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水平線がまばゆい朝に


 十一月のとある放課後。
 薄い日差しで満ちた図書室は受験生であふれていて、みんなが真剣な表情で参考書にかじりついている。
 じりじりと近づく推薦入試にセンター試験。図書室の雰囲気は日に日にピリピリと張りつめていくのが肌でわかるくらいだ。
 そんな私と純も受験生なわけで。必死な形相の彼らにまぎれて勉強をしにきているはず……なのだけど。

「海、見にいくか」

 ページをめくる音にすらかき消されそうな、小さな声だった。純の声じゃなかったら聞きのがしていたかもしれない。しかも今まで真剣に参考書を見ていたのに、なんの脈絡もなく唐突にデートに誘われて目が丸くなる。
 どうして海なんだろう。秋の終わりかけで足を水面に浸すのも震え上がりそうな季節なのに。『海、デート』と脳内でキーワード検索をしてみると、心あたりが一つヒットした。 

「あ、そっか。引退したら海に行こうって言ってたもんね」

 脳内の検索エンジンに引っかかったのは、去年のクリスマスに交わした約束。冬合宿の合間、デートはできなくてもせめてプレゼントだけは渡したくて夜の青心寮までこっそり行ったことがあった。
 そのときに「引退したら海いこーぜ」って、クリスマスデートができない穴埋めをするように誘ってくれたのだった。

「じゃー決まりだな」
「楽しみだね」

 ふたつ返事でオーケーしたというのに、純はやたらとテンションが低くて思いつめたような表情をしている。
 後輩たちの秋の大会が始まった頃から──正確には部活を引退してからの純は、ずっとこんな感じだ。
 なにかについて深く考えこんでいるようで、声をかけることすらためらってしまうことが最近よくある。

 (……またあの顔してる)

 その横顔を見つめながら、胸さわぎがして喉の奥がきゅっと締めつけられる。
 きっと、去年に交わした約束を叶えるためだけの誘いじゃないんだって。そんな予感がして。
 雨に濡れたシャツが身体に張りつくようなひんやりとした感覚が、その日の間ずっと身体にまとわりつづけた。



・ ・ *・ ・ ・ * ・ ・ ・ ・ *



 白波は引いては打ちよせて、また引いては打ちよせる。
 その大きなストロークは何度も繰りかえされるのに、聴いていて飽きることがないのは不思議だ。波の音にヒーリング効果があるからなのか、それとも母親の胎内にいたころに聴いていた音に似ているからなのだろうか。たぶん、そのどちらにも当てはまるんだろう。
 防波堤のむこう側に広がる深いネイビーブルーの水面を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考える。

 眠りから覚める前の海沿いの街並みを、純と手をつないで歩いている。
 足もまぶたも重たくて全身がだるいし、ところどころがズキズキと痛むから、どうしたってうまく歩けない。
 まだシーツの海にくるまって眠っていたかったのに、純にたたき起こされたのは三十分ほど前のことだった。

 まさか、図書室の片隅でひっそりと約束された海が「朝の海」だなんて、あのときの私は考えもしなかった。




 昨日の夜、突然に純から「泊まり支度しとけ」ってメッセージが届いたときは、本当にびっくりして。
 急いで一泊分の荷造りをして、友達にアリバイ工作も頼んだから、それなりに慌ただしくて大変だった。女の子には準備しなくちゃいけないことがたくさんある。

 私は友達の家に泊まりに行くと嘘をついて、純は実家に帰ると偽って外泊届けをだしてきたらしい。
 指定された乗り換え駅で待ち合わせをしているときは、ものすごく心細かった。もし、純が来てくれなかったらどうしよう。嘘がバレてしまって海に行けなくなってしまったらどうしよう。
 不安の種は芽をだして臆病な胸の中で育ちつづけるから、心配性な自分が嫌になった。

 見知らぬ駅のホームのむこうには、誰の家かもわからない窓の明かりがぽつりぽつりと点在している。私の知らない場所で、知らない人たちが、こんなにもたくさん生活していて。そんな当たり前なことを実感するのは初めてのことで、なんだか少しだけ大人になった気分になる。視野が広がるって、こんな感覚なんだろうな、と漠然と思った。
 
