×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



渡る鳥と溺れる魚と


※第90回西東京大会決勝戦は青道が勝利した設定です。





 いよいよ、今日か──。 

 夏の甲子園から、約二ヶ月。
 熱く長かったトーナメントとはまた違った緊張の糸が、今日までずっと心の中で張り詰めていた。

 今日は──十月の最終週の木曜日──ドラフト会議当日である。

 プロ注目のドラフト候補生にとって「運命の日」と言われるこの日の主役は、紛れもなく御幸君だ。

 会議室の正面には御幸君を中心に片岡監督と太田部長が両脇を固め、三人を取り囲むように多くの報道陣がカメラを向けている。
 春夏の甲子園を経験して報道陣への対応もすっかりこなれた御幸くんでさえ、今日ばかりはとても緊張しているらしい。
 本人は真顔のつもりだろうけど、かすかに表情が強張っているのがわかる。 

 御幸君が緊張するのも無理もない。
 当初の想定よりも多くの報道陣が押しかけたし、用意していた椅子が足りなくなって急遽増席したりと準備も大忙しだった。
 青道で一番広い会議室も、報道陣と教職員と野球部員たちで満員御礼の状態。
 たくさんの人たちが、御幸君の指名の瞬間を今か今かと待ちわびている。

 これほどに御幸君への注目度を押し上げたのは、やはり今年の夏の功績が大きかった。
 西東京大会決勝戦では、ドラ1で競合指名も噂される世代No. 1左腕である成宮鳴を打ち崩し、勢いもそのままに甲子園で三本のホームランを放ち、青道を決勝戦まで躍進させたのだ。

 一年生の頃から優れたインサイドワークや強肩にも注目されてはいたけど、この夏はプロでも通用すると思わせる勝負強い打撃力を猛アピール。
 打率は西東京大会から三割台を保ちつつ、得点圏打率は四割台と四番の責務も全うしてきた。
 そうして、ドラフト市場で一気に「ドラフト上位候補」にその名を連ねるまでになったのだ。

 しかし、今年のドラフト市場は投手が豊作で「1位指名は難しいでしょう」とこぼしていたのは、落合コーチ。
 けれど、甲子園が終わってから「御幸一也を1位指名をして一本釣りを狙っている球団がある」と言う記事が出回り、出どころも真偽もわからない噂が一人歩きした結果、これだけの報道陣が押し寄せる事態になっている。
 にわかに自身への注目度が高まっていることを肌で感じつつも、御幸君は淡々と調整を続けてきた。

 今日、この日のために──そして、今日よりずっと先まで続いていく日々のために。


 慌ただしく報道陣の対応に追われているうちに、定刻通りにドラフト会議が始まった。
 一同は正面に設置した大型モニターへ視線が釘付けになる。

 注目の集まる一巡目の指名から、波乱の幕開けとなった。
 世代No. 1左腕・稲城実業の成宮君へ七球団もの指名が集中し、会場が騒然となったのだ。
 高三の夏は青道に敗れ、三季連続の夏の甲子園出場とはならなかったけど、その人気は衰えることなく今もなお凄まじい。 

 大混戦の抽選の結果、在京球団のGが指名権を獲得し、その瞬間に御幸君はわずかに表情を綻ばせる。互いを認め合うライバル同士らしく、内心で成宮君を祝っているのだろう。
 (──さすがだな、鳴)
 そんな御幸君の心の声が聞こえてきそう。
 
 そうして一巡目の指名が終わったが、ここでは御幸君の名前が挙がることはなかった。
 誰にも気づかれぬように、小さく息を吐く。
 ドラ1の期待も高かったが故に、どこかの誰かに裏切られたような気分になってしまう。

 御幸君の心情が気がかりでちらりと視線を投げてみれば、彼は張り詰めた面持ちを崩すことなく、背筋を伸ばして前を向いていた。
 どうやら余計な心配だったみたい。
 ほっと胸を撫でおろして、私もまっすぐ前を向く。

 一巡目は予想通りに投手へ指名が集中し、二巡目からはウェーバー方式でペナントレースの順位の低かった球団から順々に指名が始まった。
 二巡目も即戦力の大学生野手や社会人投手への入札が続いていき、なかなか御幸君の名前は呼ばれない。
 今か今かとその瞬間を待つけど、ついに十二球団目の指名に差しかかり、三巡目に期待をかける心持ちになろうとしていた──その時だった。


