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スペアのハートをきみにあげるよ


 十一月も中旬を迎えると、夜の空気は秋というより冬の冷たさをまとっている。
 ジャケットにトレンチコートを羽織っても少し寒いくらいだから、ウールのコートをおろさないと帰りのバス停で凍死しかねない。
 そうだ、お母さんにクリーニングを頼んでおこう。私の通勤時間ではクリーニング屋さんが空いている時に持ち込めないし、取りにも行けそうにないし。
 思い立ったら即行動をするのが私のモットーでもある。お母さんへ手短にメッセージを送ると、すぐにOKのスタンプが返ってくる。それとついでに「夕飯温めておくからね」という嬉しいメッセージも。持つべきものは献身的な母だと心底思う。今度欲しがっていた化粧品でもプレゼントすることにしよう。

 トレンチコートの前をかきあわせてボタンを下から上までとめて、プレハブの施錠をしてから監督たちに帰宅の挨拶を済ませる。
 秋大から神宮大会が終わるまでのあいだ、毎晩のように残って対戦チームのビデオにかじりついていたせいで、溜まりにたまった寝不足もピークを迎えようとしていた。  
 片岡監督からも「今日は早く寝るように」と念を押されたので、今晩ばかりは一足先に帰宅の途につくことにしている。
 そういえば二十時前に帰宅できるのなんて、いつ以来だろう。秋のブロック予選は九月からだったし、約二ヶ月ぶりくらいだろうか。
 今日はゆっくり湯船に浸かって、お母さんの晩酌に少しだけ付き合って、片岡監督の言うとおり早くベットにもぐりこもう。そうしよう。

 寮の門をくぐろうとした時、カラカラと音を立てて食堂のドアが開いた。沢村くんたちの騒がしい声がもれでてこちらまで届いたとおもったら、背後から近づいてくる足音がひとつ。

「みょうじセンセー、送りますよ」
「いいよ、別に。まだ誕生日会終わってないでしょ。主役の御幸君がいなくちゃダメじゃん」

 パーカーに袖を通しながら駆け寄ってきたのは、やっぱり御幸君。
 今日は十一月十七日──記念すべきキャプテンである御幸君の誕生日──ということで、夕飯後の食堂ではチョコレートのホールケーキを囲んで、御幸君のお誕生日会が催されていた。

 さっきまで室内にいたからなのか、それとも今日の主役として輪の中心にいたからなのか、御幸君の頬は微かに紅く染まっている。
 御幸君はグラウンドだと存在感を示したがるくせに、グラウンドの外に一歩でると人の輪を外から傍観していることが多い。
 要するに、輪の中心に祭り上げられて盛大に誕生日を祝われることにいまだに慣れていない──ということ。
 案外、照れ屋な一面もあるのだ。

「アイツら俺のこと差し置いて、神宮大会の試合を見始めたんですよ」
「ははは、自分が出てない試合だからおもしろくないと」
「……そういうことです」

 御幸君は拗ねている時に少し唇を尖らせて話すので、いま機嫌がよろしくないんだなとわかりやすい。
 無自覚な幼い仕草につい笑ってしまうと、いかにもおもしろくなさそうな目つきで睨んでくる。他の選手たちと比べれば大人っぽく見える彼も、グラウンドの外では年相応な男子高校生なのだ。

「それならお言葉に甘えようかな」

 ここで御幸君のご機嫌を取るためには、彼の提案を気持ちよく受け入れたほうがいい。
 隣に並んで歩きながら、他愛もない話をぽつりぽつりと交わす。神宮大会をスタンドから見た感想、今日の誕生日会のこと、脇腹の調子、などなど。
 ただ並んで歩いているだけでも、御幸君のことでいろいろと気づくことがある。
 歩く速度をヒールを履いている私に合わせてくれていること。 
 ヒールを履いていても見上げないと視線が合わないこと。 
 常に車道側を歩いてくれていること。私が話すときは必ず目を見て聞いていること。
 グラウンドの外では声のトーンが穏やかになること、とか。

「そういえば、みょうじセンセーからは誕生日プレゼントをまだもらってないですよ」
「えぇ〜なんにも用意してないよ」

 さっきみんなと一緒にハッピーバースデーも歌ったし、ケーキを買ってきたのも私だし、それじゃダメなの?──と、交渉すれば「全然ダメです。物足りない」と即効で却下されてしまった。理不尽である。