 私の心配はただの杞憂に終わり、純とは十分後に落ちあえた。
 ふたりそろって電車に乗ったときは出発のワクワク感でテンションが上がったけど、私たちはこれからワルイコトをするという自覚もあって、また不安がむくむくと育ちはじめる。
 お互いに嘘をついて部屋を抜けだしてきたから、この秘密の逢瀬を決して誰にも知られてはいけないのだ。
 電車に乗りこんでからもしばらくの間は、周囲を気にしたり、純の帽子を目深に被らされたりした。
 駆け落ちってこんな感じかな、と純に耳打ちすると顔を真っ赤にして「バカヤロー!」と言いながら小突かれた。もちろん、電車内なので小声で。

 JRから小田急線に乗り換えて、藤沢まで南下して江ノ島電鉄に乗り換えると、出発してから二時間弱は経っていた。
 私たちはふらりと湘南の海沿いの駅で下車した。
 電車から降りた途端に海にむかって吹く風で一気に体温を奪われて、慌ててコートのボタンを下から上まで全部とめる。純も首をすくめながらアウターのジッパーを上げた。まだ十一月だしおおげさかなとも思ったけど、純に言われたとおりに冬用のコートを着てきてよかった。
 この駅も初めて降りる駅なので、物珍しくてあたりをぐるっと見まわしてみる。この駅のホームはすぐ目の前に海が見えるロケーションらしく、観光客にも人気スポットらしい。
 ただ、夜の海は真っ暗で空と海の境が闇に塗りつぶされていて、波の音だけが大きく聞こえてくるから海に飲みこまれてしまいそうで怖くなる。

「夜の海が見たかったの?」
「朝の海が見てぇんだよ」

 海に遊びに来るときは大抵は昼間だ。朝の海ってそういえば見たことがなかった。
 今は真っ黒な海も、朝日に洗われればきっときれいに、きらきらと輝くんだろう。そう考えると途端に朝が楽しみになるから、私って単純な人間だ。

「朝の海って初めて見るかも。楽しみだね」
「そうだな」

 純の声はどことなく硬い。やっぱり、なにか考えごとをしている。いつもの純じゃない。
 不安の芽は臆病な私の心臓から栄養を吸いとってすくすくと育っていく。つぼみが膨らみ、ぎゅうぎゅうと心臓の中で大きくなる。そんなイメージが脳裏に浮かんだ。

 純の手を取って、指と指の隙間を埋めるようにぎゅうっとつなぐ。熱い手のひらを強く握りかえすことでしか、今は純の気持ちを感じとれない。

 (純は今、なにを考えているの?)

 すでに言うべきセリフは用意されている。でも、まだ言うべきタイミングではないことは、なんとなくわかっていた。
 だからあえて、友達の恋話とか先生にムカついた話とか、普段より口数の少ない純のかわりに当たり障りのない話題を選んで、沈黙を埋めあわせる。
 特別に盛り上がるわけでもなく、沈黙が永遠とつづくわけでもなく。私たちは曖昧で、肝心なことに触れないもどかしい時間をやり過ごしながら、見知らぬ街並みを歩きつづける。

 幹線道路沿いをしばらく歩いて、導かれるままにネオンが眩しいホテルに入った。

 ──そして、純と初めて同じ夜を過ごした。

 この人になら私のすべてをあげたっていいと、付きあいはじめた頃から考えていたから、怖さはあったけどちゃんと受け入れられた。
 純の腕に抱きしめられながら、いくつもの感情が湧きあがってきた。

 怖くて、やさしくて、不安で、うれしくて。
 とても、幸せで──。

 マイナスな感情とプラスの感情が、波のように引いては押しよせてきて、どうにかなってしまいそうだった。
 素肌をぴったりとくっつけながら潮風で冷えきった身体を温めあっていると、私たちはお互いを想いあう気持ちだけで心がつながっているって、確信できていた。

 それなのに、ふたりで泳いだシーツの海を抜けだして、ホテルをチェックアウトしてからは、また純の気持ちにもやがかかって見えなくなった。
 手をつないでいるのに、隣を歩いているのに、同じ景色を見ているのに。また「あの横顔」に戻ってしまって、やっぱり純の考えてることがわからない。

 昨日の夜は痛いくらいに純の「好き」が伝わってきたのに。どうしてこうなるんだろう。
 不安はとうとうつぼみになって、もう少しで心臓を食いやぶって花を咲かせそうになっている。

