それは夜の自主練が終わり、近くの公園からホテルへと帰る途中のことだった。
「あれ、みょうじ先生じゃねーか」
隣を歩いている倉持がふいに立ち止まり、少し離れたところの横断歩道を指差した。
秋の夕暮れのようなばんやりしたオレンジの街灯に照らされて、信号待ちをしている女性が佇んでいるのが見える。夜の闇に遮られて顔はよく見えないが背格好はみょうじ先生に近く、うつむいてスマホに視線を落としている身体の輪郭が彼女によく似ていた。
「俺、ちょっと行ってくる」
「おー、あんま遅くなんなよ」
肩にかけていたバットケースを倉持に渡して、信号が青になって歩きだした影においつくために駆け寄った。その後ろ姿に近づくと羽織ったコートでみょうじ先生とわかって、横から顔を覗きこむと一瞬きょとんとしてから目を丸くする。
「なんだ、御幸君か。もう自主練終わったの」
「ついさっき終わりましたよ。みょうじ先生はこんな時間にひとりでどこ行くんですか」
「コンビニだよ。エナジードリンクがなくなっちゃったから補充しようと思って」
街灯のオレンジに淡く染まった白線の上を、スカートから伸びる健康的なふくらはぎが渡っていく。
全身を見てみるとワンピースにコートを羽織っただけのラフなスタイルで、物珍しくてまじまじと観察してしまう。
ワンピースは薄いベージュでウエストできゅっと絞られてから、膝を隠す長さで裾に向かって広がるシルエットをしている。見た目はゆったりしていて私服というよりは部屋着に近い感じで、着ている人をリラックスさせる作りのようだ。
ただ、ストッキングもタイツにも覆われていない素肌がスカートからちらちらと覗くたびに、やけに緊張してしまう。──目に毒だ。
「エナジードリンクって常飲するもんじゃないですよ」
「大丈夫。一日一本しか飲んでないから」
「それを常飲っていうんじゃないんですか……」
短い横断歩道を渡るとすぐそこには緑色のコンビニ。
明るい店内に入るとみょうじ先生の顔の感じがいつもと違うような気がして、エナジードリンクを吟味する横顔をじっと見ていたら視線に気づかれてサッと顔を逸らされた。
「ちょっと、あんまり見ないで。今すっぴんだから」
「化粧してないといつもより幼く見えますね」
みょうじ先生はもともと化粧が濃いほうではない、と思う。
出会ったばかりの頃よりもずっと、去年の夏からますます、まぶたや唇を彩る色彩は薄く控えめなものへと変化していったことは、なんとなく気づいていた。
グラウンドでシートノックを一回こなせば、化粧は汗でどろどろに崩れてしまうらしい。
だから、化粧を手抜きしているというわけではなく、みょうじ先生はより自然体な状態へ近づいているのだと解釈している。
色の乗っていないまぶたも、自然な血色の唇も、つるりとした鼻や頬も、今まで見てきた顔の中でも一番に好ましい。
それでも、みょうじ先生はすっぴんを見られることが恥ずかしいらしく、そわそわとして落ち着かない様子だ。手櫛で前髪を下ろして顔の見えている面積を狭くしようと必死になっている姿は、少しだけかわいそうだけどかわいらしさの方が勝ってしまう。
「だから、あんまり見ないでって言ってるでしょ!」
「俺はすっぴんでもいいと思いますけどね」
「私は嫌なの」
いくつかの種類の中からゼロキロカロリーのものを六本まとめて買い物カゴに放りこむと、一直線にレジへ向かい会計を済ませる。
むっつりと閉じた口元を横目に見ながら、レジ袋を渡そうとする店員へさりげなく手を差しだして、それを先に受け取った。
私が持つよ、と焦った口調のみょうじ先生の手が伸びてくるけど、その手はいとも簡単に避けることができた。
数秒間の攻防を繰り広げ、反射神経では到底敵わないと実感したみょうじ先生はぼそりと「ありがと」と言う。
ロング缶が六本も入ったレジ袋はそれなりに重たいし、みょうじ先生に持たせるわけにはいかなかった。
「どういたしまして」と返事をすれば、今度は機嫌良さげに目を細める。俺が隣に居なければ今にも鼻歌でも歌いだしそうだ。
良くも悪くもみょうじ先生は俺の前で無防備になる時がある。それは信頼の証か、それとも男として意識されていないからか──おそらく圧倒的に後者だろう。
仮にそうだとしても、みょうじ先生が俺の前で自然体でいてくれることが嬉しくて、今はそれ以外のことはどうでもよかった。
