秋晴れの青空には刷毛で塗ったような薄い雲が広がっている。
昨日、後輩達が入念に整備した甲斐もあってグラウンドコンディションは良好そう。美しく整備した後で、水を撒いたおかげで黒土はしっとりと濡れている。
まさに野球日和の今日、Aグラウンドではこれから引退試合が始まろうとしていた。
ファウルラインを飛び越えグラウンドへ駆け出していったのは、公式戦用のユニフォームを着た三年生達。走っていく彼らの背中には背番号は、もうない。
丹波君の背番号は「1」、結城君は「3」、亮介君は「4」、増子君は「5」、坂井君は「7」、伊佐敷君は「9」だった。
今、その背番号は後輩達へと受け継がれている──三年生達の想いとともに。
「今日も暑くなりそう」
三年生チームのノッカーを頼まれて外野でサイドノックを打ったけど、ノックが終わってしばらく経ったのにまだ汗が乾かない。
九月下旬とはいえ、日差しには夏の残滓が混じっている。じりじりと肌を焼くそれは、神宮球場での激闘を思い出させるようで。つい感傷に浸ってしまうのも無理はなかった。だって、三年生達と過ごしたあの夏が、今日このグラウンドで再現されるのだから。しかも三年生達は引退して日が浅い。伊佐式君曰く「後輩達とガチの勝負をする」ために、調整もしっかりしてきたらしい。
私もひとりの青道ファンとして、この試合を心待ちにしていた。三年生対一・二年生の本気の試合。いったいどっちのチームが勝つのか、予想は誰にもできない。
プレイボールの時刻が、刻一刻と迫っている。
三年生達は自分の定位置まで辿り着くと、足で土を慣らしたり、感慨深そうにぐるぐると歩いてみたり。思い思いに準備をしている。
よく知った場所から見える景色も、二ヶ月も経ってしまえば随分と懐かしく感じるのだろう。
私は太田部長と高島先生とともにプレハブに集まった。ここはバックネット裏からグラウンドを一望できる特等席。
太田部長も高島先生も緊張の糸をほどき、今日ばかりはにこやかな表情で選手達を見つめている。
「おおーいい球来てるなーこれが現役の時なら……」
「なんだか今日の丹波君、今までで一番イキイキしてますね」
「一校しか受けていないセレクションも受かりましたし、大学でどこまで成長できるか……楽しみですよね」
初回、丹波君は抜群の立ち上がりを披露。
現役の頃よりもボールが走り、マウンドで吠える姿はまさに「エース」そのものだった。
真っ白なスコアに内野ゴロ二つと空振り三振を書き込む。そういえば、三年生達の名前をスコアに書き込むのも久しぶりだ。彼らの名前をそっと指でなぞる。指先から懐かしさが込み上げて、胸の内側をくすぐってきた。
「うーんまた降谷は立ち上がりに失点か……」
「降谷君は立ち上がりが課題ですよねぇ」
「簡単に抑えられる相手ではないですけど、結局きっかけは小湊君に与えた四球ですからね。本人もより課題を明確にしたんじゃないでしょうか」
現役生チームの先発は降谷君。丹波君とは対照的に、初回から攻め立てられてしまう。
亮介君への四球、伊佐敷君の長打でチャンスを広げられると、結城君の先制タイムリーと増子君のダメ押しタイムリーを打たれ、いきなりの二失点。
落合コーチを盗み見ると「まぁこんなもんでしょう」という顔をして降谷君を観察している。
降谷君は初回こそバタついたものの、二回は無失点で切り抜け、あっという間に二回裏の攻撃まで終わった。
降谷君の投球も落ち着きを取り戻し、好ゲームが期待できそうな雰囲気が漂う。
「あれ、現役生チームがベンチから出てきませんね。どうしたんでしょうか」
「何か話し込んでるみたいね」
普段から攻守交代を素早くするように訓練されているのに、三回表の守備につく現役生達がなかなかベンチから出てこない。
窓を開けて身を乗り出して一塁側ベンチを覗くと、選手達がなにやら話し込んでいるよう。選手達の表情には、緊張が張り詰めているように見える。
「早く守備につけ!!」
待ちきれない球審の片岡監督が、一塁側ベンチへ怒声を飛ばす。
現役生達はベンチを飛び出し、慌てて守備位置へと駆けていった。それぞれの定位置についた後も、彼らはどこかぎこちない仕草で準備をしている。
さっきの攻守交代の時になにかあったんだろうか。一度気になってしまうとスコアを書く手が疎かになってしまう。
「少し席を外しますね」
「代わりスコアを書いておくわ」