 眠たげで気怠い空気のおかげか、お互いに口数が少なくてもなんとなく間が持った。
 純はさっきから何度もあくびを噛みころしている。私は眠たいまぶたを擦りながら、道路の白線の上をとぼとぼと歩く。
 夜と朝の狭間の海辺は、太陽が顔を出す前からうっすらと白みはじめて、灰色の街並みが浮きぼりになってきた。

 私たちはコンビニに立ちよってあったかい飲み物と朝ご飯の軽食を買って、近くの防波堤に腰かける。
 案の定、十一月の夜明け前の海辺は凍えるほどに冷たかった。なおかつ、目の前が海なので潮風がびゅうびゅうと吹いてくるので余計に寒い。 
 せっかくブローしてきた髪は風に舞いあがってぼさぼさに乱れてしまう。せめて前髪だけでも死守しようと手で押さえたところでまるで意味がなかった。
 ポケットにしまいっぱなしだったスマホを、さりげなくチェックすると、友達からのメッセージが数件届いているだけで、親からのメッセージは届いていなかった。
 秘密の逢瀬は秘密のままで終えられそうで、ほっと胸を撫でおろす。

「そろそろ日の出だぞ」
「ほんとだ、あと三分だね」

 時刻は六時ちょっと過ぎたあたり。ずっと遠くに見えている空と海のすきまから、金色の光がもれだしてきた。
 純は缶コーヒーのプルタブを空けて、一口飲む。私もミルクティーのキャップを空けて一口飲んだ。
 生温い液体がするりとのどの奥に滑り落ちていくけど、いつもの甘い後味は感じとれなかった。

 (きっともうすぐだ)

 そんな冷たい予感がすぐそこまで迫ってきている。
 日の出が近づくとともに、どんどんと指先が冷えていく。あたたかかったミルクティーから熱を奪っても、足りない。
 本当は純と手をつなぎたいのに、今それは許されない気がして。悲しい予感がますます身体を凍えさせる。

 純が一つ、咳払いをする。
 これはこれから大事なことを話しはじめる合図だ。

「なまえに話したいことがある」
「……別れ話?」
「そんなんじゃねーよ! そんなんじゃねーけど……」
「そんなんじゃねーけど、なに」

 自分でも驚くくらいに硬くて冷たい声がでた。本当は不安で取り乱したいくらいなはずなのに、思いのほか冷静さを保てている。
 まるで背後にもう一人の冷静な私がいて、腹話術の人形みたいに私を操っているみたいな不思議な感覚。
 昨日の夜を一緒に過ごしておかげで腹がくくれたんだろうな、と他人事のように思う。この先なにがあっても私は私の意志を貫こうと、純の寝顔を見つめながら決めていた。

 そして、とうとう不安のつぼみが花ひらく。
 太陽が顔を出したばかりの朝の海のような、ネイビーブルーの花びら。すぐに枯れる運命の小さな花びらが、弱々しく風に揺れている。

 純が口をもごもごとしている間も私は静かに心の準備をしながら、そのときを待った。

 「俺、大学でも野球やるって決めた」

 純はまっすぐなまなざしで海のむこう側を見つめながら、そう言った。
 私は予想していたセリフと違うことを言われたので、肩透かしを食らって目が点になる。

「え、本当に? どの大学で?」
「関西の──」

 テトラポッドに打ち寄せた波が砕ける音が、映画のBGMみたいに大きく聞こえる。海がすべての音を吸いとって波打ち際で放たれるみたいだ。
 かろうじて聞きとれた校名は、確かにここらへんでは馴染みのない大学だった。
 私は喜んでいいのか、悲しんでいいのか、自分の感情すら見失って「へぇ、そうなんだ」と気の抜けた返事しかできなくて。

 それから少しの間、私は言葉を忘れていた。
 純は視線を伏せて自分のスニーカーの爪先ばかりを見ている。純の声には、これは決定事項で、揺るがない意志がこめられていた。
 でも、大事な話をしているのに純と目が合わないのは心のどこかに迷いがあるから。そして、迷わせてしまっているのはたぶん私のせいだ。

