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祈りは土に還りて


「今日から二日間かけてグラウンド整備と環境整備を行う」

 十二月の最初の土曜日は、雲一つない快晴だ。
 朝の冷えきった空気を、片岡監督の腹の底から響くような低い声が振るわせる。
 いくら晴れているとはいえ、早朝の気温はまだ十度に届かない。部員たちはほぼ全員がグラウンドコートのジッパーをきっちり上げて、ネックウォーマーやら手袋でなるべく肌の露出を防いでいる。防寒対策は万全だ。

「天地返しの作業にともない、ピッチャーズプレートとホームベースの交換までやるぞ。
 普段プレーをさせてもらっているグラウンドに感謝をして、心して作業に取り組め」

 数十人の部員が声を揃えて返事をすると、びりびりと鼓膜が痺れる。なかでも沢村の声は飛び抜けてうるさい。コイツは早朝だろうが深夜だろうが、いつだってありあまるぐらいに元気だ。
 グラウンドの天地返しを行う十二月の最初の土日がくると、オフシーズンに入ったんだという実感がわいてくる。
 ここから三月八日までが高校野球のアウトオブシーズン──対外試合を禁止される期間だ。

「御幸先輩、御幸先輩!」
「なんだよ、沢村。何度も呼ばなくても聞こえてるっつーの」
「天地返しって……なにをするんですか!?」
「えっ、おまえ……天地返し知らねーの?」

 沢村は大きな瞳を爛々とさせて遠慮なく距離を詰めてきた。
 野球に関して知らねぇことだらけの後輩に、これから行う作業の重要さを説明をするのも先輩であり、主将の役割だ……すげぇめんどくせーけど。

「必殺技ですか!? 必殺技の特訓をやるんですね!?」
「違ぇよ。グラウンドの土の掘り起こして、上の層の土と、下の層の土をひっくり返す作業のことを『天地返し』って言うんだよ」
「なんで『天地返し』をする必要があるんですか!? いったいどうやって土をひっくり返すんですか!?」

 畳みかけるような怒涛の質問攻め。
 ちらりと周囲に視線を向けると、こっそりと聞き耳を立てているヤツもいるらしい。
 そいつらにも聞こえるように、少し声を張る。

「普段の整備で手がつけられない奥深くの土は圧縮されて硬い層になっていくんだ。
 グラウンドの下に土の硬い層ができると、雨が染みこまなくなって水捌けが悪くなるんだよ」
「えぇ、それはマズいな!?」
「だから、年に一度は下で潰されてた硬い土を掘り起こして、空気を含ませて柔らかくする。
 そうすると、水捌けのいい弾力のある土ができるんだよ。良い状態のグラウンドを一年かけて維持していくために、絶対に必要な作業だ」
「ふんふん、なるほどぉ」
「おまえ、本当に理解できてんのかよ?」
「なにを! 六割くらいは理解できてるぞ!」

 こんだけわかりやすく説明しても六割かよ……と頭を抱えたくもなる。
 俺の説明が難しかったかと疑心暗鬼になったが、聞き耳を立てていたヤツらは納得の表情をしていたので、やはり沢村の理解力に問題があるらしい。やっぱり飛び抜けてバカだな、沢村は。

「じゃあ、作業の工程については私から説明します」

 片岡監督に代わってみょうじ先生がこの場を仕切り、バッテリー班の班長を俺、内野手班の班長に倉持、外野手班の班長に白州を指名した。
 AグラウンドとBグラウンドを同時進行で作業を行うため、それぞれの班を二分割して動くことになる。
 今日の作業は、午前中に野手班がグラウンド周辺のゴミ拾い、ゲージや防球ネットの補修、ベンチ内と部室の清掃、用具室の整理整頓などを担当する。
 バッテリー班は二面あるグラウンドのホームプレートとピッチャーズプレートの掘り起こし、マウンドを削る──とみょうじ先生が言いかけたところで、沢村が大きな声を上げた。

「マウンドを削っちゃうんですか!? そんなことして大丈夫ですか!?」
「マウンドがないと……投げられない……」

 声を荒げる沢村の隣で、降谷が真っ青な顔をしてしきりに頷く。
 マウンドはアイツらピッチャーにとっての居場所だ。それを「削る」と物騒なことを言われたら、不安になる気持ちもわからなくもない。
 ふたりの不安な心情を察してか、みょうじ先生はなだめるように柔らかく笑みを作った。

