カレンダーはまた一枚めくれ、季節はまたひとつ進む。
今日は十月一日。秋大一回戦、帝東戦は明日に迫っている。
放課後、選手たちは室内練習場に集められた。今日は朝から本降りの雨が降り続き、室内練習場の屋根を叩いている。
東京の空には秋雨前線が横たわり、景色は曇天の色に沈む。試合日は雨の可能性が高いと知ってから、私は気を揉んでいた。このチームは雨天の試合経験がほとんどないのだ。
「先発に降谷」
「はい!」
「スタメンは以上だ! 明日も雨予報だがこればかりは当日になってみないと分からん。試合をやるつもりで今日は早めに休むように」
「「「はい!!」」」
片岡監督から明日のスタメンが発表され、名前を呼ぼれた選手たちの表情は、より一層引き締まる。
一度話が途切れたところで手を挙げると、その場にいる全員の視線がこちらへ集まり、一気に緊張感が高まる。選手たちのまなざしは真剣そのものだ。
「私からも共有事項があります」
片岡監督に目配せをすると無言で頷く。
それを合図に胸に抱えていたノートを開いた。
「明日の先発は向井君で間違いないでしょう。彼は非常にコントロールが良く、決め球にスクリューを使う珍しいタイプです。
左のサイドスローということもあって、左打者はスクリューの対応が難しいでしょう。狙い球はストレートに絞ってもいいかもしれません。
特に、低めボールはしっかり見極め、クサい球はカットして打者有利な平行カウントに整え、なるべく向井君に主導権を握らせないようにしたいですね。
コントロールが良い投手は、外角のストライクゾーンが広くなりがちなので、打席の立ち位置を工夫するといいかもしれません。
打球方向はセンター方向を狙って、逆方向に流し打ってもいいとも思います。無理に右方向へ打とうとすると、ゲッツーの山を築くことになってしまいます」
「ちなみに、向井君は公式戦で完投した経験がありません。甲子園ではリリーフとして数回だけ登板して、ブロック予選は全てコールド勝ちでした。カットで粘って球数を放らせれば、制球力も落ちてくるでしょう。
ウチは明川学園の楊君だって打てたんです。自信を持って打席に立ってください」
ノートから視線を持ち上げると、一斉に感嘆の声が上がった。
御幸君は満足そうに頷いて、親指を立てる。はにかみながら頷くと、彼も白い歯をこぼして応えた。
選手たちの士気が高まり、その場の空気が高揚していくのを肌で感じる。
私の仕事はここまで。彼らと肩を並べて最前線に立つことはなくても、私のまとめたデータはチームの役に立つと、必ず勝ってくれると信じている。
「最後に……一つだけいいか。相手は名高き帝東。楽に勝たせてくれる相手じゃない。
だが相手を必要以上に大きくしてしまったり、いつもと違うことをしようと考えなくていい。敵は己の中にあり!!」
片岡監督は拳で胸を叩く。
その激励の言葉には「練習でやってきたことをすべて発揮すれば勝てる」というメッセージが込められている。
選手たちを鼓舞するように、拳を胸に掲げてさらに声を張り上げる。
「本来の力を出し切ることが勝利への近道と知れ。夏休み一人でも脱落した者がいたか? いないだろ?
