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微笑よこせと神様が告ぐ
 六月の窓は朝からしとしとと降る雨で濡れていて、窓際から流れこんでくるじっとりと湿った空気がミーティングの雰囲気をさらに重たくさせている。
 配られたトーナメントシートの細かいやぐらから、自分たちの校名を探している選手たちの目は爛々と輝いていた。

 ──『どこが相手でも絶対勝つぞ!』

 抽選会前日の昨日、主将は強気な発言で選手たちを奮い立たせたばかりだったのに。
 自分たちの校名を見つけた選手たちからは次々とため息がこぼれ落ちる。

「……三回戦、稲実かよ」
「無理じゃん」

 雨がどこかのトタン屋根をリズミカルに叩く音に差しこまれた、温度のない独り言。それは静まりかえった室内に浮かんで、シャボン玉が割れるようにしてすぐに消えた。
 誰も反論できなかった。建前に張りつけるための前向きな言葉を探すのには、それなりに時間がかかる。
 私も選手の弱気な独り言を否定できずに唇を噛んで、まだ赤線を引いていないトーナメント表を恨めしい思いで睨むことしかできない。 

 稲城実業──昨年夏の甲子園準優勝であることは、高校野球に携わる者の間では言わずと知れている。
 秋は都立校に負けて話題になっていたけど、今春は都大会優勝、そのままの勢いで関東大会も制覇した。
 今の稲城実業は、名実ともに「関東No.1」であり、「甲子園常連校」として高校野球界に君臨している。 
 そして、チームを一年生の頃から牽引し、二年連続夏の甲子園に導いているのは、エースである「成宮鳴」の功績が大きい。
 成宮はこの世代でNo.1左腕との呼び声も高く、一年生の頃からプロ注目と噂されている。今やドラフト上位指名も期待されていることは、もはや周知の事実だ。もちろん、野手たちも卒業後はプロや大学からの引く手数多の選手ばかり。
 そんなスター軍団が対戦相手とわかって、みんなも閉じたままの口が容易に開けない。 
 試合が始まる一か月も前から、相手校にプレッシャーを与えるほどの強さが、「稲城実業」の文字から滲み出ている。 

 それでも、そうだとしても──私は勝ちたい。 
 まだ試合開始前なんだ。過去は変えられなくても、未来は変えられる。私たちは昨日より強くなれる時間が、まだある。 
 まぶたの裏に勝利の瞬間を思い描く夜をいくつも越えて、夏は刻一刻と近づいていた。



 ──そして、今。
 私たちは想像していた以上の稲実の強さを、まざまざと体感させられている。 
 試合が始まる前から気温は三十度近かったはずだし、今だって全身に薄っすら汗だってかいているのに、暑さがよくわからない。 
 スタンドのメンバー外の部員たちの声援も、ブラスバンドの演奏も、観客たちの騒めきも、どこか遠くに感じてしまうほどに、私たちは終始圧倒されていた。 
 ベンチの中もグラウンドでも稲実側の空気には活気が満ちて、追い風が彼らの背中を押しているように見える。それに対して私たちの吸う空気は薄くて、それでいて重たく冷たい向かい風が吹いているような気がするのだ。 
 もうすぐ梅雨明けだっていうのに、空には灰色の雲で塗りこめられて隙間なくぴったりと蓋をされているよう。どこか閉塞感に満ちている天気は私たちのベンチの雰囲気を表しているみたいで、緊張をほぐそうと深呼吸するたびに天を仰いでいたけど、それもやめた。こぼれ落ちそうになるため息を腹の底まで沈めて、細く長く鼻から吐きだす。 
 スコアボードを見上げれば、自チーム側は五つの〇がきれいに整列し、稲実側にはすでに合計五点が並んでいる。ただ淡々とエースが打たれ、時にはエラーも絡んだり、守備の連係が乱れたりしながら重ねた失点は絶望的なほどに重くて。
 スコアボードは私たちに余命宣告をしているように見えてしかたない。あと四イニングで六点取らなければ、おまえたちは死ぬ──と。 

