あれ、またあの人だ。
昼休みが終わる十分前、騒がしい廊下を人並みを縫ってたどりついた自販機の前。
いつもここで午後の飲み物を買うのが私の習慣なんだけど、ここ一週間ほど同じ時間帯に同じ人が先客として佇んでいる。
細身な後ろ姿で春のような淡い髪色の彼は、昨日は紙パックの自販機で牛乳を買っていた。
今日は少し考えこんでいるみたいで、小銭を投入してあるけどまだボタンを押していないらしい。
私もまだ今日の飲み物が決まっていなかったので、淡い色の彼越しに商品を選ぶ。
紙パックの自販機の良いところは、百円でコーヒー牛乳やいちごミルク、抹茶オレやカフェオレなど、魅力的なそれらどれを買ってもお釣りが返ってくることだと思う。しかもどれも美味しいし、片手で持てる細身の紙パックは飲みきるのにちょうといい量だったりする。
(……うん、今日はコーヒー牛乳にしよう)
今の気分的にはなんとなく、コーヒーの風味を味わいたい。
あとは彼が買い終わるのを待つだけなのだけど、かれこれ一分くらい逡巡したままだ。
今日はいったいどうしたんだろう。
いつもなら迷わずに牛乳を買って立ち去っていくのに。今日の気分が迷子になっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、気づけば彼の後ろ姿を凝視してしまう。
背丈やシルエットの割に半袖シャツから伸びる腕は筋肉質で締まっているし、肩まわりもしっかりしている。細身なのは間違いないのだけど、華奢とかガリガリというわけではない。
多分どこかの運動部に所属しているんだろうなぁ……と勝手に推理していると、淡い髪が揺れて大きな瞳がこちらを振り返り、ぼんやりとしていた私の目をしっかりと捉えた。
正面から彼を見るのが初めてだったので、その端正な顔立ちを目の当たりにして動揺してしまう。
めっちゃイケメンじゃないか……!
「あの」
「はい?」
「僕、まだ決まらないので先にどうぞ」
淡色の彼は一歩引いて自販機の前を譲ってくれる。
イケメンなのにさらに親切だなんてポイントが爆上がりだ。でも、まだお金入ったままだし、順番待ちをしていたのに先を越してしまうのは申し訳ない。
「あ、いや、まだ時間あるから待ちます」
「買う物決まってるんだよね? いいから先に使って」
「え、えぇ」
彼は優しそうな見た目なのに案外頑固だ。
キリッとした眉は意志の強さを体現するみたいで、私は諦めて自販機の前に立つ。背後に彼の視線を感じて気まずいので、素早くコーヒー牛乳のボタンを押す。
ガタン、と音を立てて落下するそれを取り出して、握っていた百円を彼の前に差し出した。
「先に買わせてくれてありがとうございます。あの、これお金です」
「いらないよ」
「えっ」
「僕はもう買ってあるから」
彼はポケットから牛乳の紙パックを取り出して見せる。はて、これはいったいどういうことだろう?
ここでいくつかの疑問が浮かび上がってきた。
「二個目は友達の分じゃないんですか?」
「違うよ」
「じゃあ、なんで」
「君にお返しがしたかったんだ」
「君って……私?」
自分で自分を指指すと、彼はこっくりとうなずく。
お返し? なんのお返しなんだろう?
ちなみに、私と彼はこの自販機付近の他に面識は無い。彼の学年や部活、名前すら知らないというのに。
それなのに、お返しをしてもらう理由がわからなくて頭の中が混乱してしまう。
「三月にここで君と初めて話したんだけど、覚えてる?」
「さんがつ……?」
「あはは、覚えてなさそうだね」
「……ごめんなさい」
「僕はここで君に、最後の一つだった牛乳を譲ってもらったんだ。しかも君の奢りで」
「えぇっ」
彼の表情がふわっと柔らかくなるのを見て、私の胸もふわっと浮き上がる。
混乱する脳内の記憶の引き出しを全部開けて、ようやく一つだけ思い当たるシーンを見つけ出した。
「あ、君もしかして……セカンドの人?」
「そうだよ。気づかなかった?」
彼はふわっと笑う。
今は夏だっていうのに、彼の周りは春のひだまりみたいな優しい雰囲気になる。
三月に出会った彼と、いま目の前にいる淡色の君が同一人物だった。こんがらがっていた記憶の糸がするりと解けていく。
三月になったばかりの、ある晴れた日のこと。
その日は自席を立つ前から牛乳の気分で、意気揚々と自販機に向かい、紙パックのそれを買った瞬間に売り切れボタンが点灯した。
(ラスイチだったラッキー!)
