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水底から空を見上げる


 
 東京から遠く離れた甲子園で、決勝戦の試合終了を告げるサイレンが鳴り響く。
 稲実の選手達は黒土のグラウンドに膝をついて号泣し、私達はその光景を食堂のテレビ画面越しに見つめている。

 誰もが固唾を飲んで、延長十四回の大熱戦を見守った。
 エースの成宮君が最後までマウンドを守り、そして劇的なサヨナラ負けで散った。許した失点は十四回を投げて、たった三点だけ。甲子園の決勝戦に相応しいパーフェクトなピッチングだった。

 静まり返った空気に焦燥感がひたひたと満ちて息苦しくなる。
 誰かが「あの稲実でも負けるのか」とつぶやいた声が錆のように鼓膜にこびりついて離れない。夏の決勝戦を戦った時よりも、経験を積んでレベルアップした稲実ですら、全国制覇は容易ではない。
 その稲実とは秋大で再戦する可能性もある。
 こんな試合を見せつけられた後では、新チームの戦力で稲実を倒すイメージが湧かなかった。


 
 甲子園決勝戦の翌日。
 練習前の監督室に顔を出した高島先生が、真剣な横顔で新聞を開く片岡監督へ語りかける。

「四人の投手リレーで稲実の打線を二点に……。
 巨摩大の選手達の個々の能力の高さもあったでしょうが……これは片岡監督の戦い方が間違っていなかったということにならないでしょうか……」

 高島先生は稲実との対戦において継投策は効果的だった──と主張したいのだろう。
 けれど、正確に言えば巨摩大と青道の継投策は似て非なる戦略だと、私は思っている。
 計画的に複数の投手を育成し、ゲームプランに合わせてタイプの違う投手で試合を繋いだ巨摩大苫小牧。それに対して、怪我を負い状態が不安定なエースと経験不足な下級生をローテーションしながら戦った青道。
 同じ継投策でも青道と巨摩大では、まるで完成度が違う。言うまでもなくその差は、結果となって証明されている。

 高島先生も焦っている。秋の大会をもって辞任を表明している片岡監督を引き留めたくて、彼女なりに苦心しているんだ。片岡監督もそれに気づいているけど、あえて自分の意見を述べることはなかった。
 その一方で、私は監督辞任の一方を聞いた日から、その話題に触れることは避けている。
 それに言及すれば、また頭に血が昇って失言する悪い予感しかしないから。


「お疲れ様です」
「お疲れ様。ノックを打ってる姿もだいぶ様になってきたわね」

 午前中のノックを終えて滝のように噴き出す汗を拭っていると、高島先生が労いの言葉をかけてくれた。彼女の隣には片岡監督もいて、腕を組み仁王立ちで選手達の動きを観察している。

「これも片岡監督のご指導のおかげですよ!」

 わざと大きめな声で言ったけど、当の本人は聞こえていないのか、それとも聞こえているけどあえて無視しているのか、ノーリアクションで無視されてしまう。
 高島先生と目を合わせ、ふたりで肩をすくめる。
 あなたはこのチームに必要なんですよ、という遠回しのアピールもまた空振りに終わってしまった。

 片岡監督の視線の先を追ってみると、御幸君と川上君が話し込んでいる姿を見つけた。
 あの決勝戦以降、本来のピッチングができず不調に苦しんでいる川上君。そんな彼に御幸君から声をかける場面を最近よく見かけるようになった。
 聞こえてくる会話の内容から察するに、午後のシートバッティングのバッティングピッチャーをやってくれるように頼み込んでいるらしい。

「フリーでもシートでも打者に投げさせることで自信を取り戻させてやりたい……キャッチャーの御幸君らしい考え方だけど一理あるかもしれませんね」

 高島先生の言うように、決勝戦で打たれた川上君のピッチングからはすっかり自信が失われてしまったようだった。
 ブルペンでのピッチング練習だけではなく、実戦形式のピッチングで打者に対峙する自信を取り戻させたい、という御幸君のなりの考えがあるのだろう。

「川上は大丈夫だ! フォームを崩しているわけではないし……本人もちゃんと自分の置かれている立場を分かっているからな」

 片岡監督の言葉には説得力がある。確かに川上君のフォームに崩れは見当たらない。ただ、少しばかり腕が振れていないように見える。それも本来の自信を取り戻せば修正できる範囲のこと。
 
 片岡監督の言葉の裏側には「過剰に心配する必要はない」という意志が込められている、そんな気がした。
 過干渉すぎず放任主義でもなく、遠すぎず近すぎない選手たちとの絶妙な距離感が、チームにほどよい緊張感を与えている。

 ──やっぱり片岡監督じゃないと、青道は……。

 切実な思いは募るばかりだけど、気を揉むことしかできない現状に拳を固く握り締めた。



* * *



「え!? 新しいコーチ……ですか……?」

 昼休憩の食堂に、戸惑いの声が上がる。
 突然、片岡監督から新コーチ就任の報告があったのだ。選手達は驚きの表情が隠せない。

「あぁ……いつも来てもらっているOBのコーチではなく、専属のコーチとして来てもらうことになった……」

 まさか、すでに片岡監督の後任が決まっていたなんて。寝耳に水、青天の霹靂の出来事だ。
 専属のコーチが決まっていた件は私も初めて聞く情報で、おそらくこの場にいる誰よりもびっくりしている。

