「答えは君が知っている」の続編
昼過ぎの廊下は人の往来で真っ直ぐに歩けないほどに混み合っている。しかもここは一年生のフロアのせいか、生徒一人ひとりのエネルギーが余計に溢れていて、内心うんざりする。
なぜか廊下で追いかけっこを繰り広げる男子たち、オーバーリアクションで高笑いをする女子三人組、スマホを立ち見しながらフラフラ歩いてるやつとは何人もすれ違う。
他学年のフロアに出歩くこと自体が息詰まるし億劫なのに、私はこれから更に憂鬱な気分になりかねないことを、自らしようとしている。
(……きっと、正宗くんもいい顔はしないだろうなぁ)
そう思いつつも、あの保健室での再会から何日も過ぎたのに、一向に正宗くんと顔を合わせる機会は無かった。
今週末には南北海道大会の準決勝、そして決勝戦を控えている。巨摩大藤巻高校野球部は、甲子園出場まであと二勝というところまで勝ち上がってきた。
うちが甲子園出場を決めれば、野球部の周囲は瞬く間に慌ただしくなることは予想できている。そんなことになれば、正宗くんと接触することも難しくなるだろうし、会えないまま夏休みになってしまうだろうと思って、私は焦っていた。
開け放たれた教室のドアの前に立つと、見慣れぬ人物の登場に違和感を感じた生徒たちの視線が一斉に突き刺さる。なんと居心地の悪い空間だろう。早く脱出したい。
ドアの前の席の男の子が、『誰か呼びますか?』と尋ねてくれたけど、やんわりと断ってなるべく凛とした声を作って、彼の名前を呼ぶ。
「正宗くん、ちょっといいかな?」
「……ん」
クラスの中で唯一、私に視線を向けていなかった正宗くんが、読んでいた文庫本をぱたりと閉じて席を立つ。
ほんの一瞬、間があってから教室内の騒めきがさらに強くなる。
本郷のやつ、また告られんのかよ。
今月何回目だよ。
やっぱり野球部のエース候補はモテるよなぁ。
本郷くんのことだから、どうせまた振るんだよ。
誰からの告白も断ってるらしいもんね。
私、他校に彼女がいるって聞いたことある!
えぇ、本当に?
私と正宗くんを交互に見比べてから、面白がるように噂話に花を咲かせるたくさんの声が、耳元でぼわぼわと反響している。
私のことを暗に揶揄する噂話よりも、正宗くんがモテることと、他校に彼女がいるという噂が、私を酷く動揺させた。
正宗くんは太々しい態度で目の前に立つ。私が見上げなければ目が合わないのが、なんだか腹立たしい。昔は私よりも小さかったくせに、見下ろしてくるんだ。
私がここ数日ずーっと悩んでいたのに、そんなことも知らずに平然としているのも気に入らない。しかも、彼女なんて作っちゃって、正宗くんのくせに生意気だ。
「ここだと話しづらいから、場所変えよう」
私の後を数メートル離れて歩く正宗くんの気配を背中に感じながら、人通りの少ない校舎の奥へと進んで行く。校内にいくつかあるエレベーターの中でも、利用頻度が低そうな場所を選んで歩みを止めた。
くるりと背後を振り返ると、すぐ後ろに正宗くんが佇んでいる。距離が近いと思って後ずさろうとすると、踵に壁が当たった。自分から誘い出しておいてなんだけど、四方八方が塞がれていて逃げ場が無い。
相変わらず正宗くんは自分から何か話そうとしたりしない。むっつりと口を閉じて、じーっと私の目を見つめてくる。すごいプレッシャーだ。
もし私がバッターだったとして、こんな熱っぽい視線で睨まれたら、不様に膝をついて三振する想像で頭の中がいっぱいになるだろう。正宗くんと対峙するバッターはかわいそうだ。こんなんじゃまともに投球がバットに当たる気がしない。