と、心の中でガッツポーズを決めていると、背後から「えっ」と驚きと困惑が混じった声が聞こえて、ギョッとして振り返る。
その視線の先に、野球部のセカンドの彼がいた。
分厚い前髪で顔は見づらかったけど、目の前の彼と同じ淡い髪色をしていたような、気がする。
友達のみーちゃんに誘われて秋の決勝戦に行っていた私は、一方的にセカンドの彼を知っていた。
同じ学年なのにクラスも離れていてセカンドの彼とはなんの接点もなかったけど、それでも同級生の活躍は誇らしかったし、心から応援したいと思っている。
春の甲子園も間近だったので、激励の意味も込めてセカンドの彼のお目当てだったであろう、ラスイチの牛乳を差し出した。
『これ、良かったらどうぞ』
『いや、大丈夫です。申し訳ないですよ』
『君、セカンドの人だよね? 甲子園、頑張ってね』
『あ、はい、ありがとうございます』
『それは差し入れということで、じゃ!』
『えっ、ちょっと、待って……!』
戸惑うセカンドの彼に牛乳を押しつけ、ダッシュでクラスへ戻ると、みーちゃんの席に寄り道する。
試合を観に行ったのは去年のことだったので、すっかり彼の名前を忘れてしまっていたから教えてもらうのだ。
野球部のさ、セカンドの人ってなんて名前だっけ? と、唐突に尋ねると、小湊春市君だよ、秋の大会観に行ったじゃん! とからかわれたので、アハハと笑ってごまかす。
そうだ小湊君だった、もう忘れないようにしよう。と彼の名前を胸に刻んだのが、ちょうど春先のことだった。
あの日からセカンドの彼は、私の中で「小湊春市君」として記憶された。
いま目の前にいる彼は、去年の秋に見た「セカンドの彼」でも、牛乳を譲った「小湊春市君」でもない、別の人みたいに見える。
でも、同じ髪色だし、同じような背格好だから、きっと今の彼がセカンドの彼で小湊春市君で間違いないんだろう。
前髪を切るだけでこんなに印象が変わるなんてすごい、と純粋に驚いてしまう。
「前髪が短い……!」
「あぁ、センバツ終わってから髪切ったんだ」
「すごくいいと思い、ます」
「あはは、なんで敬語なの。僕たち同い年だよ」
小湊君の笑顔はとても爽やかで素敵。
それにもかかわらず、にやけそうなるのを我慢してる私の顔は、女子としての尊厳を保てているか不安になる。
そして、ここで再び疑問が浮かんできた。
「……私のこと知ってるの?」
「あの後、君のこと探したんだ。見つけるのに時間がかかったけど、昼休みのこの時間にいつも自販機の前にいるって最近気がついて」
「わざわざ探してくれたんだ」
「ちゃんとお返しがしたかったからね」
「律儀……!」
野球が上手くて甲子園にも行って、しかも顔もかっこいいのに律儀だなんて、神さまはいったいいくつのギフトを小湊君に授けたんだろう。
一生のお願いだから、私にもそのギフトの一つを分けてほしいと本気で思う。
もう少し話してみたいなと、漠然とした願望が頭の片隅に浮かぶと同時に、タイミング悪く予鈴が鳴った。
「じゃあ、それはお返しってことで受け取ってね」
「ありがとう、小湊君」
「こちらこそ。どういたしまして、みょうじさん」
小湊君は照れくさそうに頬を赤らめて、優しい響きで私の名前を呼ぶ。
わざわざ名前まで調べてくれていたなんて、どこまでも彼は律儀な人間なんだろう。
その声は呪文みたいにずっと耳に残って、今日の出来事を忘れないように魔法でもかけられてしまったのかと思った。
もし本当に小湊君が魔法使いなら、イケメンで野球の上手い律儀な魔法使い、ということになる。マンガでもアニメでもそんな設定がてんこ盛りの人はいないよなぁ。
なんてことを考えながら、今日もまたコーヒー牛乳を買いに行く途中に唐突に気づいて、ふと足を止める。
(……あぁ、そっか。小湊君は私にお返しをするために昼休みに自販機の前にいたんだ)
ということは、今日はもうあの場所に小湊君はいない。
