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隠し味は愛情を一匙


 準々決勝の翌日、夕食を終えた食堂にメンバーが招集され成孔学園のビデオを鑑賞することになった。青道のブレーン役がすっかりと板についてきた渡辺君の解説付きで。

「みんなも球場で観てたと思うけど特筆すべきはあのパワー。真木から四本のホームランを放った超重量級打線」
「夏は力を見せる前に初戦で破れてたけど選手は揃ってんだよな」
「今年は上位にくると予想したやつ結構いたし」

 さすが倉持君と白州君。事前に成孔学園の情報も収集済みらしい。
 渡辺君は表情を引き締め解説を続ける。

「真木のカーブにもしっかり対応。王谷と違って引きつけて押し込むタイプ。まさにパワー系打線だよね」
「多少詰まってもお構いなしか。お前にとって天敵になる打線かもな」
「そうですか!? 自分はそうは思いませんけど!?」

 倉持君の指摘に沢村君は自信満々な態度で応戦する。昨日の好投がよほど自信になったらしい。
 渡辺君はリモコンを操作しながら話を続ける。テレビ画面には大柄な投手が映し出された。一年生サウスポーの小川君だ。

「打者全員がフルスイングでくるだけに高めは禁物。やはり低めのコントロールが重要だと思う。投手のキーマンはこの二人。エース小島と一年サウスポー小川。小川は夏も投げてますね。一イニング持たず交代していますが」
「やっぱ決め球はスライダー?」
「いや小川にはスクリューがあるよ。ただ一年の小川はコントロールがまだ甘く大雑把なイメージがあるかな。エースの小島は後半ストレートが浮いてくるし。こうしてみると甘い球は結構あると思う。勢いで来るピッチングに惑わされず甘い球を逃さず捉えきれるかが攻略のカギになるだろうね」
「さすがナベ!」
「入ってくる! わかりやすい!」

 前園君や倉持君から褒められて、顔を真っ赤に染める渡辺君。この頃は人前で話す時にも堂々とした態度で自分の意見を述べられるようになってきて、私は感心しきっている。
 これもまた「個人の成長」であり「チームの成長」ということになるのかな。
ギクシャクしていたチームの歯車が噛み合い始めていることは、雰囲気を見ていればなんとなくわかる。ほどよい緊張感が部屋を満たしているけど、そこに居心地の悪さはもう感じない。

「みょうじ先生からは何かありますか」

 渡辺君の解説に静かに耳を傾けていた御幸君が、私にも話を振ってきた。
 最近は渡辺君を表立って話させたくて身を引いていたけど、こうして期待のまなざしを向けられたら無視はできない。
 咳払いをひとつ、小脇に抱えていたノートを開く。

「成孔のこれまでの試合を振り返ってみたけど、三回戦までコールド勝ちで合計四十五点を奪ってます。東京のチームでは一番パンチ力があるのは間違いないです。
 ただ、失点は一試合平均で四失点してるから点が取れないことはないと思います。
 エースの小島君はストレートが130km/h中盤くらいで、変化球は横のスライダーを決め球に時折カーブも混ぜて打ち取るタイプ。よくいる右投手って感じです。
 ただサウスポーの小川君は要注意です。
 コントロールはそこそこだけど、投げっぷりがよくてどんどんストライクゾーンへ投げ込んでくるタイプです。
 正捕手の枡君は積極的にインコースにも構えますが、コースが甘くなって真ん中にいくことも多々あるので、そこは逃さず捉えたいですね。決め球は帝東の向井君と同じ、スクリュー。オーバースローから投げ込まれるので向井君の軌道とは違い、沈みながら曲がるので打席でよく観察して対応してください」

 ノートから視線を持ち上げ、投手陣が座っている一角を見つめる。この中で一番緊張しているのはおそらく彼らだ。
 仙泉の真木君ですら四本のホームランを打たれているのを目の当たりにしているし、もしかしたら自分も打たれるかもしれない──なんて恐怖を心の中に抱えているかもしれない。
 神妙な面持ちの六つの瞳と、バチッと目が合う。私の言葉で彼らの気持ちをいい調子に乗せてあげたい。

「投手陣はいつもの投球ができれば十分通用します。ガタイのいい選手がフルスイングしてくるから怖いかもしれないけど、積極的に振ってくる分ストライクは稼ぎやすいし投手有利なカウントも作りやすくなります。特にインコースを突く時はビビるかもしれませんが、思いきって腕を振っていきましょう。タフな試合になるかもしれないけど、腹括って投げてください!」
「この沢村にお任せを!!」
「……負けない!」
「俺にも出番があるなら、全力で投げます」

