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雨降りのきみに傘をさす


「みょうじ先生、あの」

 その女子生徒から声をかけられたのは、午前中の授業を終えた時だった。
 教卓で教科書の角を揃えているところに、すすっと寄って気まずそうに口ごもった。なにか言いづらいことを打ち明けようとしているらしく、居心地が悪そうにもじもじしている。
 なるべく穏やかな声を作って「どうしたの」と尋ねると、小さな唇が耳元に寄せられて。

「──あのね、さっきの休みに見かけたんだけど」



 昼休みの廊下は生徒たちの往来でごった返している。
 特に食堂付近は人口密度が高くてひっきりなしに生徒達が往来するから、お目当ての人物を探すのに一苦労する。そろそろ食べ終わる頃のはずなんだけどな。
 視線を右往左往させていると、突然人波が割れ、不機嫌なオーラを立ち昇らせている人物が近づいてくる。
 彼は猫背気味に背を丸め、ポケットに両手を突っ込み、鋭い目つきで周囲の人を牽制していた。その姿は元ヤンどころか、現役のヤンキーにしか見えなくて思わず笑ってしまう。

「あ、いたいた。倉持くーん」
「ちわっす」
「今ちょっと時間いいかな? 倉持君に訊きたいことがあって」
「なんすか」

 声のトーンもずいぶんと刺々しい。これはだいぶご機嫌斜めみたいだ。これ以上に彼の機嫌を損ねないよう、真顔をパックのようにぺたりと顔面に貼り付ける。
 ここだと騒がしいから場所を変えよう、と言って非常階段の踊り場まで連れ出した。ここまで来れば人に立ち聞きされることもないはず。
 倉持君と向き合うように、コンクリートの手すりに肘をかけ背中を預けた。彼はピシリと背筋を伸ばし、ドアの前に立ってまっすぐな視線を投げかけてくる。
 野球部の顧問に呼び出された手前、不機嫌な時でも態度だけは取り繕うところは倉持君らしい。副主将に選ばれるだけあって、そういうところの線引きはちゃんとしてる。

「それで、俺に訊きたいことってなんですか」
「風の噂でね。教室で倉持君が御幸君に声を荒げてるって聞いたんだ」
「あー」

 これはたぶん、図星のリアクション。倉持君の視線が右へ左へ宙をさまよう。どうやらあの女子生徒からの目撃証言は本当だったらしい。
 倉持君はバツの悪さを誤魔化すように乱暴に後ろ髪を掻き、深いため息を吐いた。
 九月の太陽は夏の気配を強く残して、私の頭をじりじりと焼く。暦の上では秋らしいけど、日差しの強さはまるで夏のそれだ。影の中に立つ倉持君は汗ひとつかいていない。

「その話なら御幸に訊けばいいじゃないっすか」
「なんで」
「だって、みょうじ先生とよく喋ってるし、アイツもみょうじ先生に懐いてるから」
「懐いてる」
「そうっすよ」

 倉持君からすれば、御幸君は私に懐いているように見られていたらしい。それはちょっと意外だった。
 そういえば、今まで倉持君とふたりきりで話したことがなかったことを思い出す。彼は私のことをあまり快く思っていない気がして、話しかけづらかったのだ。
 でも、それじゃダメなんだ。顧問と選手としての良好な関係性づくりには、適度なコミュニケーションは欠かせない。

「御幸君はダメ。自分に都合の悪い話だと、適当にはぐらかして話を流そうとするところがあるし。その点、倉持君は素直で真面目だから、訊いたことは誤魔化さないでちゃんと答えてくれる」

 一瞬、瞳の中の光が揺らぐ。三白眼をすっと細め、私の瞳を凝視する。敵意は無い。けど、鋭く私を観察するまなざし。

「御幸君と何があったの? なんて無粋な質問はしないから。別に警戒しなくていいよ」
「じゃあ、なんでわざわざ呼び出したんすか」
「君達のことを気にかけてるよ、ってことだけは伝えておこうと思って」

 風が階段の踊り場を吹き抜けていく。私の髪をさらい、倉持君のネクタイを揺らす、生ぬるい九月の風。
 日差しを弾く白いシャツも、曇りのないまなざしも、私の目にはとても眩しく映る。
 なんてまっすぐな子だろう。こんな目で見据えられたら、下手な嘘はつけそうにないな。