「やっぱりすげーな、成宮」
「さすがプロ注だな」
「高校生でストレートがあんなに速いサウスポー、初めて見た」

 感心と観念の入り混じった声で話す選手たちは、ベンチの柵に肘をつき身を乗りだしながらグラウンド整備を遊園地のショーのように眺めている。 
 彼らの緊張感の足りない行動に腹の底が煮えるような苛立ちを感じるけど、私は声を押し殺して飲みこむ。
 選手とマネージャーでは役割が違う。私はただ記録員でしかないし、選手たちに一喝を入れて成宮を打てるようになるなら、今までの彼らの努力は無に帰ることになる。私の言葉で選手たちを魔法にかけることはできないとわかっているから、静かに戦況を見守り、試合を記録して、勝利を祈ることしかできない。  

 ──イライラする。 
 抽選会の日から今日までずっと、私は苛立っている。
 三回戦で稲実と対戦すると決まってから、炭酸の抜けた缶ジュースのように生ぬるい諦めの気配を醸しだす選手たちに。
 いつもなら黙ってグラウンドを見つめつつ必要に応じて渇を入れるのに、慣れない励ましを繰りかえすだけの監督に。 
 エースのストレートをきれいにヒットにして、時々塁を盗み、バントも犠牲フライも右打ちもきっちりこなし、淡々と得点を重ねる稲実に。 
 夏の初戦にもかかわらず緊張する様子もなく、すでに八個の三振を奪い、マウンドから打者を見下ろしながら涼しい顔で三者凡退で抑えていく成宮に。 
 そして、こんな状況になってしまったのはすべて稲実のせいだ、成宮のせいだ、と憎しみをこめて睨み続けることしかできない、無力な私自身に。

 グラウンドに撒かれた水が夏の日差しを屈折させて、低い空に虹を作りだす。散水が終われば、もうすぐ試合再開だ。 
 成宮がベンチから出てきただけで観客から黄色い声援が飛んでくる。帽子を取って頭上に掲げて愛想よく声援に応える姿は、まさに昨夏の甲子園を沸かせた「鳴ちゃん」だし、疲れを感じさせず颯爽とマウンドに登る立ち振る舞いは、「都のプリンス」そのものでもある。 
 でも、そういったあだ名は所詮、グラウンドの外側にいる人間が勝手に名づけたものだ。 

 六回の表が始まり、都のプリンスが投球モーションに入った瞬間、私の背筋はゾッとする。 
 一瞬で、グラウンドの空気が変わった。 
 夏の暑さをろうそくの火を吹くように消して、冬の冷たい空気を醸しだしこちら側のベンチへと流れこませるようなピッチング。 
 常時140km/hほどの速さで打者の胸元をえぐり、外角いっぱいにも正確にコントロールされるストレート。切れ味抜群のスライダーは右打者の足元へと消え、左打者の手が届かない外角へと鋭く曲がる。
 そして、打者を嘲笑うかのように投じられるチェンジアップ。ストレートとフォームの見分けがつかないから、140km/hを打つつもりで待っていると120km/hのチェンジアップを投じられて、バットはむなしく空を切るしかない。 
 そして、なによりもあの目だ。
 冬空の色をした瞳、打者を見下ろす絶対零度の目つき、氷の矢のようなまなざしは、時々私の心臓を鋭く射抜いた。 
 成宮鳴が醸しだす雰囲気は、彼自身のように冷たく研ぎ澄まされている。私の心臓は凍てつき、足元からだんだんと冷えた空気が上ってきて徐々に全身の体温を奪っていく。  

 ──アイツは、「鳴ちゃん」とか「都のプリンス」とか、そんな生やさしい存在じゃない。  

 ──成宮鳴は、「マウンドの死神」だ。
 
 さも当然のように打者を打ち取り、三振を奪い、一死、二死、三死とアウトカウントを確実に稼いでいく。
 その姿はまさに「死神」そのもので、洗練されたストレートもスライダーもチェンジアップも、命を刈り取る大鎌を連想させる。 
 今日二本目のヒットで出塁を許した時には土を蹴っていたけど、そのあとは内野ゴロに仕留めてゲッツーで走者を一掃し、九個目の三振を奪って、死神はマウンドを颯爽と降りていく。
 結局、六回も三者凡退で抑えこまれて終わってしまった。
 なにか、どこかに、反撃のカギはないか。死神が投げている時も、ベンチで座っている時ですら、ずっと睨みながら観察し続けた。それでも、やっぱりなに一つわからない。ストレートと変化球のフォームの違いも、仕草や癖、顔つきや立ち振る舞いに変化は感じ取れなかった。 
 ただひたすらに、死神は洗練されていた。
 無駄な要素が一つも見当たらないような、泣きたくなるくらいに美しいピッチングを披露して十個目の三振を奪い、七回の登板を最後に一年生投手へマウンドを譲った。 
 一年生なら打てるんじゃないか──という淡い期待は真正面から砕かれて無失点に抑え込まれる。
 八回に稲実の猛攻によってエースは打ち砕かれ、〇対八まで点差がひらき、八回コールドでゲームセット。