「大丈夫だよ。監督も指示してくれるし、みんなで強くてかっこいいマウンドを作ろうね」

 みょうじ先生の言葉に沢村と降谷はキラリと目を輝かせて、「はい!」と勢いよく返事をした。
 どうやら「強くてかっこいいマウンド」というフレーズが、ヤツらの心に響いたらしい。
 最近のみょうじ先生は、選手の気持ちを乗せるための言葉を選ぶのが上手くなったと思う。
 選手のモチベーションを下げることなく指摘をしたり励ましたりするのは、このチーム内でみょうじ先生が一番上手いかもしれないとさえ感じるほどだ。

「午前の行程はさっき説明した通りです。
 昼休みから午後にかけては、太田部長に耕運機を使って土を掘り起こしてもらいます。
 その後にコートローラーでグラウンドを転圧して、平らに均してから全員でグラウンドのトンボかけの作業に入りますよ」
 
 耕運機とコートローラーは太田部長と片岡監督が運転してくれるらしい。その間は午前の環境整備の続きを行い、俺たちの出番は夕方頃になるとのこと。
 夜間はグラウンド全体に散水をして、まんべんなく土に水分を与えて、明日の午後まで水分の蒸発を待つ。それからコートローラーでまた転圧をしてグラウンドを締め固めて、土の中の異物除去を行い、最後にホームとマウンドを成形する。
 一つひとつの工程に手間はかかるけどていねいに作業を行うことで、一年間の戦いに耐えられる強くグラウンドとマウンドが作られる──と説明するみょうじ先生の声と表情は、心なしかいつもよりテンションが高い。
 天地返しの工程の多さに萎えている部員がほとんどなのに、唯一みょうじ先生と沢村は元気だ。沢村の場合は年中無休で元気だけど。

 一通りの説明が終わり、チームは一時解散した。
 各班がそれぞれの持ち場に散っていく様子を見送る。バッテリー班も二組に分けて、Bグラウンドのリーダーをノリにやってもらったから心配することもなさそうだ。

「今日のみょうじ先生、いつもより楽しそうですね」

 工程表に視線を落としているみょうじ先生に声をかける。
 「うーん、そうかな?」と小首を傾げる仕草は、本当に心あたりがなさそうなリアクションに見えた。

「さては、なんかいいことでもありました?」
「いや、別になんもないけどさ。天地返しの作業なんて久しぶりで懐かしいから、気合入ってるんだと思う」

 今日のみょうじ先生の格好を見てみれば、気合いの入り具合がよくわかった。
 上下が黒のジャージ姿で、目深に帽子を被っている。首からタオルをかけて、軍手もつけているし、かたわらには大きなショベルまで持っている。まさにやる気満々って感じだ。
 「それにさ」とみょうじ先生は続ける。
 
「普段って部員が全員そろって練習することも難しいでしょ」
「まぁ、そうですね」
「でも、この作業やってる時はAチームとかBチームとか関係なくて、みんなが同じ作業に追われてて……その慌ただしさがさ、文化祭の前日準備の雰囲気に似てて、なんかワクワクするんだよね」

 帽子のつばを上げて、広くなった視界でグラウンド全体を見渡している。
 その楽しげな横顔が、朝の日差しに縁取られて光っている──きれいだ、と素直に思った。

「……へぇ」
「私のこと『こどもっぽいな』って思ったでしょ」
「はっはっはっ! まぁ、否定はしませんよ」

 俺の発した一言に、みょうじ先生は鋭い眼光で睨みつけつつ、唇を曲げた。
 その表情はどこか凄みに欠けるので、正直言うと怖くない──なんて素直に言ったら、今度は本当に怒らせてしまいそうなので黙っておこう。
 普段のみょうじ先生は他のヤツらの前では取り繕っているけど、俺の前では時々こんな風に喜怒哀楽を素直に表現する。コロコロと表情を変える様子は梅本や夏川と似ていて、まるで同い年の女子みたいで。


 (──俺はこの人の、そういうところが……)


「はい、雑談終わり! 口動かす前に手を動かして!」

 みょうじ先生は手を打ち鳴らして会話の流れを断つと、背後に回ってグイグイと背中を押してきた。残念ながら体格差がありすぎてあんまり押せていないけど。

「ハーイ」
「頼りにしてるからね、キャプテン!」

 みょうじ先生はBグラウンドのバッテリー班に合流すると言い残して、軽い足取りで駆けていってしまった。
 「頼りにしてるからね」の弾んだ声がいつまでも耳の奥で響くのが、くすぐったくて。
 全身にかすかな電流が走ったような、そんなこそばゆい感覚にさせられる。どうやら俺までみょうじ先生に乗せられているらしい。

「キャップー! 早くこっち来てくださいよー!!」
「おー、今いく」

 騒がしい後輩たちが俺を手招きをしている。
 自然と足取りが軽くなって、いつの間にか俺もマウンドへと駆けだしていた。


 ***


 十二月の夜の澄んだ空気は、グラウンドコートを羽織っていようがネックウォーマーで防寒しようが、お構いなしに体温を奪っていく。
 二日間をかけて進めていた天地返しの工程は当初の予定よりも押している。