 三人の投手陣からも気合の入った意気込みが聞けて、野手達の瞳もギラリと光る。
 点を取って打線で投手陣を援護するのが野手の役割。点の取り合いで成孔打線に負けるわけにいかない! と気合が漲っているように見える。

「こんな感じでいいかな、御幸君」
「ありがとうございます。みんな、ナベとみょうじ先生のアドバイスをしっかりプレーに活かすぞ」
「はい!」  

 歯車がまたひとつ、カチッと噛み合う音が聞こえたような気がする。小さな歯車が回りだせば、それらはいずれ大きな力を伝達して、チームが甲子園へと近づくための大きな原動力になるはず。

「まずは目の前の相手! 決勝のことは勝ってから考えよう!!」
「おっしゃ!!」
「と、いうことで沢村君は私と一緒に監督のところへ行くよ」
「ハッ、ボスが俺をお呼びで!?」

 授業中の居眠りの発覚かと焦る沢村君を引き連れて、スタッフルームへと向かう。
 実はそうじゃないんだよなーと思いつつ、居眠りの反省を促すためにあえて黙っていると、沢村君の顔にはいくつもの脂汗が浮かび上がる。でも、今は知らんぷりだ。  

「失礼します。沢村君を連れてきました」
「失礼します!! 沢村、入ります!! ボス、本日はどのようなご用件で」

 部屋に招き入れた高島先生が「疲れはない?」と沢村君を労い、彼は頬を赤く染めて元気に応えた。これから長野の両親に勝利報告のメールを送ると沢村君は答える。離れて暮らす息子から勝利の報告がメールで届いたらさぞかしご両親も喜ぶだろう。

「どうだった? 七回の三者三振。気持ち良かったか?」

 片岡監督にしては珍しく穏やかな表情で問いかけると、沢村君は「そりゃあ最高ですよ!」と興奮して声を上擦らせながら答える。確かにあの三者三振は私も震えるほどに興奮した。

「だが俺は昨日の試合で一番評価したいのはその球数だと思っている……」
「四球は失点した初回のみ……ヒットもわずか三本。九回を投げ抜いて百九球。テンポのいい投球で攻撃のリズムを生み出す。これもまた投手として一つの才能だわ」
「変化球を覚え実戦でも通用した。今投手として一番喜びを感じる時期だろうが、求め過ぎることもない。力をつけてきた今こそしっかりと地に足をつけ……一歩、また一歩と今までもそうやって前に進んで来ただろう?」 

 片岡監督の問いかけに、沢村君の大きな目がさらに大きく見開かれる。彼の周囲の時間だけがぴたりと止まってしまったかのように、しんと静かになった。
 入学してから見習い部員を経て、右も左も分からない状況で夏大でも登板し、そしてイップスも克服してきた。
 沢村君にとってこの半年間は、多くの挑戦と挫折と、確かな手応えを感じる濃い時間だったに違いない。
 公式戦で完投し、新たな変化球を覚えた今、好奇心旺盛な彼はいろんなことに挑戦したくなっているだろう。片岡監督はそれを察して彼を呼び出したのだろうか。

「まだゴールの前じゃないだろ? 見失うなよ、自分を」
「……わかりました。『昨日だけの大マグレかもしれねぇんだ調子乗んじゃねぇぞ小僧が』てことですね」
「身も蓋もないが……まぁそういうことだ」
「愛ムチあざす!! 正直言うとこのまま他の変化球にも手を出そうと思ってました!! もう一度昨日の試合をよく見直して手に入れた武器に磨きをかけようと思います!!」

 沢村君は頬を緩ませ照れくさそうに頭を掻いている様子を見ると、どうやら片岡監督の杞憂は当たっていたらしい。
 いくつかの変化球を投げられるようになれば一気に投球の幅が広がるし、御幸君のリードも楽になるかもしれない。
 でも、むやみやたらに手を出せば投球フォームを崩したり、肘や肩に負担がかかり故障の原因にもなりうるのが変化球の怖いところ。
 まずは一つ目の武器を手に入れて、それを丁寧に磨き上げる。それから新たな武器を探したって遅くはない。