練習量だって引退した三年生に負けちゃいない──どんな状況でも最後まで諦めるな。自分たちが流してきた汗に誇りを持て。
お前たちなら出来る。明日はベストを尽くそう! 以上、解散!」
「「「したぁ!」」」
いつもは口数の少ない片岡監督が、今日は饒舌に選手たちへと語りかけた。
それはまるで、別れの挨拶のようで。
選手一人ひとりにエールを投げかけるような、熱い台詞だった。
もしも、明日負けてしまったら、片岡監督が指揮する最後の試合になるかもしれない。だからこそ、試合前日にこのメッセージを届けたかったんだ。
いま一度、強く思う。
帝東に、絶対勝つ。
明日で最後なんかにさせない──と。
*
「雨、止まないですかね」
「秋雨前線が関東を覆っているようだし、雨脚が弱くなったタイミングで再開するしかなさそうね」
秋季東京都大会、一回戦。
帝東高校との試合は五回表まで終わり、降雨のために試合は中断中。
冷たく身体を濡らす雨から逃げるように、私は高島先生とコンコースへ降りてきた。
彼女は曇天の空を恨めしく睨みつけ、私は天気アプリと睨めっこをする。
案の定、天気予報どおり今日は朝からあいにくの雨。さっきから何度も雨雲レーダーを確認しているけど、試合の終盤までは止み間もなさそうだ。帯のような雨雲が東京全体を覆っている。
「なんとか五回まで試合ができましたけど……この中断もいつまで続くんですかね」
「長くても一時間てところかしら。でも、二度も中断することになったら、雨天コールドの可能性も出てくるわ」
「試合が成立する七回までには、リードを奪いたいですけど。なかなか向井君を打ち崩せませんね」
「この雨の中で向井君も大したものよ。さすが甲子園を経験しているだけあるわね」
高島先生の言うとおり、向井君は雨を苦にする様子は見られない。ロジンを何度も指先につけ、晴天の時とさほど変わらない抜群のコントロールを披露している。
悔しいけど、彼のピッチングを素直に褒めるしかない。歯痒い気持ちが胸の中で膨らむばかりだ。
しばらくすると、雨脚が小雨になった。
その隙にグラウンドキーパーたちがグラウンドへ土を入れる。
試合が再開したのは、中断から三十分ほど経ってからだった。
グラウンドコンディションは、土を入れたところでさほど変わらない。選手たちのユニフォームは、泥で真っ黒に染まりつつある。
五回裏、青道の攻撃は四番から始まる。
御幸君は初球を捉え、目が覚めるようなツーベースヒットで出塁した。
「ランナーがいなくても打ちましたね」
「御幸君はコントロールの良い投手とは相性抜群なのよ」
「そういえば、明川学園の楊君も打ってましたね」
四番の快打でようやく掴んだ、無死二塁のチャンス。このチャンスを向井君を打ち崩すきっかけにしたいけど、片岡監督はどんな作戦を仕掛けるだろう。
次の打者は打撃力も備えた降谷君。
一塁ランナーコーチャーのサインを見ると、どうやらバントらしい。降谷君は打撃もいいけれど、ここは貴重な先制のチャンス。片岡監督は慎重に走者を進める方法を選ぶ。
あとは、あまりバントをしない降谷君が無事に送れるかどうか──と思っていた、その時、ふと違和感に気づく。
「あれ?」
「どうかしたの」
「降谷君、アンサーサインを出してないです」
高島先生は一瞬で鬼の形相に豹変し、打席の降谷君を凝視する。
打者はサインを確認した時、アンサーサインを出して知らせる必要がある。
青道の場合は「ヘルメットのつばを触る」がアンサーサイン。
でも、降谷君はそれをしていなかった。
やはりサインを見ていなかったようで、降谷君はバントの体勢をとる気配も無い。