『福岡──────ホークス、御幸一也、捕手、青道高校』


 ──なにが起きたのか、一瞬、理解できなかった。
 
 全身に電流が流れるような感覚が走り、会場中にワァッと歓声が上がった。爆発的な勢いで拍手とフラッシュの嵐が巻き起こる。

 人々の視線の先で、御幸君はハッと驚いた顔を見せてから喜びを噛み締めるように唇を引き締め、片岡監督と太田部長と握手を交わした。
 眩しいほどのフラッシュを浴びる御幸君の姿は、まるで夏の甲子園で逆転ホームランを描いたあの瞬間ように輝いている。

 左隣で見守っていた吉川さんが肩へ飛びついてきて、止まっていた時間がようやく動き出した。

「みょうじ先生、すごいですよ、御幸先輩! 二位ですよ、二位!」
「うん、すごいね。……本当にすごいや」

 か細い腕は思いのほか力強く私を揺さぶってくる。ぐらぐらと視界が揺れる、揺れる。
 右隣の高島先生の顔を見ると、細めた目にうっすらと涙を浮かべたやさしい表情をしていた。
 中学一年生だった御幸君を見つけて青道にスカウトしてきたのは、高島先生。
 きっとこの会場にいる誰よりも、御幸君の指名を感慨深く感じているのは高島先生だろう。

「やりましたね、御幸君。ドラフト二位ですよ!」
「えぇ、本当に立派な選手に成長してくれたわ」

 こんな時でもスカウトしてきた自分の手柄をひけらかすことなく、御幸君の成長を讃えるところが高島先生らしい。
 選手の才能を察知する能力に優れ、成長の可能性への予見が正確で、彼らの伸び代を最大限に伸ばしてきた。
 そんな高島先生が御幸君と出会い、青道まで導くことは運命であると同時に、必然だったのかもしれない。

 両手を打ち鳴らし、私も拍手を贈る。
 御幸君と、そして、高島先生へ。
 おめでとうございます、の想いを込めて。


 何台ものカメラに囲まれながらも毅然とした態度でインタビューに答える御幸君の一問一答を、目を細めて見つめる。
 御幸君と出会った一年前の春よりもずっと、心も身体も大きく成長したと思う。

 二度の甲子園出場を経験し、優れたインサイドワークと強肩、チャンスで発揮される非凡なバッティングセンス。
 そして、主将としてチームを引っ張ってきたリーダーシップも備わり、高校生捕手の中で実力は頭ひとつ抜けている。

 御幸君の前評判は高く、プロ入りはほぼ確実だったけど──でも、今日ここが「スタートライン」だ。
 御幸君の目標は「プロ野球選手になること」ではない。

「──プロ入りしてからの目標は?」

 矢継ぎ早に飛んでくる質問にも、御幸君は淀むことなく的確な言葉で回答していく。

「プロ野球選手として自立した生活を送って、今まで好きに野球をやらせてくれた父親に恩返しをすることです」

 目尻にじんわりとにじむ涙を、指先でそっと拭う。
 プロ野球選手になる覚悟と自覚を持った言葉に、心が震えた。
 自宅から指名会見を見守っているお父さんも、今頃とても喜んでいるだろう。 


 御幸君にとって第二の野球人生のはじまりを見届けているその裏で、もう一つのサプライズが起こることを、この時の私はまだ知らなかった。





「……福岡、か……」

 地図アプリで何度もなんども、東京と福岡までの距離を測る。
 東京から福岡の本拠地までは約1100km。
 電車と飛行機を使っても五時間弱はかかる距離。
 そんなに遠い場所まで、御幸君たちは行ってしまうらしい。

 まだその実感は湧かないけど、紛れもない事実なのだ。
 彼らは指名されればどこの球団でも構わないと言っていたし、おそらくこのまま仮契約まで滞りなく事は運ぶはず。

 そして、再び同じ言葉を口の中で転がす。
 福岡かぁ──と。
 呼吸の隙間からこぼれ落ちる独り言と、小さなため息。

 嬉しい感情が波のように押し寄せては引き、息継ぐ暇もなく今度は寂しい感情が押し寄せてくる。
 さっきからそれの繰り返しで、気を紛らせようと開いたはずのノートパソコンの電源は落ちてしまった。
 なんだか今日は仕事をやる気も湧かないな。