「あ、そーだ! ボスも覚悟を決めておいて下さいね! 甲子園まであと二勝っスよ! 優勝したチームを置いて辞めるなんて許さないっスからね!」 

 片岡監督へと突き出したVサイン。
 必ず優勝することを前提に話しているあたりが、強気な沢村君らしい。自然と口角が持ち上がる。沢村君はこの半年で本当に頼もしくなった。
 そんな彼の突拍子もない発言に、片岡監督は驚きが隠せない様子でサングラスに覆われた目を見開く。ついに片岡監督にまで選手達が退任の件を知ってることが伝わってしまったようだ。

「“俺達“ずっとそういうつもりで戦ってますから。それじゃー失礼します! おやすみなさい」

 嵐のようにやってきて、嵐のように去っていく。
 スタッフルームに取り残された私たちはしばらく呆然としたまま沢村君の閉めたドアを見つめていた。





 それはいつものようにノックを打ち終えて、水分補給がてらベンチへと顔を出した時だった。

 なにやらブルペンに人が集まっていることに気づきそろりと片岡監督の背後に近寄ると、降谷君が投じたボールが鋭く曲がり御幸君のミットに突き刺さる。明らかにストレートではない軌道。
 あれはまさか、変化球を投げている……?

「太田部長、降谷君は何を投げてるんですか?」
「縦スラですよ。落合コーチが少しアドバイスしただけであれだけ鋭く変化するなんて」
「なるほど。オーバースローの降谷君は、横の変化球より縦の変化球の方がマッチしてるみたいですね」

 降谷君の背後でドヤ顔をしているは少々腹が立つけど、落合コーチの適性を見抜く力と的確なアドバイスは素直にすごいと思う。
 あとはこの縦のスライダーが試合で使えるレベルまで持っていけるかどうかがカギになる。
 でも、公式戦の最中は他校との試合はできないし、ブルペンで投げ込むかフリーバッティングで投げるくらいしかできないか──と思っていた矢先のこと。


「へぇ、今日は紅白戦をやるんですね。公式戦期間中に珍しいですね」
「出場機会のに飢えている控えメンバーをレギュラー陣にぶつけようってところかしら」

 きっちりとしたセットアップのスーツに身を包み、高島先生は腕を組んでグラウンドを見下ろしている。その細腕には豊満な胸が乗っかっていて、ついつい同性の私も釘付けになってしまう。彼女の曲線美から視線を剥がしたあと、うっかり自分の胸を見てしまったものだから心底残念な気持ちになる。できることなら来世は巨乳の美女に生まれたいです、神様。

 気を取り直し、今日はどうして正装なのかと尋ねてみれば、このあとスカウトしている結城君の弟が紅白戦を観にくるのだと教えてくれた。

「結城君の弟くんが来るんですか! 会えるのが楽しみです」
「楽しみしてるところで申し訳ないけど、あなたにはもう一人のお客様の付き添いをお願いしたいの」
「もう一人のお客様? 所属してるチームの関係者ですか?」
「いいえ、違うわ。まぁ、お客様と言っても青道のことは知り尽くしている方なんだけど」
「いったい何者なんですか、その人は」

 少々回りくどい口調が気になって端的に問うと、高島先生はふと柔らかい笑みをこぼす。その横顔はどこか親しげで、昔を懐かしむような表情をしている。

「片岡監督の恩師でもあり、前任者でもある榊さん。青道の元監督よ」

 榊、監督。
 確認するように口の中でその人の名前を転がす。榊元監督の名前は噂には聞いたとこがある。片岡監督が就任する前に長く青道を率い、夏の甲子園準優勝に導いた名将。
 今は大学で監督をしていると聞いたことがあったけど、どうしてこのタイミングで訪問されるのだろう。

「もしかして、引退した三年生のスカウトですかね」
「今日は別件よ。私が榊さんを呼んだの」
「どういうことですか」
「今のうちに打てる手は打っておかないと……後悔させたくないから」

 その答えの意図を読み取るのには少しばかりの時間がかかった。高島先生が「後悔させたくない」のは榊さんではなくて、彼女の視線の先、グラウンドで腕組みをして視線を巡らせている、あの人──。

「なるほど。高島先生も策士ですね」

 榊さんは片岡監督が高校野球の指導者を目指すきっかけになった人物。
 その人と引き合わせ片岡監督が心変わりするかもしれないわずかな可能性に、高島先生は賭けてみたいのだ。だったら私も協力するしかない。

「と、いうことで榊さんのことは頼んだわよ」
「承知しました」

 高島先生と分かれてグラウンドへ通りるとすでにレギュラーチームと控えチームに分かれてのシートノックが始まっていた。
 裏からベンチを覗いてみると、レギュラーチーム側のベンチは落合コーチがどかっと腰掛け、控えチーム側のノックを片岡監督が打っている。
 ちょっと待って、どうして落合コーチがレギュラーチームの監督なの? 