ヒッティングの構えからスイングすると、芯を外された打球がふわっと宙に舞い、そのまま素直にファーストミットへ吸い込まれてしまった。
絶好のチャンスでランナーを進塁させられず、あっさりとワンアウトを献上してしまった。スタンドのあちこちからため息がこぼれる。
「片岡監督の雷が落ちそうですね」
「サインの見落としなんて、叱られて当然よ」
怒った高島先生は、鬼より雷よりも恐ろしい。
六番白州君はライトへ犠牲フライを放ち、御幸君はすかさずタッチアップをして二死三塁。
チャンスはまだ続いている。
けれど、七番樋笠君はあえなく三振に倒れてしまった。
無死二塁の絶好のチャンスを生かせず、青道の攻撃はまたも無得点で終わってしまう。
──また攻撃が噛み合わなくなってきたな。
新チームが結成したばかりの頃、夏休みの練習試合の出来事を思い出す。
ヒットは打てる。でも、進塁打が打てずにゲッツーになったり、バントを失敗したり、チャンスではタイムリーが出ず、なかなか得点ができなかったシーンばかりが、鮮明によみがえる。
降り続く雨がシャツを濡らし、肌にペタリと張りつく。ひんやりとした感触がじわりじわりと体温を奪う。
前髪からぽたぽたと垂れる雫がうっとおしくて、指で毛先を分けるたびに気持ちがざらついた。──なんだか、嫌な予感がする。
六回表、青道の守備のタイミングで、再び雨脚が強まってきた。
降谷君はコントロールを乱し、ゾーンから大きく外れるボール球を連発する。ロジンをなじませたところで、指が滑って仕方がないのだろう。
ブルペンから沢村君の必死なアピールが響いてくる。雨での中断中も肩を作り続けていたのに、沢村君はちっとも疲れを見せない。彼は本当にタフだと思う。
降谷君は先頭打者に四球を与え、四番乾君を迎えてしまう。走者を置いて対戦したくない打者だったけど、ここは勝負するしかない。
「初球の入り方、慎重に!」
そう叫んだ直後、乾君の放った打球が右中間を切り裂く。目が覚めるようなツーベースヒット。一塁走者は一気に三塁まで陥れてしまう。
さすが二年生で帝東の正捕手に定着しているだけある。リーダーシップもあるし、強肩だし、バッティングも素晴らしい。
思わず唇を噛み、心の中で舌打ちをする。
これで、無死二・三塁。
絵に描いたような大ピンチに、青道ナインは前進守備を敷いて応戦する。
「この状況になったら……失点は免れませんね」
「まずいことになったわ。降谷君、集中力を切らしてしまったかも」
高島先生の予言が的中してしまう。
五番にもタイムリーヒットを浴び、帝東が一点を先制。
二塁走者も果敢に本塁を陥れようとするも、麻生君の正確なバックホームで本塁憤死。二点目を阻止して、ようやく一つ目のアウトをとった。
それでもなお、一死二塁のピンチが続く。
御幸君は一旦タイムをとってマウンドへ向かい、降谷君に深呼吸を促している。
とにかく落ち着け、と言い聞かせているのだろうか。
御幸君の助言も虚しく、降谷君は六番打者にもストライクが投げ込めない。
このままだと、また四球を与えてしまうか、ストライクゾーンに置きにいったボールを痛打される。そんな光景が容易に想像できる。
このままじゃまずい──でも、いったいどうすればいい?
「御幸!」
片岡監督が声を張り上げ、球場中の視線が青道ベンチへと集まる。
守備のタイムを要求する片岡監督の傍に、深呼吸をする沢村君が佇んでいた──投手交代。
「川上君じゃなくて、沢村君ですか!?」
「監督は沢村君のハートの強さに賭けたわね。彼なら、負のスパイラルを断ち切ってくれると信じてる」
