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あとひとつで叶うなら


 十月二十四日、晴れ、気温十五度。
 淡い青空には刷毛で塗ったような薄い雲が流れている。風も日差しも穏やかで、絶好の決勝戦日和になった。 

 定刻通りにグランドインの許可が降り、選手達は一斉に正面入り口から階段を降りてダグアウトへ向かい、その後ろに控えの部員達が荷物を抱えて続く。荷物の置き場所を指示しながら、効率よく試合の準備を進めるのが私の役割だ。
 ベンチメンバー以外はアップ開始までに撤収しないといけないので、試合の前に時間との戦いが始まっている。

 一通りの荷物を運び終えて一息つくと、地下の湿った空気と石灰の匂いがツンと鼻をついた。ダグアウトとベンチを結ぶ通路からは微かに土の匂いが届いて、静かに深く吸い込み肺を満たす。
 昔から球場独特の匂いが好きだった。嗅ぎ慣れた野球の匂いは心を落ち着かせてくれる。

「──!?」

 不意につんつんと背中を突かれて肩がすくむ。びっくりして振り返ってみれば、アップシューズのままの御幸君が気配を消して佇んでいた。
 あぁ、スパイクに履き替えてないから気付けなかったのか。他の選手達はすでに履き替えているので歩くたびにスパイクの歯がコンクリートを噛む音が反響している。

「なに? てか、早くスパイクに履き替えな──」

 そこまで言いかけて、次の言葉を見失った。今日の御幸君、なにかいつもと違う。
 具体的になにが違うのか即答できないけど、顔色がどことなく青白い気がする。
 バスは離れた席に座っていたから今まで気づけなかった。
 御幸君は私の腕を掴みそっと引き寄せ、耳元で囁く。

「みょうじ先生……痛み止めの薬とか持ってないですか」

 痛み止め──と聞いた途端に、頭から血の気が引いていく。至近距離なことも忘れて、御幸君の目をじっと見る。顔つきは真剣そのもので嘘をついてはいなさそう。
 ということは、本当にどこかを痛めてるってこと?

「痛み止め!? まさかどこか怪我してるんじゃ」
「実は昨日の夜から歯が痛くて……昔治した虫歯が再発したのかも」
「薬は太田部長に相談したもらえるでしょ? 昨日のうちに相談しなかったの?」

 学校では生徒に内服薬を渡さない決まりになっている。
 しかし、野球部に限っては寮生活ということもあり、不調を訴える選手に風邪薬や痛み止めなどの市販薬を与えることが稀にあった。
 ただし太田部長に相談することが条件で、市販薬で治せないと判断すれば病院に連行するというシステム。寮生の御幸君はもちろん把握しているはず。
 問いただすように眉間にシワを寄せると御幸君は困ったように力なく笑った。

「一応、相談はしたんですけど薬が切れててもらえなくて」
「……本当に?」
「みょうじ先生、時間ないです」

 問いかけに「はい」とも「いいえ」とも答えずに、選手達がベンチへ向かう姿を指差して私を急かす。サングラス越しの瞳は輪郭をにじませ、切羽詰まった声は切実に訴えかけてくる。事実確認をしようにも太田部長はすでにベンチの中。ここは御幸君の言葉を信じるしかなさそうだ。

「仕方ないな」
「飲み物も持ってますか」
「お茶でよければ」
「ありがとうございます。助かりました」

 痛み止めは常備している。生理痛の時には重宝するので切らしたことはない。
 白い錠剤を二錠、それとペットボトルのお茶を手渡すと、御幸君はあっという間に飲んでしまう。本当に歯の痛みなのかな。
 太田部長のことだから、選手が不調を訴えたらすぐに共有してくれそうなのに今日はなにもなかった。

