六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ったと同時に教室を飛び出し、監督と顧問に出発の報告をしてから、部員たちに盛大に送り出されたのが、ちょうど一時間前のこと。
予定されている集合時間よりも三十分早く組み合わせ抽選会場に到着した私は、とにかく緊張してソワソワと落ち着けないでいた。なにしろ秋の本大会のくじ引きという大事な役割を任せられたのは、唐突にも昨日のことだった。
「くじなんて誰が引いても同じだし、俺は残って練習したい!」と急に主将が言い出したものだから、「お前が行ってこい」と監督の鶴の一声で私がくじ引きの役割を仰せつかったのだ。
主将の言うことにも一理あるけど、わがままを言うならもっと早く言って欲しかった。マネージャーにだってやらなきゃいけない仕事がたくさんあるのに。
あのアホ主将、絶対に許さない……絶対にだ!
「隣、空いてる?」
「え、あっ、はい。どうぞ」
気分屋のアホ主将に怒り心頭中で、声をかけられるまですぐ隣に人が立っていることすら気付いていなかった。
声の主を見上げてみると彼は端正な顔立ちのメガネ男子で、ふつふつと沸き立っていた怒りは瞬時に収まった。イケメンは見るだけでハッピーになるのだ。存在が尊い。自然と頬も緩んでしまう。
私の隣には幸いにも誰も着席していないので、そのまま隣の席へと腰を下ろす。彼の横顔をこっそり盗み見るけど、どこかで見かけたことがあるような気がして、でもどこで見かけたのかどうしても思い出せなくて、頭を抱えたくなる。
どうした私の記憶力、仕事して!
「……」
「……えっと、あの、顔になんかついてる?」
「君、一人で来たの?」
「そ、そうだけど」
左側から視線を感じて振り向くと、眼鏡の向こう側の凛々しい瞳と視線が交わって、思わず仰け反りそうになる。しかもよく見ると睫毛がめっちゃ長い。
なんだコイツ、抽選会まで来てナンパとかチャラ男なのか? と身構えてしまう。例えイケメンだとしても、チャラ男は丁重にお断りしたい。
「マネージャーだよな?」
「うん」
「マネージャーもくじ引いていいもんなの?」
「連盟に部員登録されてれば、問題ないと思うけど」
「へぇ」
「前の席の女の子もマネージャーかな。あとあの人は顧問とかだと思うよ、多分」
前方の座席に腰掛けている数人を指差しながら教えると、彼が「へぇ、良いこと聞いた」と呟いたのとほぼ同じタイミングで、司会がマイクのスイッチを入れた。
連盟の先生方からの有り難いお話を華麗に聞き流しながら、記憶の引き出しを片っ端から開けまくるのに、隣のイケメンの情報はなかなか見つからなくてもどかしい。
ぼーっとしている間に複数の足音が聞こえてきて、何事かと周囲を見渡してみるとくじ引きのための抽選列が形成されているところだった。
……そういえば、彼はどこの高校なんだろう。
校名を聞いてみようと思った矢先に「お先に」と声をかけて私の前を横切って列へと並んだ。あぁ、そっか。校名は聞かなくてもくじ引きの様子を見ていれば、どこの高校だかわかるじゃん。
私も抽選列に並びながら、壇上に上がった彼をじーっと見つめる。イケメンは離れて見ても顔が良い。
くじを引いたメガネでイケメンの彼は、マイク越しに「青道高校、17番」とはっきりとした口調で宣言した。
会場が一瞬騒ついて、至るところから「アイツが青道の御幸だろ」「プロ注らしーぜ」と声をひそめた噂話が聞こえてくる。
もう脳内はパニック状態だ。
どうやらあのイケメンは、今夏の西東京大会で準優勝した青道高校の御幸君らしい。
どこかで見たことがあると思ったら、高校野球雑誌でピックアップされた記事を最近読んでいたことを今になって思い出す。毎月愛読している雑誌でも、一年生の頃からときどき誌面で取り上げられていたような。