 昨晩、グラウンドに散水した水がちょうどいい具合に土へと染みこむタイミングを計っていると、全体の作業が遅れてしまったからだ。
 それもしかたないことだった。水分が染みこみすぎても、染みこみが足りなくても、地面の奥底から弾力を感じさせるような強いグラウンドは作れない──と片岡監督は語っていた。

 コートローラーでグラウンドを締め固める工程も、土の中の異物除去も、ていねいに行っているうちに日が暮れてしまった。
 残る工程はホームプレートとマウンドの成形のみ──というところで、作業を中断して早めの晩飯を食べてから、野球部総出で作業に取りかかること三時間。やっと最後の工程の終わりが見えてきた。
 
 ようやく完成したAグラウンドのマウンドを、ナイター照明が煌々と照らしだしている。
 平に均された地面に土を盛り、足場を少しずつ固めながらトンボを使って緩やかな傾斜の丘を築いて、慎重にピッチャーズプレートを埋めこんだ。
 常に騒がしい沢村ですら口数が減って相当集中して作業に取り組んでいたし、降谷も薄っすらと額に汗を浮かべながら真剣な横顔でマウンドに向かっていた。 
 そんな様子を狩場と感心しながら眺めつつ、俺たちもしっかりと手を動かした。
 このマウンドが投手陣を鍛え上げる場所になるように──と思いをこめて。


「みょうじ先生ー! 次はこちらへー!」
「はーい、今いくよ」

 一升瓶を抱えたみょうじ先生が、Bグラウンドから急ぎ足でこちらへとやってくる。まるで守備のタイムに走ってくる伝令のようでおもしろい。
 腕に抱えた瓶の中で日本酒が音を立てて波打って、あたりにかすかなアルコール臭がただよう。
 みょうじ先生は完成したマウンドを見つめて、にっこりと満面の笑みを浮かべた。

「みょうじ先生、いかがでしょう!? 強くてかっこいいマウンドになったでしょう!?」
「……どうですか?」
「おぉ〜! イケメンなマウンドになったねぇ、かっこいいよ! すごくいい!」
「そうでしょう、そうでしょう!」

 みょうじ先生の褒め言葉に沢村が力強く同意し、降谷も何度もコクコクと首を縦に振った。
 俺は狩場と目を合わせて小さく笑いあう。
 マウンドには新しい真っ白なピッチャープレートが埋めこまれて、ナイターの灯に照らされてつやつやと輝いている。
 俺たちがていねいに作りあげたマウンドだ。なだらかにに傾斜した丘はしっとりと黒く、土の固さもちょうどいい。
 イメージは、聖地甲子園のマウンド。
 みょうじ先生の言う「イケメンなマウンド」の要素がどこにあるのかわからないが、褒められたことは素直に嬉しい。 

「よし、じゃあお清めしちゃおうか」

 ピッチャーズプレートに盛り塩を作り、一升瓶の蓋を開けるとさらにアルコール臭がキツくなる。降谷が顔を白くして表情をしかめた。
 まだ誰も立ったことのないまっさらなマウンドに、みょうじ先生が酒を振りかける。降り注ぐ酒の雫が照明の明かりできらきらと輝きながら、マウンドを清めた。

「では、野球の神様にお祈りしましょう」
「お祈りって、何回拍手するんだっけ!?」
「お辞儀は一回……?」
「一回ずつでいいんじゃねーか?」
「違ぇよ。二礼二拍手一礼な」

 混乱してあたふたする後輩たちに訂正を入れると、尊敬のまなざしを向けられて気恥ずかしくなる。なぜかみょうじ先生まで感心して、俺の目をじーっと見てくるし。
 なんなんだよ、これくらい常識だろ……。

「じゃあ、二礼二拍手一礼で」

 みょうじ先生が音頭をとり、俺たちはそれにならって同じように礼を二回、拍手を二回打った。
 遠くに部員たちの話し声がかすかに聞こえてくるだけで、グラウンドはしんと静まりかえった。刺すような凍えた空気が鼻先と頬を冷やしていく。
 このマウンドの周りだけが他の空間と切り離されているかのような──そんな神聖な空気が満ちているような気がする。

「野球の神様……新年も選手たちの健康と安全を守り、その豊かな土壌で心身を鍛え、優れた技術を磨き、ほんの少しの挫折と、多くの成功と成長を与えてください。
 そして、青道野球部が全国制覇を成し遂げる道のりに、どうかお力添えください」

