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「#エロ」のBL小説を読む
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おちて、しびれて、恋をする
 いま、いったいなにが起こったのか。
 あまりにも一瞬の出来事で、全然わからなかった。

 それは決してグラウンドからよそ見をしていたからでも、延々と繰り返される美織の惚気話に集中力を乱されていたからでもない。
 そのとき打席に立っていたのは、同じ一年生で隣のクラスの男子。この情報は美織に教えてもらった。四番サードの彼とは顔を合わせたことも、話したこともない、ただの同級生。
 その小さな身体が目にも止まらぬ速さで豪快にスイングし、白球を一閃した。
 完全に打球を見失い、慌てて弾道を追おうと視線を動かしたのと、外野にそびえたつ大樹がバキバキと音を立てたのは、ほぼ同時だった。

「……え? なにが起こったの?」
「ホームランだよ、ホームラン!」

 興奮した美織は私の肩を掴んで揺らし、ぐらぐらする視界の中でホームへと還ってきた彼の名前をスコアボードで確認する。あれ、下の名前が表示されていない。
 「彼氏の名前が載ってるから!」と、はしゃいだ美織が購入した選手名簿を借りて、膝の上でページをめくる。
 彼は四番サードで、背番号二十番の、轟くん。轟雷市くん。
 彼の放ったホームランは、私のつむじから手足の指先に至るまで、雷で打たれたような衝撃を与えた。 
 あの打球は、どこまで速く、高く、そしてどこまで遠くまで、飛んでいくようになるんだろう。想像しただけで、視界がチカチカとまたたく。
 私はこれから先、何回でも、何十回でも、あの雷に打たれる瞬間の痺れるような興奮を味わいたい。

 たった一本のホームランに魅せられたあの日から、轟雷市くんはずっと、私の心の真ん中に居座り続けている。
 
 秋の大会も行くことができる試合は、すべて球場まで駆けつけて轟くんの打席を追いかけた。
 夏も秋も球場に行く頻度が増えたので、肌は例年以上に健康的に焼けている。最初こそ気にかけていたけど、いまはあんまり気にしていない。
 試合に勝ち進むにつれて轟くんの周囲には人が集まるようになっていると、轟くんと同じクラスの美織は逐一情報を教えてくれる。

「なまえも轟くんに話しかけてみればいいじゃん」
「私はいいよ」
「なんで! 轟くんのファンなんでしょ?」
「轟くんのファンっていうより、『轟くんのホームラン』のファンなの」 
「なにそれー、どういうこと?」
 
 だって、私は轟くんのことはよく知らない。
 彼を一方的に見つけて球場まで追いかけるようになったけど、いまだに話したことすらない。
 轟くんはいったいどんな性格で、どんな話し方で、どんな女の子がタイプかとか、なんにも知らないんだ。
 それゆえ、私は「轟雷市くん」のファンというより、彼の打つ「ホームラン」のファンであると結論づけている。
 美織はどうやら轟くんと私を接触させてどうにかさせたいらしいのだけど、残念ながらどうにかなる予定も、どうにかなりそうな予感もない。
 そう確信したのは、激戦の末に秋の大会を決勝戦で敗退し、校内を沸かせていた野球部をめぐるムーブメントがすっかりと落ち着いていた、一月下旬の頃。
 なんと我らが薬師高校野球部が、関東東京六枠目に選抜され、春のセンバツ甲子園への出場が決定したからだ。
 あの日、校内も街全体もまるでお祭りのように盛り上がり、私は甲子園で豪快なホームランをバックスクリーンへとぶちこむ轟くんの姿を想像しては、真冬にもかかわらず人知れず雷に打たれて痺れていた。

 甲子園球場に薬師高校の縦縞のユニフォームはよく映えた。
 アルプススタンドから眺める打席は東京の球場に比べると遥か遠く、私はもっと近くで轟くんの打席を拝みたくて焦ったい気持ちを抱えて応援に声を張り上げていた。
 それと同時に、甲子園は日本中にある野球場の中でも一番特別だと、なんとなく理解できてしまうほどに尊い場所だと実感していた。
 アルプススタンドから眺めるグラウンドの美しさも、吹奏楽やチアの団結した応援も、数万人の観客から降り注ぐ歓声も、この球場がいかに神聖な空間かを知らしめる。
 轟くんは覆い被さるような大声援にプレッシャーを感じることもなく、打席でもグラウンドでも全身で躍動し、私を何度も雷で打ってくれた。

