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真っ白な地図をあなたと描く
 まぶたを閉じて身をだらりと横たえても意識はまどろむだけで、眠りの淵に落ちる瞬間はいつまで経ってもやってこない。いまもまだ皮膚のすぐ下でどくどくと乱れた脈が波うっている。
 眠りに就こうとしてからどれくらいの時間が経ったのだろう。まだまだ寝つけそうになくてぎゅっと閉じていたまぶたを開くと、カーテンの隙間から差しこむ月明かりが部屋のなかに舞う粒子を白く浮き上がらせていた。
 なかなか火照りの引かないベッドからなるべく音を立てないようにするりと抜け出して、キッチンへ。
 照明をつけなくても、街から届く明かりだけでシンクまでたどりつき、コップに水を汲み渇いた喉に一口、二口の水を流しこむ。ワインのテイスティングのように水の硬さ、匂い、喉ごしをじっくりと味わってみるけど、やっぱり東京の水と味はそんなに変わらないような気がするには、私だけだろうか。地方から東京へ上京してくる人たちは声を揃えて「東京は水がまずい」なんていうけど、東京で生まれ育った私からすれば、この土地の水の味とたいして変わらないと思うのだけど。
 喉の渇きを潤してもまだ皮膚は熱く、ふらりと近寄った大きな窓を開けると十二月の冷たい夜風が全身を包みこみもんだ。瞬時に体温が奪われてしまって、両腕をぎゅっと抱き締める。

 ──カーディガン、羽織ってくればよかったかな。
 でも、あと少しだけこの美しい夜景を独り占めしたかった。バルコニーに出るとかすかに息が白く煙って、風にさらわれ細く流れて消えていく。
 本格的に冬支度に入りはじめたこの街は、日本シリーズが終わり優勝を祝うムードがひと段落したばかりで少しずつクリスマス仕様に色を変えている途中だ。
 バルコニーから眼下を眺めると、街はネオンやビルの赤色灯や窓灯でぼんやりと発光していて、さほど東京と変わらない明るさを保っているように見える。
 視線をまっすぐ正面に向けると、観光名所でもあるタワーと恋人の職場が視界に収まり、その丸い屋根の背後には深く広い闇が広がっている。あれが噂の博多湾。さすがに海辺から二キロメートルも離れると、ここまで潮の匂いは届かないらしい。
 でもきっと、いま私の身体を凍えさせようとしている冷えた夜風は、海を渡り街を通り抜けてこのバルコニーまで届いているのだろう。
 海も空も深い闇に溶けて混じりあい、その境界線ははっきりと目視できない。ぽつりぽつりと浮かぶ漁火がある場所は海で、それよりも上の空間が空。明るい街と暗い海を同時に視界に収められるここからの景色は、新鮮だ。
 たぶん、そのうちこの風景は私たちの日常になる。なるべく早く、この街での生活もこの窓から見る風景も、私たちの当たり前にしたい。
 さっきからかすかに指先が震えるのは、寒さに凍えているせいだけではなかった。東京から飛行機に乗った瞬間から、ずっといまも続いている。
 大丈夫、だいじょうぶ。きっとこの街でも上手くやっていける。そう言い聞かせても、身体は素直に不安な気持ちを察して反応してしまっていた。

「こんなところでなにしてんだよ。寒いだろ」
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや、俺もまだ起きてたから大丈夫」

 窓のスライドする乾いた音とともに、この部屋の主が後頭部をかきながらサンダルを履いてこちらへとやってくる。なかなかベッドに戻ってこない私に気を利かせて愛用のカーディガンを持ってきてくれて、さりげなく肩にかけてくれた。
 白いそれに腕を通してもわずかにしか体温を保てなくて、一度解いた腕を再び抱き寄せると、背後から分厚い身体にぎゅうぎゅうと抱き締められる。すっぽりと一也の身体に包みこまれて、腕や胸から伝わってくる熱いくらいの体温を感じると、数十分前までの甘い情事を思い出してしまう。
 身体のもっと深いところで繋がっていたくて、奥へ奥へと探るように貪るようにお互いを求めあった、とろりと甘い夜のこと。
 間接照明に照らされた恋人の顔と身体はまるで美術館に飾られた彫刻のように美しく、とても性的で。
 肩口に埋められた額からは男の汗とうっすらとシーツの清潔なリネンの匂いが混じりあって、身体の芯がカァッと熱くなるのを感じる。
 一也がこんなに近くにいるのが当たり前になるなんて、私の身も心も正常を保っていられるのかな──と別の意味での不安が、背筋を下から上へといやらしい手つきでなぞった。                 

