×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -



星に祈りを


 八月二十八日。
 薬師との練習試合の日を迎えた。

 一試合目の有田戦は、四対三で逃げ切り、新チームの十勝目を達成。
 二試合目の薬師に向けて、チームの雰囲気は一段と熱くなってきた。シートノックを受けている選手達の動きもはつらつとして、声もよく出ている。
 一試合目とスタメンはほぼ変わらず、片岡監督の気合の入り方も公式戦さながらだ。

 私はプレハブを離れ、ビデオ撮影のためにセンターの後方へ移動してきた。
 沢村君の異変をこっそりと調べるためには、投手の仕草が見えやすいこの位置がちょうどいい。
 三脚にビデオを固定して、パイプ椅子に腰掛け、日傘を開く。膝の上にはスコアブックも開いて、準備は万端。
 時刻は十三時になり、試合が始まった。

 青道が先攻で、後攻の薬師が守備につく。
 夏にファーストを守っていた三島君が、ピッチャーとして先発。実質のエースである真田君がファースト、四番の轟君はサード。外野手だった秋葉君はキャッチャーマスクを被る。

 夏大の時から大幅にコンバートしている。
 スタメンのポジションが大きく変わっていて驚いた。前々から複数ポジションを経験させていたのか、それとも新チームからコンバートを図ったのか。いったいどちらなんだろう。

 双眼鏡を手に取って三塁側ベンチを覗いてみると、相変わらず大股を開いてどかっと腰掛ける轟監督の姿があった。自信満々な笑みを浮かべているの表情からは、思惑は読み取れない。

 今日もガラガラ声で選手達へ檄を飛ばしている──オメェら、秋大でメンバー入りしたかったら必死こいてアピールしろ!──と。


 球審がプレイを告げ、一回表が始まる。
 一番倉持君が初球をとらえ、瞬足を飛ばしてあっという間に二塁へ到達。二番小湊君の犠打で一死三塁とチャンスメイクに成功した。
 三番前園君は意気揚々と打席に入ったけど、結果は三振。四番御幸君への初球がパスボールになり、倉持君が本塁に突入。あっという間に一点を先制した。

 思わぬバッテリーミスで先制したけど、御幸君はファーストフライを打ち上げ、スリーアウト。走者がいないと凡退するのは、彼のいつものパターン。それでも初回に先制できたのは良かった。
 
 一回裏、薬師の攻撃。青道の先発は降谷君。
 今の投手陣の中で最も信頼できるのは降谷君──と片岡監督は判断したようだ。
 指揮官の期待に応え、一番から二者連続三振に仕留め、アクセル全開のピッチングで薬師打線を捩じ伏せていく。


 五回まで終わり、降谷君と三島君の投げ合いで両チームは無得点。
 青道はチャンスは作るけど、後続が続かずなかなか得点が奪えない。三島君にこれだけ抑え込まれるのは予想外で、やきもきしてしまう。
 日傘を握る手にじっとりと汗をかいて、何度も持ち手を握り直した。

 息詰まる試合の均衡を先に破ったのは、青道だった。

 六回表に、御幸君と降谷君の長打でようやく二点目を追加。今日の降谷君は投げても打っても絶好調みたいだ。
 リードが広がったことに喜びつつも、薬師相手に二点だけではセーフティーリードとは言えないので、すぐさま気を引き締める。
 野球は九回裏ツーアウトからでも逆転されることがあると、この夏に身をもって経験したから。

 試合は中盤に突入し、青道側のブルペンが騒がしくなってきた。
 双眼鏡で覗いてみると、沢村君と川上君がリリーフに備えて肩を作っているところだった。
 沢村君は全身から怒りのオーラを放ちながら投球練習をしている。とりあえず、元気そうでなにより。

 六回裏、降谷君は内野安打と四球で走者を背負い、無死一二塁のピンチを作ってしまう。
 あわや失点も免れないという状況からギアを上げ、三振とゲッツーでピンチを脱出し、なんとか無失点で切り抜けた。

 今日の降谷君は六回を投げて、被安打が二本、四死球は二つ、無失点。
 先発投手として上々の結果を残せたのに、青道側ベンチからは降谷君の不満げなオーラがダダ漏れになっている。
 おそらく、次の回から継投すると片岡監督に告げられたんだろう。そろそろ沢村君の出番が近づいている。