 疑問は晴れないまま、スパイクの紐を結ぶ背番号「2」を凝視する。
 もやもやとくすぶる頭の片隅によみがえるのは、昨日の準決勝。ホーム上でクロススプレーがあった瞬間を、テレビの再現映像のように思い出す。まさか、あの時に? でも、沢村君のピッチング練習の時はいつも通りだった。今だって──

「──御幸君!」
「? はい」

 ベンチへ向かう御幸君を慌てて呼び止める。背後を振り返った彼の横顔にはなぜか汗の粒が浮かんでいた。これからアップなのに? どうしてもう汗をかいているの?
 心臓が激しく鼓動しているのがはっきりとわかる。指先が震えているのは武者震いじゃなくて、酷く動揺しているから。

 ──私は大事なことを見落としてる。

 最悪の可能性に今さら気づく。すでにプレイボールの直前、試合はもうすぐ始まってしまう。
 ここまできたら、私は御幸君を止められない。彼も立ち止まらない覚悟を決めて、強い視線で私の目を貫く。止めないでくれと目が訴えている。

「きみのこと信じていいんだよね」

 肯定も否定も返ってこない。沈黙が答えなのだ。動き出した歯車は一部が欠けたまま、それでも回っている。

「絶対に勝ちます。応援しててください」

 薄く開いた唇は弧を描き、その隙間から白い歯がチラリと覗く。でも目にはいつもの不敵な笑みは浮かんでいない。
 今、この瞬間に確信した。御幸君は身体のどこかを痛めている。それは歯なんかではなくて、ユニフォームで覆い隠したどこか。

 御幸君は何か言いかけて、息を殺すように唇を結ぶ。ゆっくりとした足取りでベンチへと向かっていく背中を、私はただ見送ることしかできなかった。


 場内へ戻ると多くの観客が座席を埋め、記者席も賑わっている。すでにほぼ満員御礼の状態だ。行き交う人並みを縫ってようやく青道側のスタンドにたどり着いた。
 グラウンドはシートノックの真っ最中。
 ダイヤモンドの外側で指示を飛ばす背番号「2」を注意深く見つめながら、高島先生に問いかける。

「御幸君って虫歯の治療をしたことあるかご存知ですか?」
「虫歯? 聞いたことないわね。それがどうかしたの」
「……やっぱり、そうですよね」

 ずっと我慢していたため息が盛大にこぼれてしまう。だんだん頭が痛くなってきたけど、あいにく痛み止めは御幸君に渡した分が最後だった。
 高島先生はため息がこぼした私を怪訝な顔つきで見つめる。

「何かあるなら言いなさい」
「さっき御幸君に痛み止めが欲しいと言われて……渡してしまいました。昔治療した虫歯が痛むと言っていたんですけど、それも嘘だったんですね……」
「はぁ。まったく……御幸君ったら」

 高島先生も長いため息を吐き出し、眉間に深いシワを刻む。勝手に薬を手渡したことを謝罪すると、それはあなたの責任ではないとフォローしながら力なく首を横に振り、高島先生は再びため息をついた。

「おそらく昨日のクロスプレーでどこか痛めたのね」
「そのようですね」
「やっぱり昨日の時点で強制的に病院へ連れて行くべきだったわ」
「とにかく今は見守るしかありませんね。私達にできることは、御幸君の無事を祈ることだけですよ」

 話題の中心になっているとは知らず、御幸君は矢のような二塁送球をしている。
 注意深く観察していても、どこかを痛めているようには見えない。今は痛み止めが効いているのだろうけど、効果が薄れはじめたら御幸君は一体どうなってしまうのだろう。
 不安を払拭しきれないまま、戦いの舞台は整えられていく。

 試合開始の五分前になった。
 球審の号令を合図に、ベンチ前にスタンバイしていたナインは駆け出す。青道と薬師が向かい合いホームベースを挟んで礼を交わしあう。「お願いします!」と四十の声が重なりその声量に圧倒された。選手達はみな気合をみなぎらせている。