 悲鳴のようなサイレンが鼓膜をつんざき、ようやく世界が温度を取り戻す。制服のシャツは冷たい汗で背中に張りつき、むせかえるような暑さに目が眩む。 
 
 ──あ、これで、ここで、おしまいなんだ。

 無情に突きつけられた敗北を前に、膝の力が抜けていく。
 こうして私たちの二年半はあっけなく、幕を閉じた。 

 涙は、出てこなかった。




*  


 選手たちは泣きながらお互いを称えあい、肩や背中を抱いている。毎年、夏大に負けた後に広がる光景。 
 私も、今日ばかりは美しい涙を流す野球部員のひとりになるべきなんだろうって、わかってる。
 わかってるけど、でも──。
 負けて引退してという悲しさよりも、苛立ちが内蔵を焼き腫らしてズキズキと痛ませている。

 ──イライラする。 
 いったい何度同じフレーズを、心の中でひとりごちたんだろう。 
 最初から諦めムードで戦って負けたくせに号泣している選手たちにも、マウンドから私たちを見下していた死神のあの冷たい瞳にも、弱気な選手たちを励ますこともできなかった臆病な私にも。 
 行き場のない怒りを抱えて、私は息を殺してベンチから見ていることしかできなかった。情けなくて、嫌になる。 
 
 選手たちと一緒に泣く気にもなれなくて、いつものように後片付けを順序よくこなしていくと苛立ちがだんだん収まっていく。
 これがマネージャーとしての、最後の仕事。そう実感してしまうと手が止まりそうになるので頭を振って雑念を払い、作業に集中する。
 マネージャー専用のバックにスコアや救急箱を整理整頓しながら詰めこんでいると、周囲にいた父母会のお母さんたちが色めき立つ。きゃあきゃあと黄色い声まで聞こえてきた。なんだろう、気が散る。小さく舌打ちをしたらまた苛立ちがこみ上げてきたけど、構わずに手を動かした。今は最後の仕事に集中していたい。 
 しゃがんでいた足元に人のシルエットの影が伸びて、誰かが上から覗いていると気づいて伏せていた顔を上げると、あの冷たい瞳が無言で私を見下ろしている。
 忌々しい、「マウンドの死神」の瞳。

「……なに」

 グラウンドの外でまで見下されているのが腹立たしくて、立ち上がって思いっきり睨みつけた。膝の裏にかいている汗が気持ち悪くて、さらに不快な気分になる。 
 勝者が敗者になんの用があるの? そう言ってやりたい気持ちをグッと堪えて「なに」の一言に凝縮させた。 
 死神は澄ました表情のまま、ユニフォームのポケットからスマートフォンを取り出して、私の目の前に差しだす。

「アンタの連絡先、教えてよ」
「…………は?」

 いったいなにを言っているのか理解できず、変な間が空いてしまう。私、これでも難関私文が志望校のはずなんだけど。言葉の意味はわかっても、文脈は瞬時に理解できなかった。 
 たっぷり数秒考えて結論が出た。これは、ナンパという行為に近いのではないか。 
 でも、それにしてはなぜか挑むような口調だし、あの冷たい瞳で私を見下ろしてくるので、私の思い過ごしかもしれない。もしくは、裏になにか意図がある可能性もある。 
 とにかく、最短でこのやりとりを終えたい。ごちゃごちゃと思惑を詮索するのもめんどうくさいし。 
 それに、私が今、世界で一番話したくない人間がコイツだから。 

