長い髪をひとつにまとめて、頭には三角巾を巻き、前髪は顔にかからないようにピンで留める。
洋服はシンプルなポロシャツに動きやすい細身のパンツを合わせて、エプロンのリボンを腰のあたりできゅっと結んだ。
化粧はいつもどおり薄め。だって、どうせ汗で流れ落ちてしまうから。
この時間はお店のキッチンにわたしひとりだけ。アルバイトの子たちの出勤時間までは、たっぷり二時間以上はある。
ここ神宮スタジアムの売店「キッチンつばめ屋」の店長であるわたしは、午後一番に出勤するのがルーティン。
試合開始は十八時からだけど、試合前から清掃やら仕込みで何かと忙しい。
すっかり錆びついて固くなったシャッターを上げると、球場の通路を渡って初夏の風がふわりと頬を撫でていく。
確か二週間後には、ここ神宮スタジアムで夏の高校野球の開会式が開催される予定だ。本格的な夏の幕開けが目と鼻の先まで近づいている。
ほどなくしてクラブハウスから出勤してきた選手がぞくぞくと店先を通り過ぎていく。大きなリュックを背負い、首にフェイスタオルを垂れ下げ、両手にはバットを持って。
たまに選手と目が合って会釈を交わすことはあっても、基本的に声をかけるようなことはしない。球場スタッフは試合に向かう選手を暖かく見守ることも、仕事の一部なのだ。
でもわたしも球団の一ファンとして、とある選手に憧れている。たとえ一目だけでも、店先を通り過ぎる「憧れの彼」の姿を見られれば、言葉を交わすことが無くてもそれだけで満足だった。
「今日も暑いなー。髪切っちゃおうかなぁ」
大きなひとり言ががらんとした厨房にむなしく響く。
仕込み用のネギやキャベツを刻んでいるだけで、全身から汗が噴き出す。語彙力が「暑い」だけになってしまいそうなほど、店内の温度はジリジリと上昇していく。
それにしても、この店の冷房は効きが悪すぎるのだ。頭上に設置された小型扇風機が風を送ってくれるおかげで、なんとか暑さをしのげている。
「え、髪切っちゃうんだ」
「どうしようかなって悩んでるんだけどねー……って!?」
無人のはずの店先から声が聞こえる。
どこか聞き覚えのある声の方へと視線を動かすと、カウンターに身を乗り出して頬杖をつく「憧れの彼」の姿があった。
「──御幸選手!」
「どうも。お疲れ様です」
被っていたキャップを外すと、茶色の前髪がさらりと額に落ちる。トレードマークのサングラスが陽光を反射してきらりと煌めいた。
「今日はいつもより早いんですね」
「ここに寄り道するつもりだったから、今日は早めに来たんだ」
前髪をかき上げキャップの中に収めると、御幸選手の端正な顔立ちがより強調される。
さすがはイケメンランキング第一位に選ばれただけある。しかも二位に大差をつけてのぶっちぎりだった。
それにしてもわざわざ早めに出勤してこの店に寄り道するなんて、いったいなんの用だろう。いつもあと三十分は遅く店先を通りすぎるのに。
寄り道の理由に思い当たる節も無く首を傾げると、御幸選手はメニューのパネルを指差した。そこにはチャーハン皿を片手に持った御幸選手が、こちらへにこやかな笑みを浮かべている。
「俺のチャーハン、今年からリニューアルしただろ。ちゃんと売れてる?」
御幸選手が気にしていたのは、今年リニューアルしたコラボフードの売り上げだった。
他の選手とのコラボフードに比べて、「御幸選手のお手製チャーハン」の力の入り方は、とにかくすごい。
去年のオフに御幸選手みずから試作品を作ってくれて、レシピをそのまま引き継いで商品化したのだ。
まるで冷蔵庫の残り物で(御幸選手は実際に冷蔵庫の残り物を使っていた)作ったようなそれは、幼い頃に実家で食べたチャーハンの味によく似ていると、ファンの間でも話題になっている。
「そりゃもう、売れてますよ! 御幸選手のお手製チャーハンはウチの看板商品ですから。ただ……」
「ただ?」