 みょうじ先生の澄んだ声が、静かな空間を震わせた。
 静かに一礼をした直後に、沢村が目を輝かせながら口火を切る。

「なんですか今のかっこいい呪文は!?」
「沢村君、今のは呪文じゃなくて祝詞って言うんだよ」
「……のりと?」
「神様に唱える言葉のことを祝詞って言うんだよ」
「狩場も物知りだな」

 感心して素直に褒めると狩場は照れくさそうに頭をかいた。
 沢村と降谷は「俺たちは褒められたこと無いのに……!」と睨んでくるけど、俺はたまに褒めてんのにすっかり忘れているらしい。
 ほんっとにバカだなコイツら……。

「その祝詞、みょうじ先生が考えたんですか?」
「そうだよ」
「ていうか、なんですか『ほんの少しの挫折』って」

 さっきの祝詞で気になっていたフレーズを口にすると、みょうじ先生は得意げに口角を上げる。

「挫折ってスパイスも少しは味わっておけば、成功ってご褒美もより美味しくなるでしょ」
「みょうじ先生……『うまい』ですね!!」
「沢村君に座布団一枚!」
「山田君ー! 座布団持ってこーい!!」
「うちの野球部に山田なんてやついねーだろ」

 沢村とみょうじ先生は妙に気が合う。
 沢村のテンションに合わせられるみょうじ先生がすごいのか、単にみょうじ先生の精神年齢が沢村に近いのか。そのどちらかわからないけど、こうなると俺は蚊帳の外になってしまうので……正直おもしろくない。
 突然はじまった笑点コント(?)に降谷は困惑しながら「寮に座布団なんてあったけ」と真面目に答える。
 狩場が即座に「あれはふざけてるだけだから間に受けんなよ」とフォローを入れてくれた。

「さて、これで全工程は終了だね。みんな、本当にお疲れさまでした」

 みょうじ先生の労いの言葉を聞いて、どっと一気に疲労感と一緒に達成感がわいてきた。
 さっきまでの清らかな空気から、ホッとするような雰囲気に変わった──と思った瞬間に、みょうじ先生はにこやかに聞きたくなかったフレーズを口にする。

「これで『冬合宿』に向けての準備もバッチリだね──って……御幸君? どうしたの?」
「…………」
「御幸先輩がしんだー!?」
「AED……!」
「御幸先輩!? しっかりしてください!」
「……おいおい、勝手にころすなよ。降谷、AEDはいらねーから」

 膝から力が抜けてがっくりと座りこんだ俺を囲んで、頭の上でワーワーと騒ぎだした。
 「また脇腹が痛むのかー!?」と耳元で叫んだ沢村の頭に、亮さん直伝のにチョップを落として黙らせる。
 みょうじ先生とコイツらはまだ『冬合宿』の恐怖を知らない。まぁ、いずれ知ることになるんだけど……去年の記憶を思い出すと背筋に悪寒が駆け抜けていく。
 
「おまえら、冬合宿はマジで地獄だぞ。今のうちに覚悟しとけよ…… みょうじ先生も」
「えっ、私も!?」
 
 みょうじ先生の顔がどんどん青白くなっていく様子がおもしろくて、思わず吹きだしてしまった。
 からかっていることがバレた途端に、鬼の形相で一升瓶を振りかざすみょうじ先生。
 沢村と降谷がみょうじ先生を全力で止めてくれなかったら、俺はグラウンドでしんでたかもしれない。コイツらが命の恩人って……なんか嫌だな。

 最後の最後に一悶着あったけど、とりあえず無事に天地返しのすべての工程が終わった。
 明日からはグラウンドでの練習が再開する。
 美しく整えられたグラウンドを一望すると、早くここで練習したいという気持ちが高まってきた。
 今日だってもうくたくたに疲れてるのに、早くコイツらの球を受けてやりたいし、ロングティーを打ちたいとさえ思う。
 俺たちが自分たちの手で作り上げたという自信が気持ちに火をつけるのかもしれない。
 後輩たちの瞳の中にも炎が揺らいでいるように見えた。

「自分たちで作ったグラウンドでプレーするとね、どんどん野球が上手くなるんだよ。明日からの練習が楽しみだね」

 みょうじ先生の言葉は真昼の綿雲みたいに白く、ふわりと夜に浮かんだ。
 早く、早く明日になれ──口に出さなくてもここにいる全員が同じことを考えていると、冷たい空気に混じったかすかな熱気で伝わってきた。
 このグラウンドで俺たちはもっと強くなる。
 今日よりもっと野球が上手くなる。
 それは予感じゃなくて、努力で確信に変えなくちゃいけない。

 今日の苦労と明日からの努力は、来春のセンバツに繋がる──すべては全国制覇のために。