 この世に生を受けてから一番刺激的だった春は、まるで夢から目覚めるように一瞬で通り過ぎて、センバツをベスト4で敗退し、帰京してから本格的に動きだした。
 
「……轟くんと同じクラスだ」
「推しと同じクラスとか、よかったじゃん!」

 美織は私以上に興奮して左肩を掴んで揺さぶる。
 彼氏がヒットで出塁したときくらいの勢いで、私の肩は脱臼一歩寸前。 
 まぁ、でも美織に悪気は無いし、私も気分がよかったのでそのまましばらく揺さぶられていた。
 同じ教室にあのホームランアーチストがいる。
 それだけで身体中が帯電しているかのように痺れた。
 でも、実際に間近で見る轟くんはグラウンドとは違って、小さな身体をさらに縮こませて座る。その後ろ姿からはあの豪快な笑い声は聞こえてこない。
 私、好きなんだけどな。あのカッハッハッて笑い声。
 でも、威張ったり、幅を利かせたりしない彼の態度は、私に親近感を抱かせたてくれた。

 二年生としての生活が始まって、一週間も経てば前後左右の席の住人たちとはそれなりにコミュニケーションが取れるようになった。
 けれど、やっぱり轟くんには話しかけずに後ろ姿を観察し続けては、少しずつ彼の新たな一面を発見することが日課のようになっている。もはや趣味みたいなものだ。
 そんな日々が定着するのかと思いきや、いわゆるクラスのカースト上位の「陽キャ」たちが「この席あきたから席替えしようぜ」と言いだして、私の日常は一変する。

「……みょうじなまえです、よろしくね」
「……轟雷市、です。よろしく」

 いや、律儀に名乗らなくても君の名前はとっくの昔に知っている。しかも、君は去年の秋以降、エースの真田先輩とともに校内で一、二を争うほどの有名人。
 それでも、轟くんはちょっぴり人見知りを発揮しつつも、きちんと自己紹介をしてくれた。
 あの日、フェンス越しに見つけた轟くんは、遠く離れたアルプススタンドを経由して、同じクラスの隣の席にやってきた。というか、私が彼の隣までたどり着いた、と言ったほうが正しいのかもしれない。
 私と轟くんは一年越しに、ようやく正式に出会った。

 席替えをしたその日から私の右半身はずっとビリビリしっぱなしで、ちょっと困っている。
 しかも、日課にしようとしていた轟くん観察も隣の席だとやりづらくなってしまった。うーん、お近づきになれて嬉しいような、困ったような。
 それでも、轟くんの落とした消しゴムやシャーペンを拾ったり(一時間に一回はなにかしら物を落としている)、間食用のおにぎりの具はなにか訊いたり(梅干しおにぎりがほとんどで、たまにおかかを食べている。しかも大きさは特大だ)、「次の授業、なんだっけ」と照れながら訊かれるのは(体育以外はほぼ覚えていない)、楽しくてちょっとこそばゆい。
 轟くんの隣の席になってから知ったのは、彼はかなりおっちょこちょいで、勉強はあまり得意ではなく、三島くんによく怒鳴られつつも秋葉くんも含めて仲良しで、人と話す時は顔を赤らめる癖があるということ。他にもいろいろあるけど、私が知り得る轟くんのパーソナリティはざっとこんな感じ。
 あとひとつ付け加えるとしたら、タッパーにみっちりと敷き詰めた白米とほんのちょっとのおかずが乗っているだけのお弁当を、毎日ものすごい勢いでかきこんでいる。誰がどう見ても圧倒的におかずが足りない。

「そのお弁当、おかず足りなくない?」
「……うちは、貧乏だから」
「……そうなんだ」

 轟くんは鼻を啜った。どうやら涙を堪えているらしい。
 とりあえず、慰めるために私のお弁当の唐揚げを真っ白なベットのような白米の上に、そっと置いてみる。

「……?」
「それ、あげるから元気出して」
「えっ」
「あ、ごめん、私のお箸で摘んじゃったから嫌だったよね」

 唐揚げを救出しようと箸を伸ばしかけて、光の速さで轟くんの箸に奪われる。
 私が言葉を失っているうちに、轟くんは唐揚げひとつでタッパーの半分ほどの白米をぺろりと平らげた。