「売り上げは二位なんですよねぇ」
二位、というフレーズを聞き、御幸選手はピクリと片眉を持ち上げる。
確かに「御幸選手のお手製チャーハン」は看板商品だし、実際によく売れている。
ただし売り上げ第一位は、若き四番打者のコラボフードである。彼は今月も好調をキープし、ホームランはすでに二十本を越えた。
主砲の活躍のおかげでキッチンつばめ屋は商売繁盛している。
「なんだよ、二位か! なんか悔しいな」
「そこで一つ提案があるんですけど」
「提案?」
興味津々な御幸選手は首を伸ばして店内を覗き込む。わたしは棚から色紙とサインペンを取り出し、彼の前にそっと置いた。
「これにサインを書いてレジの前に飾りましょう。すぐにチャーハンも作るので、商品を持って写真を撮らせてください」
店頭のガラス窓には選手のサイン色紙や、コラボフードを片手に撮影した写真をずらりと飾っている。
これらは御幸選手のようにお店に顔を出してくれた選手に頼んで、特別に飾らせてもらっているもの。どれも大切な宝物だ。
「あぁ、コイツらみたいに飾るのか」
「そういうことです」
「それで売り上げに貢献できるなら、お安い御用だよ」
御幸選手がサインを書く間に、わたしは中華鍋を握り、ご飯と具材を手早く炒めて味付けをする。
ほんの数分でチャーハンを完成させると、御幸選手はサングラス越しでもはっきりわかるほど驚いてみせた。
チャーハン皿に見立てたプラスチックの器にこんもりとよそると、ごま油の香ばしい匂いがふんわりと立ち昇る。
「速いな」
「これくらい速く作らないと長蛇の列になっちゃうんですよ」
「すげぇ。さすが料理のプロ」
「御幸選手の方がすごいでしょう。すっかりレギュラーに定着したじゃないですか」
素直に賞賛すると、御幸選手は得意げに口角を持ち上げて白い歯を覗かせた。
プロ入り四年目の今シーズンは、ここまでのすべての試合で御幸選手がスタメンマスクを被っている。若き正捕手の活躍もあり、チームは三連勝中。
これから連勝を伸ばして上位チームに食い込んでいきたい──と監督は談話で語っていた。
「シーズンの途中だし、まだまだここからだけどな」
「あれ、もしかして弱気ですか?」
「誰にも正捕手の座は譲る気はねぇよ」
大きな目がすうっと細まり、強烈な西日のようなまなざしでわたしを射抜く。サングラス越しの瞳が真夏の夕日みたいに燃えている。
グラウンドでしか見られない真剣な表情を目の当たりにして、息が詰まった。
思わず口からぽろりと「かっこいい」がこぼれそうになって、唇を固く結ぶ。
「じゃあ、写真撮ろうか」
「あ、は、はい!」
自分で提案したくせに写真撮影の許可をもらったことをすっかり忘れていた。
エプロンのポケットからスマホを取り出して構えると、御幸選手は一瞬目を丸くする。
「どうかしました?」
「いや、なんでもねーよ」
含み笑いを隠すように口元を手のひらで覆い、咳払いをひとつ。
ようやく撮影準備が整ったところで指示を出し、チャーハンを片手にパシャリ。
スプーンを口元に運んで頬張っている仕草でパシャリ。
いくつかのポーズで撮影し、御幸選手のチェックも済ませ、写真の使用許可をもらえた。
これらを飾ったら、きっと話題の「御幸女子」たちが長蛇の列を作るだろう。
今日は特別忙しい一日になりそうだ。
「ちなみにこれ、俺が食べてもいい?」
「別にいいですけど。これから練習なのに食べちゃって平気なんですか?」
「これくらいの量なら余裕だよ。いただきます」
その言葉どおりに御幸選手は瞬く間にチャーハンを平らげた。米粒ひとつ残すことなくペロリと完食し、「ご馳走様でした」と両手を合わせる。
さすがプロ野球選手。胃袋の大きさは一般的な成人男性の比じゃない。
「本当にすげぇな。俺の教えた味が完全に再現されてる。てか、むしろ俺が作るより美味かった」
「メニューを教わってからたくさん練習したんですよ。味には自信がありますから」