 弾けるような勢いでグラウンドへ散っていった薬師の選手達。
 先発投手の三島君が投球練習を行なっている最中に、場内アナウンスがシートを読み上げる。
 注目の轟君は四番サード、真田君は五番ファーストでスタメンに名を連ねた。決勝戦でエースが先発しないということは、真田君にも長いイニングを投げられない「なんらかの事情」がありそうだ。薬師にも弱みはある。そこに付け入ることができれば、青道が勝利に一歩近づくことができるはずだ。

 打席には青道のリードオフマン・倉持君が入った。トレイントレインの応援歌が彼の背中を後押しする。
 球審が「プレイ」と宣告するとともに、甲高いサイレンが鳴り響いた。 

 いよいよ、決勝戦の幕が上がる。
 ゲームセットの瞬間に笑っているのは、青道であってほしい。笑顔の選手達がマウンドへと駆け上がる光景を頭の中に思い描く。結んだ両手に、祈りを込めながら。





 白熱する決勝戦は三対四と、薬師に一点のリードを許したまま終盤戦へ突入した。

 隠していた脇腹の負傷が発覚してもなお、御幸君はマスクを被り続けている。チャンスで打順が巡ってくるけど、ここまでは全打席凡退。バッティングは明らかに精彩を欠いている。さっきも二塁牽制が逸れて二盗を許したし、やはり痛み止めだけでは誤魔化しきれていないようだ。

 その一方で、先発の川上君は役割を全うし、四回途中から登板した沢村君は尻上がりに調子を上げている。六回からの三イニングは無失点の好リリーフでチームを盛り立てる。

 九回表、青道の最後の攻撃へと希望をつなげる沢村君のナイスピッチングに、スタンドからは拍手喝采が送られている。

「ウチは倉持君からの好打順ですよ」
「御幸君の状態を鑑みれば、まずは同点と悠長なことは言っていられないわ」
「この回で逆転しないと。御幸君があの状態では延長戦を戦うのは厳しいでしょう」

 メガネのブリッジを押し上げ、高島先生は厳しい横顔でグラウンドを見つめる。
 戦況を静観していた落合コーチの表情にも暗い影が差す。
 九回の逆転劇はプロ野球ではあまり見かけないけど、高校野球ではたびたび起こりうる──それでも数十試合に一度くらいの確率。現実は非常に厳しい。

 吹奏楽部の生徒達も最後の気力を振り絞り、今日一番の音量で演奏を響かせてくれている。チアガール達のダンスも、控え選手達の応援歌も、精一杯のパフォーマンスでグラウンドの選手達を後押ししている。青道の勝利を信じてくれている人達がこれだけたくさんいるんだ。こんなに心強いことはない。

 一番の倉持君は左打席に入る。少しでも一塁に近い左打席を選んだのだろう。
 ヒットでも四球でも、どんな形でもいいから出塁してほしい。球場いっぱいにトレイントレインの歌声が響き渡る。視線に想いを込めると、背中にじわりと汗をかく。

「倉持ーーここからだぞ!!」
「倉持くーん」
「まずは一本な!!」
「どんな形でも塁に出てくれ」
「倉持ーー」
「倉持先輩ーー!!」

 緊張が膨れ上がる中、一番倉持君は初球を打ってセカンドゴロ。
 先頭打者を打ち取った瞬間、薬師側のスタンドがドッと湧いた。この回を抑えれば優勝が決まる薬師にとって、リードオフマンの出塁を阻止した意味は大きい。

 青道側には重たい空気が垂れ込める。
 こういう場合、先頭打者が出塁すると得点への期待が一気に膨らんで流れがこちらに傾きかけるけど、その可能性を一つ潰してしまった。