高島先生は期待を込めたまなざしで、マウンドへ登る沢村君を見守る。彼女が長野からスカウトしてきた、ダイヤモンドの原石。緊張感のある試合で投げる姿を見られるのは、さぞ嬉しいだろう。
その反面で、私の頭の中は期待と不安が入り乱れ、ぐちゃぐちゃになっている。
沢村君はまだインコースへのイップスが克服できていない状況で、帝東打線と対峙しなくちゃいけない。
アウトコースへのストレートと、ナチュラルに変化するムービングボールだけで、甲子園を経験した強力打線をねじ伏せることができるのだろうか。
「インコースが投げられないのに……大丈夫でしょうか」
「ここまできたら見守るしかないわ」
私の心配をよそに、沢村君はアウトローいっぱいにストレートを走らせ、ミットが湿ったいい音を鳴らす。
御幸君はアウトコースに高低差をつけてリードを組み立てる。六番を見逃し三振、七番をサードゴロに打ち取り、きっちりと後続を絶った。
「うおーしおしおし! おーしおしおし! おーー」
「沢村君の叫び声はよく通りますね」
「多少騒がしいけど、今日だけは大目に見てあげてほしいわ。沢村君が火消しをしてくれなかったら大量失点の可能性もあったんだから」
「本当にマウンド度胸がありますね、沢村君」
帝東に先制は許したものの、沢村君の好リリーフもあって最小失点で凌ぐことができた。
六回裏、青道の攻撃は点を取ってすぐに追いつきたい。しかし、先頭打者の八番麻生君がセカンドゴロ、九番東条がピッチャーゴロで出塁できず。
二死走者なしで、打順は一番倉持へ。
低めの変化球は見逃してボールをしっかり見極め、クサいボールはカットし、粘りに粘って四球を選んで出塁。
二番小湊君がは初球を打って、打球は低い弾道を描きながショートの頭上を越えて、レフト前で弾む。
ヒットエンドランでスタートを切っていた倉持君は、二塁で減速することなく一気に三塁まで到達。
一・二番が機能してエンドランが成功。二死一・三塁のチャンスを作った。
ここで三番前園のタイムリーヒットが期待されるけど、初球を打って打球は曇天へ舞い上がり、サードがファールゾーンで捕球し、スリーアウト、チェンジ。
青道の攻撃のあと、観客から漏れるため息がお決まりのBGMのようになっている。
苦虫を噛み潰したような不快感が口内にじゅわっと広がる。あと一本のヒットが、どうしても出ない。
残りの攻撃はあと三回。クリーンナップに打順が回るのは、おそらくあと一回。
祈りを結んだ手が震えてしまうのは、雨で体温を奪われるせいか、それとも漠然とした不安に襲われているせいか──あるいは、その両方だろうか。
七回表も沢村が続投し、小気味いいピッチングで三者凡退に抑えてくれた。
ボールが多く、守備のリズムを作りきれなかった降谷君の時とは違い、野手たちも守りやすそう。
沢村君の登板をきっかけに、曇天の天気とは違って、チームの雰囲気はだんだんと明るくなってきたみたい。
七回裏、青道の攻撃。
正直、そろそろ同点に追いつきたい。
四番御幸君が今日二本目のヒットで出塁し、五番沢村の華麗なバントで送る──と思いきや、雨でぬかるんだグラウンドでボールの勢いが死に、キャッチャーの前で止まった打球は、素早く二塁へ送球。
御幸君は二塁でアウトになり、打者走者の沢村君はセーフになった。
これは運が悪すぎた。結果的にバント失敗で、一死一塁になってしまう。
続く六番白州君に期待したいけど、力のない打球はセカンドゴロになり、あえなくゲッツーとなってしまった。
青道はまたしても無得点。なかなか向井君を打ち崩せない。
「みょうじ先生、顔色が悪いわよ」
「雨に降られすぎましたね」