「でもこの時間じゃあ、どこのお店も開いてないし」

 ここからスポーツショップや商業施設までは少し距離があるし、お店についた途端に閉店の時間になってしまうだろう。
 まさか御幸君がプレゼントを要求してくるともおもわなくて、さすがにこの事態は予想外で頭をひねる。うーん、どうしようかな。

「じゃあ、バス停のとこの自販機でなんかおごってください」
「そんなのでいいんだ。もっと高い物ねだられるかとおもってたのに」
「たとえば?」
「新しいキャッチャーミットとか、スパイクとか、バットとか?」
「ねだったら買ってくれるんですか? さすがみょうじセンセー、太っ腹だな〜ヤサシイ!」
「おだてかたがわざとらしいので、やっぱりナシ」
「えぇ〜」
「わははは」

 凛々しい眉が困ったように八の字になる。
 その様子がおかしくって爆笑したら「俺、ホットのコーヒーがいいです」とジーッと睨まれながら催促された。これからおごってもらう人の態度ではないけど、まぁ細かいことは気にしない。
 ブラックがいい、とのことでホットの缶コーヒーを買って御幸君に手渡す。プルタブを空けるカコッという音を聞きながら、私はコンポタのボタンを押した。
 あったかい黄色の缶を両手で握ると、芯から冷えた指先に感覚がよみがえってくる。かじかむ指先がプルタブをうまく開けられずにいると、その様子を見かねた御幸君が缶を奪って一瞬でプルタブを開けて手渡してくれた。
 
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ブラックコーヒー、苦くないの?」
「さっきケーキ食べてたんで、ちょうどいいです」

 薄明るい街灯の一つが、さびれたバス停の周囲を照らしている。
 私たちは缶から暖をとりながら、バスがくるまであと十分間をなんとなくやりすごす。ちびちびとコンポタを飲みながら、しばしの無言。

 晩秋の澄んだ夜の空気と、すぐ隣の体温と、穏やかな沈黙が、妙に心地よくて。
 なんだろう、この形容しがたい気持ちは──不思議な気分なのだ。心はふわふわと軽いのに、地に足がついているような安心感も感じる。

「御幸君って、いま彼女いないんだっけ」

 本当に唐突にそんなことを訊いたものだから、御幸君はむせて吹きだしそうになる。ゴホ、ゲホゲホ、と苦しそう。負傷した脇腹がまだ痛むのに咳きこませてしまって、わたわたと慌てながら背中をさすった。
 ごめん、ごめんね、ごめんなさい!──と「ごめんの三段活用」で謝ると「そんなに謝らなくていいです」と制された。御幸君のダメージは大きそうに見える。

「彼女いないですけど…...だからなんですか」
「彼女からプレセントもらったりしなかったのかなーって」
「もらってないですよ。なんたって彼女いませんからね」
「まぁまぁ、そんなに怒らないでよ。すぐに彼女だってできるって」
「それ、どういう意味ですか」

 私はいま確実に、御幸君の地雷を踏みぬいたらしい。
 穏やかだった空気が一変して、冬の早朝のようなピリッとした冷たい空気が私たちのあいだに張りつめる。
 私が軽率に触れた話題が彼の神経を逆なでしてしまったのなら、すぐにまた謝らなきゃいけない。ぺこぺこと平謝りを繰りかえす。

「ごめん、御幸君! 私、変なこと言っちゃったね」
「別に謝らなくていいんで。すぐに彼女できるって──どういう意味か教えてくださいよ」
 
 なるほど、その質問が地雷だったらしい。
 答えによってはさらに深いところにある地雷を踏みかねない。
 慎重に、かつ当たり障りのない答えを言わなければ、私は御幸君からの信頼を失ってしまうかもしれない。背中にじわりと冷や汗がにじむ。

「だって、ほら、センバツに当確したんだよ? 甲子園に出場したら女子からモテるって、よく聞く話じゃない」
「俺には関係ないですよ」
「そんなことないって」
「そんなことあります」

