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真っ白な地図に線を描いて


「本当によろしいんで? このチームをあっという間に私色に染めてしまっても」
「……は?」

 突然、衝撃的なセリフが聞こえて足が止まり、その場に呆然と立ち尽くしてしまう。片岡監督たちも面食らって固まっている様子を見て、なんとなく会話の内容を察する。どうやら片岡監督が退いた後のことについて話していたらしい。グラウンドにいる選手たちは練習の真っ最中なのに、ここはベンチだとはいえ彼らに聞こえてしまったらどうするつもりだろう。
 落合コーチのドヤ顔を見ていると微かに苛立ちが湧いてくるので、舌打ちしたい衝動を深呼吸をして腹の底へ沈める。
 私から醸し出される不穏な気配に気づいた落合コーチがこちらへと歩み寄ってきた。

「あぁ、あなたが噂のみょうじ先生ですね。専属コーチになった落合です。どうぞよろしく」
「申し遅れました、みょうじなまえと申します。こちらこそよろしくお願いいたします」

 髭を触っていた右手を差し出され戸惑いつつも握手を交わと、上から下まで品定めをするようなベッタリとした視線が全身を這って背筋がゾッと寒くなる。まるで私が自分のチームに必要か否かを判断するような圧力を感じて、先に手を放してしまった。

「若い女性が野球部の顧問をやっているだけで珍しいのに、みょうじ先生はノックも打たれるそうじゃないですか。感心しましたよ」
「左の専属ノッカーがいないので私がノックを打つこともあります。それに選手たちがどれくらい動けるのか把握しておきたいので」

 やたらと「若い女性」を強調してくるのが耳障りで、愛想笑いをパックのようにぺったりと顔に張りつける。本当に感心してくれているのか、それとも悪意を持って言葉を選んでいるのか、今はまだ判断できない。

「それは素晴らしい心がけですね。ぜひこれからも続けていただきたい」
「もちろん。そのつもりです」

 私に利用価値がありそうだと判断したのか、満足げな口調で髭を触る落合コーチ。気分はもうすっかり「落合監督」なのだろう。
 この人が青道の監督になったら、青道はいったいどんなチームカラーになるんだろうか。紅海大相良のように監督が選手を完全に掌握し、まるで将棋の駒のように操る鍾離至上主義のチームに様変わりするかもしれない。そんな野球は青道らしくない気がして、心の端がめくれてささくれ立ってくる。そんなの嫌だな。でも、私にはどうすることもできない。
 視線の先に立つ片岡監督をじっと見つめると、サングラス越しに鋭いまなざしを選手たちへ注いでいた。この人は、この人にだけは──、
 
 ──この人にだけは、野球を手放してほしくない。

 一度は野球を遠ざけていた私が、今また最前線へ戻ってきたように。野球の面白さにのめりこみ、甲子園の魅せられてしまったその瞬間から、その場所を目指さずにはいられない。この心臓を滾らせる思いはそう簡単には手放せないことを、私は身をもって知っているから。
 だからこそ片岡監督には遠回りしてほしくない。選手達のためでもあるし、本人のためでもある。
 来年の春も、そしてまた巡り来る夏も、片岡監督とともに戦っていたい──そう願ってやまない。



「え? 受けたんですか? あの試合……」
「あぁ……」

 帰宅前に挨拶をしようとスタッフルームのドアを開けると、太田部長の困惑した声が耳に飛び込んできた。あの試合って、どことの試合のことだろう?
 本当は部屋に上がるつもりはなかったけど「あの試合」が気になり、ついでにホワイトボードを確認してから帰ろうと靴を脱いだ。

「そ……そんな……向こうからの急な申し出ですし断っても良かったんですよ!? 秋の大会でも当たる可能性は十分あるチームなんですから!」
「やればいいじゃないですか……試合。つまんない練習よりも試合が増えた方が選手も嬉しいでしょ」

 ホワイトボードに太字で書き込まれた「薬師」の文字を見て、なるほど太田部長が声を荒げるわけだ。耳の奥で轟君の「カハハハ!」という豪快な笑い声がよみがえって頭がクラクラする。
 今は八月の夏真っ盛りとはいえ、カレンダーを一枚めくれば九月から秋の都大会のブロック予選が始まる。もうすでに公式戦直前の時期であって、この時期になると手の内をさらさぬように東京のチームとの試合を避けるのが一般的なはずだけど。
 どうやら片岡監督にはなにやら考えがあるらしい。