 意気消沈する人々を激励するかのように、ブルペンからはミットが鳴る音が響いてくる。一イニング限定の登板を許されている降谷君が肩を作りはじめたらしい。
 力強いストレートは唸りを上げて小野君のミットを突き刺している。はたから見ていても、彼のボールは足首に怪我を負っている人間のそれじゃない。本当に登板するかどうかわからないけど「九回裏に僕が投げる」というアピールもまた、頼もしいエールだ。

 二番の東条君が打席に入る。
 彼はもともとミート力が高い選手。ここは軽打でボールを捉えてほしい。スタンドでは怪盗少女が声高らかに歌われている。

「まだだぞ!!」
「いこーぜ東条!!」
「ここからだぞ東条!!」
「東条!!」
「狙ってこーぜ」

 東条君もショートゴロに仕留められ、ヘッドスライディングで一塁へ飛び込むも一塁塁審はアウトを宣告する。

 これで、二死走者なし。
 正真正銘の「あとひとつ」になってしまった。

 ブルペンからは沢村君の檄が飛ぶ。
 後輩達を応援しにきた三年生達もグラウンドへ声を飛ばして加勢する。
 このまま逃げ切りたい薬師と、希望をつなげたい青道。勝利と敗北の目前で両者の想いがぶつかり合い、薬師側の声援も次第に大きくなり、青道の応援と混ざり合って不協和音が生まれる。

 青道は攻撃のタイムを取って、小湊君をベンチへと呼び戻した。片岡監督の指示を受けて、小湊君は木製バットを片手に打席へ入った。 

「いったれラッキーボーイ!!」
「打てよぉ春っちー!!」
「まだ終わらすんじゃねぇぞ!!」
「小湊ー!! ここから」
「ここだぞ春っちー!! 今、春男から春団治にーー」

 一球目、小湊君は迷うことなくバットを振ってボールを捉えた。
 カッ、と木製独特の乾いたインパクト音が鳴り、低く鋭い打球はセンター前へ転がっていく。一塁へ到達した小湊君は、高々とガッツポーズを掲げた。

「小湊君、ナイバッチー!」

 両手を口元に添えてメガホンを作り、小湊君まで声が届くように叫ぶ。
 三年生が集団で座っているあたりに視線を運ぶと、亮介君が小さく拳を握っているのが見えた。絶体絶命のピンチを弟がつないだのだから、兄としても先輩としてもとても誇らしいだろう。

 依然として青道が追い詰められていることに変わりないけど、俄然面白くなってきた。観客は誰だって奇跡の大逆転の目撃者になりたい。そんな心理を逆手にとって、中立の立場の観客達を青道の応援に巻き込むことができれば、一気に試合の潮目が変わる。それができるかどうかは、御幸君のバットにかかっている。 

 一塁側の青道スタンドからだと背番号「2」の後ろ姿がよく見える。
 あの背中に重たい荷物をいくつも背負い込んで、それでも今あの場所に、彼は自分の意志で立っている。自分の置かれている立場上、引きたくても引けないのか。それともすべて背負ってでもしがみついていたいのか。そんなの考えなくても圧倒的に後者だって、わかってる。

 一球目、御幸君のバットは空を切り、その隙をついて小湊君が二盗を成功させた。
 幾重にも重なった驚きの声が地面を揺らすように響いてくる。
 真田君は走者に無警戒になりがちな傾向があるという情報が、戦略の中にしっかりと生きている。全身の血が激るような感覚に身震いが止まらない。拳を固く握り締める。これがあるからデータ分析にはやりがいがあるんだ。選手としてじゃなくても、彼らと一緒に戦うことはできる。

「小湊君、よく走りましたね」
「失敗したら試合終了の場面で走るのは度胸がいるわ。さすが亮介君の弟ね」

 仲間達とハイタッチを交わす兄・亮介君の後ろ姿を、高島先生は目を細めて見つめる。
 そこからはっきりとわかるボールが続き、薬師は一度守備のタイムを取った。
 伝令がマウンドへ走り選手達に指示を出している。

