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低く垂れこむ停滞前線


 八月の夕日は、空を色鮮やかに染めながらゆっくりと暮れていく。
 極彩色のピンクとオレンジのグラデーションが雲を染め、やがて空の高いところから濃紺と宵の明星が降りてくる。
 
 私は一日の中で、この時間帯が一番好き。
 今日も無事に練習が終わって、選手達が黙々とグラウンド整備をしている風景を眺めていると、肩の力が抜けてホッとする。
 カリカリ、と土をかく音はBGM。内野をトンボかけしている彼らの影が、オレンジ色のグラウンドに長く伸びている。
 窓から見えるこの景色が一枚の絵画のようで、ついうっとりと見惚れながらも、手元の集中は切らさない。

 プレハブにひとり居残り、ノートパソコンを開いて試合動画を再生する。
 動画の容量が重いせいかファンが唸り声を上げ、本体が熱を持つ。せめて少しでも冷そうとエアコンの温度を下げ、半袖シャツの上にパーカーを羽織った。

 パソコン画面には、野球中継と同じ──投手、捕手、打者を映す──アングルの試合映像が映し出される。
 そうそう、これこれ。この画角の映像が欲しかったんだよね。この角度からの映像だと、投手がどの球種を、どのコースに投げたのか、すごくわかりやすい。

 新チームになっていくつか備品を買った物の一つに、ビデオカメラがある。
 選手達から「バッティングフォームやピッチングフォームの動作チェックがしたい」と要望があって、片岡監督はあっさりと快諾。つい先日、青道野球部にやってきたのだ。

 実際に、この映像だと配球チャートの書き起こしがしやすい。再生と停止を繰り返しながら一球ずつ、球種、コース、打球の飛んだ方向、癖や仕草もつぶさに観察して、記録する。
 すると、はっきりと目に見える形で“ある傾向”が浮き彫りになってきた。

「……これは」

 試合を眺めながら、漠然と感じていた嫌な予感。
 それが杞憂であればいいと願っていたけど、書き起こしたチャート表には“その傾向”がはっきりと記されていて、思わず頭を抱えたくなった。







「千葉尚大との第一試合、降谷と沢村で六対二」
「第二試合のBチームも結構粘ったんだけどな……」

 食堂のドアを開けるといくつかの話し声が聞こえて、そっと室内の様子を伺う。どうやらバッテリーで反省会の最中らしい。
 その輪の中に探していた人の姿を見つけた。
 彼に告げようとしているのはとてもデリケートな内容なので、今は周りに人が多すぎる。解散を待ってから声をかけることにしよう。

 彼らの邪魔をしないよう静かにドアを閉め、壁に背中を預ける。まだ誰も私の気配に気づいていないらしく、挨拶してくる気配もない。

「でも二人ともいいピッチングだったよ!」
「すまん!」
「今日勝ってたら十勝目だったんですよね」
 
 申し訳なさそうに謝っているのは、第二試合に登板した二年生の川島君と一年生の金田君。そんな彼らを励ますのは、マスクを被っていた小野君だ。
 第二試合は惜敗で、新チームの勝利数が二桁になる機会は明日へと持ち越されている。
 今日のところは、チームの二桁勝利を逃したことよりも、控えメンバーが試合経験を積めたことの方が大きな収穫だった。

「気にすんなって。明日二つとも勝って夏休みを締めくくろうぜ」

 すかさず御幸君も、川島君と金田君をフォローする。キャプテンの前向きな言葉に硬い表情をしていたふたりは緊張を解き、ほっと胸を撫で下ろした。
 その一方で、沢村君には厳しい視線を投げかける。

「今日の反省点は分かってるみてーだな、沢村」

 御幸君が張り詰めた声で問いかけると、沢村君は俯いたまま顔を上げない。物思いにふける横顔には、いつもの底抜けな明るさが見当たらない。

 ──沢村君、どこか痛めたりしているのかな。
 
 記憶を巻き戻して、昼間の試合を回想する。
 千葉尚大との第一試合。場面は九回表、二死二・三塁。
 それなりに点差も開いているし、二死まで追い込んでいた。得点圏に走者はいるけど、バッター勝負の場面。
 御幸君はインコースに構えたけど、沢村君の投球は逆球になってしまう。アウトコースに流れたストレートを振り抜かれ、左中間を深々と破ってしまった。痛恨の走者一掃のタイムリー。

