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アスファルトに落涙


 誰ひとり、土は持って帰らなかった。
 相手校の校歌を聞きながら、アルプススタンドの向こう側に広がる春の澄んだ青空を見上げていた。涙は、出なかった。
 ベスト4で負けた瞬間は、腹の底が煮えるくらい悔しかった。でも、「ここで終わりじゃない」と、あのとき私たちは確信していたから、すぐに前を向けたのだ。

 今度こそ夏に、またここに帰ってくる。
 頭の中には青写真を描いて、グラウンドには「全国制覇」の横断幕も掲げていた。
 センバツ出場校に選ばれ、準決勝まで勝ち上がった薬師高校野球部にとって、いつしか甲子園出場は「目標」ではなく、「通過点」になっていた。

 ──それなのに、

 物語の「結末」が、どこにも見当たらない。
 選手たちの汗が染みこんだグラウンドにも、空っぽになったベンチの中にも、ましてや神宮球場にも、甲子園にも。
 試合の終わりを告げるサイレンが、遠くで鳴っているのが聞こえている。やっぱり、どこを探しても青写真も、物語の結末も見つからない。

 試合で負けた時しか涙を見せない雷市が、肩を震わせながらしゃくりあげて泣き続けている。後輩達はみんな沈痛の表情でうつむく。まるで誰かがこの場で死んでしまったかのような、辛気臭い雰囲気が漂う。

 同期たちのすすり泣く声が耳元に迫ってくるから、逃げるように背を向けてクーラーボックスを開いた。氷にまとっていた冷気が頬を掠めて、真夏の空気と混ざってすぐにぬるくなる。今のうちにアイシングの準備をしないと、そろそろダウンを終えた真田がくるはずだから。

 氷を摘んだ指先が痛いくらいに冷たくて、汗で湿った皮膚にくっつくのが煩わしくて嫌になる。氷で満ちた氷嚢に少しだけ水を入れると、カラカラ、チャプン、と氷が擦れて水が跳ねる涼しい音が鼓膜を冷やす。指も手のひらも、どんどん体温が奪われていく。今は真夏なのに、この手だけがまるで冬みたい。

「よぉ」
「ちょっと、なにすんの!」

 スパイクの歯がアスファルトを噛む音が背後でぴたりと止まり、被っていた帽子ごと頭を鷲掴みにされて雑に撫でられる。近づいてくる足音の正体は、真田だって気づいていた。二年と半年もほぼ毎日顔を合わせていれば足音の聞き分けもできるようになったのが、私の小さな誇り、だった。
 帽子がずり落ちそうになって被り直すためにつばを持つと、そこには達筆な平畠に書いてもらった「全国制覇」の文字。
 
 ──どうして、

「もしかして、もうアイシング作ってくれてた?」
「準備できてるよ。つけるから、ユニフォーム脱いで」
「いや、今日はいい」

 額にも頬にも大粒の汗を浮かべている真田の横顔をまじまじと見つめる。どこかすっきりとした表情には涙も、泣いた跡もない。
 ほんの数十分前に負けて引退した直後だというのに、雷市と真田の態度はあまりも対照的だ。まるで雷市が引退したかのようにひっきりなしに涙を流し、反対に真田はからっとした顔に微笑みすら浮かべている。

「……は? なに言ってんの」
「だってさ、もう──」

 上空のコバルトブルーを見上げる目は眩しそうに細められて、どこか遠くの空を想起しているよう。
 きっと、私の頭の中に広がっている同じ空を見つめている──深緑のスタンドに縁どられた果てしなく広く、どこまでも高い青空。もう二度と見上げることができないあの空を、私たちは頭の中のキャンバスに描いている。

「悪いな、せっかく準備してくれたのに」

 ぽん、と頭に置かれた大きな手のひらはすぐに離れて、踵を返した背番号「1」が遠ざかろうとする。
 このまま行かせちゃ、ダメだ。このまま真田を行かせてしまったら、もう二度と投げている姿が見られなくなる気がする。

 漠然とした不安が、手を衝動的に動かした。ユニフォームの背中をぎゅっと掴んで、強く引っ張る。こちらを振り向いた真田は困ったように笑いかけて、どうした? ってやわらかい声で訊く。
 まるで、わがままを言ってお父さんを困らせる子どもみたいで、私は恥ずかしくなる。それでも絶対、離してなんかやらない。

「真田、ダメだよ。ちゃんと、いつも通りにしよう」

 真田はぽかんと口を開けて私の目を見た。
 真田の心の真ん中に、泣きたくなるくらい切実な思いをまっすぐに投げこむ。顔に張りつけていた微笑が解けだして瞳の奥が暗くなり、スパイクに落とされた視線がアスファルトの数センチ上を彷徨う。
 
「お願いだから、言うこと聞いてよ」
「わかった」

 外壁の死角になるところに引っ張って、アンダーシャツを脱いだ素肌にアイシングを施す。汗と土と太陽の匂いがふたりの間に充満して、嫌でも今は夏なんだって思い知らされる。
 今が夏じゃなきゃよかったのに、夏なら終わらないでほしかったのに、

 ──なんで、

「ごめんな」

 ふいに、真田は無言の空間に謝罪の言葉を落とした。視線は足元に伸びる影を追いかけていて、私たちは目も合わせられない。
 右肘に氷嚢をあてがってサポーターを巻いている手を止めて、私は静かに次の言葉を待つ。たぶんまで、続きの言葉があるはずだって、なんとなくわかる。

「俺が打たれたせいで負けちまった。勝たせてやれなくて、ほんとごめん」

 なにもかも諦めてしまったかのような弱く細い声色が心の琴線をそっと撫でて、私の中のなにかが決壊する音がする。水で一杯になっていたガラスのコップが割れて、ガラスと水が零れて飛び散った。気づいたらぽろぽろと涙があふれて、乾いたアスファルトに落ちてすぐに蒸発していく。
 悔しくて悲しくて腹立たしくて、顔も身体も全部が熱くなる。真田は汗も涙も流し尽くしたかのような冷めた横顔をして、私の方を見ようともしない。

「なに言ってるの! 負けたのは誰のせいでもないでしょ! 勝った三高が強かった。それだけだよ」
「そうかな」
「そうだよ」

 サポーターを巻き終えて肩からユニフォームを羽織らせると、だらりと身体の横に垂れ下がっている右手を取って両手で握りしめる。私も真田も、指先が冷たい。
 さっきまで、力いっぱいにボールを投じていた指先。人差し指と中指の変化球のタコ、乾燥してかさついた手のひら、よく日に焼けた手の甲。
 左足のふくらはぎの故障も乗り越えて、薬師のマウンドを守り続けてくれたエースの右手だ。その手のひらにぽたぽたと涙を落としてしまう。

「最後まで投げてくれて、ありがとう。真田がエースで、本当に良かった」

 真田の左手が、帽子の上に置かれた。そのままぐりぐりと撫でられて、目深に下がったつばのせいで視界が狭くなる。
 ありがとう、ありがとう、だいすき。
 手のひらから手のひらへ、皮膚を通して感情が伝わってしまえばいいのに。
 
「……ありがとな」

 真田の目に、涙はない。
 それでも、また、いつか──
 真田のピッチングが、見られますように。

 黒く澄んだ瞳は、私のように悔しさで濁ることはない。それが今は少しだけ、寂しい。

 三度目の夏を終えた私たちは、それぞれの道を歩きだす。真田の歩いていく道の先に、銀傘がそびえたつあの空がありますように──と祈りを込めて。





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