 七回表、薬師も三島君からスイッチして真田君をマウンドへ送った。
 やはりエースが登板すると、薬師の雰囲気にさらに勢いがつく。試合も終盤に差し掛かったはずなのに、グラウンドの選手達もベンチメンバーも二死を取っただけで、今日一番の大盛り上がり。まるでお祭り騒ぎだ。

 真田君は三者凡退で立ち上がると、轟監督も満足そうに拍手を鳴らしてベンチへ迎える。
 リードされているはずなのに、薬師のベンチに劣勢の重苦しい雰囲気は一切ない。試合は終盤に差し掛かったけど、これからどうにでもなる──そんな感じだ。
 なんとなく、嫌な予感がする。

 青道は七回から沢村君が登板。
 投球練習をする彼の背中を眺めていると、酷く喉が渇く。すっかりぬるくなってしまったペットボトルを手に取る。不安と心配で口から飛び出しそうな心臓を、スポドリごと喉の奥へと流し込んだ。
 ただの杞憂であってほしい。スコアにぽたりと汗の一雫が落ちて、文字がにじむ。

 沢村君は立ち上がりからコントロールが定まらない。
 明らかなボール球を続けた後に真ん中へストレートを放り、センター前へ運ばれる。御幸君がインコースに構えたにもかかわらず、コースが甘すぎた。

 次は四番轟君──薬師で最も警戒する打者。
 額から流れ落ちる汗を拭うことも忘れて、沢村君の背中を祈る思いで見つめる。お願い、インコースに投げ切って。
 流れ落ちた汗が目に入って、視界が歪んだ瞬間──

 ──キンッ

 鋭い金属音が弾け、弾丸ライナーがこちらへ飛んでくるのを、空を仰ぎながら見る。
 打った瞬間に“それ“だと確信するような打球が、防球ネットの遥か上を超えていく。

 私の願いは沢村君へ届かず、無情にも轟君によって打ち砕かれた──同点ツーランホームラン。
 たった一振りで、試合を振り出しに戻されてしまった。日傘で姿を隠しながら、思わずがっくりとうなだれる。

 青道は守備のタイムをとり、マウンドに内野手達が集まって輪ができる。選手達の雰囲気はそこまで悪くなさそうに見えた。これから気持ちを切り替えて立て直せる──はず。

 だけど、そのあとも沢村君はインコースにストライクを一球も投げられない。
 疑念がだんだんと確証に塗り替えられていく感覚に、胃がキリリと痛む。左手で胃の辺りを押さえてみても、痛みが治る気配はない。

 結局、沢村君は四連打と四球、暴投も絡めて四点を奪われた。マウンドに登って一つのアウトも取れないまま、ノックアウト。
 降谷君への交代が告げられ、不本意な結果でマウンドを降りることになった。

 その後、八回に登板した川上君も打ち込まれてしまい、さらに三失点。
 試合は二対八と、惨敗だった。



 薬師が帰ったあと、グラウンドはまるでお通夜のように静まり返っている。
 厳しい表情の片岡監督を、気まずい表情の選手達が囲んでいる。固く結ばれた指揮官の口が言葉を発するのを、息をころして待っている。

「完敗だな。これが今のお前達の実力……チーム全体の力だ!」

 地を這うような低い声が空気を震わせた。
 太田部長は心配そうに選手達を見渡し、顔中に脂汗をかいている。片岡監督の怒声は、大人も震え上がらせるほど迫力がある。

「打撃! 特に二年生! 打席での積極性が足りん! チームバッティングを強く意識しているのかもしれんが──それで自分のスイングができなくなっては意味が無い!!」

 片岡監督の指摘には、思い当たることだらけだ。
 ボールを見極めようとして、際どい球を見逃してストライクを奪われる。進塁打を意識しすぎて自分のスイングができずに、打球が詰まってゲッツーになってしまう。例を挙げ出したらキリがない。

「この夏休みお前達を敢えて自由に打たせてきたのは練習での力が発揮できれば十分結果を出せると期待してきたからだ!!」

 思い返してみれば、新チームになってから攻撃のサインを細かく出すような場面は、ほとんどなかった。
 選手達の打撃力に期待して執った作戦だったはずが、逆に空回りして打線が噛み合わないという矛盾が起きてしまっている。それが前チームよりも得点力が低下した要因だ。
 それでも、片岡監督は選手達が殻を破るのを辛抱強く待っている。

