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ウグイスは夏に焦がれる


小さく息を吸って、静かに吐き出す。浅い呼吸を繰り返して、声が裏返ってしまわないように美しい響きをイメージする。
マイクのスイッチを押す瞬間が、一番緊張感が高まるかもしれない、というのは自論だけど大袈裟すぎる表現ではないと思う。
だって、こうして数十試合と経験したって私にとっても、この球場に訪れたすべての人にとっても、もう一度の無い戦いの始まりを目前に控えているのだから。
今この時間は、球場にいる誰もがこれから始まる試合のために神経を研ぎ澄ませている。
静かな水面に私の声で一石を投じるのだから、アナウンスって他の仕事よりもずっと緊張してしまう。
少し塗装の剥がれた四角いスイッチに人差し指を置いて、その時を待つ。

球場運営を任されてもう三回目の夏を迎えているのにもかかわらず、いつまで経っても仕事に慣れる気がしない。
それはきっと、グラウンドで戦う選手たちの真剣な眼差しと懸命なプレーを目の当たりにしているからだ。
真剣勝負の最前線で、誰だって緊張せずにはいられないはず。
なんたって夏大だし、負けたどちらかのチームの三年生はこの場で引退することになるのだから。

「青道高校、ノックを開始してください。ノック時間はただいまより七分間です」

なるべく聞き取りやすいように、ゆっくり、はっきりと、ワンフレーズずつ丁寧に、マイクを通して言葉を紡ぐ。
ボタンから指を離すとマイクがオフになって、あと数分はグラウンドを見つめるだけの時間が訪れる。
手元のストップウォッチを確認しつつ、視線はグラウンドへ。

シートノックはボール回しから始まって、硬球がグローブに捕球される乾いた音と、士気を高め合う選手たちの掛け声がBGMのように球場いっぱいに響き渡る。
それに続いてブラスバンドの演奏と応援団の野太い応援歌が混ざり合って、いろんな声や音が飛び交っている。
それでも全体の調和がとれているから不思議とうるさくないし、むしろそのアンサンブルが心地良い。
グラウンドの選手たちと一体となる応援が手慣れているのは、公式戦を数多く戦ってきた青道だからこそ、なのかもしれない。
グラウンドより一段低い位置にある放送席にいると、視線は自然とホームの近くにポジションを構えるキャッチャーに集まる。
扇の要を担うその背中は、すごく広くて大きく見える。
しっかりとした骨格に筋肉が鎧のようにまとっていて、厚みのある身体つきはもうすでに洗練されたプロ野球選手のようだ。

今春のセンバツベスト8の強豪 青道高校の主将であり、正捕手と四番打者という三つの重責を一身に背負う彼の名を、この西東京地区、いや全国で知らない高校野球ファンはいないと断言できてしまうくらいには、彼は有名人なのだ。
稲城実業の成宮や神谷と肩を並べてプロ注目と言われている青道の扇の要、御幸一也。
彼の強肩を生かした白羽の矢が放たれるような二塁送球や、投手の個性を巧みに引き出し強気に打者を打ち取るリードを得意とする。
チャンスでタイムリーも打てる勝負強さや、ホームランも期待できる長打力も備えたバッティングセンスを目当てに、今日もたくさんの高校野球ファンが球場へと足を運んでいる。
私も彼のプレーを目の当たりにするのは今日を含めて三回目で、実はすごく楽しみにしていたりする。
もちろん、球場運営という立場においては、どちらか一方のチームに肩入れすることは絶対に許されない。
でも、御幸一也の姿は雑誌で見かけることは多くても、生で、なおかつこんなに間近でプレーを見られる機会なんて、きっと今年の夏が最後になることは、ほぼ確実なのだ。

目の前で外野手からのバックホームを捕球している彼は、おそらくこの秋にドラフト会議で指名されてプロ野球選手になる将来が約束されている。
生きる世界が違う人が目の前にいるって、そんな状況が特別すぎて、軽い高揚感が抑えきれない。
所詮、私だってミーハーな女子高生でしかないのだ。
高校野球が大好きで、甲子園に憧れて野球部のマネージャーになった。
そして、選んだ高校がたまたま球場運営を任されていたのだ。
今日だって運営業務の一環でアナウンスを任されているだけであって、御幸一也と同じ空間にいるけれど、私はこれっぽっちも特別ではなくて、しがない野球部のマネージャーであり、ただのファンの一人でしかない。
あまりにも特別すぎる存在を前にして、憧れずにはいられない。それほどに彼の姿は眩しく輝いている。
直視するのを、ためらうほどに。

