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決意の夜に


「今日は帰るの早いんですね」

 青心寮の門を潜ろうとしたとき、ふいに背後から聞こえた声に足を止める。なんでいつも帰ろうとしたタイミングで目ざとく彼に見つかってしまうのだろう。
 振り返ると、練習着からラフなTシャツとジャージに着替えた御幸くんがゆっくりとこちらへ歩いてくる。

「明日の準備も済んだから。今日くらい早く帰らせてもらうよ」
「最近、帰り遅かったですもんね」

 御幸くんの言うとおりで、夏大が始まってからは対戦校の研究にかかりきりになり、最終のバスを逃してやむなくタクシーで帰宅する日々が続いていた。
 ここ二週間、メイクも落とさずに寝落ちして肌が荒れたり、食事の暇も惜しんで試合映像を見た結果、不健康な痩せ方をしてしまった。
 夏は痩せやすいから、体重落とさないように気をつけて――なんて選手たちには口酸っぱく言っていたけど、わたしが実践できていないんだから説得力がなかったと思う。
 隣に追いついた御幸くんは歩みを止めて、親指を立てて薄暗い門の外を指差す。

「バス停まで送ります」
「別にいいよ。御幸くんも今日くらいゆっくり過ごしなさい」
「最近、みょうじ先生とゆっくり話せなかったんで。久しぶりに送らせてください」

 隣に並んだ御幸くんの影がすっぽりとわたしの体を覆い、足元に伸びたふたりの影がぴたりと重なる。

 ――あれ、御幸くんってこんなに背が高かったっけ?

 十九時を過ぎてようやく街灯に明かりが灯り、黒いフレームに縁取られた茶色の瞳にハイライトが瞬く。
 時々、御幸くんのまっすぐなまなざしに吸い込まれそうになる。「いいえ」と言わなきゃいけないのに、「はい」と言いたくなるような――そんな力を秘めた魔性のまなざし。

 わたしは無意識のうちにこくりと頷いていた。御幸くんは満足そうに口角を持ち上げる。彼の中で最初からこうなるとシナリオは決まっていたみたいだ。

「・・・よろしくお願いします」
「じゃあ、行きますか」

 バス停までの道をのんびりと歩く。なにを話すわけでもなく、ただ肩を並べて。
 蝉の鳴き声がふたりの間の静寂をぴたりと隙間なく埋めてくれるから、無理に話題を見つけて沈黙をかき消す必要もない。

 日が暮れてもなお、密度の濃いままの空気がねっとりと体にまとわりつく。ちっとも下がらない湿度もまた、うっとおしくてしかたない。 
 額に張りついた前髪を整えながら、空を見上げると濃紺の天空に一番星が煌めいている。その輝きは御幸くんの瞳に灯ったハイライトによく似ていた。

 ちらりと横目で御幸くんを見る。彼もまたわたしと同じように空を見上げていた。精悍な横顔の輪郭を濃い影がなぞって、薄暗い夜にぼんやりと浮かび上がらせる。

 ──もしかしたら、今日が最後になるかもしれない。

 頭の隅に追いやっていた現実が、突然、目の前で白く点滅する。
 明日勝てば、甲子園まで今日と同じ日々は続く。明日負ければ、そこですべてお終い。どちらにせよ、秋には世代交代をして、御幸くんは引退する。来年の夏、こうして彼の隣を歩くことはない。

 今見ている光景を動画に撮って残しておけたらいいのに、と思う。
 雨のように降り注ぐ蝉の声、夏をそのまま閉じ込めたようなねっとりした暑い空気。空は濃紺と橙のグラデーションに染まって――そして隣には、御幸くんがいる。

 美しく完璧な「今」をひとつも取りこぼさないよう、そおっと胸の中に閉じ込めてしまいたい。永遠に色褪せない、青い夏の記憶として。

「そういえばみょうじ先生って」
「ん?」
「俺の進路のこと、訊いてこないですね」

 心地よい沈黙を破って、御幸くんが思い出したように言う。
 これまで三年生は何度か片岡監督、太田部長との三者面談があって、みんな大まかな進路の方向性は決まっていると聞いている。
 御幸くんの進路についての詳細は知らないけれど、部員たちの間では「御幸はプロ一択」と噂で持ちきりだ。わたしも「プロ」が既定路線だろうと思っている。