 おそらく私と同じ疑問を抱えているであろうレギュラーチームの面々は、どこかぎこちなさを拭えぬ態度で落合コーチと接している。なにやら話し込んでいる御幸君の表情もなんとなく硬くて、困惑しているのが見てとれた。

 その一方で、控えメンバーの士気は炎のごとくメラメラと燃え上がっている。
 ベンチ入りを果たしてもなかなか試合の出場機会に恵まれないのだから、この紅白戦は片岡監督にアピールする絶好のチャンス。今日活躍すれば次戦で起用されるかもしれないという期待感が、プレーや表情から溢れ出している。

「さて、どんな試合になるのかな」

 落合コーチの指揮官としての手腕が試される一戦。控えメンバーは片岡監督にプレーでアピールすることができるだろうか。
 そして、恩師の来訪に片岡監督はどんな反応を示すのだろう──。


 *


 試合が始まってしばらくした頃、ふと見上げた土手の上に一人の初老の男性の姿を見つけた。
 スーツを着たその人はしばしのあいだ感慨深そうにグラウンドを見渡した後、ゆっくりと土手を降りてくる。

 そういえば、榊さんがどんな見た目なのか高島先生に訊くのをすっかりと忘れていた。それでもその初老の男性が彼なのだと、一目ですぐに分かった。
 その顔は年を重ねた分だけ多くの皺が刻まれているけど、眼光は鋭く、背筋はしゃんと伸びている。百戦錬磨のオーラが背後から放たれているようで、私の背筋もシャキッと伸びる。

「お待ちしておりました、榊さん」
「おう。あんたが新しい顧問だって?」
「申し遅れました。今年から顧問になったみょうじと申します」
「若い女性が顧問をやるようになったとはねぇ。俺がいなくなってから青道も随分と変わったもんだ」

 よく日に焼けた手で丸い顎を撫でながらじっくりと顔を眺められると、緊張から背中に汗が噴き出してくる。
 榊監督も私の存在を快くは思ってくれないのだろうか。歳が若いとか、性別が女性というだけで。
 喉の奥がきゅっと詰まり、不安に思考が曇ると唇が縫われたように開かなくなる。
 私の顔が一瞬強張ったのを見逃さず、榊監督はすかさず肩を軽く叩いてカラっと笑いかける。

「そう緊張しなさんな。さぞ鉄心が苦労かけてんじゃねぇか?」
「いえ、まぁ……そうですね」
「アイツも頑固で気難しいところは相変わらずのようだしなぁ。味方になってくれてありがとうよ」

 そう言って榊監督は私へ向かって頭を下げる。数十歳も年下の若輩者の私に、抵抗することもなくあっさりと。

「いえ、あの、そんな……顔を上げてください」

 顔を上げたその目の奥には、柔らかい光が宿っている。私の姿を通して教え子を見つめる瞳はとても穏やかだ。

「私はまだまだ未熟で……片岡監督の味方になれるような力は無いです。でも、これからも教わりたいことは山ほどあります」
「みょうじ先生の言いたいことは分かってるよ。今日、俺は鉄心に宣戦布告しに来たんだ」
「宣戦布告……ですか?」
「まぁ、その話はまた後でな。今は試合をじっくり観させてくれ」

 私が先導に立たなくても榊さんには向かうべき所がわかっている。先に歩き出した背中を追いかけ、右隣に並ぶ。慣れ親しんだ青道グラウンドのことなら、きっと目をつぶっていてもどこに何がわかるだろう。
 まるで家の玄関の戸を引くような自然な手つきでプレハブのドアを開けると、太田部長と吉川さんが慌てて席を立ち出迎えてくれた。

「お待ちしておりました、榊さん。ご無沙汰しております。どうぞお入りください」
「邪魔するぜ」
「榊さん、こちらは女子マネージャーの吉川です」
「一年の吉川春乃と申します!」
「こちら片岡監督の前にこの学校の監督を務めていた榊さん。今はH大の総監督を務めておられるんですよね」
「あ……はい、知ってます」
「今は女子マネージャー取ってるのか? 華やかでいいやな。とにかく試合見ようや。座りねぇ」