ここ一週間ずっと彼の淡い髪色を眺めていたから、なんだかとても寂しい気分になる。
まぁ、でもすぐに淡い色の無い日常にも慣れるんだろうな……でもやっぱり、それは寂しいな。
モヤモヤとした気持ちを胸の中でこねくり回しながら自販機にたどり着くと、今日もまた先客がいた。
なんと、先客は「セカンドの彼」であり「小湊春市君」だった。
「あれ、小湊君だ」
「今日もコーヒー牛乳を買いに来たの?」
今日も会えたことに驚いているのに、何を買おうとしてるのか当てられてさらに驚いた。
小湊君って本当に魔法使いなのかも。
「なんでわかるの!?」
「君のこと見つけてからなかなか声がかけられなくて。二週間くらい観察してたから、なんとなくわかるんだ」
ストーカーっぽくってごめんね、と照れながら謝る小湊君に不愉快な思いは一切抱かない。
気にしないで、って言ったら控えめな笑みで応えてくれた。
むしろ嬉しいとさえ思う。私のことを知ってくれてありがとう、って言いたいくらいだ。
「小湊君は牛乳買いに来たんだね」
「それもそうなんだけど……」
小湊君の右手には、いつもの紙パックの牛乳。
歯切れの悪い言葉尻に、脳内でクエスチョンマークが点滅する。
少しの間を開けてから意を決したような顔つきで、小湊君の瞳は私をまっすぐに捉える。
「……今日もみょうじさんと話したかったから」
「わ、私も、小湊君と話したかった、よ!」
うわぁ、動揺して噛みまくってしまった。
しかも食い気味に答えてしまって、落ち着きがないって思われたかもしれない。
頬がジュワッと発熱してヒリヒリする。
今すぐにでも冷たい水で顔を洗いたい気分だ。
恥ずかしくて目を伏せてもじもじしていると、頭にぽんっと重みが乗っかる。
びっくりして顔を上げたら、つむじの上に小湊君の手が乗っていた。
「わっ!?」
「あ、ごめん。つい……」
「い、いえ、どういたしまして……?」
「どういたしましてはおかしくない?」
ふんわりと頬を染めながら、小湊君が声を上げて笑う。
その瞬間、ぽちゃん、と水面に滴が落ちるような音が、頭の中で響いた。
それから間もなく、ずぶずぶと沈んでいくような感覚に足元がぐらぐらして、チカチカと目が眩んで、一瞬目の前が真っ白になる。
(……そっか、私いま、小湊君のことを好きになったんだ)
恋をする瞬間って、こんなにも唐突にその自覚をするものだったっけ?
今まで何人か男の子を好きになったことがあったけど、こんな「落ちる」ような感覚は初めてで……。
どこまでも深く落ちて、そのまま沈んでいってしまいそうで、戸惑う。
「……みょうじさん、どうしたの? 大丈夫?」
揺れる視界の中に入り込んできた淡色。
これから私が染まっていく、優しくて温かい色だ。
「……ちょっとダメかもしれない」
別に体調は悪くない。今日の私もすこぶる健康だ。
でも、唐突に気づいてしまった恋に、そのままずぶずぶと落ちていってしまいそうで、その感覚が「ダメ」だと思った。
「……大丈夫? 保健室に行こうか」
「ううん、大丈夫」
心配そうに私の顔を覗き込む小湊君の、淡色の前髪がさらりと額を流れる。きれいな瞳の中に光が揺らぐ。
この瞳にもっと、映り込みたい。私ももっと、小湊君の目を見て話したい。
昼休みが終わりを告げる予鈴を聞きながら、意を決してスマホを差し出す。
やっぱり、この自販機の前の数分間だけじゃ、時間が足りなさすぎる。
「あの、連絡先を交換しませんか?」
私の唐突な提案に「また敬語になってるよ」と小湊君ははにかみながら指摘した。
その晩、お互いに「よろしくね」って送りあったメッセージを何度も見返しながら、ベットの中でじたばたした。
深夜一時、スマホをぎゅっと握りしめながら、とろりとした白い微睡にゆっくりと沈んでいく。
私はあの淡色に頭から足の爪先まで染まる、そんな優しい夢を見ながら眠りに落ちるのだった。