「うわ、身体冷てぇじゃん」
「身体が火照って寝つけなかったから、ちょっと熱冷まししたかったんだよね」
「あー、すげぇ感じまくってたもんな」
「〜〜っ、そういうこと言わないでよ!」

 愉快な笑い声をあげて肩に額を擦りつけてくる。
 一也の前髪が首筋に触れてくすぐったくて、身を捩った。
 くすぐったいよ、って抵抗してもさらに腕に力を込めて抱き寄せてくるから、ウエストが苦しくなってくる。私を捕まえるたくましい腕から逃れようとしても、さすがに一般人とプロ野球選手では力が違いすぎるのですべての抵抗は無駄に終わるのだ。
 一也の笑いが収まってからもしばし無言の時間が流れて、「眠たくなっちゃったの?」と尋ねてみてもなかなか返事がなくて、私は困り果ててしまう。
 首をもたげて肩に額を埋めたまま、一也は私の手をぎゅうっと握る。その手も私と同じようにほんの少しだけ震えていて、ハッとした。

「……後悔、してるか」

 鼓膜を撫でる、弱々しい声。珍しく自信がなさそうな言葉尻。
 なんのこと、と問いかけようと口を開いた瞬間に、一也が口に出さなかった主語に気づいて声を飲みこむ。一也も私と同じように、不安なんだ。
 私がこっちで就職をすることを決めたときも、親に同棲の許しをもらいに行ったときも、同じように声をかすかに揺らして、「後悔してねぇか?」と心配そうに聞いてくれたことを思い出す。
 一也はやさしい。私の嫌がることや辛いことは、なるべく遠ざけようとしてくれる。
 一也が退寮したら同棲しようとふたりで話し合って決めたことだったけど、どうしても彼の事情に合わせて私が地元を離れるしかなかったことを、申し訳なく思っているのだろうと察しがつく。

「後悔なんてしてないよ。ただ、私は東京以外に住んだことがなかったから、ちょっと緊張してるだけ」
「俺もずっと寮にいたし、なまえと同じようなもんだよ。ここらへんなんて、ドームと飲み屋街以外は行ったこともないし」

 一也は私の肩に顎を乗せたまま、ぼんやりと明るさを放つ街と夜に沈んだ海を見渡す。
 今期でプロ生活五年目を終えて、私と同じく昨日、筑後にある寮からこのマンションの一室へ引っ越してきたばかり。
 この部屋に決めたのも、ドームからも近く私の通勤にも便利な立地で、この窓からの海の見える景色が新鮮で気に入ったからだと教えてくれた。でも、この街自体にはあまり馴染みがあるわけではない。
 入団当初からイケメンキャッチャーとして名を馳せていた一也は、球団と深く繋がっているこの街を出歩けばすぐにファンに捕まるので、休日でもトレーニングに勤むか、先輩に連れられて飲みに付き合う時くらいしか寮の外へ出歩かなかったらしい。
 だから、俺もこの土地に移り住んで五年も経つのに知らない場所ばかりなんだよ──と、引越しの後片付けに追われながら、話してくれたことを思い起こす。
 
「でもさ、一也はもうこの街に受け入れられてるじゃん」
「どういう意味だよ」
「ちゃんと一軍でも活躍して結果を残して、ファンからもこの街からも必要とされてる、って意味だよ」

 先月、こちらへ引っ越すために荷物をまとめながらスポーツニュースを見ていた時のこと。
 孤独な作業のBGMにつけていただけのテレビだったけど、そこで一也の契約改定後の会見の映像が流された。液晶越しの恋人は、手持ちの中でも一番良いオーダースーツをきちっと着こなし、背筋を伸ばして記者の質問に回答していたのだ。
 今季の活躍もあって年俸が大幅に増額改定されたことに対して、「使い道は考えていますか」という下世話な質問にも、「今年のオフに退寮するので、引越し費用に充てたいと思います」と当たり障りのない回答をしていた。
 ニュースキャスターが野球に造詣の深いコメンテーターにコメントを求めると、これまでの一也の活躍がスラスラと語られる。
 高校時代から主将で四番を任され、三年生の春と夏は甲子園で活躍したイケメンキャッチャーとして鳴り物入りで入団し、五年目の今季には一軍に定着して二十三試合でスタメンマスクを被り、優勝争いの激化した終盤戦には左の代打としても活躍しました──と。
 年俸の増額はおおよその予想でしかないけど、今回の契約改定で年俸は数千万円にもなったと報道されている。
 ちなみに、それはとても大きすぎる数字で恐ろしくて私は詳細をなにひとつ聞いていない。
 でも、このマンションの家賃も月に数十万円もするし、報道されていた年俸もあながち間違いではないのだろう。
 一也は謙遜しているけど、ちゃんとこの地に根づいていまのチームで実績を積んで、プロ野球選手として上昇する軌道に乗ることに成功しているのだ。
 何度か本拠地のドームまで応援に駆けつけたこともあったけど、年を追うごとに一也のユニフォームを身にまとうファンの数が増えていったことを、嬉しい気持ちで見つめていた。一也を応援してくれるファンは、私以外にもたくさんいる。
 