コンビニを出ると目の前の国号二号線を車が疾走していく音の他に、なにか懐かしい響きがかすかに混じって聞こえるような気がして、ふと足を止めた。
先に歩きだしていたみょうじ先生は「どうしたの?」と小首を傾げ俺のほうを振り返る。
「どこかから水が流れるような音がしませんか」
「この近くに川があるんだよ。知らなかったんだ」
みょうじ先生のスマホのマップで確認したところ、どうやらホテルと尼崎駅の間に川が流れているらしい。
バスの車窓から見える景色よりもスコアばかりに目を落としていたせいで、俺はホテルの周辺の地理には疎いままだった。
ふとした疑問は速やかに解決したのでそのまま帰るのかと思ったら「川、見に行ってみようか」とみょうじ先生は言って、俺の返事を待たずにすたすたと先に行ってしまう。
待ってください、と声をかけずとも一歩、二歩と広い歩幅で追いかければ、一息で隣に追いつく。
そこからまっすぐ進み、三分もかからないですぐに橋までたどり着いてしまった。
──本当はもう少し歩いていたかったのに。
無意識に舌打ちをしそうになって、強く唇を引き締める。
川を見に行くという本来の目的よりも、みょうじ先生とふたり並んで歩けるこの時間のほうが、いつの間にか俺にとって重要になっていた。
「川だね」
「川ですね」
肩を並べて手すりから狭く浅い流れを見下ろして、見たままの感想を率直に述べる。
川は夜の闇を映して真っ暗で、街灯の灯りを反射して黒の川面にオレンジ色がかすかに揺らめく。顔を上げると正面にはもう一本の橋と、それの向こう側に阪神尼崎線の線路が横たわっている。この線路の先は甲子園駅まで続いているらしい。
川の上を滑って吹いてくる肌寒い夜風はみょうじ先生と俺の前髪をふわりと浮かせた。
「あ、あれ見て、御幸君!」
明るく弾んだ声で、「あれ」を指差し、急に駆けだしたみょうじ先生の後を追いかける。
この人はいつだって考えるよりも先にどんどん前へと進んでいくし、そんなみょうじ先生の後ろ姿を俺はいつも少し遅れて追いかけている気がする。その距離感がじれったいのに、それと同時に心地よさも感じるから不思議だ。
川の脇に植えられた一本の木の前で立ち止まって、みょうじ先生は枝垂れている枝に顔を寄せた。
その枝には白い花弁がいくつも開いていて、鼻先をかすかに動かして匂いを嗅ぎ、「桜のいい匂いがする」と嬉しそうに表情をゆるめる。
桜の匂いがどんな匂いだったか思い出せなくて、俺も小さな花びらに鼻を近づけてみる。それは小学校の教室に飾られていた生花を思い起こさせるだけで、桜特有の匂いは感じ取れなかった。
「桜、開花してたんだね」
「こっちでは三日前に開花してたみたいですよ」
兵庫の代表宿舎に入ってからは、毎朝の散歩と夜の三十分間の自主練、甲子園練習と付近の高校のグラウンドでの二時間ほど練習でしか外出しない。
バス移動の時ですら、俺やみょうじ先生は窓の外を眺める暇も惜しんでスコアや野球雑誌を読んでいたので、実際に桜が開花したことに気づかなかったようだ。
ただ、普段より練習時間はずっと短く、部屋で過ごす時間は思いの他に長かったので、暇つぶしと情報収集もかねてテレビをつけている時間も増えている。
そのおかげで天気予報のついでに桜の開花情報も一応耳には入っていた。
「天気予報は毎日見てたのにな。桜の情報は聞き流してたみたい」
みょうじ先生は初戦の日から礼ちゃんと入れ替わりで宿舎に入り、青道の練習や対戦校の試合中以外には対戦校のデータ分析に注力して、部屋に缶詰め状態になっていた。
天候は試合や練習にも影響を及ぼすので、普段よりも神経をとがらせて天気予報を見ていたはずだけど、野球には直接関係のない桜の情報は聞き流しているところはみょうじ先生らしい。
「もう半分くらい咲いてるよね」
「週末には満開になるみたいです」
「今年はゆっくりお花見もできないのか〜」
「甲子園で試合できるほうがいいじゃないですか」
「それもそうだね」
開いている花と蕾が半分ずつの木々が川沿いにまっすぐ並んでいる。この木々が満開になれば壮観な光景になりそうだ。みょうじ先生は桜を愛おしそうに目を細めて観察している。
その後ろ姿に「桜、好きなんですか」と問いかけた。
「好きだよ」