 純は一見粗暴そうにみえて、案外やさしい。
 私のことなんて気にしなくていいのに、いつだって野球の次に気にかけてくれている。
 休み時間は話しかけに来てくれたり、一緒にお昼ご飯を食べたり。夜にはメッセージを送ってくれたり、たまにの電話も欠かさなかった。 
 私は純のそういうところが、好き。大好きだ。
 放課後に手をつないで帰れたことが一度も無くても、土日にデートができなくても。
 私が寂しさを感じないようにしてくれていたのは、純だった。だから、私は別れ話を切りだされても、絶対にうなずいたりしないと決めている。

「なまえになんも言わねぇで勝手に決めて……悪かった」
「ううん。純が野球やめちゃうんじゃないかって心配してたから。野球を続けてくれて嬉しい」
「なんで俺が野球やめるって思ったんだよ」
「だって、引退してからずっと浮かない顔してるから。野球の話も全然しなくなったし」
「仮に俺が野球続けねーって言ったら、お前はどうするつもりだったんだよ」

 野球やってねー俺でも、好きでいられんのかよ。

 波の音にかき消されそうな細い声を、確かに聴いた。
 純はバカだ。本当にバカだ。そんな純のことしか好きになれない、私もバカだ。私たちはバカ同士、お似合いだと思う。これから先も、ずっと。

「そんなの当たり前じゃん! 私が好きなのは野球じゃなくて、純だよ。野球やってても、やってなくても、そんなの関係ないし」
「……そうかよ」

 照れくさそうにうつむく横顔は、少しだけ穏やかになった。
 ほっとするのも束の間。すぐに真剣な表情に戻った純が問いかけてくる。
 
「でもな、俺はこれから盆と正月くらいしかこっちに帰ってこれなくなるんだぞ」
「それなら私が会いに行くよ」
「本当に遠距離でも大丈夫なのかよ」
「なに? 純はそんなに私と別れたいわけ?」
「そういうことじゃねーんだよ! 俺が会いに行ってやれねーのが申し訳ねぇんだよ!」
「そんなの気にしなくていいよ。私も会いたいときにしか行かないから」

 確かに会いたくなればすぐに会えるこの距離感が変わってしまうことは、とても怖い。でも、遠距離を理由に別れるほうが私たちには酷な選択だと思う。
 どちらにしても春が来れば、私たちは別々の場所で新しい生活がはじまる。不慣れな環境に不安を感じることも多いかもしれないけど、私は新しい生活が少しだけ楽しみだ。
 新幹線に乗ろうか、それとも夜行バスに乗ろうか。純に会うために知らない場所へ旅に行けるのはワクワクする。
 やっぱり新幹線がいいかな? と訊けば「まだ受験もしてねーのに、気が早いだろ」と一蹴されてしまった。 
 でも、きっと純なら大丈夫。絶対に志望校に合格するとおもう。特に根拠もないけど、私の感は良く当たるから間違いない。

「ったくよぉ……この機会逃したらもう手放してやれねーぞ。本当にいいんだな」
「当たり前じゃん。簡単に手放さないでよ」
「……ありがとな」
「どういたしまして」

 仲直りの握手から、恋人繋ぎへ。
 空いていたすきまをなくすようにぴったりとより添って、お互いの体温を分けあう。
 さっきまで寒くて震えていた身体も少しずつ暖かさを取りもどす。

 海のむこう側からゆっくりと昇る黄金色の太陽がネイビーブルーの空を押しあげて、あたりを橙色に焼いていく。
 私は空と海のあいだを指差した。

「水平線が光ってるよ。綺麗だね」
「あぁ、そうだな」

 純は息を飲んでその光景を見つめている。
 これが純が私に見せたかった景色。
 夜の終わりと、朝の始まりの景色。
 
 まるでこれからの私たちみたいだと思った。
 終わって、また始まる。これから何度でも、繰り返すかもしれないサイクル。これから先、恋人が恋しい夜にうんざりしたり、ベッドから出たくないような憂鬱な朝もあるかもしれない。
 それでも、明けない夜はないし、朝焼けは憂鬱な心を洗ってくれる。 朝がきて夜になり、そしてまた朝がくる。
 だから、私たちは離れていても、きっと大丈夫。

「また朝の海を見にいこう。ここの海じゃなくてもいいからさ」
「おう、また今度な」

 ひっそりと咲いたネイビーブルーの花びらは、風に舞いあがり海へとおちていく。
 そのまま波にさらわれて、いつかあの光る水平線のむこう側と流れつくのだろう。