 でも、私は? いまの私には、一也しかいない。
 そしてこれからは、自分だけじゃなくて一也のことも支えていかないといけない、それなのに。
 漠然とした不安が胸の内側で膨らんで、呼吸が苦しくなる。
 この春には大学を卒業し、この街で働く場所は見つけられているけど、私はちゃんとこの地に根づいて生活できるのだろうか。
 家族も友達も千キロメートルも離れたこの街で、まだ何者でもない私は、胸を張って一也の恋人だって胸を張って生きていけるのかな?
 ──そんなの私次第だって、わかっているけど。

「なまえにわざわざこっちまで来てもらって、本当にありがたいと思ってる」
「うん」
「俺はなまえを手放すつもりなんてねぇよ。やっと一緒に住めるようになったし」
「……うん」
「だから、東京に帰りたいって言われても、もう帰してやれない」
「私、帰らないよ。帰るつもりもないし。ずっと一也のそばにいたいから」

 私たちは同じ方向にある漆黒の海と空の境界線を探すように、遠くを眺めている。
 恋人に触れたいときに触れられる距離にいたい。
 一也も私も、ずっとこんな日が来るのを待ち望んでいたんだ。
 思い返してみれば、長かった片想いに終止符を打って高三の秋から付き合いはじめて、いろんなことがこれから変わっていくと期待に胸を膨らませていたのに、想像していたよりも恋人として一緒に過ごせる時間はあまりにも短かった。
 一也が二軍の寮に入寮して、私は浪人して都内の大学に進学してからも遠距離恋愛は続いた。
 私たちは野球や学業に真面目に取り組んでいたおかげで、お互いの不在が続いてもよそ見をすることもなく、一也が退寮したら同棲することを目標にしてこれまでの孤独を埋めていた。
 この五年間は、いままでの人生でも一番長くてもどかしい時間だったと思う。
 私にとっても、きっと一也にとっても。
 
「俺にはなまえが必要なんだよ。みょうじがここにいる理由は、それだけじゃダメか」
「ダメなわけないじゃん。それに私は、ちゃんと自分で選んでこっちに来たんだよ」

 これまでの日々を振り返ってみれば、会いたくても会えなかったこの五年間の方がいまよりもずっと大きな不安を抱えていたように思う。
 一也が与えてくれたこの部屋が、新しい私の居場所になる。この窓から見える街が、私の第二の故郷になっていく。
 いまはこの街のことも、これからの新生活を過ごしていくための要領も、まだ知らなくて手探りなことが多すぎて、余計に不安に駆られているだけのこと。

 よく日に焼けた茶色の髪をやさしく撫でると、うっとりした猫みたいに頬ずりしてくる一也が好き。
 欲しい答えをすぐにくれる、やさしい一也が好き。
 生まれ育った場所から千キロメートルも離れたこの街に移り住む理由なんて、恋人と一緒にいたいってだけで充分。
 
「明日、午後からどっか出かけるか」
「いいね。どこに行こうか」
「とりあえず市内に行ってみようぜ。引越しの片付けが全部終わったら、車使って県外にも行ってみるか」
「私、九州って旅行したことないから楽しみだな。長崎のハウステンボスとか、鹿児島の指宿温泉とかに行ってみたい」
「長崎と鹿児島に行くなら、日帰りは無理だから旅行だな」

 この街を少しずつ、一也と一緒に知っていきたい。
 そうすれば、晴れた日のこのバルコニーから地図を見なくても、この街のどこになにがあるのかを指差せるようになるはず。
 明日の朝はカーテンを開いて日差しをいっぱいに取りこもう。明るい青の水平線を眺めながら、一也の作ってくれた朝食と私が淹れたコーヒーを飲みながら、デートの計画を立てよう。きっと、素敵な日曜日になるよ。そう言うと耳元で、「そうだな」ってはにかんだ声がする。
 凍えた身体を抱き寄せあってベットに潜りこみ、お互いの体温を分けあいながら白いシーツの海に横たわった。
 ゆっくりと潮が満ちるようにまどろみが深くなって、私たちは同じ夢を見ながら眠りに落ちていった。



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