「ノック時間、あと二分間です」

内野手へ次々と鋭いゴロが放たれては、無駄の無いステップで打球は捕球され、正確なスローイングでキャッチーミットへとバックホームされていく。
最後のファーストからのバックホームが終わると、手元のストップウォッチが六分三十秒になって、ノック時間は残り三十秒になった。
ある意味、この残り三十秒がノッカーの腕の見せどころかもしれない、と私は勝手に思っている。
監督がマウンドとホームの中間地点まで出てきて、ボールを下からすくい上げるように叩いて高々とキャッチャーフライを打ち上げた。
その打球を追いかけて御幸一也がバックネット裏のファールゾーンへと駆け出す。
うわ、こっちに来る!と思った瞬間に、ガシャンッと金網が音を立てて、反射的に目をつむる。

瞬時に目を開くと目の前にあの、御幸一也が、驚異的な近さでそこに、いるではないか。
わぁ、と驚きの声を上げてしまってとっさに口を両手で覆う。
打球の落下地点に滑り込んだ御幸一也は勢い余ってバックネット裏のフェンスに突っ込んだらしい。
ただ、しっかりとフェンスを足で蹴って身体ごと衝突は防ぎつつ、しっかりとミットにボールが収まっているのだから、お見事と拍手をしたくなった。
不意にボールから視線を外した御幸一也と、一瞬だけ目が合ったような気がして、急に我に帰る。
ハッと気づいてストップウォッチを見ると、きっかり七分になった。
一秒も無駄にすることのない華麗なノックと野手陣の巧みなボールさばきに、すっかり圧倒されてしまっていた。

横一列にきちんと整列した選手たちが揃ってグラウンドへ向かって礼をして、自軍のベンチへと戻っていく。
そんな美しい所作にスタンドからは感嘆の拍手が降り注いでいる。
彼らのグラウンドでの立ち振る舞いを見ていると、青道高校が秋季都大会を制し、センバツベスト8という好成績を収められたのも納得がいく。
それほどに鍛え上げられ、無駄がなく引き締まったチームの中心に、あの御幸一也がいるのだ。
私と御幸一也は比べるまでもなく、彼の方があまりにも特別すぎて、羨ましいとか妬ましいという感情を通り越して、差がありすぎて一層のこと清々しいとさえ感じてしまうほど。
だけど、私だって彼に憧れるだけじゃなくて、立場は違ったとしても任された仕事を全うすることで、小さな自尊心を満たして胸を張ってこの場所にいたいのだ。

これから始まる試合は、誰かの心の中に焼き付いて一生忘れられない記憶になるかもしれない。
私はそんな大事な一戦を裏方として完璧に支えることによって、この球場にいるすべての人に貢献できるような仕事をしよう、と改めて思う。
しがない野球部のマネージャーにだって、球場運営三年目としてのプロ意識は多少なりともある。
これ以上、御幸一也と自分を比べて卑屈になってしまいたくないから、ミスなくそつなく、噛まないように。
私は私の仕事を全うしよう。

「由良総合工科高校、ノックを開始してください。ノック時間はただいまより七分間です」

由良総合工科の選手たちがベンチから勢いよく飛び出し、グラウンドへと散り散りに駆けていく。
再び訪れた数分間の空白に、静かに心を研ぎ覚ませた。





「ご覧のように十対二の七回コールドで、青道高校が勝ちました」

試合終了のアナウンスを終え、本日の大仕事を締めくくって深く息を吐き出すと、大会本部の先生方が労いの言葉をかけてくれるから、緊張で引きつった表情も自然と緩んだ。

私がアナウンスを担当した青道高校対由良総合工科高校の試合は、十対二の七回コールドで青道高校の勝利となった。
初回、青道のエース沢村君の不安定な立ち上がりを捉えた由良総合工科が二点を先制し、四回まで青道相手に一点リードで抑えていたが、四回裏に青道打線に掴まってしまい毎回の得点を許し、あれよあれよという間に六回終わって六点差まで開いていた。
試合の締めくくりは、一年生の放った特大ツーランホームランでサヨナラ七回コールドが成立し、度肝を抜かれてしまったのは私だけではないはずだ。