離席していた高島先生が、気を利かせてホットのレモンティーをくれた。ありがたく頂戴して、両手で握って暖を取る。選手たちと同じように、私もすっかりずぶ濡れになってしまった。
震える手でキャップを開けて一口飲むと、レモンティーがするりと喉を通り、胃まで流れ落ちる。久しぶりに飲むレモンティーはとても温かく、甘くておいしかった。
八回表、帝東の攻撃は、二番をライトフライ、三番をセカンドゴロに打ち取る。
テンポよくツーアウトまできたけど、ここで四番の乾君に打順が回ってきた。
乾君のスイングの鋭さに目が眩み、心臓が縮み上がる。
「ん? いま、御幸君インコースに構えました?」
「ツーアウトでランナーがいないから、乾君の打席でインコースを試すなんて……」
御幸君の大胆すぎるリードに、開いた口が塞がらない。
沢村君は首を振ることなく、インコースを目がけてストレートを投じた──が、やはり投球はど真ん中へ入ってしまい、ライトオーバーのツーベースヒットになる。
──やっぱり、まだインコースには投げられないんだ。
気落ちする私を奮い立たせるのは、沢村君の大きな声。
「ツーアウトですよ! みなさーん! ピンチっちゃあピンチですが慌てずいきましょう! 打たれちゃったもんは仕方ない! バックのみなさんにはどうか切り替えていただきたい!!」
変な間が空いたあと、なぜかスタンドから野次られる沢村君。野手陣は慣れた様子で受け流し、次の打者に備えてそれぞれのポジションについた。
夏大の時も、今この瞬間も、沢村君の投球と元気な声に心が救われている。
マウンドでは気丈な沢村君もインコースに投げられずに苦しんでいる。どうしたらその苦しみから救ってあげられるだろう。
誰も知らないその答えを、沢村君は手探りで見つけようとしている。今、この瞬間も。
五番に対しては、またアウトコースのリードに変えて、センターフライに打ち取った。
青道はこの回も無失点で切り抜ける。
沢村君の好投もあって、青道に流れが傾いてきた。あとは点をとるだけ。
八回裏、青道の攻撃。
先頭打者の七番樋笠君がショートゴロ、八番麻生君が三振。またも二死走者なしの状況になってしまった。
脳裏にうっすらと「敗退」の二文字が浮かんでくるのを、頭をぶんぶんと振りかき消す。
九番東条君は、中学時代に向井君と対戦経験があるらしい。今日はまだヒットが無いけど、特に期待しているバッターだ。
初球はクロスファイヤーが決まり、見逃しストライク。
二球目はアウトローへのボール。
三球目に決め球のスクリューが投じられ、沈んでいく軌道になんとかバットを合わせて、片手で打つ。
カッ、と打ち損じたような金属音が響き、ふわりと上がった打球をセカンドが追いかけていくが──センターの前方にポトリと落ちた。
「やった! さすがは東条君、バットコントロールが抜群ですね」
「元投手なのに器用なバッティングをするわ。九番に置いておくのがもったいないわね」
高島先生とハイタッチを交わし、胸の前でぎゅうっと拳を握った。冷えていた指先に体温が戻ってきている。
そして、打順は一番倉持君へと巡る。
スタンドの応援団がトレイントレインを熱唱し、リードオフマンを力強く鼓舞する。
ボールカウント、ワンボール、ワンストライクから、倉持君はバットを引いてバントの構えをし、サード前へセーフティバントを試みる。
虚をつかれたサードは慌てて送球し、ファーストの手前で弾んだ送球はファールゾーンを転々とする。
その隙に東条君も倉持君も進塁し、バント安打とサードの送球エラーも絡んで、二死二・三塁のチャンスを作り出した。
「倉持君のセーフティーは名案でしたね! 彼の脚の速さが活きました」
