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夜空を彩る恋になれ


『今週の土曜日って空いてる?』

 意味深なメッセージが届いたのは、土曜日の夜。買って積んだままにしていた小説をようやく読みはじめた時だった。
 ただでさえ途切れとぎれだった集中力が「小湊亮介」の四文字を目にした途端、ブチっと音を立てて切れる。スマホのロック画面に浮かび上がった通知を見つめ、しおりも挟まずに小説を閉じた。
 飲みの誘いだろうか、それとも。

『空いてるよ! 土曜日になにかあるの?』

 当たり障りのない返信でいったん様子を探ってみる。
 小湊くんは同じ学部学科の同級生。
 隣で講義を受けたことがきっかけで知り合った。グループワークをやった時のメンバー同士で仲良くなって、何度か飲んだりもした。
 サークルの同期の男子よりかは接点はあるけど、あくまでわたしたちはグループのメンバーのひとりでしかなくて。今までふたりきりで話すこともなかった。
 よくある話で「いつものメンバー」で集まっている時は平気だけど、ふたりだけになると話題に困る友だちっていると思う。小湊くんはそんな存在だ。

 でも今、わたしはそんな小湊くんのことが気になっている。
 短く切られた淡い色の髪とか、細身だけど近くで見ると鍛えられている腕とか。
 ときどき意地悪にからかってくるところがなんとなく「いいな」って思っている。

 ただ、現状はそれ以上でも、それ以下でもなくて。「同じグループの友だち」の枠から抜け出すにはどうしたらいいんだろうと考えているうちに、長すぎる夏休みが始まっていた。

『花火を見に行かない?』
 
 ロック画面に浮上した新着メッセージを見た瞬間、頭の中で小さな火花が弾ける。
 大学生、夏、花火、気になっている彼と一緒に──高校生の頃、ぼんやりと思い描いていた「青春」のイメージにびたりと当てはまるシチュエーションだ。
 誘われた日は偶然にもサークルの活動日でもバイトでもなかった。この魅力的なお誘いを断る理由が見つからない。軽やかな指先でするするとメッセージを打つ。

『行く! どこで花火を見るの?』
『チケットは俺が取っておくから。明治神宮球場ってわかる?』
『行ったことはないけど知ってるよ』

 八月のこの時期に、明治神宮球場で花火を見る。ということは、神宮外苑花火大会で間違いない。
 アーティストのライブを聴きながら都心のど真ん中で打ち上げ花火を見上げる、ちょっと贅沢な花火大会。いつかは行ってみたいと思っていたけど、高校生にはチケット代が高すぎて結局一度も行ったことがなかった。

『ちなみに俺とふたりだけど』

 心臓の奥で線香花火がパチパチと弾けているみたい。小湊くんと、ふたりきり。
 たまたまチケットが二枚しか手に入らなかったのか、それとも最初からわたしだけを誘うつもりだったのか。
 このお誘いがどういう意味を持っているのかは、ふたりで花火を見上げればわかるのかな。

『いいよ! 花火楽しみにしてるね』
 
 震える親指で送信ボタンを押すと、すぐに既読がついて、「りょうかい」ってスタンプが返ってきた。
 もう、後戻りはできない。

 衣装ケースをすべて引き出して見つけたのは、数年前に買ってもらった浴衣。せっかくの花火大会だし、久しぶりにこれを着よう。
 さっそくお母さんに浴衣を着付けてもらう約束を取り付けると、ニヤニヤしながら「彼氏でもできたの」って訊いてきた。
 大学の同級生だって説明したのに、なぜかその晩のお父さんが不機嫌だったのは、きっと余計なことまで吹き込んだお母さんのせいだ。







 明治神宮球場はJRの駅から歩いて十五分くらいで到着するらしい。駅から同じ方向へ歩いている人たちも、花火大会へ行くお客さんなのだろうか。
 周りをきょろきょろ見回してると野球のユニフォームを羽織っている人が多い。
 その背中には「YAMADA」とか「MURAKAMI」という名前が書かれている。会場が野球場だし、プロ野球ファンの人たちもたくさん来るんだろうな──と、その時までは思い込んでいた。

「……今日って神宮外苑花火大会じゃなかったの?」
「それやってたの、先週だけど」

 小湊くんから手渡されたのは神宮外苑花火大会のチケットではなく、プロ野球のそれで。一気に身体中の血液が沸騰したような気がして、目の前がクラクラする。背中に汗が流れ落ちる感覚が気持ち悪くて、思わず泣きそうになる。