それでも私は当てにいく。打てるかどうかわからないけど、バットを振らなきゃ当たらない。そう言い聞かせて自分自身を奮い立たせて、真っ直ぐに正宗くんの瞳を捉える。絶対に視線は逸らさない。
「正宗くんの気持ち、私なりに考えてみたんだけど。聞いてくれる?」
「おう」
ここ数日ずっと悩んで迷って考えて、夜もなかなか寝付けなくて、そこまでしてようやく私は正宗くんの気持ちを一つだけ、見つけ出した。
その感情を見つけた瞬間は、心底絶望した。恥ずかしくなった。情けなくなった。悲しくなった。切なくなった。気づいてしまいたくなかった。泣きたくなったし、実際に泣いた。
今だって泣き出してしまいたいけど、情けないところを見られたくなくて、迫り上がってくる嗚咽を喉の奥で押しころす。
「私のこと……鬱陶しいって、思ってたんでしょ」
「は?」
「頼んでもないのに余計な世話焼かれて、ずっと疎遠だったのに馴れ馴れしくされて、私のこと鬱陶しいって思ってたんでしょ?」
堰を切ったように言葉が溢れて、止まらなくて。冷静でいようと決めていたのに、どんどん頭に血が昇っていく。
今の私、かっこ悪い。一人で勝手に感情的になって、また正宗くんに鬱陶しいって思われちゃう。
自分をコントロールしないとダメだって、わかってる。わかってるけど、
「違う」
「じゃあ、なんなの?」
「本当にわかんねぇのか」
「正宗くんの気持ちなんて、わかるわけないじゃん! 全然自分のこと話してくれないし、毎日野球ばっかりで滅多に会わないし、同じ高校に入るとか、寮に入るとか、一言も聞いてなかったし!」
「それは……悪かった」
「私、正宗くんのことちっともわかんないよ」
本当はもっと、正宗くんのことを知りたいのに。そして、私のことも知って欲しかった。
前髪が上手く巻けたとか、今朝の星占いで一位だったとか、コンビニで買った新作のお菓子が美味しかったとか。そんなくだらない話を、私のそばで聞いていて欲しかった。
(……ただそばいられれば、それだけで良かったのに)
正宗くんは私の手の届かない場所にすごい速さで進んでいくから、いつの間にか並んで歩くことさえできなくなっていた。
お互い違う場所にいて、違う景色を見て、違うことを考えていたんだから、私に正宗くんの気持ちなんてわかるわけがない。裏を返せば、正宗くんに私の気持ちなんてわかるはずがないということ。
私たちはお互いのことを理解し合えずに、このままどんどんすれ違っていくんだろうな。そんな風に考えると、我慢していたのに涙腺が緩くなってしまう。短く鼻をすする。
不意に、正宗くんの右手が左腕を掴んで強引に引き寄せてくる。バランスを崩した身体はそのまま正宗くんの胸に受け止められた。
視界がワイシャツの白でいっぱいになる。すぐさま離れようとしても、背中に正宗くんの腕で回っていて身動きができない。
今いったい何が起きているのか、どういう状況なのか。冷静ではなかった私の脳内は、余計に混乱してしまう。
どういうつもりなのか問いただそうとして、正宗くんの顔を見上げる。至近距離で目が合って、頬と耳が紅潮していることに気がついた。こんな反応は今まで見たことがない。私の第六感が訴えかけてくる。
これはもしかして、もしかするかもしれない、と。
「ま、まさむねくん」
「……これでもまだわかんねぇか」
「抱き締められただけで、わかるわけないじゃん。ちゃんと言葉にして言ってくれなきゃ、全然わかんない」
「好きだ」
「!」
「ガキの頃からずっと、好きだった」
正宗くんの声が、吐息が、感情が、真正面から鼻先に触れる。瞳の中の強い光が、微かに揺れて星の瞬きみたいだ。
熱っぽい視線の理由が、今ようやくわかった。