三回裏が終わったタイミングでスコアを高島先生に頼んで席を立ち、現役生チームのベンチ裏に忍び寄る。
息を潜めて耳を澄ませると、壁越しに御幸君の話し声が聞こえてきた。
──そういえば最近、御幸君と話してないな。
御幸君の声を聞いて、最近ふたりで話していないことをふと思い出した。
バス停まで送ってもらったあの夜を境に、御幸君から避けられている──と、思う。
あの時、落合コーチのことについて尋ねられて、答えをあいまいにはぐらかしてしまった。
それから、ぷっつりと会話が途絶えている。業務連絡でしか話さないし、目も合わない。私の自業自得だった。御幸君に不信感を抱かせてしまった、私に原因がある。そう理解していても、人から避けられるのは結構きつい。
「獲るぞ、秋大」
「な……なんや急に……」
困惑した前園君の声の他には、誰の声も聞こえてこない。緊張した空気がベンチから漏れ出し、それを肌でビリビリと感じ取る。
「まだ組み合わせ決まってねーし……余計プレッシャーかけるかもしれねーけどよ……俺達が秋大で優勝すればセンバツ確定だぜ」
選手達の息を飲む音が聞こえてくるようで、私もごくりと生唾を飲む。
御幸君の言うとおり、秋季東京都大会を優勝すればセンバツ出場が当確する。でも、なんで今その話になっているのか、状況がよくわからない。
「監督なりのけじめか……学校側の事情なのか詳しくは分かんねーけど、甲子園行きを決めた俺達を置いてチームは去れねぇだろ?」
一瞬、鼓動が止まる。深く息を吐き出すと同時に、全身から汗が噴き出した。
やっぱり、御幸君は気づいていた。
片岡監督が辞任することを。
きっと、御幸君は私の口から真実を知りたかったんだ。
それなのに私は御幸君の問いかけをはぐらかして、うやむやにして、ごまかせたつもりになっていた。
そして、私があいまいな対応をした後に、結城君から監督が辞任すると聞いたのかもしれない。
私が守りたかった片岡監督への義理とか、選手達のモチベーションとか。それらはすべて水の泡となって、御幸君の中に残ったのは、私に対する不信感だけ。
現役生チームを激励するつもりだったけど、静かに踵を返してプレハブに帰った。
再びペンを握っても、さっきの御幸君と前園君のやりとりが脳内をぐるぐる巡ってなかなか試合に集中できない。
うなだれる私をよそに、四回には御幸君が反撃のタイムリーを放ち、試合はますます白熱していく。
九回には前園君のソロホームランも飛び出し、現役生チームはついに同点にまで追いついた。
川上君からバトンを受け取り、九回裏のマウンドに登板するのは沢村君。
そして、沢村君を迎え打つのはリーサルウェポンこと、代打滝川君。ついに夢の師弟対決が実現した。
「インコースには構えてないけど……あのクリスが打ちあぐねている?」
「元々……ボール自体が独特なタイプ。薬師戦では打ち込まれてしまいましたが、それ以外の試合ではほぼ抑えていましたからね」
積極的にスイングするクリス君に対して、沢村-御幸バッテリーはアウトコースでリードを組み立てる。
インコースに投げられないなら、アウトローを磨けばいい。そうアドバイスをしてくれたのは、打席に立つ滝川君だった。
自主練の成果を発揮するのは、今──ここしかない。
沢村君の指先からボールが放たれ、御幸君の構えるアウトローへとまっすぐな軌道を描く。
滝川君のスイングがボールを捉え、金属音が弾ける。晴天に高く舞い上がった打球は、小湊君が落下点に入り、がっちりと捕球した。
師弟対決は弟子の沢村君の勝利を納め、後続も打ち取り、九回を無失点で切り抜けた。
試合は引き分けのまま、ゲームセット──と思いきや。
「ここまで来たらとことんやり合え──!!」
片岡監督の鶴の一声で、そのまま延長戦に突入。
代打のクリス君がマスクを被り、元投手の伊佐敷君が登板する急展開に、ベンチもグラウンドも大盛り上がり。まるでお祭り騒ぎだ。
「やっぱ、試合楽しーな!」
「俺、大学でも野球続けよっかな」
グラウンドには三年生達のはしゃぐ声が満ちている。彼らの全身からあふれているのは、野球ができる喜び。
弾けるような笑顔から、明るい声から、真剣なプレーから、確かに伝わってくる──片岡監督から教えられた野球と、後輩達へ託した熱い想い。
「延長戦ですか。喜んでますね……選手達……」
「ええ!」