次の試合はアナウンスと交代して公式記録員としての仕事がある。
試合開始までは小休憩を取ることが許されていて、簡単に軽食を済ませ、カラカラな喉を潤すために自販機へと席を立った。
刺すような強い日差しとむわっとする夏の空気に肌がさらされると、一瞬で汗が噴き出すから嫌になる。
一塁側のスタンドから撤退してきた青道の応援団やチアガールたちを横目に見ながら、飲み物の品定めをする。
これだけ暑いからスポーツドリンクがいいかな、それともぬるくなっても不味くならないお茶か、無難にミネラルウォーターにしようかな?と、考えはじめるとなかなか決められないから、優柔不断な性格に嫌気がさす。
購入候補を三つに絞ったところで、急に炭酸も飲みたくなってきた。
さて、どうしようかな……と、更に考えこんでいると背後に人の気配を感じて、慌てて後ろを振り返る。

「お先にどうぞ……あっ、御幸一也……! 」
「あれ、アナウンスの人だ」

片手を上げて「お疲れ様」とさりげなく労ってくれたのは、あの、御幸一也ではないか。
あまりにびっくりしすぎて、初対面なのに思わずフルネームで呼んでしまった。
ていうか、私がアナウンスをしていたことをなぜ知っているんだろう。

「あの、なんで私のこと、」
「キャッチャーフライ捕った時に目が合っただろ」

やっぱりあの瞬間、まばたきの隙間に起こった出来事は夢でも幻でもなかったらしい。
御幸一也本人がそういうのだから間違えようがない。
目が合っただけで射抜かれたかのように心が揺さぶられたのに、言葉を交わしているだなんて、今この瞬間がそれこそ夢や幻の類いように思える。
好きなアイドルに認知された時とかって、こんな感じになるのかもしれない。
電流が身体中を駆け巡っていくかのような、皮膚の表面が粟立つ感覚に身震いしそう。

「フェンスに突っ込んだ時の顔、すげぇ驚いてて面白かったぜ」
「……忘れてください」

私の驚き顔を思い出してニヤニヤと笑う姿を見ていると、想像していた御幸一也のイメージとは違う一面が垣間見えたような気がして、少し複雑な心境になる。
もっと爽やかで好青年なイメージだったのに、初対面の人を遠慮なくいじってくるだなんて、本当にいい度胸していると思う。

「アナウンスしてる時と声の印象違うんだな」
「アナウンスしてる時は声作ってるので」
「へぇ、やっぱり工夫してんだな。ベンチにいてもすげー聞き取りやすかったよ、ありがとな」

さっきまでの憎たらしい笑みは影を潜めて、穏やかな口調で告げられた感謝の言葉が心の琴線を優しく撫でた。
じんわりと胸の中にこみ上げてくるこの熱い感覚には、なんて名前をつけたらいいのかな。
気を抜いてしまうと、何かが溢れてきてしまいそうになるから、スカートの裾をぎゅっと掴んで耐える。
その様子を見て、御幸一也は少し慌てて言葉を続けた。

「あれ、俺なんか変なこと言ったか? 」
「….…そんなことないです。アナウンスを褒められることなんて無いし、選手から直接お礼を言って貰えることもほとんど無かったから、すごく、すごく嬉しいです……!」

思ったことを息継ぎなしで一気に話したから、軽く息切れをしてしまう。
憧れの人を前にすると、誰しも普段通りに話すことなんて出来ないとは思うけど、私に関しては人見知りと併せてコミュニケーション能力も乏しいから、余計に情けなくなる。
目の前に御幸一也がいるというのに、視線を逸らさないように話すのが精一杯だ。
緊張ばかりを持て余して、余裕なんて一ミリも出てこない。

御幸一也は一瞬きょとんとした顔をしてから、なぜか得意げに口角を上げる。
私はなぜ彼が笑うのかわからなくて頭にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げた。
彼はおもむろにユニフォームのポケットから硬貨を取り出して自販機に投入すると、青いラベルの清涼飲料水のボタンを押した。
そしてもう一度硬貨を投入すると「好きなの選べよ」とペットボトルを取り出しながら私の方を振り返る。
あまりに唐突な発言に「え?」と聞き返してしまった。

「だから、好きなの選べって」
「でも……申し訳ないです」
「だったら俺の飲みかけ持ってくか? 」
「私も! 御幸君と同じのにします! 」

なんという強引さだろうか、この男。
大人しく奢られるか、間接キスの二択を迫られれば、前者を選択する他なくなる。
少なくとも私は御幸君と間接キスだなんて、畏れ多くて絶対に無理だ。
想像するだけで心臓がドキドキしておかしくなってしまいそうだし、このノミの心臓は破裂すると思う。
ただでさえ暑いというのに、余計な想像をしてしまったがために顔が熱くて仕方ない。