 ふいに手首を掴まれて、ぎゅうっと握りしめられる。分厚くて硬い手のひらから、発火しそうなくらい熱い体温が伝わってくる。
 見上げればすぐそこに、眼鏡のレンズ越しに揺らいでいる瞳があって、まっすぐな視線に射ぬかれる。
 言い訳も言い逃れも許さない──と視線がそう訴えてくる。
 私はなんて言えばいいのかわからなくなって、言葉をなくたまま、ただただまっすぐな視線を受けとめることしかできない。
 さっきまで居心地がよかった無言の時間も、いまは針のむしろの状態で張りつめた空気がただただ痛い。

「俺は女子だったら誰でもいいってわけじゃないんですよ」
「そうだよね。無神経なこと言って、ごめんなさい」

 握りしめられていた手首が解放されて、止まりかけていた脈が戻ってくる。心臓が早鐘をうつから余計に脈拍は逸ってしまって、全身で動揺しているんだなと嫌でも自覚してしまう。

 御幸君は私の空き缶も取り上げてごみ箱に放りこむと、両手をポケットに突っこんで目線を足元にさまよわせる。
 今度は気まずい沈黙が訪れて、居心地の悪さに逃げだしたい気分になってしまう。
 きっとそれは御幸君も同じなはずだけど、彼は律義に最後まで見送ろうとしてくれているのに。
 それなのに私はというと、早くバスが来てほしいと祈るようなおもいで、バスの到着時刻を確認する。
 ──バスがくるまで、あと二分。

「みょうじセンセーは謝らないでください。いまのは完全に俺の八つ当たりなので……むしろすみません」
「いや、私の失言だった。以後気をつけます」

 ふたりとも地面を見つめながら堅い声で言葉を交わすと、そのぎこちないやりとりで出会った当初をおもいだす。
 私は青道野球部が嫌いで、御幸君は私のことが嫌いだった。
 でもいまは、違う──とおもう。少なくとも私は「違う」と言いきれる。

「……いまの俺、すげーダサいですね」

 悔やむような声で絞りだされた、独り言。
 顔を持ち上げて、隣の御幸君を見上げる。
 やっぱり視線は交わらない。

「ダサくてもいいじゃん」
「……は?」
「御幸君が好きになる子は、君のダサいところも好きになってくれるよ!……たぶん、きっと……おそらく」

 急に視界がまぶしくなる。交差点を曲がってきたバスのヘッドライトが、御幸君の横顔を照らしだした。
 御幸君は驚いた表情から一転して、今度はいつもの調子で笑いだした。張りつめていた空気が一気に緩む。

「はっはっはっ! そうですかね……そうだといいな」
「先生の言うことを信じなさい」
「ちなみにみょうじセンセーは俺のダサいところ──好きですか?」

 バスは目の前にぴたりと停まって、乗車口が開く。乗りこんでから振りかえり、ニヤッと笑って、こう告げる。

「──嫌い、じゃないよ」

 ドアが閉まり、御幸君を残して走りだしたバスの車内で、ドキドキと弾む心臓を抑えつけるのに必死になる。深く息を吐き、深く息を吸いこむ。

 「嫌いじゃないよ」と言った瞬間の、御幸君の表情──嬉しそうな笑顔、高揚した頬、小さなちいさなガッツポーズ。
 あれは──まるで恋する少年のような──無邪気で無防備すぎる仕草だった。
 どうして、なんで。私なんかにあの仕草を見せたのか、どうしても理解できなくて。理解したくなくて。寝不足の頭がぐしゃぐしゃに混乱してしまう。

 (──あぁ、やっぱり……)

 独特の雰囲気のある、あの瞳だけじゃない。
 ふいに見せる彼の無防備な笑顔も、やっぱり苦手だ。
 御幸君に好かれる女の子はきっと大変だろうと同情してしまう。無防備な笑顔を見せられるたびにこんなにも胸が飛び跳ねるなら、心臓がいくつあっても足りないだろう──なんてね。

 やっと息が落ちついて、暗い窓の外を見るとガラスに反射した私と目が合う。ひどく情けない表情の私。慌ててバックの中をあさって手の中でミラーを開くと、頬から首まで紅く染まっていて深く絶望する。

 (もしかして、御幸君にこんな顔を見られていたの──?)

 
 帰宅すればお母さんに「熱があるんじゃないの?」と心配される始末。
 なんとか誤魔化して早々とベットにもぐりこんだのに、やっぱりどうしても寝つけなくて。
 火照りに浮かされた眠りは、どうしたって安らかなものになるはずがなかった。