とても自然に紡がれた告白は、小さな花弁をそっと揺らした。
その言葉を、こちらを振り返ってまっすぐに俺の目を見て言ってくれたら、どれほど幸せな気持ちで全身が満ち足りるのだろう。
ほんの数秒間に想像しただけで、首筋が火照る。頬の赤みは暗闇と街灯の灯りが誤魔化してくれるから、今が夜でよかったと心底思う。
「ていうか、桜が嫌いな日本人なんていないでしょ」
「それは拡大解釈ですよ」
「でも、御幸君だって桜は嫌いじゃないでしょ」
みょうじ先生が後ろを振り返ると、風にさらわれて髪が横顔に流れてくる。ほっそりとした指で耳に髪をかける仕草に、無性に胸が高鳴った。
あの指に触れてみたい──ふと沸きあがる衝動を右手の中に握り締める。
「好きですよ、俺も」
みょうじ先生の背後で揺れる桜はもはやただの背景でしかなくて、俺はまっすぐに彼女の目を見てはっきりと告げる。
──我ながら遠回しな言い方だな。
でも、この表現が今の俺の精一杯なのも確かだ。
もういっそのこと真意のすべてが伝わってしまえばいい、と投げやりな心持ちでみょうじ先生の言葉を待つ。
この告白をどうやって受け止めて、どんな答えが返ってきたとしても、俺は後悔はしない。
薄く微笑んでいたみょうじ先生の顔から表情が溶けだして、唇は呼吸が止まっているように薄く開いたまま言葉をなくしてしまった。
黒く濡れた瞳を水面のように揺らめかせて、ただただまっすぐに俺の視線を受け止めくれる。
ふいに強い風が吹いて耳にかけた髪が横顔にさらりと流れた瞬間に、迷子になっていた思考が現実に引き戻されたらしい。急に我に返ったみょうじ先生はせわしくまばたきを繰り返す。
「……ほら、桜が嫌いな日本人なんていないでしょ」
どうやらこの告白の真意はみょうじ先生まで届かなかったようだ。
ふたりの間に張り詰めていた緊張感がたゆんで、俺たちはほぼ同時に小さく胸を撫でおろす。
「ここにいる日本人って、俺とみょうじ先生しかいないじゃないですか」
「いいんだよ。私たちが日本人代表ってことで」
すっかりいつもの調子を取り戻したみょうじ先生は、スマホのカメラで数回ほど白い花びらを撮影した。
満足そうに写真を眺めた直後、小さく声を上げて「もう消灯三十分前だ。早く戻ろう」と言って慌てて踵を返す。
俺も後を追いかけて一息で隣まで追いつくと、二十センチほど低いところにあるみょうじ先生の顔がじっと視線を投げかけてくる。なにか言いたそうな表情をしているので、お返しにこちらもじっと見つめかえすと、急足で歩きながらみょうじ先生が口を開いた。
「御幸君、やっぱり背伸びたよね」
「去年から二、三センチは伸びましたよ。わかりますか」
「最近、御幸君と話してると見上げてばかりで首が痛いから。背が伸びたんだなと思ってさ」
「逆にみょうじ先生が縮んだんじゃないですか」
「伸びてもないけど縮んでもないよ! 失礼だな!」
目尻を吊り上げて声を荒げたって、みょうじ先生は本気で怒っているわけじゃない。この人が本気で怒るとしばらく口をきいてくれなくなるのはすでに実証している。
信号待ちで隣に立つと、みょうじ先生との身長差はより大きく見えた。今はフラットな靴を履いているせいで、余計にそう感じるのかもしれない。
「じゃあ、これからみょうじ先生と話すときは屈みますよ」
「そういう気遣いはしなくていいから」
「それなら、これでいいですか」
小首を傾げて顔を覗きこむように目線を合わせる。肩と肩が触れてしまいそうな距離で視線が結ばれて、みょうじ先生は息を飲んだ。
このまま顔を寄せれば一秒で唇に触れられそうなほどに、お互いの顔が近い。
みょうじ先生の黒い瞳には不思議な引力が備わっていて、自然と吸い寄せられそうになった、その瞬間。
絶妙なタイミングで信号が青に変わって、忙しない車の往来が一時的に止まる。
いつもなら先に歩きだすみょうじ先生は、その場で立ち尽くしたまま固まってしまった。
「みょうじ先生?」
「……なんでもない」
口先ではそう言ったものの、みょうじ先生の態度は明らかに「なんでもなくない」様子だ。
オレンジ色の白線を渡る足取りはよろよろしているし、ずっと顔を伏せたままだし。
ふらりと立ち寄った花見からホテルに戻り、ロビーの照明の下で見たみょうじ先生の耳が紅く染まっていると気づいことは、胸の内側にそっと秘めておこうと思う。