「なんで」
「アンタの目が気に入ったから」
「……目?」

 多分、褒められているんだろう、と思う。 
 私の目は人より少しだけ印象に残りやすいらしく、たまにきれいな瞳だねと褒めてもらうことがあった。どうやら瞳の虹彩のメラニン色素の量が標準よりも薄いらしく、明るいブラウンの瞳は私も気に入っている。 
 アンタの青みがかった瞳の方がよっぽど印象的だと思うけど──と心の中で皮肉った。
 認めるのは悔しいけど、コイツはルックスも超高校級に良いのだ。私は好きなタイプじゃないけど。 
 今の私の顔、きっとすごく嫌な表情してるんだろうな。これ以上、歪んでしまいたくない。 
 死神の目がスッと冷たく細められる。私の目は凍てついてしまって視線を逸らすことができない。氷のまなざしは私の心の中まで覗こうとしている。そんな予感がして、急に怖くなった。

「そっちのチームの誰よりも、アンタが一番強い目で俺のこと見てただろ」

 ──なにを、言ってるの? 
 今度こそ言葉の文脈を完全に見失ってしまう。無遠慮に覗きこまれた心の中に苛立ちと憎しみしかないことが、私はひたすらに恥ずかしい。 

「俺には、アンタはあのチームの中でひとりだけ本気で勝ちたがってたように見えたけど」

 ──どうして、なんで? なんで、わかったの? いつから気づいていたの? 
 頭の中が疑問でいっぱいになって、他のことを考える余裕すらなくなる。あまりにも的確に事実を指摘されて、酷く動揺してしまう。 
 コイツにはなにもかも見抜かれていた。チームの中でひとりだけ、私の温度が違っていたこと。圧倒的な差があってもなお、サイレンが鳴るその瞬間まで本気で勝ちたいと祈っていたことに。 
 結果的に勝てなかったんだから、そんな祈りは所詮ただの自己満足だった。それでも、私は本気で稲実に勝ちたかった。負けたくなかった。夏を終わらせたくない。このチームで一日でも長く野球がしていたい。私の祈りが野球の神様に、諦めない姿勢が選手たちに届いていてほしかった。 
 それなのに、なに一つ届かなくて、すべてが無駄で、悲しさよりも虚しさで心にぽっかりと穴が空いていしまいそうだったのに。  
 
 ──でも、成宮鳴には、届いていた。 
 チームメイトには届かなかったのに、成宮にはちゃんと届いていた。その事実がすごく、とても、めちゃくちゃに私の心を揺さぶる。 
 ゆらゆらと視界まで揺らいで、鼻の奥がツンと痛くなった瞬間、急に身体の奥深くに埋めこまれたスイッチがオンになって、顔からぼろぼろと雫が落ちてくる。
 え、なにこれ。汗かと思って頬に触れたら、涙でびっくりした。

 ──私、どうして、 
 ──なんで、「嬉しい」だなんて思ったの?

 ついさっきまで成宮鳴が憎らしくて、打ち崩せなかったことが悔しくて、敗者に無遠慮に近づいてきたことが腹立たしかったのに。 
 マウンドから、向こう側のベンチから、私を見てくれている人がいたと知った。そのことに気づいて、たとえ敵だとしても、素直に嬉しかった。大きな手のひらにやさしく頭を撫でられているようなやすらかな安堵がこみ上げてくる。 
 涙はぼたぼたと落ちてワイシャツを濡らしていくのに止められなくて、スカートのポケットのハンカチを探そうとしたら、目の前にずいっとハンカチが差しだされる。薄い青のタオル生地のそれ。持ち主は困ったような表情で私を見ている。マウンドでは決して見せなかった顔だ。 
 これって敵に塩を送るみたいな感じじゃない? 
 ……いや、違う。私たちは最初から稲実にとって、「敵」ではなかった。 
 そして、無様にも敗れ去った後で私にとって稲実も成宮鳴も、もはや敵ではない。