「きっと君達のことだから、野球部のことで揉めたんでしょう」
「まぁ、そんなとこっすね」
「それならいいんだよ。色恋沙汰だったらどうしようかと思ったけど」
「それだけはねーっすよ、絶対!」
「倉持君って彼女いないの?」
「そんなんいねーっスよ!」
  
 必死で否定する倉持君がおかしくて、我慢していた笑いがこぼれてしまう。私につられるように、倉持君の表情もやわらかくほどける。 

「じゃあ、好きな子は?」
「だからいねーっス!」
「あははは」 

 副主将になってからの倉持君は、いつもどことなく緊張して、焦っているようだった。
 たぶん、彼なりにチームを背負う責任感と戦っているのだろう、と思う。青道のショートのレギュラーとして、キャプテンの御幸君を支える右腕として、チームを引っ張らなきゃならない。倉持君もまた、とてつもないプレッシャーと毎日戦っている。
 そんな彼のために、私ができることは何もない。しいていえば、ただ見守ることくらいだろうか。それでも、私は君の──君達の味方だということは知ってほしい。いざという時は、私でも後ろ盾くらいにはなれるはずだから。

「みょうじ先生」
「うん」
「気にかけてくれて、ありがとうございます」
「いえいえ。それが私の仕事だからね」

 得意げな顔をして胸を張ると、ついに倉持君も吹き出した。ヒャハハ、っていつもの甲高い笑い声が踊り場に反響する。 

 教室へと戻っていく白い背中には、不機嫌なオーラはもうなかった。







 少年は今日も走る。
 朝も昼も夜も、ひたすらに走りまくる。同じ場所を、同じ速度で。ずっと、ずーっと、走り続けている。
 少年の走っている道の先にはゴールはない。
 何キロメートル走れば終わるのか、何日走り続ければたどり着くのか、誰にもわからない。
 だけど、彼は走り続ける。踏み出す脚を止めることはなく、ただひたすらに、淡々と。

「おーい、沢村君。今日はもう上がろう」

 今日も無事に全体練習が終わった。
 すっかりと茜色に塗り替えられたグラウンドは、丁寧な整備のおかげで朝のまっさらな状態に仕上がりつつある。
 チームとは別メニューを言い渡されている沢村君は、ミーティングの後もひたすらに外野のポール間を走り続けていた。
 案の定、私の声も聞こえていないらしく、沢村君は俯いたまま走り続けている。こうなったら実力行使をするしかない。

 走路に両手を広げて立ちはだかり、タオルとスポドリをずいっと差し出す。
 沢村君は我に返ったように顔を上げ、ピタリと立ち止まった。乱れた前髪から覗く額からは壊れたシャワーみたいにポタポタと汗が流れている。チャームポイントの大きな目はどことなく虚で、瞳の光は弱々しく瞬く。
 明らかに普通の状態ではない。主にメンタル面が。

「はい、汗を拭く。はい、ちゃんと水分補給もして」
「……ありがとうございます」 
「朝から晩までずーっと走ってるでしょ。いったい何キロ走ってるの?」
「わかんないっす。ひたすらポール間を往復してるだけなんで」
「それはよくないね。自分が一日にどれだけ走ったのか、きちんと自己管理できるようにしよう」
「はい」

 沢村君が項垂れるように頭を下げると、降りはじめの雨みたいに汗が地面にいくつもの水玉模様を描く。その姿が泣いているように見えて胃がずっしりと重たくなる。まるで泣く代わりに汗を流して身体中の水分を逃しているみたいだ。

「明日からは歩数計をつけて走ろうか。あと、もっと休憩の回数を増やすこと。水分補給はこまめに摂るようにして」
「はい」

 タオルに顔を埋めて豪快に汗を拭うと、喉を鳴らしてスポドリを飲む。いったい最後に水分補給をしたのは、いつだったんだろう。まだまだ華奢な沢村君だけど、喉仏はちゃんと男性らしく上下している。

「みょうじ先生に訊きたいことがあるんですけど」
「はい、どうぞ」

 濡れた唇を手の甲で拭って、タオルを首にかけゴシゴシとうなじを擦る。私が小首を傾げると、沢村君は言葉を探しながら問いかける。

「監督はなんで俺だけ別メニューにしたんですかね。俺はもう秋大のメンバーから外れてるってことなんすか」
「残念ながら、監督の考えてることは私にもわからないんだよね」