「またお前が持っていくのか!! キャプテン!!」
「いいよ、持ってけ! おいしい所、全部持ってけ!!」
「もっと自分に素直になって! 本当の自分をさらけ出して! 恥ずかしがらずにー」
「御幸ー」
「御幸先輩!」
「頼んます!」

 ベンチからもスタンドからも絶えず声が響き続ける。誰ひとり諦めていない。希望を御幸君に託して声を枯らしている。

 そこから一球ボール球を見送り、二球カットで粘ってフルカウントになった。
 ツーストライクに追い込んでから、薬師の「あとひとつ」コールが一段を大きくなる。このカウントで決めにくることを確信して、固唾を飲んで祈る。

 ──御幸君、打って!

 窮屈そうなスイングの後、キンッ──と短い打球音が鳴る。
 球場にいるすべての人が打球の行方を追いかける。詰まった打球はマウンドの右側で低くバウンドし、二塁方向へと転がっていく。ショートが横っ飛びで捕球しようと腕を伸ばすけど、ボールはグラブを弾いて逸れた。打球の勢いが殺されてしまう。

「走って、御幸君! 間に合え──!!」

 無我夢中で叫んでいた。握り締めた指と指が痛い。それでも祈る手は解かない。
 カバーに走ったセカンドがボールを取った。送球体勢に入るとほぼ同時に、御幸君が一塁ベースを駆け抜ける。
 セカンドは送球を諦めて土を蹴った。

 弾けるような歓声と驚愕のため息が入り混じり、球場の空気はさらにヒートアップしていく。
 四番の初ヒットが同点、そして逆転への希望をつなぐ内野安打になった。 

 この内野安打で試合の潮目が変わった。
 二死走者なしから、二死一三塁にまで持ってこれたんだ。まだ同点にすら追いついていないけどこれで青道に流れが傾いた。
 不思議な確信が胸の中に芽生える。勝利の女神はまだ青道を見放してはいない。
 前園君のバットで勝利の女神を振り向かせるしかない。

「ゾノ!! 顔が怖ぇーぞ」
「いやいや元からだからな! 元からな!」
「思いっきり振ってこい」
「俺達の分も振ってこい!」
「今ベンチ見てなかったんじゃねーか?」
「気負い過ぎだろ……」
「いーんだよ!! 入れ込んでて! この状況どのみち打つしかねーんだからよ!!」

 伊佐敷君が大声で吠える。打席に立つ前園君は彼が誰よりも可愛がっている後輩。どんな状況でも背中を押してやりたいという気持ちが、私にも伝わってくる。

 二死一三塁の場面は、ワンヒットで逆転を狙うために二盗を仕掛け、二死二三塁にしておきたい。でも一塁走者の御幸君は負傷しているし、無理に走らせるのも酷だ。
 ランナーコーチャーを横目で確認したけど、どうやら盗塁のサインは出していないよう。さすがに負傷している御幸君は走らせないか──と、思っていたのに。

「──は、走った! 今、スチールのサイン出てましたか!?」 
「あれはおそらく御幸君の単独スチールね」
「身体を痛めてるくせに……しかも初球から走るとか」

 ズキズキと痛む頭を抱えながら、外野のシフトを確認している御幸君を睨む。これ以上無理をしてヒヤヒヤさせないでほしい、と思う反面で、一打逆転の可能性をつなぐ盗塁を褒め称えたくもなる。複雑な想いが頭の中を飛び交って忙しい。

 スタンドからでも御幸君が肩で息をしているのがわかる。痛みを必死で押しころして、それでも彼は今グラウンドに立っているんだ。
 試合から降りないと自分で決めたのならとことん貪欲にプレーしてほしい。チームの勝利のために。そしてなによりも、自分自身のために。
 新チームの主将に指名されたあの日、御幸君が宣言した言葉を、ふと思い出した。まるでそれは走馬灯のようで、首を振って嫌なイメージを追い払う。
 御幸君なら、きっと大丈夫。今はそう信じるしかない。