 プレハブの真ん中、特等席へ腰掛けた榊さんは、試合を眺めつつポツリポツリと昔話を語ってくれる。
 その昔、片岡監督がまだ高校球児だった頃、「悪童」と物騒な二つ名で呼ばれていたことや、一年生の秋からエースナンバーを背負わせ化けていく成長過程。甲子園で鉄腕を振るいチームを準優勝へ導いた夏、そして「高校野球に恩返しがしたい」と言ってプロ入りを蹴って指導者を志した理由まで。

 榊さんから語られる話を聞いていると、片岡監督がどれほど高校野球に感謝しているのか、そして選手達へ深い愛情を注いでいるのだと改めて思い知る。
 でも、片岡監督は今その道を自ら離れようとしている。本人が望んで選択したことかもしれないけど、私はその選択が正しいものだとはどうしても思えない。

 控えメンバー側のベンチに見やると、片岡監督は険しい表情で腕組みをしながら戦況を見つめている。
 試合はまだ、始まったばかりだ。





 紅白戦は七対二でレギュラーチームが勝利を納め、夕暮れのグラウンドでは榊さんを交えての話に花が咲いている。
 落合コーチの紹介も済んだところで、榊さんが話を切り出した。

「それでな、今日は別に昔話をしにきたワケじゃねえんだ、鉄心。お前に宣戦布告しようと思ってな」

 榊さんの「宣戦布告」という強い言葉に片岡監督の息を呑む音が聞こえた。
 試合中ずっと気になっていたその言葉の意味が、今語られようとしている。私も息を潜めて耳を傾ける。

「高校野球の現場を離れて七年。熱心に誘ってくれる高校があってな……大学でじっくり野球と向き合うのもおもしれーんだが、また……疼いてきちまってな。
 由良総合工科高等学校。これからは同じ西地区のライバルになるワケだ! ……とはいえ俺も歳だ。現場にいられるのもそう長くないだろう」

 榊監督の目がギラリと光を放つ。
 それは片岡監督が球児だった頃と、きっと同じだけの強さで輝いている。

「逃げんなよ、鉄心」

 かつての師弟は時を超え、今まっすぐに向かい合う。
 榊監督の宣戦布告。
 それはグラウンドを挟み、勝敗を争って戦おうという挑発だった。
 師弟対決の誘いだなんて激アツすぎる展開だ。

 片岡監督は嬉しそうな、それと同時に寂しそうにも見える曖昧な表情でかつての恩師のまなざしに応えた。
 「はい」とも言わず、頷きもしない教え子の肩を叩きながら、榊監督は満足そうに目を細める。

 ともに汗を流し、声を枯らし、闘ってきたそのグラウンドを背にして、ふたりの姿はゆっくりと夕焼けの橙に塗り込められていった。





 準決勝前夜、食堂では成孔学園戦へ向けた試合前ミーティングが行われている。
 あと二つ勝てば、秋大優勝。それはすなわち、春のセンバツ出場当確を意味する。
 先日の紅白戦の効果も抜群で、控えメンバーの士気も高く、レギュラーメンバーも実践形式での調整ができて、チームの雰囲気は高まってきている。勝つことで自信がつき、チームの形がより強固に作られていく。
 これはイケるぞ、という期待感に胸が膨らむ一方で、やはり心配なのは片岡監督の動向だ。榊監督の「宣戦布告」が効いて考え直してくれればいいんだけど。


「明日の先発、御幸君には伝えましたか?」

 帰り支度を終えてスタッフルームのドアを開けたタイミングで、高島先生の声が聞こえてきた。
 暗い窓を見つめていた片岡監督はその声で我に帰ったらしく、高島先生の顔に視線を向ける。

「泣いても笑ってもあと二試合。強豪ひしめくこのブロックを勝ち抜けたのは夏の苦い経験があったからこそ。あの子達はもう前しか見ていないでしょう。そして、沢村君が言ったあの言葉、あれは部員達の声を代弁したものだと思います」

 諭すような穏やかな口調でも、その声には一本の芯が通っている。
 いいぞ、もっと言ってやれ! と心の中で高島先生を応援しながら、彼女の背後にそっと立つ。片岡監督には悪いけど私は高島先生派なのだ。

 窓の外を見つめる片岡監督の背中はとても大きく頼もしくて、それでいてどこか遠く──ここじゃないどこかを見つめているように見える。
 あなたは大事な選手達を置いて、どこへ行こうとしているの?