「い……いや、でもウチはまだチームが……向こうは強豪チームと手当たり次第試合を組んで……次々と撃破してると噂になってますし」

 新生薬師の噂は他校の指導者を経由して私達の耳にも届いていた。薬師は三年生を欠いてもなお強力打線は健在のようで、ボコボコに打ち込まれたという指導者の嘆きも聞いている。
 対して、青道のここまでの戦績は八勝四敗、貯金は四つ。他校よりも始動が遅れたわりに滑り出しは悪くはないけど、それでも夏までのチームと比較すると打線の火力不足は否めず、圧倒的な勝利もなかった。
 新チームの勝ちパターンがまだ掴めず、レギュラーメンバーを固定できていないまま、秋のブロック予選が刻一刻と迫る現状に誰もが気を揉んでいる。片岡監督がチームを指揮する最後の秋なるかもしれないから、なおさらで。

「も……もしも投手陣が打ち込まれでもしたら秋の大会までに立て直すのは困難かもしれないんですよ!?」
「……」

 不調から抜け出せていない川上君と、薬師戦でホームランを打たれた沢村君の青ざめた顔が脳裏をよぎる。
 降谷君を含め投手陣はこの夏を経て一回りも成長したけれど、まだまだ盤石の状態とは言い難い。経験不足で若い青道投手陣が強力打線の薬師と対戦するのは時期尚早という太田部長の言い分もわかる。
 静かに太田部長の背後に回り、片岡監督が口を開くのをじっと待つ。 
 
「今……どこのチームも欲しいのは勝ち星よりも経験値……いずれ対戦するかもしれない相手ならなおさら戦うべきだ……」
「ですが……」
「今……自分達の力を測るには申し分ない相手だぞ!!」

 虎穴に入らずんば虎子を得ず、というのが片岡監督の言い分らしい。確かにそれも一理ある。なんとなく殻を破り切れていない新チームに今あえて薬師をぶつけたら、いったいどんな化学反応が起きるだろう。チームが強くなるには、部内での苛烈な競争や、強豪校とのしのぎの削り合いが必要不可欠だ。

「ここは監督の判断に委ねましょう、太田部長」
「……えぇ、そうですね。ここは片岡監督を信じましょう」

 しゅんとしている太田部長のフォローをしつつも、私の胸は密かに高鳴っている。だってあの薬師との再戦。強豪校との試合は見ごたえがあって、純粋に楽しみだ。薬師との再戦は、いったいどんな試合になるだろう。頭の中に轟君のフルスイングを描いて、サーっと血の気が引いていく。

 ……あ、ダメだ……やっぱり心臓に悪い。
 






 八月七日に開幕した全国高等学校野球選手権大会──通称「夏の甲子園」は、全国の地方大会を勝ち抜いてきた四十九校による一発勝負のトーナメント。
 甲子園はすべての高校球児たちにとっての夢舞台であり、高校野球の聖地でもある。

 今年の夏は決勝戦で青道を破り、西東京代表として稲城実業が二季連続で甲子園出場を果たした。なんと初戦と二回戦を完封、優勝候補の西邦も完封で下し、順調にトーナメントを勝ち進んでいる。
 二十二回無失点の快投を全国に見せつけたエースの成宮君は「都のプリンス」や「鳴ちゃん」の愛称が定着し一躍時の人になった。日本全国で「鳴ちゃんフィーバー」を巻き起こり、稲実の試合がなくても成宮君の姿は毎日テレビで見かけるほどの人気っぷり。見た目は爽やかで笑顔は可愛らしいのに、ピッチングは超高校級。メディア対応も愛想よくこなすので、ファンの受けもいい。まさに甲子園のアイドルだ。
 