 前園君は二球目も空振りし、ツーストライクに追い込まれてしまった。
 球場の興奮は膨らみきった風船のようで、触れたら今にも弾けてしまいそうだ。
 薬師の勝利の瞬間を見届けたい者、青道が土壇場で試合をひっくり返す瞬間を見たい者。その両者の熱気がせめぎ合いぶつかり合って、選手達の緊張のボルテージをマックスにしている。

「ゾノー!!」
「前園センパイ!!」
「打てよオラァ」
「見えてる見えてますよ!! 前園センパイ! 怒りをスイングにー!!」

 ベンチから、スタンドから、そしてブルペンからも、前園君へ声援が飛んでくる。
 今年の夏、彼がスタンドから見ていた景色と、今こうして試合に出場し打席に立って見える景色は、百八十度も違うだろう。きっとこんな熱い展開の試合に出てみたいって、熱望していたんじゃないかな。
 背番号をもらって、試合に出て、そして活躍したいって願いながら何千回、何万回もバットを振っていた姿を見てきた──だから私は、前園君を信じてる。

 肩に力の入ったスイング。ボール球にも手を出してしまっている。ファールが飛ぶたびに悲喜交々な声がグラウンドを飛び交う。それでも信じる。必ず打ってくれる。
 勝利の女神を振り向かせるのは、前園君だ。

「前園君、打てるよ! 頑張って!!」

 そう叫んだと同時に、真田君が六球目を投じて、前園君はバットを振り出す。 
 マウンドから放たれた投球がホームベースに到達するまで、約二秒。
 観客達の歓声も、ベンチやスタンドから飛ぶ檄も、自分の心音も、球場の音がすべてがかき消える。
 一瞬の静寂を破ったのは、空気を裂くような金属音。快音が場内に反響し、すべての目が打球の行方を追いかける。

 弾丸のようなライナーがセカンドの頭上を──越えた!
 その瞬間、地響きのような歓声と悲鳴に全身が包まれた。

 すでにスタート切っていた小湊君が悠々とホームに生還して、同点。
 ライトは滑り込んで打球を抑えたのと同時に、御幸君は三塁を蹴る。ライトはすかさずセカンドへ送球、セカンドは間髪入れずにバックホームを試みる。御幸君も懸命に走るけど、タイミングはかなり際どい。

「つっこめ──」
「間に合って、お願い──!」

 ホームまであと少しのところで御幸君が頭から飛び込み、送球を捕球したキャッチャーは走者を追いかけ手を伸ばす。勢い余った御幸君は転がり、脱げたヘルメットが地面を跳ねる。クロスプレーでホーム付近に赤茶色の土煙が立ち込める。

 ホームをめぐる一瞬の攻防。
 球審の判定は──「セーフ!」

「ぎゃ、逆転したァァァ前園君うわぁぁぁナイバッチーー!!」
「ちょ、ちょっとみょうじ先生、落ち着いて!」

 身体の芯から興奮が突き上げてくる。
 勢い余って高島先生を抱き締めてしまったけど、満更でもなさそうな様子で揺さぶられている。
 記録は五番前園君の逆転二点タイムリーヒット。青道スタンドの面々も、高校野球ファン達も興奮した様子で顔を赤らめ、惜しみない歓声と拍手の雨をグラウンドへと降らせる。

 あぁ、本当に青道が逆転したんだ。
 興奮の後に少し遅れてじわじわと喜びが湧き上がるけど、まだ試合は続いている。気を緩めるはまだ早い。
 すぐに我に返ってグラウンドへ視線を戻すと、ホームベース付近で御幸君がうずくまっていた。瞬時に背筋が凍る。