「ありがとう! みょうじはやさしいな!」
「う、うん。どういたしまして」

 岩のように硬い手のひらが、私のやわい手のひらをぎゅっと掴んだ。なんだこの積極性は。普段の彼なら考えられないほどに距離が近く、その瞳は打席に立っている時みたいに爛々と輝いている。うわぁ、まぶしい。
 突然、三島くんの声で教室の外から呼びかけられて、轟くんは躾のされている犬みたいにすくっと立ち上がって駆け足で出ていってしまった。
 この間、わずか数秒の出来事。
 私は全身が痺れっぱなしで、特にさっきまで触れていた手の甲は熱を持って痛いくらいにビリビリしている。

 ──そういえば、
 私はここしばらく、轟くんの描く美しいアーチを想像していない。というか、想像する余裕が無いくらいに、轟くんが近くにいるせいだ。
 あれ、でも、それじゃあ、どうして、

 ──私の中で雷鳴が轟き続けているんだろう。


* * *

 
 轟くんに初めて餌付けをした日から、私のお弁当のおかずをお裾分けすることがすっかり習慣化している。
 分け与えたのはミートボールにミニハンバーグ、生姜焼きにソーセージ、などなど。白いご飯に合いそうなおかずを白米に乗せてあげるたびに、瞳を潤ませて心から「ありがとう……!」と言ってくれる。
 私なんかでも人の役に立てることがあるんだと思うと俄然やる気がわいてきて、お母さんと台所に並んで夕食の手伝いをするようになった。うちは夕食の残りのおかずがお弁当に入れるからだ。
 最初こそ物珍しそうにしていたお母さんもなにかを察したらしく、「彼氏でもできたの? それとも好きな子かしら?」とニヤニヤしながらからかってきた。
 残念ながらそのどちらでもなかったので諸事情を説明すると、「それはどちらかというと捨て犬に餌付けする感じね」と意気消沈してしまう。
 それでも私と一緒に台所に立つのが楽しいみたいなので、これはこれでよかったのかなと思う。
 
「今日は野菜の肉巻きだよ」
「おぉ、美味そうだ! ありがとう!!」
 
 にんじんとさやいんげんを豚ロースで巻いてタレと絡めて焼いたんだよ、と説明している間に、白米とともに野菜の肉巻きが吸いこまれていく。
 咀嚼の合間に「美味い! 美味すぎる!」と漏らし、やっぱり今日も涙ぐんでいる。そこまで褒めてくれるとこちらも作りがいがある。
 轟くんはいったいこれまで、どんな生活を送ってきたんだろう。ふと、湧き上がる疑問。ここまで「食べる」という行為に貪欲な人と初めて出会ったせいか、それとも単純に轟くんの過去に興味を持ったのか、その答えはどちらなのかまだよくわからない。
 


「前から気になってたんだけど、轟くんとなまえは付き合ってるの?」

 いつもお弁当を一緒に食べている同じクラスの友だちが、さりげない口調でものすごい直球な質問を投げかけてくる。
 私は意表を突かれて飲みこみかけていたおかずが気管に侵入しそうになり、吹きだしそうになって咽せてしまう。
 轟くんはポカンと口を開けたまま、箸を持つ手が停止している。早く、なにか言わないと、間が持たない。
 咳を繰り返す気管をなだめようと胸を叩く。
 
「……付き合ってないよ! ただのクラスメイトだって」

 友だちの誤解を慌てて訂正すると、彼女はがっかりと肩を落とし、「飲み物買ってくるね」と言い残して自販機へ行くために席を立った。
 昼休みの喧騒の隅で、私と轟くんだけがぽつんと取り残されたような無言の空間が広がっていく。
 轟くんのとの距離は以前と比べれば近づいたとはいえ、彼が憧れの存在ということに変わりないし、私は「轟くんのホームラン」のファンであって、付き合うとか恐れ多すぎる。
 轟くんは私にとって、グラウンドにいれば野球の神様でもあり、クラスにいれば腹をすかせた捨て犬のような隣の席の男子なのだ。
 じゃあ、轟くんにとって、私はなんだろう。
 お弁当のおかずを分けてくれる親切なクラスメイト、かな?