「進路に関してはわたしにできることはないからね。訊いてもしかたないもの。それにある程度は決めてるんでしょ」
「まぁ、そうですけど」

 わたしの返答が腑に落ちないのか、御幸くんは唇を尖らせる。掘り下げると面倒なことになりそうなので、その仕草を見て見ぬ振りをした。

 いつもよりのんびり歩いていたので、ようやくバス停に着いた。次のバスまであと二十分。御幸くんはどうやらバスが来るまで一緒に待ってくれるらしい。

「なにか飲む? コーヒーでいい?」
「じゃあ、無糖のやつで。ごちそうさまです」

 ただ待たせるのも気が引けるので、すぐそばにある自販機で飲み物を買ってあげる。わたしはアイスティー、御幸くんはブラックのコーヒー。
 一口飲んで、御幸くんは深く息を吐く。一瞬、訪れる静寂。さっきまでリラックスしていた空気がぴんと張りつめ、わたしは引き締まった横顔をじっと見つめる。

「俺、プロへ行きます」

 その答えは知っていたはずなのに、改めて言葉にされると心臓がびくりと跳ねた。
 決意に満ちた声には一ミリの迷いも含まれていない。これは人生の決定事項であって、「行ける」か「行けない」かではなくて、「プロへ行く」ことが御幸くんの導き出した答えなのだと悟った。

「そう」

 喉の奥から絞り出した声は終わりかけの線香花火のように儚く消える。
 頑張ってね。プロ、行けるといいね。
 屈託のない笑顔を添え、明るく励ませたらいいのに。なぜか今はそんな気分にはなれなかった。
 口の中が妙に気持ち悪くて、アイスティーで喉の奥へと押し流す。沈黙に溺れているわたしに、御幸くんが助け舟を出した。

「そのことでみょうじ先生の意見が訊きたいんですけど」
「わたしの意見?」
「俺が高卒でプロへ行きたいって考えていることについて、みょうじ先生はどう思ってるのか教えてほしいんですけど」
「わたしの意見なんて訊いて、どうするの?」
「参考にするつもりです」
「他人の意見を参考にするタイプじゃないでしょ、きみは」

 さりげなく話題を変えようとしても、御幸くんは無言の圧力をかけてくる。
 なんでもいいからさっさと意見を言ってください――御幸くんの心の声が聞こえてくるみたいだ。わたしが折れないと話しが進みそうにない。

「わかったよ。監督との面談でも同じことを話し合ったかもしれないけど、わたしの考えを話すから」

 再びアイスティーで喉を湿らせ、頭の中で考えをまとめる。
 御幸くんはコーヒーを一気に飲み干し、自販機の横にあるゴミ箱へ捨てた。カラン、カランと乾いた金属音が響く。
 飲みかけのペットボトルのふたを閉め、鞄の中にしまってから御幸くんと向き合う。彼の唇は線を引いたように結ばれ、頬が少し強張っている。

「わたし個人の考えとしては、大学進学してからプロを目指す方がメリットは多いと思ってるの」
「――というと?」
「引退後のセカンドキャリアを考えたときに、大学で教員免許を取っておけばアマチュアで指導者ができるでしょ」

 元プロ野球選手は学生野球資格回復制度の研修会に参加すれば、中学生および高校生を指導することができる。
 実際、最近は母校や強豪校で指揮を取る元プロの監督も増えてきた。

「・・・指導者か。俺には向いてないですね」
「キャッチャーはグラウンドの指揮官でしょ。御幸くんには指導者の適性あると思うけど」
「俺は片岡監督みたいにはなれそうにないですけど」

 照れくさそうに後ろ髪をかく御幸くんの前に、ぴんと人差し指を立てる。

「引退後に球団のフロント業務に就く人もいるけど、そのほとんどは大卒らしいよ」
「フロント業務って具体的にどんな仕事やるんですか」
「営業とか広報とか。スカウトをやることもあるみたい」
「いわゆるサラリーマンってやつですね」