普段は褒められることがほとんど無いので、たまに絶賛されると素直に嬉しい。
しかも相手は憧れの御幸選手。余計に嬉しくて顔がニヤけてしまいそうになる。
「ところで、支払いは後でいい? いま財布持ってなくて」
「お代は結構ですよ。サインと写真撮影に協力していただけたので」
有難い申し出だったけど丁重にお断りした。御幸選手のサインと写真を店頭に飾ることができたら、チャーハン一杯くらいすぐに元が取れる。
御幸選手はキャップを外し、深く頭を下げた。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて。ちなみに色紙ってまだある?」
「ありますけど」
「ファンの子にサインをあげたいんだけど一枚もらえるか」
「そういうことならお安い御用です」
こういう時のために色紙の予備はたくさん準備してある。
それにしても御幸選手から直接サインをもらえるなんて、その「ファンの子」がとても羨ましい。
御幸選手に真っ白な色紙を手渡す。
慣れた手つきでさらさらとサインを書き、一瞬手を止めてわたしをじっと見て、さらに何かを書き加えた。今の視線はいったいなんだったんだろう。
使い終わったサインペンと「ファンの子」へ渡すはずの色紙も、なぜか一緒に手渡される──これはどういうこと?
「もし良かったら、これもらって」
「でも、ファンの子にあげるんじゃ……」
色紙に目線を落とすと、そこには名乗った覚えもないのに「みょうじさんへ いつも応援ありがとうございます」と書き添えられていた。
驚きのあまり声を失い、空いた口が塞がらないのでとっさに手のひらで隠した。
どうして名前を知っているんだろう。
どうして御幸選手のファンだとバレているんだろう。
いくつもの疑問が浮かび上がっては、言葉にする前に泡のように消えていく。
御幸選手は柔らかな笑みを浮かべてわたしの言葉を待ってくれていた。勇気を振り絞って、一つ目の疑問を口にする。
「あの、わたしの名前、なんで」
「エプロンに名札ついてるじゃん」
「御幸選手のファンだって言いましたっけ……?」
「はっはっはっ! だって、スマホケースが俺のグッズだったから。見りゃわかるって」
「!」
御幸選手が指差す先には、テーブルに伏せて置いたわたしのスマートフォン。ケースにはユニフォーム風に「MIYUKI 2」と刻印されている。
写真撮影をした際に御幸選手が目を丸くしていた理由に気づき、今になって腑に落ちた。だからあのとき恥ずかしそうな、でもちょっと嬉しそうに笑っていたんだ。
サインを貰えた嬉しさと、ファンであることがバレてしまった恥ずかしさが胸の内に渦巻き、心臓の鼓動を速くさせる。
色紙をやさしく抱き締めて深くふかく頭を下げた。感激のあまりちょっと泣きそうになりながら。
「ありがとうございます! 一生大切にします!!」
「どういたしまして。じゃ、そろそろ行くわ」
「今日も頑張ってください。応援してます!」
「はっはっはっ! みょうじさんが応援してくれるなら心強いな」
重たそうなリュックを背負い、両手にはバットを携えて、御幸選手は颯爽と歩き出す。
その大きな後ろ姿が少し離れたところでぴたりと立ち止まる。どうしたんだろう。
心配になって声をかけようとしたら、くるりと振り向いた御幸選手が大きな声でわたしの名前を呼ぶ。
「色紙の裏側もちゃんと見といて!」
「? はーい!」
御幸選手はそれだけを言い残し、足早にグラウンドへ向かって行った。
──色紙の裏側?
腕の中で抱き締めていた色紙を裏返す。そこには見知らぬ電話番号らしき数字が羅列されていた。
『090-2896-××××』
『今度飯でも行きましょう。
連絡待ってます』
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