「花火じゃないじゃん! プロ野球じゃん!」
「野球嫌いだった?」
「嫌いじゃないけどルールわかんないし」
「じゃあ、俺が教えるから」
「花火楽しみにしてたのに」
「今日の試合は花火も見られるんだよ」
「嘘だぁ」
「本当だって」

 小湊くんはおもしろがって肩を揺らしながら笑う。自分の勘違いに気づいた途端に頬がカァーッと熱くなる。肌に汗がにじんで丁寧に塗ったファンデーションがよれていないか、急に心配になってきた。

「花火大会だと思ったからわざわざ浴衣で来てくれたの?」
「……」
「ふーん。なるほどね」
「…………帰る」
「せっかくここまで来たのに?」
「だって浴衣を着てる人、全然いないし。わたしだけ浮かれてるみたいで恥ずかしいし」
 
 さっきからやたらと視線を感じるのは、浴衣で野球場に来る人が珍しいからだ。穴があったら入りたい気分。こんなことになるなら張りきって浴衣なんて着てくるんじゃなかった。
 目尻にじんわり涙がにじむ。下まぶたのキラキラのアイシャドウも、まつげをくるりと立ち上げるマスカラも、花火を見上げる横顔が可愛く見えるように願いながら塗ったのに。
 最初からこのお誘いに深い意味なんて、なかったのかも。

「そんなことないって。ほら、あそこにいる女の人も浴衣着てるし」

 小湊くんが指差す先には、浴衣姿の女性とユニフォームを着た男性が歩いている。彼らはそのまま球場の中へ入って行った。言われるがままに周囲を見渡してみると、他にも数名の浴衣姿の人がいた。ちょっとだけホッとする。

「今日は浴衣を着て来場すると飲食物が割引になる日なんだよ」
「そうなんだ」
「それに浴衣、似合ってる。可愛いよ」
「……急に褒められると恥ずかしいんだけど」

 小湊くんの熱っぽい視線が、ヘアセットした髪から赤いペディキュアまでなめらかになぞっていく。浴衣は濃紺の布に赤や黄色の色鮮やかな花が咲いていて、赤い帯をきゅっと締めている。彼氏になってくれるといいわね、ってお母さんがからかいながら着付けてくれた。

「ほら、行くよ」
「う、うん」

 まだ少し戸惑いながらも、先を行く小湊くんの後ろ姿を追いかけて歩き出す。
 カラン、コロン。下駄が地面を鳴らす涼しげな音が、大きすぎる心臓の音をかき消してくれますように。

「わぁ」
「どう? 初めての野球場は」
「広いね。人がいっぱいいる」

 人が行き交う通路を抜けると、急に空間が広くなった。赤褐色のグラウンドの土と、緑の芝生。頭上には夏の夕空がオレンジ色に焼いて、雲をカラフルに染めている。
 正面に見える国立競技場の方向から強烈な西日が差し込み、眩しくて目を細める。
 都会のど真ん中にこんなにも開放感に満ちた場所があったなんて、今まで知らなかった。吹き抜けていく風が気持ちいい。

 小湊くんが案内してくれた青い椅子に腰掛ける。ここからは選手たちが豆粒ほどにしか見えない。外野席という場所らしい。
 ちょっと待ってて、と言い残して小湊くんは席を離れた。

 ひとりきりの間、初めての野球場を観察してみる。どこからか漂ってくるビールの匂い。いろんな種類のユニフォーム。小さな傘。高揚感のあるBGM。太ったペンギンはマスコットキャラクターかな。
 わたしの知らない世界が目の前に広がっている。でも、居心地は悪くない。
 それはきっと、ここにいる人たち全員が笑顔だから。野球を楽しみに来ているから誰もがニコニコしている。わたしもちょっとだけ楽しくなってきた。

「お待たせ」
「おかえり」

 両手に荷物を持って小湊くんが帰って来た。
 黄色のサワーとほかほかの唐揚げが渡される。サワーのカップには「MURAKAMI」選手の姿がプリントされている。さっきファンの人が着ていたユニフォームと同じ選手かな。
 黄色いそれを一口飲んでみたら、爽やかな柑橘の味が喉を潤してくれる。緊張しっぱなしで喉が渇いていたから、身体中の細胞に染み渡っていくみたい。

「今日は全部俺の奢りだから。好きなだけ飲んで食べていいよ」
「やったー!」

 さっきまで帰るって駄々をこねていたのに、そんなことを忘れてこの状況を楽しんでいる。気が変わるのが早いやつだって呆れられていないといいけど。でも、まぁいいか。せっかく浴衣を着てここまで来たんだし。
 小さな旗のついた爪楊枝で唐揚げを刺して口の中へ運ぶと、じゅわりと肉汁が広がる。サワーが進むほどよいしょっぱさ。