 サラリーマンとして働いている姿が上手く想像できないのか、御幸くんは腕組みをして斜め上を見る。
 確か、御幸くんの実家は自営業で工場を経営していたはず。父親がサラリーマンでないから、なおさら想像しづらいだろう。

「あと、これはプロ野球選手に限らずだけど」
「? はい」
「引退してから球団に残るにしても、異業種に転職するにしても、やっぱり大卒の方が有利だと思う」

 高卒か、大卒か。
 学歴の違いで選べる職種の幅や、求人数には明確に差が出る。これは紛れもない事実で、進路を選ぶときには充分に考慮しなくてはならない。
 御幸くんはまっすぐにわたしの目を見て、拳を硬く握りしめる。彼の中ではもうすでに答えは決まっているんだ。

「それは、わかってます」
「・・・」
「それでも俺は、なるべく早くプロへ行きたいんです」

 生ぬるい夜風がわたしたちの間を吹きぬけていく。乱れた髪を指で掬って耳にかけながら、さりげなく御幸くんの視線から逃れてうつむいた。
 三センチセールのパンプスと使い古されたスニーカーの爪先が向かい合う。
 今は同じ方向を向いているけれど、もうすぐ、わたしたちは別の道へ歩きだす。
 わたしは青道で甲子園を目指し、御幸くんはきっと、プロへ行くだろう。テレビ画面でしかその活躍を目にすることができなくなる日は、確実に近づいている。

 ――さびしい。

 心の声がはっきりと聞こえ、伏せていたまぶたを大きく開く。そうか、わたしは「寂しい」んだ。
 自覚してしまったその言葉をかき消すように、丸い爪先でアスファルトをいじる。砂が擦れる空虚な音が鼓膜をざらりと撫でた。

「・・・やっぱり、そうだよね。ていうか、まず先に御幸くんの話しを訊いておくべきだった」

 今度はわたしが御幸くんの目を見る。視線を合わせると、揺らいだ心まで見透かされそうで怖かった。
 それでも、向き合って話しが聞きたい。わたしは御幸くんの本音を知りたい。

「どうしてプロへ行きたいの?」

 御幸くんの言葉をひとつも聞きもらさないように、静かに耳を傾ける。ほんの少しの沈黙が、永遠のように長く感じた。

「野球で飯を食えるようになりたくて」
 
 おだやかな夜風が吹く。重たそうな雲を流れ、ひっそりと隠れていた月が露わになった。空からレースのカーテンのような光が降り、御幸くんの輪郭を淡くなぞる。太い首筋、広い肩幅、分厚い胸、筋肉の鎧をまとった腕。鍛えあげられた体は平均的な球児のそれより一回りも大きくて、御幸くんの覚悟の強さを言葉どおりに体現している。

「これまで好きに野球をやらせてくれた親父に恩返しがしたいんです」
 
 おやじ、と頭の中でつぶやき、あ、お父さんのことか、と一秒遅れて気づく。それと同時に、御幸くんのお父さんの顔を記憶の中に探すけど、似た顔すらも見つからなかった。そういえば球場で見かけたことがなかった気がする。気がする、というより、正確に言うと御幸くんのお父さんを一度も見たことがない。それに、お母さんの姿も。
 
「・・・なんか言ってくださいよ」
「あぁ、ごめんごめん」

 急に時が止まったわたしの顔を、困り顔の御幸くんが覗き込む。この端正な顔はお父さんに似ているのか、それともお母さんに似ているのか。さっぱり検討もつかない。
 ふいに御幸くんの言葉が再生され――親父に恩返しがしたい――そこで違和感に気づく。「お袋」って言わなかったのは、なんでだろう。

 肩にかけたバックの持ち手をぎゅっと握ると、手のひらがじっとりと汗ばんだ。踏み込んで訊いてもいいのか、判断に迷う。

「お父さんに恩返しするためだったんだ。ちょっと意外だったかも」
「どこが意外なんですか」
「御幸くんって誰かのために野球をやるタイプじゃないと思ってた」
「ひでぇ。俺、これでも一応キャプテンですし、チームのためにプレーしてきたつもりなんですけど」
「だから、ごめんって」