迷いなく同じ清涼飲料水のボタンを押して冷えた青のペットボトルを手に取ると、すでに半分ほど飲み干していた御幸君は満足そうに目を細める。
ただでさえ顔が良いから、今すぐにでもこの清涼飲料水のコマーシャルに出演できそう。将来有望なキャッチャーであると同時に、顔も良いときたら絶対に女子にモテる。
これは私の独断と偏見による見解だけど、五年後くらいに女子アナと結婚しそう。

「そんなに拒否ることねぇのに……もしかして潔癖症? 」
「そ、そういうわけじゃない、けど」
「あ、やっと敬語取れたな」
「あっ……すみません!」
「俺ら同い年だろ? 敬語とかいらねぇよ」
「……どうして私が三年生って知ってるの? 」

私の頭上に浮かぶクエスチョンマークが二つになる。
御幸君は右手の親指を立て後方にいる部員のタナカを指差すと「あいつから聞いた」と平然とした態度で言った。
自分が指を差されているとも知らず、タナカは声を張り上げて「選手名簿はいかがですかー!」と繰り返している。
なぜしがない野球部のマネージャーの個人情報をわざわざ聞き出したのか、プロ注目選手の考えていることは私なんかには計り知れない。
とりあえず、あとでタナカにどこまで情報を提供したのか追求することは、たったいま決定した。

「俺らさ、次もここで試合なんだけど、またアナウンス担当だったりする?」
「変更が無ければ、私だと思うよ」
「へぇ、それなら良かった」

ここで三つ目のクエスチョンマークが浮かぶ。首を傾げすぎて、そろそろもげそう。

「俺、アンタに名前呼ばれる時の声、結構好きなんだ」
「え」
「あの凛とした声で名前呼ばれると、自然と背筋が伸びるんだよ」
「えぇ」
「だから次の試合もよろしく頼むぜ、みょうじなまえサン」

いま確かに、心臓を何かで貫かれたような衝撃が、身体中に駆け巡った。
それは物理的にではなく、御幸君の何気なく口にした言葉によって、私の心臓は完全に射抜かれたのだ。

私の声が好き、って……しかもフルネームも覚えられているなんて……!

あまりにも嬉しすぎて、頭が真っ白になって返す言葉が出てこなくて、汗のかいたペットボトルを両手で握りしめることしかできなくて。
後ろ手を振って三塁側のスタンドへと去っていく御幸君の後ろ姿を、ただぼんやりと眺めることしかできなかった。





あ、そういえば奢ってもらったお礼が言えてなかった。

そう気づいたのは、自席についてスコアを開いた時だった。
それほどにさっきからずっと放心状態で、御幸君の言った言葉を反芻することしかできずにいた。
あの数分間だけしか屋外に出ていなかったのに、熱中症のような顔のほてりが治らなくて、貰った清涼飲料水を少しずつ大事に口にする。
ペンを手に取って真っ白なスコアを埋め始めると、すっと身体中の熱が引いて思考が冷静になっていくのがわかった。
公式記録員もかなり神経を使う仕事なのだ。いつまでも浮かれている場合ではない。
ただ、喉が渇いてペットボトルに手を伸ばして青のラベルを見るたび、脳裏に御幸君の顔がチラつくのは、少々耐え難かった。







二試合目が終了し、青道の次の対戦相手は八弥王子高校に決まった。
今日伝えられなかったお礼は、次の八弥王子との試合が終わった時にでも言おう、と空になったペットボトルを見つめながら決心する。
今度こそきちんと、緊張しないで向かい合えたらいいのだけど。
でも、多分また同じことの繰り返しになるような気がして、すっかり引いていた熱が再びこみ上げて、心臓の鼓動が速くなる。
もし、またあの時のように御幸君に名前を呼ばれたら、憧れの人という枠の中に彼の存在を収めておくことは、できなくなるかもしれない。
私もただのファンという枠の中に、自分の気持ち収めておくことが果たしてできるかどうか、自信が無い。
そして、またこの球場で行われる試合で、青道か八弥王子のどちらかのチームが敗退する。
試合が始まるその瞬間までは、ただのファンの一人として御幸君と青道の勝利を願おうと想う。

誰もいなくなったグラウンドに、真夏の残響がまだ聞こえてくるようで、まぶたを閉じて想像してみる。
二日後に繰り広げられるであろう熱戦は、どんな展開になるのだろう。
試合が終わったその後で、御幸君はどんな表情を見せてくれるのかな。
今日みたいに得意げに笑ってくれたらいいのに。

まぶたの裏にもう一度、あの眩しい笑顔の輪郭をなぞった。