「食べないの?」
 
 轟くんの箸は止まったままで、弁当箱の白米は減っていない。珍しくなにかを深く考えこむように、野菜の肉巻きをじっと見つめている。
 授業中でもこんなに真剣な横顔をしている姿を見たことがない。もしかして、野菜の肉巻きのせいでお腹が痛くなったのかな。
 一抹の不安が脳裏をよぎり、彼の横顔を覗きこもうとすると、勢いよく上がった顔は耳まで真っ赤に染まっている。

「お、俺は、もし、付き合うなら、みょうじがいい」

 それはどういう意味の「付き合う」なのか。
 そんなことを訊くのは野暮だって、真っ赤になった耳や首筋を見ればさすがに察しがつく。
 「野球」と同じくらいに一生懸命な「食事」の手を止めて、真剣なまなざしを私に向けて答えを待っている。
 私の脳内はスペースキャット状態になり、身体の奥で雷鳴をともなって嵐が巻き起こる。
 要するに、非常に混乱しているのだ。
 自分の心臓の鼓動が、激しい脈拍が、鼓膜にダイレクトに響いて頭がくらくらする。
 なんて答えれば正解なのか、正常ではない状態の頭で考えた結果、

「……そうなんだ」

 と、「はい」とも「いいえ」とも違う、とても曖昧な言葉を口からこぼしていた。
 だって、轟くんの言葉にははっきりと好意がにじんでいたけど、「好き」だとも「付き合ってくれ」とも言われなかった。彼の気持ちはなんとなく理解したけど、私の中でなんと答えればいいのか正解が見つからないままで。
 私は一言発するのが精一杯でそれ以上なにも言葉が出てこなくなってしまって、轟くんはこくりとひとつ頷いて食事を再開させた。

 それから、私たちの関係性が変わることなく、日々はいつもどおりに過ぎていった。
 あの昼休みの出来事は、通り雨のように一瞬だけ私たちを濡らして流れていったんだ──と、思っていた。
 
「ねぇ、轟くん彼女できたって聞いたけど! なまえ、ようやく告白したの!?」
「えっ、なにそれ初めて聞いたんですけど」

 放課後の廊下には斜めにオレンジの日差しが差しこみ、私たちの影を足元に長く伸ばしている。
 今日も美織につきあって校舎の窓から野球部の練習を観察していた。茜色に焼けていくグラウンドにはもちろん轟くんもいて、いまは校舎とグラウンドの間に貼られている緑色のネットを突き破る勢いで打球を飛ばしまくっている。ここが球場なら、きっと全球ホームランになるだろう。
 そんなすごいバッティングを目の前にしているのに、私は落雷に打たれない。身体の奥では、雷鳴がどこか遠くの岸辺で鳴っている音が光よりずいぶんと遅れて聞こえてくる。でも、ただそれだけ。
 たぶん、美織の言った「轟くんの彼女」というフレーズに、情けなるほどに動揺しているせいだ。

「……うそ、彼女ってなまえじゃなかったんだ」
「残念だけど、そういうことみたいだね」

 美織には、まだあの昼休みの出来事を話せずにいた。彼女には過剰に期待させたくなかったし、なにより私の気持ちがいまだに現実に追いついていなかったから。
 でも、轟くんに彼女ができたというなら、この話題もいまとなっては笑い話にできる。というより、笑い話にしなきゃいけない。

「私ね、轟くんに『もし付き合うならみょうじがいい』って言われたことあったんだ」
「えっ、それいつの話!?」
「たぶん一週間くらい前かな」

 人の気持ちなんて、七日間もあればあっさりと変わってしまうものらしい。
 それに私だって、曖昧な答えしか返せなかったんだから愛想を尽かされたってしかたないんだ。そういって自分を言い聞かせながら、上履きの爪先で白のリノリウムをぐりぐりといじる。
 身体中の臓器がずっしりと重たくなるような不思議な倦怠感に襲われて、私は窓枠にもたれかかって大きく息を吐き出す。
 こんなに惨めで、悲しくて、切ない感情は、いったいどこからやってきて、雨雲のように広がり大粒の雨を落として胸の内側を遠慮なく濡らすんだろう。