 まさか本塁突入で脇腹をさらに痛めてしまったのかも──嫌な予感が脳裏をよぎったその時、御幸君は握った拳で地面をドンドンと叩いた。その仕草は喜びを噛み締めているようにも、痛みに耐えているようにも見える。
 四つん這いからゆっくりと起き上がり、白州へ向かってガッツポーズを決める。
 転がっているヘルメットを抱え、自力で立って歩き出し、スタンドへ高々と拳を掲げた。その姿を見て、目頭が燃えるように熱くなった。

 どうしてきみはそんなに強いんだろう。
 今にも叫び出したいほど痛いはずなのに、身体を庇うよりも一点をもぎ取るために走った。その強さは私には酷く眩しくて。
 フェンスの向こう側ににいる御幸君が途方もなく遠くにいるように感じてしまう。

「バットの先でしたが振り抜いたことで内野の頭を越えましたね」
「いやいや紙一重。キャプテンもよく走りましたよ」
「彼は本当にすごいですね」

 高島先生は無理やり私を引き剥がし、大きく深呼吸をしている。いつもはポーカーフェイスの落合コーチも珍しく脂汗を顔中に浮かべて、緊張しているのを隠せない。

 手に汗握る九回表の攻防は青道が二点をもぎ取って逆転し、すぐに九回裏がやってきた。この回を抑えれば、青道が勝つ。
 今日勝てばセンバツ出場が当確する──甲子園に出場できるのだ。

「九回裏、青道高校選手の交代をお知らせします。八番沢村君に代わりまして降谷君──八番ピッチャー降谷君──」 

 場内アナウンスが降谷君の登板を告げ、満を持してエースが九回のマウンドに登った。降谷君のピッチングを楽しみにしていた観客達からも歓迎の声が挙がる。

「降谷君、足は大丈夫でしょうか」
「一イニングだけなら持つでしょう。どちらかというと御幸君の方が心配ね」

 高島先生は引き締まった表情で投球練習中のバッテリーを観察している。
 私も視線を送ると、降谷君に変わった様子はないけど、依然として御幸君は肩で息をしている。深呼吸で痛みを紛らわせようとしているんだ。今頃マスクの下にはびっしりと汗をかいているはず。痛みを堪えてグランドに立つ彼を思うと、罪悪感で胃がヒリヒリする。
 もっと早く御幸君の怪我に気づいてあげられたら、こんなことにはならなかったかもしれない。せっかくあと少しで甲子園というところまできたのに、後悔ばかりで嫌になる。

 九回裏、薬師は上位打線が向かい打つ。
 薬師側のスタンドからは大声援が後押しして、グランドの空気をビリビリと痺れさせる。
 「サヨナラしよう!」という声を聞き、脳裏に夏の決勝戦がフラッシュバックする。
 奈落の底に落ちていくような絶望感を思い出すと、足が震えてしまう。酸っぱい胃液がせりあがってきたけど、深呼吸とともに喉の奥へ流し込んだ。

 九回はいつだって怖い。
 どうしても、夏の決勝戦を思い出してしまう。

 できることなら四番轟君には打席を回さないよう、三者凡退で抑えたい。
 そんな欲張りな期待に全身全霊で応えた降谷君は、青道のエースとして圧巻のピッチングを披露してくれた。
 御幸君のミットに剛速球を投げ込み、ショートゴロ、セカンドフライに打ち取り、あっという間に二死を奪った。
 これならいける。絶対、大丈夫。

 そして、最後は空振り三振を奪い──ゲームセット。

 最高潮に張り詰めていた緊張が弾け、歓声と拍手が一気に爆発した。
 雄たけびと黄色い声が鼓膜をつんざき、嵐のような拍手に全身を包み込まれる。
 急に視界がグラグラする。これは眩暈なのかな、それとも──