「ちょっと、なんで急に泣くわけ」
「……わかんない」

 本当はわかっているけど。でも、悔しいから絶対に教えてやんない。

「俺が泣かしたみたいじゃん。これ、使いなよ」
「いや、でも」
「いいから、ほら」

 強引に手渡されたハンカチからはかすかに柔軟剤の匂いがして、ふんわりとした手触りのタオル生地は汗も涙もよく吸ってくれそうだ。おずおずと頬を滑り落ちる涙を拭い、目元を抑えると、薄い青が湿って濃い夏空のような青に変わった。
 吸い寄せられるようにハンカチに顔を埋めて深呼吸をすると、そこで身体の中のスイッチがもう一段奥へ入って、その瞬間に感情をコントロールする器官が壊れてしまったかのように、激しい嗚咽がこみ上げてくる。喉のずっと奥、心臓よりも下の方にある身体の芯がぶるぶると震えて、涙とともに止まらなくなった。嗚咽しながらしゃくりあげて、言葉にならない声が口の端から漏れだす。短くて浅い呼吸を繰りかえすと、肩も背中も身体のすべてが情けないくらいに震えてしまう。 
 こんなに激しく泣きじゃくるなんて、人前でみっともない。しかも、なぜか目の前には「死神」もとい成宮鳴までいる。そんなこと頭の片隅で冷静に理解していても、身体が泣き止むことを許してくれない。全身の水分が涙腺に集まってきて、涙となってぼろぼろと流れ落ちていく。 
 ぎゅっと固く閉じたまぶたの裏側には、映画のフィルムみたいに連なった思い出が走馬灯のようにものすごい速さで流れていく。 
 ドキドキしながら自己紹介をした入部初日の朝、マネージャーの仕事が上手くできなくて落ち込んだ夜。週六で練習して真っ黒に日焼けした夏、初めて公式戦で勝った秋、指先があかぎれを繰り返した冬、チームの成長に手ごたえを感じた春。 
 毎日のようにグラウンドで日焼けをして、汗をかいて、少しずつ上手くなる選手たちの成長が嬉しかった、かけがえのない二年半。 

 そして、最後の夏は──たった今、終わった。 
 成宮鳴の好投を前にでも足も出ずに、私たちの二年半はあっけなく幕を閉じたのだ。

「……くやしい、くやしい……悔しい……!」

 何度も同じ言葉を繰りかえして、それでも全然足りなくて、言葉の代わりに涙で感情を吐き出す。心臓も頭も喉も鼻も目も、燃えるように熱くなる。この悔しさを二度と忘れてしまわないように、記憶のキャンバスにぐちゃぐちゃな絵を描く。全身を焦がすような痛みを思い出せなくなったら、過ごしてきた二年半が無駄になってしまうような気がするから。 
 私は今日の悔しさを絶対に忘れない、と自分に誓う。 
 そうすると、身体の芯を激しく突き上げる震えは収まっていき、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。昨日の夜から緊張で張り詰めて、今日も第一試合で朝も早く疲れが溜まっているせいか泣きじゃくるだけの体力がもう残っていない。 
 背中を丸めてしゃがみこんで、どれくらい経っただろう。体感的にはたっぷりと十分くらいは泣きじゃくっていたと思う。 
 大きく息を吸いたくなってハンカチに埋めていた顔を上げると、閉じていた目に夏の明るい日差しがまぶしくて、目が慣れるまで数回まばたきをした。それでも、なぜかまだまぶしい。ようやく焦点が定まった視界の真ん中で、真っ白なユニフォームがレフ板のように日差しを反射していた。 
 ……これ、うちのユニフォームじゃない。 

「……なんでまだいるの」

 成宮鳴はヤンキー座りで正面を陣取り、無遠慮に私の顔を覗きこんでいた。立っていた時よりも目線の高さが縮まっているけど、膝に頬杖をついて見下ろしている。 
 ヤバい。成宮鳴がここにいるの、すっかり忘れてた。というか、自分で言うのもなんだけど、突然泣きじゃくる女なんて情緒不安定で怖すぎるし、面倒事に巻きこまれる前にこの場を離れているだろう、と思っていたのに。 
 今日初めて、真正面からまじまじと冬空みたいな瞳を見てみる。 
 あれ、なんか、さっきと違う? なにがどう違うか説明することは難しいけど、私が泣きだす前より成宮鳴の目つきもまざなしもやわらかくなったような……気がする。

「で、泣きじゃくって気は済んだ?」
「済むわけないでしょ!」

 成宮鳴が開口一番に放った一言は、ようやく泣き止んだ女の子に向かって言うべきではないセリフランキング第一位に選ばれる。要するに、デリカシーに欠けるのだ。 
 泣きつかれて真っ白になっていた脳内が怒りで真っ赤に染まって、思わず声が荒くなってしまった。涙をたっぷりと吸ったハンカチを投げつけたくなったけど、そんなことをしたら人としての道を踏み外すような気がして、なんとか思いとどまる。

「てか、なんでまだいるの」
「だってまだ連絡先聞いてないし」
「私の連絡先なんて聞いてどうすんの」
「俺さ、アンタの笑った顔が見てみたいんだよね」
「……はぁ?」

 成宮鳴が、笑っている。 
 それは観客に向けていた愛想のいい笑顔ではなく、悪戯が成功した時のような無邪気な笑顔で、私は戸惑う。 
 目の前にいる「成宮鳴」は私がさっきまで睨んでいたマウンドの「死神」と、本当に同一人物なの?