「……今のままお前達のバッティングを信じ続けるわけにもいかん。打順もレギュラーも固定はしない! 一年・二年関係なく好調な選手を使うから全員そのつもりでいろ──」

 事実上の「レギュラー白紙」の宣言に、選手達の息を飲む気配がグラウンドに満ちた。緊張のボルテージがマックスにまで跳ね上がる。
 レギュラー陣には焦りの表情が浮かび、控え選手達は興奮して頬が上気する。
 レギュラー奪還のまたとないチャンスが巡ってきたのだ。今は控えに甘んじている選手達にとって、この機会を逃すわけにはいかない。

「ストレッチして今日は解散!」
「「はい!」」

 どことなく重たい雰囲気を引きずったまま、選手達はグラウンドを引き上げていった。


 




 強烈な西日に焦がされて、すっかりバテてしまった。
 いったん涼むためにプレハブに逃げ込んで、エアコンのスイッチをオンにする。温度設定を下げると、心地よい冷風が頬を撫でた。

 ぬるいスポドリを飲みながら一息ついていると、急にドアが開く。片岡監督、太田部長、落合コーチに続いて、御幸君、川上君、沢村君が入室してきた。
 なにやら重たげなミーティングが始まりそうで、こっそりと退室しようとしたら、御幸君に腕を掴まれた。

「え、なに」
「……」

 無言の圧力。ここにいてほしい、と目が訴えているので仕方なく部屋の隅に身を寄せた。
 狭いプレハブにこれだけの人数が入ると、急に酸素が薄くなった気がする。というよりも、ピリピリとした雰囲気のせいで息苦しいんだ。
 張り詰めた空気に反応して、喉の奥がキュッと締まる。

「今日のピッチング、自分でどう捉えている……沢村」
「……はい」

 俯く沢村君の横顔を盗み見ると、目元は泣き腫らしたように赤くなっている。打ち込まれてベンチに戻った後で、ひとり泣いていたのかもしれない。どんな慰めの言葉も、今の沢村君には届かなさそうだ。

「御幸先輩の構えた所にまったく投げられませんでした……」
「インコースに投げきれてないという自覚は?」
「…………あります……」

 御幸君が沢村君の背中にそっと手を添えた。
 言葉少ない沢村君を彼なりに気遣っている。
 主将として、正捕手として。

「決勝で降板するきっかけとなったデッドボール……無意識のうちに体がインコースに投げることを怖がっているのかもな……」

 ──"イップス" なのかもしれない。

 ついに、心の中で言葉にしてしまった。
 杞憂であってほしいと誤魔化し続けるのも、とうとう限界を迎えてしまう。

 太田部長と川上君は事の重大さを悟ったようで、顔を硬らせて沢村君を見た。
 片岡監督と落合コーチは特に表情を変えることはなく、まるでそのことに気づいていたかのような冷静さを保っている。

「沢村……お前は明日から別メニューだ! ボールには一切触るな! ランニングを中心に下半身をトレーニングしておけ!」

 片岡監督の唐突な指示に、沢村君の表情に戸惑いの色が濃くなる。
 もうすぐ秋のブロック予選だというのに、別メニューを──この場にいる誰もがそう思ったはず。どんな意図を持って別メニューを指示したのか、片岡監督の心境を知る者はいない。

「川上! 打たれはしたが低めに集めた投球、悪くなかったぞ。大会までしっかり調整しておいてくれ!」
「はい!!」

 川上君は元気よく返事をした。ふいに目が合ったので、さっと親指を立てる。その仕草を見て、照れくさそうな笑みが返ってきた。
 川上君は一歩前進できて良かった。

「現時点での得点力は前チームよりもかなり落ちる。そうなってくると大事なのは守備。少ない点差で逃げ切る試合も多くなるだろう。
 いくら降谷の調子が良かろうとまだ一人で試合を任せられるスタミナはない──秋の大会を勝ち進めるにはお前達の力が必要なんだ」

 片岡監督の言葉が、沈黙に深く浸透する。
 決して沢村君を見捨てたわけではないと、言葉のニュアンスからなんとなく汲み取れた。
 そもそも、期待していなかったらこんな風に呼び出して、激励することもないのだ。
 唇を噛み締めてうつむく沢村君に、片岡監督の真意までは届いているだろうか。
 
 カーテンの開け放たれた窓は、いつの間にか薄暗くなりはじめていた。空のふもとに夕陽の残滓を残し、濃紺の夜空が幕を下ろしていく。

 誰にでも平等に今日の終わりが訪れ、そしてまた明日がくる。
 沢村君の明日は、今日より少しでも前に進めますように──夏の星座に祈りを捧げた。