太田部長と高島先生のまなざしが、ふっとやわらぐ。その視線の先は、選手達を見守る片岡監督に向けられている。
長いあいだ片岡監督を支えてきたふたりは、監督続投を強く願っているはずで。落合コーチには悪いけど、私もふたりと同じく片岡監督の続投を願っている。
結局、延長戦はもつれにもつれて、試合が終わったのは日が暮れてから。
十四回の裏、三年生チームが執念で勝ち越しサヨナラ勝ちで試合を締めくくった。
ゲームセットも瞬間、その場にいた誰もが拍手で両チームの健闘を讃えた。真剣勝負を楽しみつつ、三年生達のはつらつとしたプレーが随所に散りばめられた、素晴らしい引退試合だった。
激闘の余韻が漂うグラウンドを、全員が揃って整備している。この景色は、もう二度と見ることができない。
三年生達はそれぞれの道を進み、野球を続ける者もいれば、ユニフォームを脱ぐ者もいる。
今日は全員がユニフォームを着て勢揃いする最後の日。だからこそ、この景色をしっかりと目に焼きつけようと思う。
今日の引退試合は、三年生達にとっても、現役生達にとっても、忘れられない試合になったはず。そしてもちろん、私にとっても。
*
久しぶりに御幸君から話しかけられたのは、本大会の抽選会の帰り道だった。
「ここから歩いて帰りましょう」
終始無口だった御幸君が話しかけてきたは、西国分寺駅へ向かう帰りの電車の中。それも、国分寺駅のホームでドアが開いた時だった。
あと一駅で西国分寺駅まで行けるのに、御幸君はさっさと車外へ降りてしまう。慌ててホームへ降りた瞬間、ドアが閉まり、私達を置き去りにして走っていく。
なぜここで降りる必要があるのか理解できなくて、さっさと歩き出したブレザーの背中を、キッと睨みつけた。
「ちょっと待ってよ、御幸君! あと一駅で西国分寺なのになんで降りちゃったの」
「電車に乗りっぱなしで身体が凝っちゃって。それにみょうじ先生とゆっくり話しがしたかったから」
口調はやわらかいけど、目には微かに怒りの色がにじんでいる。背筋がゾクッと震えた。これはかなり怒っている。
御幸君は踵を返すとスタスタと階段を登って行ってしまう。本当にここから歩いて帰るつもりらしい。
スマホで青道までのルートを検索すると、徒歩二十分で到着すると判明した。道のりも大通りをまっすぐに進んで三回ほど角を曲がれば、青心寮まで着くとのこと。確かにこれくらいの距離なら歩いて帰れそう。
少し遅れて改札を出ると、御幸君は外で待っていた。
スマホの画面を見せると、数秒ほどじっと眺めてから、またスタスタと歩きだしてしまう。
もうルートを記憶したらしい。さすが正捕手を務めているだけあって、記憶力がいい──って、感心してる場合じゃないんだけど。
「それで、御幸君が話したかったことってなにかな」
「とぼけないでくださいよ。分かってるんでしょ、本当は」
尖った声が突き刺さって、耳が痛い。
御幸君の歩幅に合わせられず、背中ばかり見ているのがもどかしくて、歩きづらいタイトスカートを破いてしまいたくなる。歩くのが遅くて隣に並ぶこともできなくて、酷く情けない気持ちになってしまう。
「そうやって鎌をかけるのやめようよ」
「じゃあはっきり言いますけど……監督が辞めること、なんで言ってくれなかったんですか」
回りくどい尋ね方から一変して、ストレートな問いがぶつけられる。
御幸君は立ち止まって、私の目をじっと見つめる。初めて見る、怒った顔。
思わず怯んでしまって、道端で立ちすくむ。きちんと言葉を選ばないと、また彼を傷つけてしまうかもしれない。
しばらく逡巡しながら言葉を探っていると、御幸君は目の前まで詰め寄ってきて、冷たい目で私を見下ろす。本当のことを話せ──と目が訴えている。
「監督の辞任を私から報告するのは、片岡監督に不義理だと思ったから。それに秋大だってあるし、監督が辞任することを公表して選手達のモチベーションを下げたくなかったの」
なるべく丁寧に話したのに釈然としないようで、御幸君は唇を少し尖らせ、視線を足下へ落とした。茶色のローファーの表面がくすんで見える。
「みょうじ先生は俺の──選手達の味方だと思ってました」
「私は選手達の味方だよ」
「だったら、監督が辞めるって知った時に、すぐに教えてくださいよ。監督に不義理だとか、俺達のモチベーションとか……言い訳にしか聞こえないんですけど」