なんて気もそぞろなうちに抽選箱がすぐ目の前にあって、心の準備も終わらぬままにくじを引き、抽選結果をマイク越しに発表し、自席に戻り、そして盛大に頭を抱えた。
隣からはイケメンこと御幸君の「ぶっ」と吹き出す声が聞こえる。困ってる人を見て笑うなんて、案外に失礼な奴だな。
「初戦、薬師だな」
「……そっちは帝東なんだね」
「お互いくじ運悪ぃのな。はっはっはっ」
「なんでそんなに楽しそうなの……」
「どうせ戦うなら強いチームのが燃えんだろ?」
「さすが青道の御幸君は言うことが違うね」
「え? 俺のこと知ってんの?」
「こないだ雑誌で御幸君の記事読んだから」
「へー。俺ってもしかして有名人?」
「それなりには、ね」
初戦帝東のくじを引いた直後なのに、この余裕っぷりはなんなんだろう。帝東って今夏の東東京代表だったんだけど、御幸君は忘れてるんだろうか。しかも甲子園に出たバッテリーがそのまま残っているというのに。さすが甲子園出場経験のある強豪校といったところだろうか。やはりプロに注目されるような選手は心構えが違う。
ただし、忠告はしておいてあげよう。
「今年の帝東は強いよ。帝東といえば強打のチームってイメージが強いけど、新チームには甲子園でプレーしたバッテリーがそのまま残ってるし、守備がすごく堅い」
「やけに帝東に詳しいな」
「夏大で対戦したからね……まぁ、結果はお察しだけど」
「えっ、マジで?」
御幸君が身を乗り出して近づいてきたから、今度こそ仰け反った。この人、パーソナルスペースの詰め方が尋常じゃない。
「マジだよ」
「てことはバックネット裏からビデオ撮ってた?」
「もちろん」
「帝東のデータとかも集めてたりする?」
「春大のスコアとビデオは数試合集めて対策したよ。結局、負けちゃったから意味無かったけどね」
「……へぇ」
意味ありげな微笑を浮かべる御幸君は、やっぱりどうしてもイケメンだ。すごく私のタイプだ。横顔が彫刻みたい。前世でどれほど徳を積めば、こんなにぱっちり二重に生まれるんだろう。
「なぁ、取り引きしないか?」
「取り引き? なんの?」
「こっちからは薬師のビデオとスコアを渡すから、そっちからは帝東のビデオとスコアを譲ってもらう。悪くない話だと思うけど」
「薬師と対戦したことあるの?」
「今年の夏大と、新チームになってからの二試合だけだけどな」
ニヤリと効果音が聞こえてきそうな悪い顔して笑っても、絵になってしまうからイケメンという生き物は厄介だ。
顔が私のタイプすぎるから軽率に了承しそうになるけど、寸前で思いとどまる。御幸君から持ちかけられた交渉に同意できる権限は、私には無いのだ。
「確かに悪い話ではないけど、一度うちの監督に相談したいかな」
「だよな。そしたら連絡先交換しとこーぜ」
「えっ」
「そういえば自己紹介するの忘れてたな。俺、青道高校の御幸一也。よろしくな」
今さら自己紹介をされたって、フルネームもポジションも知ってるんだから。そうツッコミたくなるのを堪えて、私も改めて自己紹介をした。
御幸君は今時珍しいガラケーを差し出して「早くしろよ」と急かすから、ついうっかりアドレスと電話番号を交換してしまった。
私の電話帳に「御幸一也」が登録されて、すごい違和感を感じて帰りの電車で何度も確認する。
とりあえず挨拶だけでも送っておこうかと開いたメールボックスに、さっそく御幸君から「よろしくな」と簡素なメールが届いていた。あまりにも素っ気ない文面でなんだ可笑しくなって、思わず口元が綻んでしまうのを我慢なんてできなかった。
さて、なんて返信したらやりとりが続くかな。
ちょっとだけドキドキしながら画面に指を滑らせた。