 白い目で見られたので、顔の前で手を合わせ小さく頭を下げる。御幸くんは呆れ顔をころっと変え、しょうがないですね、と言ってにやりと笑った。

「明日は決勝戦だし、ご両親も神宮まで来てくれるんでしょう」

 気になることをさらっと訊いてみる。明日こそ御幸くんのご両親とお目にかかれるのだろうか。
 父母会の皆さんは有給休暇を使ったり、半ば無理やり仕事を休んでくると張り切っている人がほとんどだ。

 御幸くんは頭の後ろで手を組み、空に視線を漂わせながら「さぁ、どうですかね」と軽い調子で言う。あまりの発言の軽さに眉を寄せ、思わず訊きかえす。

「え、来ないの? 決勝戦なのに?」
「うち、自営業なんですよ。月末で納期も近いし、休んでる暇もないんじゃないですかね」
「そんなに仕事が忙しいんだ」
「昔の比べて従業員も減って大変みたいで・・・きっと明日も働いてると思いますよ」

 せっかく決勝戦まで勝ち上がってきたのに。息子がキャプテンで四番で正捕手なのに。
 それなのにご両親は球場へ来ないし、御幸くんもそれが当たり前のことだと思っている。なんだか腑に落ちないけど、親と子の距離感は家庭によって様々だから、と自分に言い聞かせる。

「明日はテレビ中継もあるし、家から試合を見るんじゃないですか」
「じゃあ、明日も活躍していっぱいテレビに映らないとね」
「そうですね」

 妙な違和感が拭えないままだけど、話しのきりのいいタイミングで視界の隅がぼんやりと明るくなる。二つ先の通りを曲がったバスのヘッドライトがアスファルトを白く照らしながら向かってくるのが見えた。
 鞄の中から定期入れを取り出し顔を上げると、リラックスしていた御幸くんの雰囲気がきゅっと引き締まるのがわかった。わたしもヒールの踵を揃えて姿勢をまっすぐにする。

「いよいよ明日ですね」
「そうだね」
「緊張してますか」
「ちょっとはね。御幸くんは?」
「俺は・・・少しだけ。でも、楽しみのが勝ってます」
「決勝戦が楽しみか。強気な御幸くんらしいね」

 バスはゆったりとブレーキを利かせながらスピードを落として停留所へ向かってくる。
 御幸くんは握った拳をわたしの前に突き出し、まるで宣誓でもするかのように告げた。

「成宮は、俺が打ちます」

 それは願いではなく、彼が決めた進路と同じ、決定事項だった。
 四番打者である御幸くんが、難攻不落のエース成宮くんを打つ──きっと勝敗を決定づけるような緊迫した展開の中で。

「期待してるよ」

 わたしも同じように拳を握り、御幸くんのそれに軽く重ねる。

「明日も勝ちましょう」
「明日も勝とう」

 拳を解き、肩のあたりで小さく手を振る。御幸くんはさっと手を挙げ、バスが走り去るまで見送ってくれた。

 乗客の少ない車内を進み、一番後ろのロングーシートの端に腰かける。汗ばんだ体を深く沈めて、長い息を吐く。暗い窓ガラスが鏡のように顔を映しだし、その表情をじっと見つめる。去年の今頃は緊張で張り詰めた顔をしていたけれど、今は凪いだ海のような表情をしている。  

 やらなければならないことは、すべてやってきた。そう胸を張って思えるだけの準備はしてきたから、不安に襲われて息が詰まりそうになることもない。

「絶対、大丈夫」

 小さな声でつぶやき、もう一度拳を握って強く胸に押しつける。御幸くんから移された熱が肌をつたい、血液に溶け込み、全身が強く脈を打つ。 

 目を閉じて、脳内のキャンバスを開く。青道の青が神宮球場を、そして甲子園のスタンドを染めあげる景色を描きながら、バスはゆっくりと帰路をたどっていった。