「あの神奈川の名門紅海大相良で二十年コーチを務め、前任の山本監督の勇退と共にチームから退いたんだそうだ」

 凪いでいた水面に小石を放り込まれさざ波が立つように、動揺からくる騒めきが部屋中へと広がっていく。

 ──紅大っていやぁ甲子園常連の……。
 ──あそこの練習はプロでも通用するって噂だよな……。
 ──そんなすげえ人が青道に……。

 期待感に胸を膨らませる選手もいれば、動揺を隠しきれず不安そうな面持ちの選手もいる。
 チームに変革が起きそうな、専属コーチの加入。それが良い方向へ転ぶのか、悪い方向へ転んでしまうのか──。

「特にフィジカルトレーニングに関して豊富な知識を持っているらしくてな。いいと思ったらすぐにでも取り入れていこうと思っている。とにかく夏休みの間にチーム全体のレベルアップを! 秋の大会まで各自課題を持って挑むこと!!」
「「「はい!!」」」

 片岡監督がその場をきっちり締め、ようやく昼休憩に入った食堂は新コーチの話題で持ち切りになった。

「みょうじ先生」
「わっ! びっくりした……御幸君か……」
「みょうじ先生は新しいコーチが来ること、知ってたんですか」

 いつの間にか背後に忍び寄っていた御幸君が耳元で低く囁く。腕組みをしたまま眉をひそめて首を横へ振る。
 新しいコーチを呼んでいることを事前に知らされていたら、私だってこんなに驚いていない。

「いや、私も知らなかったよ」

 御幸君は疑いのまなざしを向けるけど、私も今日聞いた話で目を白黒させている最中だ。
 突然の新コーチ就任の報告に、驚きを通り越して怒りすら湧いてくる。

 御幸君のそばを離れて太田部長に尋ねてみると、校長たちが数年前から落合コーチに声をかけていたらしい、と声を潜めて教えてくれた。どうせ副校長が校長をそそのかしたんだろう。甲子園常連校からコーチを連れて来れば、数年ぶりの甲子園も夢じゃありません、とかなんとか言って。
 甲子園に出場した高校は翌年の生徒数が増える、というのは通説で、八月は毎日のように甲子園での試合が中継され、試合結果を報道するため、学校の知名度もうなぎ登りになる。寄付金を堂々と募ることができるし、甲子園出場は学校経営的にも非常に美味しい。

 まったく余計なことをしてくれた。他にやるべき仕事が山ほどあるくせに、やたらと野球部に首を突っ込みたがる管理職が恨めしい。
 心の中で舌打ちをしていると、また背後に御幸君が忍び寄ってくる。

「紅海大相良で長年コーチをやってた人なんて、よく引っ張ってこれましたね。前から声かけてたんですか」
「……私は詳しいことは何も知らないの」
「しかもなんでこの時期に」
「新チームが発足したばかりだし、タイミング的にも今がベストってことでしょ」
「でも、今までこんなことありませんでしたよ──なにか、裏があるんですか」

 問いただすように目を細め、さらに声を低くする。
 御幸君は聡い。もしかしたら、すでに大人の事情に勘付いているのかもしれない──そうだとしても。

「御幸君ってば大げさだなぁ、なにも無いって!」
「でも──」
「新しいコーチから学ぶことはたくさんあるんだし、前向きに考えてもっと野球が上手くなるチャンスだと思ってほしいな」

 新しいコーチはおそらく片岡監督の後任──そんなことが知り渡れば、秋大を目前に控えている大事な時期に、動揺と混乱でチームが空中分解しかねない。ただでさえまだスタメンも固まらず、全員の足並みも揃っていない状況なのに。
 本当のことは選手達には絶対に言えないし、本音は一ミリも漏らせない。
 例えそれが御幸君の前であっても、だ。

「……はい」
「早くご飯食べておいで」

 いかにも腑に落ちていなさそうな態度だけど、見て見ぬふりをして背中をトンと押し出す。御幸君はトレーを受け取って、神妙な表情のまま倉持君の隣に腰を下ろした。

 しかし、一体どうすれば片岡監督を引き留められるだろう。私には地位も権力も無し、実績も経験も無い。
 もしそれらがあったとしても、片岡監督は地位や権力に屈する人ではないだろうけど。
 あの堅物の鋼の意思を動かす手段があるとしたら。頭に浮かぶのは、たった一つ。
 それは甲子園に出場すること。
 ただ、それだけ。シンプルかつ、非常にハードルの高い手段だ。
 片岡監督を引き留めるには、秋大で優勝して来春のセンバツ出場当確を勝ち取り、甲子園出場を決めたのに監督を辞める理由なんで無いですよね? と脅して囲うしかない。

 答えはシンプルだけど、それを達成するのには夏大とはまた違った難しさがある。
 秋の大会では西東京だけではなく、東東京の強豪校にも勝たなければならない。
 帝東、春日第一、仁王学舎──東東京にもビックネームが揃い、どれも手強いチームばかり。
 
 それでも弱音を吐いてはいられない。
 負け=片岡監督を失う、ということと同義なのだから。
 それなら絶対に負けられない。チームを強く育てて、勝ち続けるしかない。
 そのために私ができることは、全部やる。
 ノックもデータ分析も、最善を尽くす──すべては青道の勝利のために。




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