「完全に失投だったな。そのあと向こうが打ち損じてくれたから逃げ切れたけど……明日の薬師はそんなに甘くねぇぞ」
「……」

 淡々と失投の事実を告げる口調には微かな怒りがにじむ。今日の沢村君のピッチングが不甲斐ない内容だったと、オブラートに包むことなく示している。キツイ口調だけど、沢村君には回りくどい言い方では真意は伝わらないと、御幸君なりに考えているのだろう。
 大人しく話を聞いている沢村君は、反論することもなく、ただ静かに御幸君の言葉を受け止める。

「降谷の課題は走者を背負った場合のピッチング。川上は低めのボールにいかに手を出させるか。試したいことはいくらでもあるけどとりあえず夏休み最後の試合、公式戦のつもりで勝ちにいこうぜ」

 降谷君と川上君の課題にも言及し、御幸君は最後にみんなの顔を見回して気合を入れた。キャプテンの一言に引き締まった表情で頷くバッテリー達。
 明日の薬師戦に向けて気合十分、といった様子だ──沢村君ひとりを除いて。



「もう反省会終わった?」
「! いつからそこにいたんですか、みょうじ先生」
「少し前からね。あのさ、ちょっと話したいことがあるんだけど、今いい?」
「場所変えますか?」
「ここでいいよ」

 自室へ帰っていく選手達を見送り、食堂内にふたりきりになったことを確認してから、机に配球チャート表を広げる。
 御幸君はその中の一枚を手に取ると、ハッと目を見開いた。

「これ、今日の試合じゃないですか。もうチャートにしてくれたんですね」
「実は試合中に気になることがあって、急いで書き起こしたんだ。沢村君のピッチングについてなんだけど……」
「なんですか、深刻そうな顔して」

 沢村君の配球チャート表を手渡すと、御幸君は何かをすぐに察したらしい。
 配球チャートの束をペラペラとめくり、次第に眉間のしわを深く刻む。

「もしかしたらと思って配球チャートを書き起こしてみたんだけど」
「……」
「インコースにストライクを一球も投げられてないんだよね、沢村君」
「……本当ですね」
「右打者も左打者も真ん中から外にボールが集まってるし、インコースに決められない分、球数も多くなってる。厳しく攻めきれずに、甘い球を痛打される場面が多かったね。九回とかまさにそんな感じだった」

 九分割したストライクゾーンに、バラバラに散らばったボールカウント。
 試合を見ている時は、左打者のインコースを攻めるのに苦労しているのだと思い込んでいた。
 でも、蓋を開けて見れば、右打者のインコースにもストライクが投げこめていなかったのだ。配球チャートにして書き起こして見ると、事態は想像以上に深刻な状況だった。
 腕組みをする手に力がこもる。
 御幸君も同じように腕を組み、思慮深い目つきで配球チャートの上に視線を滑らせる。

「沢村のヤツ、最近インコースに構えると逆球になるか、内に入りすぎてボールになるんですよね」
「最近って、いつから?」
「決勝戦の後から」
「怪我とか故障は考えられない?」
「それはないと思いますよ。球受けてても違和感は無かったし」
「怪我でも故障でもない。けど、なぜかインコースに投げられていない。だとすると、もしかして──」
「まさか、イッ──」

 御幸君の唇の前に人差し指を立て「言っちゃダメ」と目で圧力をかける。
 私も、御幸君と同じことを考えている。
 でも、確証も無いままに言葉にすることが恐ろしかった。
 私達の憶測と違ったとして、もしも“それ“が現実になってしまったら、取り返しのつかないことになる。それこそ、沢村君の投手生命にも深く関わるかもしれない。

「憶測でものを言うのはやめよう。まだ“そう”だと決まったわけでもないし」
「そうですね」
「このことは沢村君には言わないでね」
「分かってますって。このこと、監督には報告するんですか」
「うーん……根拠になるデータが少なすぎるし、報告するのはもうちょっと様子見してからにしようかな」

 そう告げると、御幸君はホッと息を吐いて肩の力を抜いた。
 何十枚もある紙の束から、九回に打たれた時の配球チャート表を手に取り、視線で穴が開きそうなほどじっと見つめる。深い思考の海にどっぷりと浸かった途端、御幸君の口数は極端に少なくなった。無言の空間にはどこからともなく湿った空気が流れ込み、身体にねっとりとまとわりつく。
 
 ──沢村君、これからどうなっちゃうんだろ。
 
 全部、杞憂だったらいいのに。
 今は沢村君の太陽みたいな笑顔が、思い出せない。漠然とした不安が、霧のように脳内を覆っている。