「そんなことない!」
御幸君の捲し立てるような口調に、私まで乗せられてしまう。感情的になって上擦る声を、行き交う車の走行音が掻き消していく。
こうなったら腹を割って話すしかない。嫌われる覚悟を決めて、御幸君と向き合う。
「私に裏切られたと思ったでしょう」
「…………」
「御幸君は私から本当のことを聞きたかったんだよね……はぐらかしてしまって、ごめんなさい」
反省の意を表して、深く頭を下げる。
しばらく地面を見つめてから恐るおそる顔を上げると、寂しげな顔の御幸君と目があった。明るい茶色の瞳がゆらゆらと揺れている。
「俺はただ……寂しかったんですよ。みょうじ先生は監督よりも、選手に近い人だと思ってたから」
「私は選手達の味方でもあるけど、大人として監督の肩を持つこともあるよ」
「それって都合が良すぎませんか」
「そもそもチームの中に敵はいないんだよ。選手も、監督も、落合コーチも。それに私だってみんなの仲間なんだから」
青道には「甲子園出場」と「全国制覇」という共通の目標がある。同じ目標を志す仲間が集まって、今の青道があるのだ。
チームに敵はひとりも存在しない。
それでも、選手と指導者では、置かれている立場も、チーム内での役割も違う。私には私の立場があり、御幸君には御幸君の役割がある。
「先に謝っておくけど、私はこれからも必要だと判断したら、選手達に隠し事をしたり、時には嘘をつくこともあると思う」
「それを宣言するのはズルいでしょ」
「こういうことは先に言ったもん勝ちなんだよ」
「……はぁ」
「たとえ隠し事をしたり嘘をついたりしても、選手達のためを思ってのことだし、そこに悪意は無いから。それを御幸君にだけは、知っておいてほしいんだ」
「お願い」と一言添えて手を合わせると、御幸君は盛大にため息を吐き出し、がっくりと肩を落とす。丸くなった背中をポンと叩いて「諦めてね」の念を込めて微笑むと、またため息を吐く。ものすごいしかめっ面をして。
「恨まれるかもしれませんよ、俺に」
「それも覚悟の上だよ」
自然と歩きだすタイミングが重なる。
御幸君と歩幅は全然違うのに、今度は同じ速度で景色が後ろへと流れていく。
ほんの数十センチ先に御幸君の左手が揺れている。さっきよりもふたりの距離は、確実に近づいた。
私達は性別も年齢も、なにもかもが違う。
それでも今は、同じ気持ちを、同じ温かさで共有できている気がする。不思議な感覚だけどひどく心地よくて、それでいてちょっとくすぐったい。
「私はね、選手と監督の中間地点にいたいんだ」
「どういうことですか?」
「監督よりも接しやすくて頼りやすいけど、ちゃんと一定の距離を保って干渉しすぎない存在──ってイメージかな」
そういえば、自分の理想を他人に話すのは初めてだ。理想を改めて言葉にすると、少し気恥ずかしい。
御幸君は感心したように、ひとつ頷いた。
てっきり笑われると思っていたのに、意外だった。
「俺の中のみょうじ先生のイメージは、だいたいそんな感じです」
「ほんとに? それは嬉しいな」
「まぁ、本当はもっとこっちに近づいてもらえると嬉しいんですけどね」
ずいっと近づいた端正な顔が、遠慮なく私の目を覗き込んでくる。おでことおでこがぶつかってしまいそうな、超至近距離。近すぎる御幸君の身体を力づくで押し返す。
「ちょっと、近いよ! 御幸君ってたまに距離感がバグるのよくないな!」
「はっはっはっ! 悪意はないんで許してください」
「いや絶対に確信犯でしょ」
「さぁ、それはどうでしょう」
やわらかい声が鼓膜をくすぐる。おかしそうに細められた目は、いたずらっ子のそれだ。
からかわれてると分かるけど、そんな眩しい笑顔を向けられたら、怒る気力も削がれてしまう。
久しぶりに間近で見た御幸君の笑顔に、なぜだか胸が弾んでしまった。気恥ずかしさを誤魔化すように、歩く速度を上げて御幸君の一歩前へ出る。
「早く帰るよ! 練習が終わっちゃう」
「そうですね。急いで帰りますか」
スマホの画面を確認する。三つ先の信号を左に曲がれば、目的地に到着だ。
この帰り道がいつまでも終わらなければいいのに。隣で笑っている御幸君の横顔を見上げて、ほんの少しだけ本気でそう願った。
青心寮まで、あと五分。
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