「──福岡がどうかしたんですか」
「びっ……くりしたぁ! ほんっとにいつも急に現れるね、きみは!」
「ノックしましたけど、聞こえませんでした?」
「……聞こえたような気がする……?」
「はっはっはっ、どんだけボケっとしてたんですか!」

 食堂で開かれている祝賀会の輪から抜け出してきたのか、いつの間にか御幸君が背後に立っていた。
 ノックの音にも近づいてくる足音にもまったく気づかなかったし、どれだけぼーっとしていたんだろうか。

 指名会見の後からずっと、足元も心もふわふわとして落ち着かないまま。
 祝賀会の乾杯もそこそこに、地に足のつかない気持ちを沈めようとひとりでプレハブに逃げ込んできたのに。
 やっぱり、御幸君には見つかってしまう。

「まだ祝賀会はやってるの」
「お開きになったから探しにきたんですよ。この時間だともう帰りのバスも無いですよね」

 もうそんな時間なのかと驚き、スマホの画面を見てみればとうに二十二時を過ぎている。
 あと五分後に終バスが出てしまう。全力で走っても追いつけそうにないので、タクシーで帰ることがたったいま決定してしまった。給料日前に痛い出費だけど、今日ばかりは仕方ない。

「タクシーを呼ぶから大丈夫。それより後片付けに行かないと」
「もうほとんど片付いてますよ。解散してみんな部屋に戻ってます」
「あー、出遅れちゃったか」
「それで──福岡がどうかしたんですか」

 うまく話を逸らしたつもりが、結局振り出しに戻される。
 正直、なんと言っていいのかわからなくて口ごもってしまう。
 今の私の心情を正しく伝えられる言葉がまだ見つかっていないのに、御幸君は時間の余裕を与えてはくれない。


「神田さんが福岡に行くのが、そんなに寂しいですか」


 射るような視線に貫かれて、一瞬、息が止まった。
 
 御幸君は気まずい静寂を破るように音を立てて椅子を引き、隣に腰掛けると首を傾げて顔を覗きこんでくる。
 神田の話をするときの御幸君は、なぜかちょっとだけ怖い。

「別に、そんなことないよ」
「でも神田さんも行くんですよね、福岡に」
「おそらくね。指名されればどこの球団でも行くって言ってたから」

 御幸君の指名会見の最中もドラフト会議は続いていた。
 一巡目の指名から一時間が過ぎた頃、五巡目の指名で母校の同期で元エースの神田が、御幸君と同じく福岡の球団に指名されたのだ。
 まさか神田と御幸君が同じ球団に指名されるとは夢にも思わなかったけど、きっとこれもなにかの縁なのだろう。

「あ、そういえば」
「どうかしました」
「これ、見てよ」

 神田からも『御幸君によろしく伝えておいてくれ』とメッセージが届いていたことを思い出した。
 神田とのトーク画面を見せると「へぇ」と一言。
 これからバッテリーを組むかもしれない相手なのに、たいして興味も無さそう。ふたりが同期として仲良くやっていけるか心配になる。
 でもたぶん、これも余計なお世話だろう。
 御幸君ならどんな投手とでも上手くやれるはず。

 ──そうか、御幸君も「向こう」に行っちゃうのか。

 また唐突に思い知らされる。
 東京から福岡までの1100kmの距離と、残された時間の短さを。

 寂しさは嬉しさを飲み込み、まるで波のように押し寄せ足を取られて溺れてしまいそうになる。
 ずぶ濡れの心は凍えてしまいそうなのに、あたたかい言葉をくれる人はもうすぐ遠い場所へ旅立ってしまう。

 本当はまだそばを離れたくない、けど。
 この場所に引き止めることなんて、私にはできない。
 

「御幸君が福岡に行っちゃう方がずっと……寂しいよ」


 明るい声で言おうとしたセリフが、思ったよりもトーンダウンする。
 口角はやたらと重たくて、上手く笑えているか気になってしまう。
 御幸君を青道に引き止めたいわけではない。
 でも、これは私の本音で、本心。 