 そして今、食堂では激闘甲子園──稲実vs郁栄の準決勝のダイジェスト──が放送されている。
 私も選手たちに紛れ、寝ぼけ眼を擦りながらテレビ画面を眺めている。さすがの成宮君も連戦連投の影響からか球のキレが少し落ちているように見えたし、実際にこの試合では四失点している。西東京大会からも蓄積した疲労もピークを迎え、今が一番心身の負担がキツイ時期だろうなーとぼんやり思う。

「こんな時間まで残っているの珍しいですね」

 ぼさっと突っ立っていると、白州君が隣に来てさりげなく話しかけてくれた。
 確かに彼の言う通り、大会期間でもないのに二十二時過ぎまで居残っているのは珍しい。本当はもっと早く帰るつもりだったけど、ノックを打ちまくったおかげで身体には疲労感がたっぷり溜まり、まぶたに降りてきた睡眠欲に抵抗するのは難しくて。気づいたら机に突っ伏していた。

「さっきまでプレハブで寝落ちしてたの」
「お疲れ様です」

 海耀との練習試合のデータ集計に夢中になっているうちに、いつの間にか寝落ちしていたらしい。喉が渇いて目が覚めると、いつもなら自宅に帰宅している時間になっていて飛び起きた。
 今日はバッテリー反省会やらピッチング練習に付き合っていた御幸君がプレハブには訪れず、ついさっきまで爆睡。終バスはとうに最寄りのバス停を過ぎ去って、途方に暮れた。仕方がないのでタクシーの配車を依頼したけど、十分以上は待つと言われて暇つぶしに激闘甲子園を見に食堂に立ち寄ったというわけ。

 白州君は苦笑いを浮かべてテレビ画面に視線を移し、私もその視線をたどる。実況が熱っぽい声で「稲城実業 十六年ぶり二回目の決勝戦進出──!!」と叫ぶと、食堂内の沈黙がじっとりと重たさを増す。
 ついこのあいだ決勝戦で戦った稲実が、甲子園の決勝戦まで勝ち上がる瞬間を目の当たりにした選手たちの複雑な心境は、その表情を眺めていれば嫌でも感じ取れる。
 決して稲実の躍進が喜ばしいわけでも、嬉しいわけでもない。稲実の活躍は同じ西東京地区の青道にとって脅威であり、敗北の苦々しい記憶を呼び起こす。

「ここまで来たらちゃんと最後まで見届けようぜ。あの悔しさをずっと忘れないようにな」

 川上君のそばに立つ御幸君の背中をじっと見つめる。ここ数日、御幸君なりに川上君へ気を遣っている様子を見てきた。決勝戦でサヨナラ打を浴びてから調子を崩している川上君を立ち直らせることは、正捕手として、そして主将としての重要なミッション。
 ほんの一瞬、俯く川上君の肩にグッと力が入るのを、私は見逃さなかった。
 御幸君の言葉がプレッシャーになってないといいけど──と気掛かりになるのはいささか過保護なのかもしれない。

「あ゛──くそ暑ち──。こんな時間に集まって何やってんだお前ら──何かおもしれぇTVやってんのか?」
「いえ……特には」
 
 突然食堂に顔を出した伊佐敷君を気遣って、前園君はすかさずリモコンを手に取ってチャンネルを変える。
 稲実に敗れて甲子園出場の逃したその時、人目をはばからず泣き崩れた伊佐敷君の抱えている傷心は深く、あれから三週間が経ってもちっとも癒されていない。それは周知の事実で、後輩たちもぎこちなく気を遣いながら生活している。例えば、甲子園のテレビ中継や激闘甲子園は自室ではなく食堂のテレビで見るようにしていたり。三年生達の視界になるべく「甲子園」を入れないことが後輩達の三年生への配慮なのだろう。

 激闘甲子園も終わり、各々の自室へ帰ろうと腰を浮かした時だった。
 製氷機から氷を取り出している伊佐敷君のところへ、沢村君が歩み寄り恐る恐る「稲実が決勝戦進出を決めたそうです」と告げた。
 食堂内にピリッとした緊張感が走り、全員の視線が沢村君と伊佐敷君へと注がれる。慌てて遮ろうと声をかけた倉持君を無視して、沢村君は思いのままに言葉を続ける。