「……勝った?」

 選手達はマウンドへと駆け出した。控え選手達もベンチから飛び出してくる。
 そして、マウンドに駆け上り人差し指を突き上げる。「俺達がNo.1だ!」と示すように。

「えぇ、勝ったわ」
「勝ちましたね、青道が」

 高島先生はやさしく微笑み、落合コーチはブルブルと震えている。
 突き上げてくる衝動のまま、ガバッとふたりに抱きついて、腕にぎゅうっと力を込めた。気が付いたらほろほろと涙がこぼれて、頬を滝のように流れ落ちていく。背中に回るふたつの手のひらにやさしく力が籠められる。なんて温かい抱擁だろう。なんて夢みたいな瞬間だろう。

「勝った、勝った! あの子達、勝ちましたよ! 青道が! 甲子園に行けるんですよ! 私、嬉しすぎて泣きそうです!」
「もうすでに泣いてるわ」
「もうすでに泣いてますよ」

 ふたりに冷静につっこまれて、笑いのツボにハマってしまった。嬉しくて笑っているのに、同時に涙も止まらなくなってしまう。
 私は今、人生で一番幸せかもしれない。

 整列をして礼を交わす両校の選手達へ、すべての人々から拍手が送られる。
 私も手のひらが真っ赤になって熱を帯びるほど手を打ち鳴らす。薬師の選手達の健闘を労い、青道の勝利を祝って。

 整列が解けて、選手達がガッツポーズを掲げ、雄叫びを上げながら駆け出した。
 青道側のスタンドからも労いの声が送られ、どこからともなく指笛が鳴らされる。
 先頭の御幸君は列をピシッと揃えて「応援、ありがとうございました!」と精一杯の大声で、温かな声援に感謝を伝えた。

 ──御幸君、誰かを探してる?

 選手達が応援に駆けつけた友達や家族へ手を振る中で、御幸君はスタンドを見上げて視線を泳がせている。もしかしたら彼の家族や友達も応援に来ているのかもしれない。なんたって今日は決勝戦なのだから。

 ふいに御幸君と目が合う。私を見て表情を崩し、ほっとした表情を浮かべた。探してたのは、もしかして私のこと?
 御幸君は顔の前で手を立てた。ごめんなさいのポーズ。唇が微かに動く。あれはたぶん「すみませんでした」だ。
 きみに非はひとつもないのに。謝る理由なんてありもしないのに。それでも御幸君は申し訳なさそうにしている。鼻の奥がつんとする。謝らなくちゃいけないのは、私の方だ。

 「よく頑張ったね!」と叫んでみたけど、声は拍手にかき消されて御幸君まで届かない。フェンスを挟んだグラウンドとスタンドまでの、ほんの数メートル。その距離がどうしようもなく遠くて、酷くもどかしくて。

 拍手する手を止めて、腕を突き出して親指を立てる。グッドポーズ。声が届かないなら、身振り手振りで伝えるしかない。
 御幸君はポカンと口を丸く開け、喜びと痛みが入り混じったようなくしゃくしゃな笑顔でグッドポーズを返してくれた。
 ふたりの想いが通じ合う。離れていても、言葉が無くても。それがなにより嬉しくて、胸の内側がくすぐられているみたいにこそばゆい。

「そろそろ涙を拭きなさい。閉会式が始まるわよ」
「そうですね。みんなの雄姿をしっかり目に焼き付けないと」

 試合の余韻が漂うグラウンドでは粛々と閉会式の準備が進んでいる。
 ハンカチで涙を拭い、お手洗いへと席を立つ。鏡の中の私は崩れた顔をしていて思わず吹き出してしまった。我ながら酷い顔である。
 はげてしまったファンデーションを塗り直し、唇にリップを滑らせる。突貫工事だけど、まぁいいか。コンパクトをカチッと音を立てて閉じて、気合いを入れ直す。

 閉会式は晴れ舞台なんだから、もう泣かないぞ。
 そう誓ったはずなのに、優勝旗を受け取る御幸君の姿を見てまた涙腺が決壊してしまったのは、私と高島先生だけの秘密だ。






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