここに置いておいて。仕事中は鍵をかけておくから」
襖が静かに閉まった。私は手渡された作業着と、部屋の中をぐるりを見まわす。
六畳ほどの部屋はきちんと整頓されている。
日に焼けた畳、引き出しが三段ある箪笥、壁かけの時計。初めて入る部屋なのに、どことなく懐かしい気配を感じるのが不思議だ。
シールが剥がされた跡の残るこげ茶色の箪笥の上には、トロフィーや盾のような物がいくつも飾られている。
「……御幸……かずなり? いちなり?」
小さな盾には野球少年の姿と、御幸さんの息子さんの名前。名前の上には「最優秀選手賞」と書いてある。他のトロフィーも同じく、野球の大会でもらった物らしい。どれもうっすらとほこりを被っていて、飾ってあるというよりは放置されている状態に近い。へぇ、息子さんって野球少年なんだ。しかもけっこう有望な感じ。
カチ、コチ、と秒針の音が静かな室内に響く。その音が耳に入って、ハッと気がついた。
──他人の家の物色している場合じゃない、早く着替えないと!
生まれて初めて着た作業着は、Mサイズだけどぶかぶかと身にあまって着せられている感がすごかった。
*
始業時間になって工場の機械が稼働しだすと、室内は機械音でいっぱいになる。いったいこの機械たちでなにが作れるのだろう。金属部品を作っている工場だと聞いていたけど、あまりにも無知で脳内にはてなマークばかりが浮かぶ。
なんの作業が行われているのかさっぱり見当がつかなくて首を傾げていると、御幸さんは一つひとつの機械の役割をわかりやすいように噛みくだいて説明してくれた。
「これはワイヤーに電流を流して糸のこぎりみたいに金属を切断する機械で、あっちのは金属を金型に入れて圧縮して部品を作る機械」
「……ほぉ」
御幸スチールには金属を切ったり、形作ったりする機械がたくさんある。それぞれが大きな音を立てたり、振動したりしながら、自動車に組み込まれる金属部品を作っているらしい。自動車のどこに使われているパーツかは、説明されてもよくわからなかった。
御幸さんいわく「この工場で一番の働き者は機械たち」とのこと。
絶え間なく動きつづける機械を労うようになでる、御幸さんの手つきはとてもやさしい。その仕草を見て、この人はきっと想像しているほど堅物でも怖い人じゃないんだろうなとおもう。
初日の午前中は工場内の見学と物運びのような軽作業をしていると、あっという間に昼休憩の時間になった。
お昼ご飯は従業員の皆さんに囲まれながら、用意してもらっていたお弁当を食べることに。朝からずっと緊張している私をリラックスさせようと、皆さんはいろんなことを話してくれる。
御幸スチールの従業員はこの近隣に住んでいる人だけで、自宅から作業着に着替えて徒歩や自転車で通勤することがほとんどだということ。だからここには更衣室が無いらしい。
御幸さんのお父さんの代からつづいている工場で、御幸さんが二十代の頃に後を継いだこと。
昔はもっとたくさんの従業員がいたんだけど、いまは三人ほどに減ってしまったこと。
そんな他愛もない話題の中に「息子の一也君」の話も挙がる。
「一也君はねぇ、社長にそっくりなのよ」
「野球少年でね、キャッチャーやってんだけどこれがまた筋が良いんだ!」
「工場の脇のところでよく素振りしてんだ。たまに俺が球を上げてやったりするんだよ」
一也君を語る時の皆さんの目は、穏やかに細められる。まるで自分の息子や孫の成長を喜んでいるようなあたたかい雰囲気に満ちていて、彼がとても愛されていることがよくわかった。
一也君トークが盛り上がるなか、父親の御幸さんは話の輪の中に入ろうともせずに、静かに私たちを見つめている。御幸さんは見た目がちょっと無愛想なだけで、物静かで穏やかな人なんだろうな──と分析をしてみた。
息子の一也君は父親に似て、口数は少なくてちょっとシャイな感じなのかもしれない。脳内で「息子の一也君」の人物像を妄想するのが楽しかった。
午後は事務作業を教えてもらいつつ、外線の電話を取らせてもらったり、事務用品の発注を手伝ったり、納品書の宛名書きをしているうちに、すぐに就業時間を迎えた。
少数精鋭で仕事を回している御幸スチールは、工場で作業もしつつ合間で事務作業も効率よくこなさなければならないので、これがとても大変だった。明日はもう少し効率よく働きたい。
着替えのためにまたあの畳の部屋に通されて、御幸さんは「作業がまだ残ってるから」と言い残して誰もいない工場へと降りていった。
カチ、コチ、と静かな部屋に秒針の音がやけに大きく響くような気がして、なぜか追いたてられるような気持ちになっていそいそと作業着を脱ぐ。
制服に着替えている途中で、襖のむこう側からガチャリと鍵が開く音が聞こえた。もしかしたら御幸さんが仕事を終えて戻ってきたのかもしれない。
スカートを履きプリーツを整えて、シャツのボタンを留めている最中に、襖が勢いよくパーンと音を立てて開き──そこには同い年くらいのメガネ少年が、怒った顔して立っている。
「えっ、はっ……えぇ!?」
「……アンタ、他人の家でなにしてんだよ」
「……あの、私は、その」
「いますぐ通報するから。そこで大人しくしてろよ」
「ま、待って! 通報しないで! 私、インターンシップできてるだけだから!」
「……インターンシップ?」
携帯電話のボタンを押す手がぴたりと止まる。そして、一拍の間を置いてから大事なことを思い出したらしく「あぁ、昨日父さんが言ってたやつか」とひとりで納得したらしい。
「そう! それです、それ!」
「はっはっはっ! ごめんな、オネーサン。とりあえず早く着替えなよ」
一也君が自分の胸元をトントンと指差す。
私は自らの胸元に視線を下ろすと、はだけたシャツとインナーのすきまから……ブ、ブラジャーが……見えている……!?
「キャァァァァァァ」
「うるさっ」
インターンシップ初日はなぜかラッキースケベで終わるという、散々な一日だった。
明日はどんな一日になるのか……不安でしかたがない。
つづく