「先輩達は負けてません。稲実のメンバーにだって全然負けてるとは思えません」

 いつもは元気いっぱいの沢村君の声が、微かに震えている。悔しさと情けなさと憤りを煮詰めた苦々しい響きに、誰もが静かに耳を澄ませる。

「情けなくて……何度ビデオを観てもなかなか認めることができなかったけど……ち……力が……力が足りなかったのは……自分で……最後の最後で俺は稲実の打者にビビったんです……なんでそこまで……どうして……ここまで必死にって……」

 左手はぎゅうっとTシャツの胸の辺りを掴む。その仕草は弱い自分を奮い立たせているように見えて、沢村君も記憶の中で決勝戦を何度も、何度も戦っているのだと悟った。あの時あぁしていれば、こうしていたら──と悔やんでいるのだろう。

「甲子園に行くって……何なんですか? あの舞台には何があるっていうんですか…」

 伊佐敷君へ向けられたはずの問いに、私の胸まで強く衝かれた。
 その答えは私も、この場にいる誰もが、明確な答えを持っていない。
 甲子園は未踏の地。あの頂に登りつめ、浜風の舞う黒土のグラウンドにいるのは青道ではなく──稲実なのだから。

「知らねーよ」
「……え?」
「だって俺行ったことねーもん甲子園」
「あ……いや……そういう意味じゃ」
「じゃあどーゆう意味なんだ あぁ!?」

 声を荒げる伊佐敷君を宥めようとしたら、白州君に制された。黙って首を横に振る。危ないから止めに入るなというよりも、まだ様子を見てほしい、と目で訴えているので、ここは白州君の判断を信じて静観することに決めた。
 凄んだ伊佐敷君の迫力に怯んだ隙をつき、すかさず倉持君が沢村君の背後に回ってヘッドロックをキメた。締まりすぎない絶妙な力加減は、さすが倉持君である。

「すいません純さん……ご存知の通りこいつアレなもんで」
「ちっ……アレだったら仕方ねーか」

 アレってアレか……「バカ」ってことか。
 隣の白州君と目を合わせると、こくりと頷いた。どうやらそういうことらしい。

「テメェが甲子園に何を求めようとしてんのか知らねぇけどな……誰もが気軽に行ける場所を誰がわざわざ目標にするんだよ。難しいから挑戦する、簡単に達成できねぇから夢なんじゃねーか」

 伊佐敷君の言葉に目の奥がじわじわと熱くなり、込み上げてくるものを押し留めるように目をつむる。
 まぶたの裏側には──灼熱の太陽に大きな入道雲が湧く夏空、浜風になびく旗、深緑のスタンドには満員の観客、ブラスバンドの演奏が響き渡る、黒土の美しいグラウンド──甲子園の景色が広がっている。その景色の中には、青道のユニフォームを着た三年生達の姿もありありと描くことができる。──でも、それは二度と見ることができない夢の景色。

「フン、甲子園に何があるか? 笑わせんじゃねぇ。知りたきゃテメェの目で確かめてこい……バカヤロォ」

 突き放すような捨て台詞には、後輩たちへの激励が込められている。
 その証拠に伊佐敷君はいつもの調子で後輩達を捲し立て、暗い顔をしている川上君にも遠慮なく吠えまくった。伊佐敷君なりのぶっきらぼうなエールを受け止めて、食堂に張り詰めていた緊張感がふっとやわらぐ。
 
「心配いらなかったね」
「大丈夫ですよ。純さんも、俺たちも」
 
 白州君はそう言い残して、沢村君を囲む輪に入っていった。  
 彼らは自分の弱さを認めて、お互いの思いをぶつけ合って、前へ進もうとしている。
 それは高校三年生だった私にできなかったこと。青道に負けたことに納得できず、大好きな野球も甲子園も遠ざけて、負の感情を抱え込んで、ずっと一人でこじらせていた。私が六年前の夏をどうやって消化すれば良かったのか、その答えを選手たちに教えられているみたい。

 澱んだ胸の中に爽やかな空気を吸い込んで、重たい肩の荷が少しだけ降りたような気がした。
 私もそろそろ前を向いて進んでいかなくちゃいけない。

「みょうじ先生、タクシーが来てますよ!」
「あっ、タクシー呼んだの忘れてた」