 御幸君は気まずそうに視線を逸らして、そのまま閉口してしまった。
 その隙に端正な横顔をまじまじと観察してみる。
 凛々しい眉のすぐ下に並行二重のまぶたがあって、伏せられた長いまつ毛はサングラス焼けの残る頬に影を落とす。すっと通った鼻筋と美しい形の唇は、シャープな輪郭の上にきれいに配置されている。
 間違いなく女子ファンがたくさんできる顔立ちだろう。

 もし、御幸君の同級生として出会っていたのなら。
 もしも、同じ野球部の選手とマネージャーだったとしたら。

 もしかしたら、私だって御幸君に恋をしていたかもしれない。


 (私だって御幸君に……恋を──?)



「……まだ仮契約も終わってないのに、みょうじ先生は気が早すぎますよ」

 十七歳の青年が、とうの昔に成人している私へ諭すように告げる。
 御幸君は今この瞬間にも大人になろうとしていると、ひしひしと感じる。
 私のように子供じみた口調で「寂しい」と言って同調してはくれない。
 
 押し寄せる寂しさの波に心が溺れることは、この先もきっとないのだろう。
 私とは違って、御幸君の心は強いから。

「でも行くんでしょ、福岡に。御幸君も球団にこだわらないって言ってたもんね」
「まさか福岡の球団に指名されるとは予想してなかったですけどね……そのつもりですよ」
 
 このまま仮契約まで順調に進み、一月の正月明けには二軍の寮に入寮することになる。
 カレンダーはもうすぐ十一月になり、御幸君が青道に居るのは残りあと二ヶ月ほど。
 二ヶ月なんて、あっという間だ。
 残されたわずかな日々で、私が御幸君のためにしてあげられることは、いったいいくつあるだろう。いつまでも忘れられないような思い出を、あといくつ作れるだろうか。

「本当にプロ野球選手になるんだねぇ」
「俺もようやく指名された実感が湧いてきました」
「でも……プロ野球選手って活躍すれば賞賛されるけど、一度のミスで批判される職業でもあるよね」
「それももちろん──覚悟してます」

 レンズの向こう側の瞳は揺らがない。
 御幸君は周囲からの期待も、住み慣れた街を離れる不安も、ひとりで大人になる覚悟も、すべてを背負っている。

 それなのに私は、御幸君にこれ以上いったいなにを背負わせようとしていたんだろう。
 彼になにかを与えてあげたいというお節介も、忘れられないような思い出を作ろうとすることも、私の身勝手でしかない。
 私の寂しさを穴埋めするためのひとりよがりに、御幸君まで巻きこんじゃいけないんだ。

「御幸君、あのね」
「はい」
「どんな時だって私は──私たちは、御幸君の味方だってことだけは、忘れないで」


 それでいい。
 御幸君に手渡すのは、この約束だけで。
 昔の思い出と栄光も、今日の出来事も、ここに預けて旅立てるように。
 彼の背負うものも、大切なものも、少しでも私にも分けてくれたら──それだけで充分だ。


「──はい」
「……ん、素直でよろしい」
「みょうじ先生こそ、ひとりで無理しないでくださいよ」
「無理なんかしてないよ」
「放っておくとずっと仕事してるし、俺がいなくなった後が心配なんですけど」
「終バスには間に合うよう帰ってるし! そんなに心配しなくていいから!」

 目の奥がじんわりと熱くなるのをごまかすように、視線を落としてまばたきを繰り返す。
 会話が途切れて静まりかえったプレハブは、水の中のように息苦しい。

 ふいに、視界の端に目尻を赤くした横顔が映りこんだ気がして、ぎゅっと固くまぶたを閉じた。
 横顔の残像が酷く寂しそうに見えて、心臓がじくじくと疼く。

 ──御幸君も私と同じだけ、寂しければいいのにな。

 ここに置いていかれるのがとても寂しくて、底意地の悪いことを願ってしまう私は、御幸君よりも幼くてひどく惨めだ。
 
 また感情の波が押し寄せて、あっという間に飲み込まれ、そのままずぶずと溺れてしまう。

 深く沈んでいくさなか、寂しさと悲しみの他に、甘く胸を締めつける感情が混じっていることに、私はまだ気づいていないふりをする。