「あいつらの気持ちは嬉しいがやはり一度出した辞任届を今さら取り下げるわけにいかない」
「ですからそれを……」
「結城達を甲子園に連れて行ってやれなかった責任はもちろん感じている。それだけでなく、一度野球を外から見てみたくなったんだ。決して野球から逃げるわけじゃない。むしろ今より前へ進むための大きな選択だと思ってるんだ……。学校には残る。
 できる限りの協力はするつもりだ。勝手なことを言って本当にすまない……」
「本当に自分勝手ですね」

 思わず口を突いて飛び出した言葉に、片岡監督と高島先生は驚いて目を丸くする。
 ちなみにこの場にいる誰よりもびっくりしているのは、私自身だ。無意識で喋ってしまうなんて人間の本能って本当に怖い。
 頭の片隅では冷静を保ったまま他人事のようにそう思う。
 一度口を開いてしまえば、誰かに唇を針と糸で縫い付けられない限り言葉が止まらない。

「覚えてますか? あなたは六年前の夏、私から甲子園を奪ったんです。結城君達だって甲子園で勝てるレベルのチームだったのに結果は決勝戦敗退で……私も含めて今いる選手達は誰も甲子園の土を踏んだことがない」
「……」
「ちょっと、みょうじ先生、落ち着きなさい」
「これが落ち着いていられますか!? 私は怒ってるんです! 今のチームで甲子園を知っているのは片岡監督だけじゃないですか! そんなのずるいですよ!」

 我ながら主張が子供じみていて、説得力に欠けている自覚はある。
 それでも、今伝えなきゃいけない。
 真正面から宣戦布告をした榊監督や、チームの意志を伝えた沢村君のように。

 じりじりと片岡監督に詰め寄ると高島先生は私の肩を押さえるように手を添える。
 本気で私を止めようとしている力の強さじゃない。言いたいことをすべて言ってしまいなさい──高島先生の目はそう訴えている。

「監督を辞任して負けた責任を取ろうだなんて、ダサい大人が考えることです。
『チームを甲子園へ出場させる』こと以外に、責任を取る方法はないんですよ。そして、甲子園で指揮を執るべきなのは落合コーチではなく    『片岡監督』──あなたです」

 グラサン越しの鋭い目がまっすぐに私の目を射る。その視線はまるで刃物のようでもはやカタギのそれではない。私よりも遥かに大きな身体から湧き立つオーラに気圧されそうだけど、足で踏ん張ってなんとか堪える。腋やら膝の裏に汗のにじむ感覚がたまらなく不快だ。

「建前はいいから、片岡監督の本音を聞かせてください。本当は秋以降も監督を続けたいんじゃないですか?」

 私の問いかけに、片岡監督はむっつりと黙り込んで目も合わそうとしてくれない。
 また一歩歩み寄ると、耳の裏側で高島先生が息を詰める気配を感じる。

「最初はぎこちなかった新チームも、勝つたびに少しずつまとまってきました。一冬超えたら、このチームは化けるはずです! それに降谷君と沢村君のことだって……彼らが競いながら成長していく姿を一番近くで見守りたいでしょう」

 ほぼ一息でまくしたてると肺が酸素を求めて忙しなく動く。ゼェハァとあえぐように肩で息をする背中を、高島先生の薄い手のひらが摩ってくれる。
 片岡監督はただひたすらに私の言葉を浴びせかけられ、反論することもなく黙って全てを受け取ってくれた。
 でも、ただそれだけで。肯定も否定も無い。何か一言でも言い返してくれればいいのに。私が感情を剥き出しにしても片岡監督は本音を教えてはくれない。もしくはさっき言った言葉が本心なのかもしれない。そうだとしたら私の抵抗なんてまるで無意味だ。

 片岡監督の横顔は険しいままで眉ひとつ動かさない。静かに深く息を吐き出してから、また暗い窓の外を見やる。夜の闇が鏡のように室内の灯りを反射して、そこに映し出されるのは己の姿だけ。

 ──本当にもうダメなのかもしれない。

 いい加減諦めた方がいい、もう何を言っても無駄だよ──無意識の領域から声が聞こえてくる。ぎゅっと狭くなる視界。頭の中は燃えるような怒りで沸騰しているのに足の爪先は冷たい悲しみにじわじわと蝕まれている。
 その名が表すとおり、鉄のように固い意志は揺るがすことはできないのかもしれない。恩師の榊監督の宣戦布告にさえ、明確な答えを示さなかったほどだった。

 ずっと握りしめていた拳を解くと、喉の奥までカラカラに渇いているとようやく気がつく。徒労感がどっと押し寄せて身体に力が入らない。

 高島先生に促されるままにスタッフルームを出て、とぼとぼと帰路に着く。手すりに掴まっていないと滑り落ちそうになる。疲れた。すっごく疲れた。このままさっさと帰ろう、明日は準決勝だし。