「向井君からヒットを打つのは難しいと判断したのね。グラウンドがぬかるんでいる状況もよく見えていたわ」
ようやく手繰り寄せた、最初で最後のチャンス。青道としては一気に畳み掛けたいところだけど、帝東は間を取るために守備のタイムを取る。
青道側の得点ボードに七つ並んだ〇を眺めていると、ふと空の向こう側がかすかに明るくなってきたことに気がつく。
そういえば、いつの間にか雨もだいぶ小降りになっている。海の方から風が吹き、頭上の雲がどんどんと流されていく。
私たちを冷たく湿らせていた雨が、もうすぐ止もうとしている。
二番小湊君は敬遠気味の四球で歩かされた。
彼にはさっきヒットも打たれたし、勝負はせずに満塁策を選ぶあたりが、合理的な帝東野球を象徴している。
そして、三番前園君に打順が回る。
今日はいまだノーヒット。片岡監督の期待に応えることができるか、否か。クリーンナップとしての真価が試されている。
初球はワンバンするスクリューを見逃して、ボール。
二球目は同じコースにスライダーが決まり、見逃しストライク。
三球目はアウトコースにストレートが投げ込まれ、空振り。ツーストライクと追い込まれてしまう。
四球目はワンバンするスクリューを見逃して、ボール。
ボールカウントはツーボール、ツーストライクになった。
次で決めにくる──その予感は当たり、向井君はスクリューを投げ、前園君はなんとか当ててファールにする。あと数センチ先にボールが投げ込まれていたら、三振しているところだった。心臓が爆発しそうなほど高鳴っている。
乾君は静かに移動し、インコースへ構えた。
一度インコースを見せてから、最後はスクリューをアウトコースへ投げる。スクリューで仕留めるための、布石のインコース。その読みが当たっていれば、前園君に勝機がある。
案の定、インコースに投じられたのはストレートで──前園君のフルスイングが、甲高い金属音を響かせ、打球をレフトの上空へと運ぶ。黄色のポールへ向かって伸びていく打球。どこまでも飛んでいけと、必死の祈りを込めて叫ぶ。
「いけ! 伸びろ!」
打球はフェンスの手前で弾み、レフトのライン際を転がった。
「前園君……!」
「わあああ!」
その瞬間、スタンドの青い海原が大波を立て、歓声が球場全体に渦巻いた。
三塁ランナーコーチャーがぐるぐると腕を回し、塁を埋めていた走者達が次々と本塁へと還ってくる。一人、二人、三人目もホームを踏んだ。
走者一掃の逆転三点タイムリーヒット!
三塁を狙って走った前園君は、あえなくタッチアウト。
それでも、終盤の八回で青道がリードを奪うことに成功した。
土壇場の大逆転劇に、スタンドには歓喜の余韻が残っている。
震えていた膝から力が抜けて、イスに座り込んでしまう。逆転できたことが嬉しすぎて、泣きたくなる。固くまぶたを閉じて、あふれそうになる涙を押し留める。
でも、まだ勝ったわけじゃない。
二十七個目のアウトを取る瞬間まで、試合の勝敗はわからない。
九回の表、沢村君に代わり満を持して川上君が登板。
そのタイミングで雨もあがり、雲の隙間から青空が覗いている。
帝東打線も必死に追いすがり、川上君を攻め立てて一点を奪う。
なんとかツーアウトまで追い詰めたけど、樋笠君のエラーも絡み、二死満塁のピンチが訪れた。
青道はここで守備のタイムを取り、内野手陣がマウンドへと集まる。
こんな時に思い出してしまうのは、夏の決勝戦。あの試合も、九回のマウンドに立っていたのは川上君で。稲実に打たれて膝から崩れ落ちた彼の姿が、まぶたの裏側に焼きついて離れない。
震える手と手を握り締め、ひたすらに祈る。
なんとか抑えて、お願い──!