「今日は怒ってる顔と泣いている顔しか見れなかったからさ。笑ったらどんな感じになるのか、気になったってわけ」
「なに言ってるのか全然理解できないんですけど……」

 私が正直な感想を伝えたのに、成宮鳴は追加で説明をしようともせず再びスマートフォンを目の前に差しだした。

「俺、連絡先教えてくれるまで帰らないけど。で、どうすんの?」

 今度は借金の取り立てにきた怖い人のように、わざとらしく不気味に口角を釣り上げる。ただし、目は全然笑っていない。 
 コイツはきっと有言実行する。昨夏の甲子園準優勝までチームを導いてきた実績があるのだから、信憑性は高い。 
 私は観念してスマホを取りだし、電話番号とメールアドレス、トークアプリのIDを交換した。
 成宮鳴のアイコンは、甲子園のマウンドで投げている姿が丸く縁どられている写真。アイコンひとつをとって見ても、私と生きている世界が違うんだと現実を突きつけられるのに、なぜか成宮鳴はごく自然に、さも当然のように私の目の前に存在している。なんで、なんなのコイツ。

「じゃあ、夜に連絡するから」
「……返事するかはわかんないけど」
「俺からの連絡を無視するとか、いい度胸じゃん」
「今日の夜はゆっくり過ごしたいの。邪魔しないでよ」

 今夜一晩くらいは、感傷に浸らせてほしい。この二年半は短いようでそれなりに長かったし、思い出として整理するにはそれなりに時間がかかると思う。 
 今は泣き止んでいるけど、身体中の水分がまだありあまって行き場を探している感覚がある。今晩くらいは静かに過ごしたかった。

「まぁ、別にいいけど。ただし、そのハンカチは貸しておいてあげるから必ず返しに来てよ」
「……めんどくさ」
「それが人から物を借りてる時の態度かよ!」
「別に、私はハンカチ貸してなんて言ってないし」
「かわいくねー」

 泣きはらした目でジトッと睨む。今の私の顔、たぶんチベットスナギツネにそっくり。 
 成宮鳴も負けじと睨みかえしてくるけど、私の態度が折れないのでわざとらしく深いため息をついてから踵を返す。背後が見えていないので、ここぞとばかりに憎たらしい背番号「1」にベーっと舌を出した。かわいくなくて悪かったな!

「次に会ったら、絶対に笑わせてやるから!」

 ふいに成宮鳴は肩越しに振りかえって、唇を尖らせながら捨て台詞のように言い放つ。

「覚えとけよ」

 まるで、悪役のセリフみたいだ。
 ていうか、私の十数年の人生における最大の悪役が「成宮鳴」であることは間違いない。 
 遠ざかっていく真っ白な背番号「1」をじっと見つめる。 
 「関東No.1サウスポー」、「都のプリンス」、「鳴ちゃん」
 それと、「マウンドの死神」
 どれも他人と私がつけた、成宮鳴のあだ名。でも、なんか。なんだかどれもしっくりこない。 
 成宮鳴は、泣いている女の子にハンカチを差し出せるし、泣き止むまで黙ってそばにいてくれる──そういうヤツだ。 
 マウンドを降りれば、想像していたよりもちゃんと人間らしい。困った顔とか笑った顔とか、同い年の男子のそれだった。 
 アイツのこと心の底から憎いと思っていたのに、今は少しだけ気持ちがすっきりとしている。多分、さっき大泣きしたからだ。決して成宮鳴のおかげでは、ないけど。ていうか、アイツのせいで負けたわけだし。 
 負かされた相手に泣いているところ見られたという屈辱が、後になってじわじわと頬を熱くさせる。

 ──絶対、ぜったい、笑ってなんかやらないんだから! 

 片付け終わったバックを肩にかけ、成宮の歩いて行った方向に背を向ける。涙はもうすっかりと乾いていた。
 選手たちが記念写真を撮るぞ、と呼びかけている所へ向かって歩きだす。いつの間にか唇は、微笑みの輪郭をなぞっていた。




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