 (……そうか、もう準決勝なんだ。あのぎこちなかったチームが、ここまで……)

 (勝っても負けてもどちらにせよ片岡監督が辞めちゃったら、きっと選手達は落ち込むだろうな……いや、絶対に勝つけど)

 弱気と強気な感情が波のように押し寄せては引いてを繰り返す。疲れていると情緒不安定になりやすい。

 俯いたまま歩いていると、視界の中に誰かのスニーカーの爪先が飛び込む。
 驚いて顔を上げると、いつの間にか目の前に立っていた御幸君と目が合う。私の顔を見た途端に、端正な顔立ちは固くなる。
 あぁ、今会いたくなかった。何を訊かれても上手く誤魔化せそうにない。

「どうしたんですか、みょうじ先生。すげぇ酷い顔してますけど」
「……なんでもない」 

 ぎゅるるるる。
 唐突に間抜けな音が聞こえて、私達は顔を見合わせる。音の出所は明らかに私のお腹からだった。
 今まですっかり忘れていたけど、そういえばお腹が空いていたんだっけ。間髪入れずにまたお腹の虫が情けない声で鳴く。他人にお腹の音を聞かれるの、すっごく恥ずかしい。それが御幸君ならなおさら。

 あまりも気まずすぎるので足早に横を通り過ぎようとすると、不意に腕を掴まれて歩みが止まる。今の私にはその手を振り解くエネルギーすら残っていない。

「なに」
「腹減ったまま帰るとしんどいでしょ。炒飯くらいならすぐ作れるんで食べていきませんか」
「いや、いいよ。本当に大丈夫だから」

 提案するような言い方だけど、こちらが拒否できそうな隙は一切ない。御幸君は営業的なスマイルをマスクのように顔に被せているだけ。ぎゅうっと腕を掴む手が離さないぞと主張している。御幸君を相手に抵抗するだけ体力と気力の無駄遣いだと、この半年のつきあいから学習している。

 力なく頷くと、食堂に引きずり込まれ厨房のすぐ前の席に座らされた。ついさっきまで賑やかだった食堂はがらんと広く、一部だけ点灯した室内は薄暗い。

 食堂の炊飯器には常日頃から補食用の米が炊かれ保温されている。夜遅くまで自主練に励む選手達がお腹を空かせないよう、おかずの残り物やふりかけ類も常備してあるのだ。三杯の白米を食べ切ってもさらに補食で補わないとお腹が減って眠れないらしい。高校球児の食欲って本当にすごい。

 御幸君は冷蔵庫を物色し、具材を手早く刻んでそれらとご飯をサッと炒め、調味料で味を整え、あっという間にお手製炒飯ができあがった。調理時間は十分もかかっていない。室内にはふわっとごま油の香ばしい匂いが漂っている。

 目の前にことりと置かれた皿からは中華料理のいい匂いが立ちのぼる。細かく刻んだネギの緑と卵の黄色、それとハムのピンク。急に視界が明るくなった気がするのはその彩りに目が驚いたからかもしれない。

 ふたり分の炒飯が向かい合って置かれ、タイミングは測らず「いただきます」の声が揃った。ほかほかの一口目を頬張ると、町の中華屋とは少し違ったやさしい旨味が口の中いっぱいに広がる。多分、味付けで塩味を控えめにしてくれたんだろう。
 幼い頃、日曜のお昼ご飯に母が作ってくれた炒飯の味に似ている。懐かしい味、やさしい美味しさ。

「……口に合いますか?」

 一口食べてフリーズしている私を心配して、下から遠慮がちに顔を覗き込んでくる御幸君。その瞳は不安そうに揺れている。

「すっごく美味しい」
「それならよかった」
「この炒飯すっごく美味しいよ。今まで食べた中で、一番美味しい」
「いや、それは大袈裟ですって」
「本当のことだから。ありがとう御幸君」

 食欲旺盛な男子高校生のような勢いでスプーンが皿と口の間を行き交う。あったかい。この炒飯も、御幸君のまなざしも、頬を伝う何かも。

「……泣くほど美味いですか?」
「……うん」
「やっぱりなんかありましたか?」
「…………なんもないよ」
「誰にも言わないんで。ここで愚痴ってもいいですよ」
「きみに弱音を吐いたところで何も解決しないから」
「……そうですか」