「この唐揚げすごく美味しい」
「唐揚げは神宮球場の名物なんだ」

 野球のルールもプロ野球選手のこともほとんど知らないわたしに、小湊くんは噛み砕きながらいろんなことを教えてくれた。
 そのおかげで、今がチャンスなのか、ピンチなのか、なんとなくわかるようになった。
 ピンチの時は固唾を飲んでグラウンドを見つめ、チャンスの時は大きな拍手が鳴り響く。この一体感が野球のおもしろさだって、小湊くんは教えてくれた。

「そういえば小湊くんって野球部なんだよね」
「そうだけど」
「高校生の時も野球部だったの?」
「もちろん。ここで試合したこともあるし」
「高校生もプロと同じ場所で試合できるんだね」

 小湊くんは緑色のサワーを飲み干して、それからしばらく静かにグラウンドを見つめていた。急に解説がなくなって困ってしまう。応援しなくていいのかな。
 横目でチラチラと視線を送っていたら、小湊くんは穏やかな口調で話しはじめた。

「みょうじって夏の甲子園は見たことあるんだっけ」
「テレビでなら見たことあるよ」
「それの予選をここでやったんだ」
「へぇ。どこまで勝ち進んだの?」
「決勝戦」
「てことは、甲子園にも出たってこと!?」
「残念ながら決勝戦で敗退したんだけどね」

 残念という割にはさっぱりとした物言いに矛盾を感じて、急に居心地が悪くなる。
 あと少しで甲子園に出られたんならもっと悔しがればいいのに──そう言いそうになって、やっぱり辞めた。小湊くんの横顔が少しだけ寂しそうに見えたから。
 決勝戦までいって、でも甲子園には行けなくて。悔しくないはずがない。
 きっと、今も。

「高校生の時にそんなに頑張ったんなら、小湊くんもプロ野球選手になれるかもね」
「プロ野球選手はそんな簡単になれるもんじゃないから」

 おでこにチョップが落ちてくる。ぽんと優しく触れたあと、汗で張りついた前髪を直してくれた。額を掠める指先にドキドキして、どこを見ていたらいいのかわからなくて目を伏せる。はたから見たらわたしたちは恋人同士に見えたりするのかな。そうだといいな。

 ふと気づくと、試合は五回の裏まで終わっていた。
 スコアは三対三のままで、いったいどちらのチームが勝つのかわからない。

「そういえば、まだ花火見てない」
「もうすぐだよ。あっちの空を見てて」

 小湊くんがライトスタンドの頭上を指差したのと同時に、球場の照明が落とされ薄暗くなる。一気に夜の濃度が濃くなった。
 スタジアムDJの合図の後に、大きな破裂音をたてて夏の夜空に光の花が咲く。観客が一斉に感嘆の声を漏らした。

「本当に花火が見られた!」
「ほら、嘘ついてなかっただろ」
「きれい!」

 スマホのカメラで夜空を切り取る。
 赤い花、黄色い花、青い花。まばゆい光が瞬いて、星の見えない都会の夜空を彩っている。
 最後の一輪が打ち上がり、大きな拍手で締めくくられた。小湊くんとわたしもつられるように拍手をする。

「てっきり小湊くんは野球が見たいだけなんだと思ってたよ」
「まぁ、野球も花火もついでなんだけど」
「ついでとは?」
「メインはみょうじとデートすることだから」
「で……デート!?」
「俺はそのつもりだったんだけど?」
 
 ニヤリと笑みを浮かべて下から顔を覗き込まれる。小湊くんはずるい。今日がデートだなんて一言も言ってなかった。
 楽しみにしていた花火だってなかなか見られないから、今日は野球観戦に誘われただけだって自分に言い聞かせていた最中だったのに。
 
「……たまには野球観戦デートも悪くないね」
「ははは。そうでしょ」

 この恋の駆け引きの主導権を握るのはわたしか小湊くんか、どっちなんだろう。
 この試合の勝敗の行方のように、どうなるのか今はわからない。

 ふいに汗ばむ手をぎゅうっと握られて、その骨張った手もわたしと同じくらいに熱くて。おでこが触れてしまいそうな距離で目と目が合って、息も上手にできなくて。

 その瞬間に悟った。
 どうあがいても小湊くんには勝てそうにない、と。