 あんまりにもあっさりと結論を答えてしまったので、沢村君はぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
 だって、片岡監督はそういう人だ。沢村君にだけ別メニューを指示したことに何かの意味があっても、親切丁寧にその意味を教えてくれる人じゃない。まずは自分でその意味を考えろ、という無言のメッセージも添えられている。

「話変わるけどさ、最近体重測ってる?」
「毎日測ってますけど」
「夏大が始まる前より何キロか痩せたんじゃない?」
「毎日ちゃんと食ってるんですけどね」
「それは痩せちゃうよ。肩を作るだけでも体力は消耗するんだから」

 夏大の間、登板に備えて毎イニングをブルペンで過ごしていたのだから、その運動量は沢村君の見積よりもはるかに多かった。八月は普段よりも練習試合が多く、常に投げている状態だったせいか、沢村君の輪郭はさらにシャープになり、下半身はほっそりとしたように見える。

「夏大以降はランメニューを軽くしてたから。下半身の筋肉が痩せて体幹が弱くなったことが、コントロールの乱れに影響しているのかもね」
「なるほど」
「コントロールは下半身でするものだから。この時期に走り込んで、足腰の鍛え直しをするのは大事だよ」

 ちょっと説教くさくなっちゃったかな。
 一抹の不安が脳裏をよぎったけど、沢村君は特に気にする様子もなく、タオルを使ってシャドーピッチングをはじめた。軸足でまっすぐに立ち、スムーズに体重移動をして、踏み出し足にしっかり体重がかけられているか、入念に確かめるように。

「沢村君はさ、走ってる時に何を考えてるの?」
「何って……決勝戦のことばっかり考えてますね」

 突然投げかけられた問いに動きが止まり、沢村君の表情にさらに深い影が差す。白河君の頭にデットボールを当ててしまったことを、サヨナラ負けをしたあの瞬間を、延々と繰り返し再生するのはとても辛いだろう。自分で自分を責め続ける精神状態は、決して健全ではない。

「明日からは違うことも考えてみようか」
「違うこと……っすか」
「例えば、一週間後、一ヶ月後にどんなピッチングができるようになりたいか、そのためにこれから何をするべきか、具体的に考えてみるのはどうかな」
「……これから何をするべきか」

 今の沢村君に必要なのは、過去を振り返り、今の自分を見つめ直して、未来にどんな投手になっていたいか考える時間。私はそう考えている。片岡監督の思惑はわからないけど。
 私からの提案に沢村君は顎に手を添えてうーんと唸り声を上げる。まるで難問を解くような仕草を見て、思わずにやけそうになるのを咳払いでごまかす。よしよし、これでいい。思考が負のループにハマってしまっている状況から、自力で脱出できるようになるはず。

「明日からどんなこと考えて走ってたか毎日訊くから、そのつもりで」
「はい!」

 大きな瞳がゆらゆらと揺らいでいる。まだ明日の自分の姿すらうまく思い描けないだろうから、不安になるのも仕方ない。いつになったら投手練習に合流できるのか、どうすればイップスを克服してインコースに投げられるようになるのか、私にすらわからないから。

 でも、私は信じる。
 沢村君がこんなところで終わる投手じゃないって。今は、この夏よりもっと素晴らしいピッチングができるようになるための過程だと、信じると決めた。

「沢村君が目指すのは、夏大の時のピッチングを取り戻すことじゃないからね」
「それって、どういうことっすか!?」
「夏大の時よりも、もっとすごいピッチングを目指してほしいな」
「夏大よりも、もっとすごいピッチング……」
「まだうまく想像できないだろうけど、今は沢村君がレベルアップするための過程だと、私は思ってる」

 タオルを握りしめる手に、ぎゅうっと力がこもるのを見逃さなかった。
 今はまだ道の途中。
 塞ぎ込んだり、悩んだり、立ち止まったり──その過程すら、成長している証なんだ。

「沢村君のこと、信じてるからね」

 こくりとひとつ頷いて、沢村君は開いた左手に視線を落とす。深い思慮の海に飛び込んだようなのでそっと踵を返してその場を後にした。
 土手を登りきって、ふと後ろを振り返る。
 黙々とシャドーピッチングをする沢村君の影が、橙色に沈むグラウンドに長くながく伸びていた。







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