正宗くんも私を想って胸の内側を焦がしていたんだ。私と同じように。
「う、嘘だ」
「嘘じゃねぇ」
「さっき、クラスの子が他校に彼女いるって噂話してたよ」
「そんなの嘘だ。俺を信じろ」
「でも、ずっと疎遠だったのに? 全然仲良くなったのに? そんなのありえないよ」
「初めてなんだよ」
「……何が?」
正宗くんが珍しく言葉を詰まらせる。私はじーっと顔を見上げる。言いたいことがあるなら全部言った方が楽になるよ、とやんわりプレッシャーをかけた。
「……人を好きになるのが。だから、伝え方も諦め方も、わかんなかった」
「なにそれ、正宗くんの初恋の相手って……私だったの?」
「そうだよ、悪いか」
「悪くないよ! ただ、ちょっとびっくりして」
「なまえは、俺をどう思ってる」
正宗くんは物怖じすることもなく、ど真ん中にストレートを投げこむような質問をしてきた。私の答えを聞くことが怖くないのかな。その強心臓が羨ましい。
たまには正宗くんを焦った顔が見たくて、ちょっと意地悪してやりたくなった。
「正宗くんも私の気持ち、少しは自分で考えてみたら?」
「……」
「……ごめん。意地悪なこと言っちゃった」
「俺を好きならいいのに……と思う」
さっきよりも強くきつく抱き締められて、私たちはぴったりとくっつく。肩口に正宗くんの顔が落ちてきて、首筋に吐息がかかってくすぐったい。正宗くんの体温がじわじわと身体中に広がっていって、人肌の心地良さに戸惑う。
これはもしや、あの無愛想な正宗くんが、私に甘えているのではないか……?
どぎまぎしながら正宗くんのすべてを受け止めて、小さな子供をあやすみたいに広くて大きくなった背中を優しく撫でる。
ねぇ、私の話も聞いてくれる? と問いかけると、ちゃんと真正面を向いて熱っぽい眼差しをくれる。
「私ね、ずっと正宗くんのことを目で追いかけたの。小さい頃、いつも怪我してばっかりで心配してたから、その頃の癖が抜けないだけだと思ってた」
「おう」
「でも、正宗くんを見かけるたびにかっこよくなっていくから、いつの間にか幼馴染じゃなくて男の子として意識してた」
「……要するに?」
「私も正宗くんのことが、好きなんだと思う」
正宗くんの息が一瞬止まる。
その驚き顔を見て面白がって笑うと、大きく息を吐きながらまた肩口に顔を埋めてきた。短い毛先がちくちくと耳や頬にあたるのも、嫌じゃない。むしろ、この重さと抱き締められる窮屈さが心地良い。
正宗くんの気持ちを探して、私自身の気持ちの変化にも気がついた。今までは弟を愛でるみたいな心情だったのに、いつの間にか異性として意識するようになっていて。
そんな自分の気持ちの変化に、本当は気づきたくなんてなかった。だって、正宗くんの視界に私が入り込む余地なんて無いと思っていたから。昔と違ってそばにいることすら、許されないと思っていたから。
でもそれは違っていて、本当はずっと前から正宗くんの心の隅に、私の居場所があった。
私の気持ちはその場所に、置かせてもらってもいいのかな。
「……そうか」
「やっと両想いになれたのに、あんまり嬉しくなさそうだね」
「まだ実感が湧かねぇ」
「あはは、私も」
髪を撫でる不器用な手つきも、力加減のいまいちわかってない抱擁も、こんな時ですら上手く笑えない愛想の少なさも、そのすべてが愛おしい。
私たちはお互いに言葉足らずだった。何年も遠回りして、今になってようやく同じ気持ちだったと気がついた。だからこれからはちゃんと、気持ちを伝え合おう。すれ違いそうになるたびに、答え合わせをしよう。
そうすればきっと、こうして何度だって抱き締め合えるはずだから。