そんな時、ふいに御幸君が空を指差す。
選手たちもつられるように空を見上げた。私も同じように空を見上げる。
上空には、雲の隙間から光の梯子が降り注ぐ、美しい光景が広がっていた。
確かあれは「天使の梯子」と言われる景色。「薄明光線」という気象現象だと聞いたことがある。
緊迫する試合の最中、張り詰めた気持ちを和らげる美しい景色を見て、弱気になりそうな気持ちを切り替える。
マウンドの輪が解けた。
あとアウトひとつ。
彼らなら絶対、守り切ってくれる。
気を取り直した川上君は、打者をショートゴロに打ち取った。
これで、スリーアウト。
九回の表が終了し、二十七個目のアウトが成立。
雨の中の大熱戦を制して、青道が逆転勝利。秋季東京都大会、一回戦を突破した。
*
それは試合が終わり、バスへの荷物を詰め込んでいる時のことだった。
「──みょうじ先生!」
「え、なになになに!?」
背後から突然、切羽詰まった御幸君の声がした。名前を呼ばれて振り返るといきなり腕を掴まれて、そのままバスの中に連れ込まれてしまう。身じろいで抵抗しようにも、無言の圧力をかけられて逆らえない。
促されるまま、座席に腰掛ける。
御幸君はエナメルバックからウィンドブレーカーを取り出し、私の膝に置く。
どういう状況かよくわからなくてポカンとする私を、呆れ顔で見下ろす御幸君。
ウィンドブレーカーを指差して、言う。
「それ、着てください」
「いや、御幸君の身体が冷えちゃうでしょ」
「俺は着替えれば問題ないんで」
「でも、私がきみのウィンブレを着てたらまずいって」
「シャツが透けてる方がまずいでしょ!」
御幸君が声を荒げる。声の大きさに驚いて肩が跳ねた──シャツが、透けてる?
胸元に視線を落とすと、うっすらとインナーの色が透けて見えている。これくらいなら、そんなに気にならないけど。
「透けてるのはインナーだし、ジャケットのボタンを閉めれば見えないから大丈夫だよ」
「肌着だって透けてたら問題あるし、ジャケットだけじゃ寒いでしょ。文句を言わずに着てくださいよ」
「ヤダ」
「ったく、ガキじゃねーんだから」
すっと胸元に伸びてきた手が、おもむろに濡れたシャツのボタンを外しだす。第二ボタン、第三ボタンが外されて、シャツの隙間からインナーが露わになった。そこでハッと我に返り、御幸君の両手をガシッと掴んで四つ目のボタンが外されるのを阻止する。
──これ以上は、本当にヤバイって!
「ちょっ、な、なにすんの!」
「みょうじ先生が言うこと聞かねぇから、俺が着替えさせてあげようと思って」
「わかった! 着る! 着るから手を離して!」
必死の思いで叫んだ直後、御幸君はあっさりと手を引く。すぐさまウィンドブレーカーに袖を通してジッパーをきっちりと上げて、ジロリと睨みつけて牽制する。
もし、今のやりとりを誰かに目撃されていたらまずい。焦って窓の外を見やると、選手たちはダウンの真っ最中。控え部員達はスタンドからまだ戻って来てないようだった。ホッと息を吐く。
私は顔中が熱くて堪らないのに、御幸君は顔色ひとつ変えていない。さっきまで私の服を脱がそうとしたくせに。妙に手慣れた仕草を思い出し、頬が火照ってしまう。
「なんですか、その目は」
「御幸君ってこういうこと慣れてるの?」
「こういうことって?」
「……女性の服を脱がせたりとか」
「そんなことあるわけねーだろ!」
ふたりだけの車内に上擦った声が響く。
驚いて目を丸くしていると、御幸君は手で口元を覆って視線を伏せた。
「もしかして、照れてる?」
「……照れてません」
「あはは。これ、貸してくれてありがと。洗濯して返すね」
「どういたしまして」
多少強引だったけど、御幸君からのせっかくの厚意なのだから素直に甘えることにしよう。
冷えきった身体の体温が上がってきたのはウィンドブレーカーを着たおかげか、それとも目の前にいる彼のせいなのか──。
「キャップはどこに行った!? もうすぐミーティングだぞ!」
「──沢村君の声だ。御幸君のこと探してるみたい」
「俺が先に出るんで、みょうじ先生は後から出てきてください」
「了解」
私を残して先にバスを降り、何事もなかったかのように選手達の輪の中へ混ざった、背番号「2」の後ろ姿をジッと見つめる。
あの子、なんであんなに平然としていられるんだろう。私はまだこんなにも動揺しているというのに。
さっき、ボタンを外す御幸君の指先が、肌に触れた。触れられたところがヒリヒリして、まだ熱を持ったままで──。
.