 せっかく歩み寄ってくれたのに急に突き放してしまったせいで、御幸君はつまんなさそうに唇を尖らせる。机に乗り出していた身体を離して背もたれに寄りかかると、頭の後ろで両手を組む。向かい合っていたはずのふたりの距離が、急に離れてしまったように感じる。
 私は御幸君にこんなことが言いたいわけじゃない。

 手に持ったままのスプーンを置くと、両手を膝に置いて丸まっていた背筋をしゃんと伸ばす。まっすぐに御幸君の目を見るとレンズの向こう側の目がまばたく。

「でも御幸君のおかげで、ちゃんとメイク落として、湯船に浸かって、ぐっすり眠れると思う。だから、本当にありがとう」

 スタッフルームを出たあと、歩くことすら億劫になっていた私は家に帰れてもぐずぐずしていたに違いなかった。
 化粧も落とさずにそのままベッドに潜りこんで眠れない夜を過ごしていただろう。

 そんな私を救ってくれたのは、御幸君だ。
 彼の作ってくれたあったかい炒飯は、空っぽだった心と身体を温かく満たしてくれた。心からありがとうって、伝えたい。
 おでこが机にくっつきそうになるくらい深く頭を下げると、潤む視界の中に長方形の箱が入ってきた。そこからティッシュを数枚取って頬の滴を拭い、ぐずぐずの鼻をかんだ。

 しばらく顔を上げることができず、情けなく鼻を鳴らしながらも炒飯を平らげた。
 恥ずかしくて目を合わせることもできなかったけど、なんとなく御幸君の雰囲気は丸くて、きっと穏やかな表情をしていたんじゃないかなと、自分に都合のいいように思い込む。

 そのあと御幸君はそれ以上何も訊いてこなかった。
 ふたりでご馳走様をして、バス停までの帰り道を歩いて、バスが来るまで待っている間も話題は明日の試合のことばかり。私が突然泣いた理由には一切に触れずに。御幸君のやさしさに、私は今この瞬間も救われている。

「明日も勝とうね」
「もちろん」

 いつものように口端を吊り上げ、御幸君は穏やかな声で告げる。
 走り出したバスに手を振って、角を曲がるまでそこにいてくれた。暗い街を進む車窓には室内灯で照らされた私の姿が映し出される。夜を映した窓は鏡のようだけど、どうしても鮮明さには欠ける。一度は拭った滴が、また頬を滑り落ちていく。

 ──ありがとう、御幸君。

 自分で勝手に傷ついたくせに、御幸君に救われている。
 もう、泣かない。自分自身に強く言い聞かせる。もう絶対に、泣かない。
 次に泣く時は勝って、センバツ当確を決めて、嬉し泣きをする時だ。


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「ずいぶん人が入ってますね」
「準決勝だからね。もうすぐ札止めになるって聞いたわ」
「まだ試合開始前なのに。すごい盛況ですね」

 準決勝の舞台である神宮第二球場のキャパは五千人ほど。開場から二階席も開放し刻一刻とスタンドの空白が観客達で埋め尽くされていく。
 東京にも熱心な高校野球ファンが多くて、朝早くから並んで球場の最前列を確保する人も少ない。試合開始前だというのにスタンドには早くも熱気が渦巻いている。

 観客達の話声に聞き耳を立てると──青道の剛腕エース降谷と成孔学園の超重量級打線の対決が楽しみだ──ということらしい。まぁ勝つのは青道だけどね、と心の中で答える。青道には降谷君だけじゃなく沢村君と川上君だっているのだから心強い。

「大丈夫そうね」
「何がですか?」
「昨日のことがあったから、落ち込んでるんじゃないかと思ってたわ」

 長いまつ毛が上下して白い頬に影を落とす。その黒い瞳は憂いを帯びていて、いつかの教科書で見た黒曜石に似ている。艶々した光を宿す、潤んだ黒。

「もう大丈夫ですよ。昨日、美味しい炒飯をご馳走してもらって元気が出たので」
「それならよかったわ」

 その炒飯を作ってくれた人は、私達の視線の先、グラウンドの中にいる。
 選手達の円陣の中心で王者の掛け声を声高らかに響かせ、天を指差した。

 俺たちが挑戦者として東京No.1になる。

 選手達の強い意志が空気を震わせその熱い想いはスタンドまでしっかりと届いた。
 青道なら、絶対大丈夫。
 今日勝って決勝戦に進むのは青道だ。

 プレイボールとともに、開戦を告げるサイレンが鳴り響く。
 準決勝の火蓋が今、切って落とされた。






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