「それで、なまえはなんて答えたの」
「そうなんだ、って」
「そこは『じゃあ、私と付き合ってみる?』って言わなきゃダメじゃん!」
「なるほど、そう言えばよかったのか」

 さすがは美織だ。高校生になってから、すでに片手では足りないほど彼氏ができているから、男子と「そういう雰囲気」になった時の対処方法はすっかり心得ている。
 そして、美織の言葉に素直に納得していることに気づいた瞬間、ずっと見つけられずにいた答えがストンと手の中に落ちてきた。
 その答えにはずっしりとした重たさがあって、去年の夏からずっと降りつもり続けていたのだと実感する。

「私、ホームランだけじゃなくて、轟くんのことも好きなんだ」
「いや、最初からそうでしょ」

 美織はわざとらしく大きなため息をつき、呆れた口調で肩をすくめる。どうやら私より先に私の感情に気がついていたらしい。さすがは美織だ。
 しかし、好きな人に彼女ができた瞬間に恋をしていることを自覚するとは、私もなんて間が悪いんだろう。
 でも、まぁいいや。タイミングなんて良いときもあれば悪いときだってある。
 それよりいまは、探していた答えが見つかったことが嬉しくて、ちょっとだけ切ない。

「で、どうすんの」
「どうもしないし、できないでしょ」
「なんで! もっとやる気出しなよ」
「だから、彼女いるんだから無理だって」
「そんなの奪っちゃえばいいんだよ! 私はなまえの味方だからね」

 声を一段と低く潜めて耳打ちする美織はいたって真剣だ。
 あまりにも真面目な態度だから、「彼女を階段から突き落として」とお願いしたら本当に成し遂げそうで怖い。大切な友だちを犯罪者にはしたくないので、丁重にお礼をしてその場をやり過ごした。

 どうあがいたって叶いようがない片想いを自覚したいま、私にできることなんて轟くんとその彼女の破局を気長に待つことぐらいだろう。あとは自分磨きくらいかな。
 そこで気になるのは、やっぱり轟くんの彼女の存在。彼はどんな女の子が好みなのか、知っておけば自分のどこを磨けばいいのか、もしくはすっぱりと諦めたほうがいいのか、判断ができる。
 
「ねぇ、轟くん」
「んん、この肉団子すごく美味いぞ!」
「やった! ……じゃなくて、聞きたいことがあるんだけど」
「んぉ、なんだ?」

 いつもの昼休み、隣にはお弁当を完食した轟くんと、私だけ。
 友だちが食後のデザートを買いに席を立ってから、思いきって話しかけてみる。話題はもちろん、彼女について。

「轟くん、彼女できたんでしょ」
「……そうだろ?」
「私が轟くんにおかずあげたりしたら、嫌なんじゃないかな」

 それとなく彼女の話題を振ることに成功して、ホッとするのも束の間、すぐに心臓はちぐはぐなリズムを刻みはじめる。
 だって彼女のことは気になるけど、やっぱり轟くんの口から惚気を聞いたりしたら、私のガラス細工のような繊細なハートは粉々に砕けるかもしれない。
 
 ──どうしよう美織、助けて!
 心の中で友だちに助けを求めると、脳内の片隅に現れた彼女は「なまえのハートはガラス細工っていうより、ファミレスのガラスのコップみたいなもんでしょ」と余計な一言を放ったので、慌てて虚像を打ち消した。

「だって、別に嫌じゃない、だろ?」

 轟くんの歯切れの悪い口ぶりに浅く首を傾げると、彼はボッと音が聞こえそうなほど瞬間的に赤面して額に汗をにじませる。
 この態度はいったいどういう感情の表れなんだろう。彼女ならきっと、すぐにわかるのかな。それはとても羨ましい関係性だね。
 腹の底に深くふかく沈めていた澱みが、やわらかな管を伝って迫り上がってくる。唇をきつく結んだ口内が、苦くて酸っぱくて気持ちが悪い。

「それは、どういう意味?」
「だって……みょうじが彼女、だろ」
「…………っえ」

 その一言は、まるで雨雲レーダーをかいくぐった積乱雲のようで、前触れもなく降りだしたゲリラ豪雨は無防備な私のつむじに突然雷を落とし、凄まじい電流を手足の爪まで通した。
 混乱する脳内には再びスペースキャットが降臨して、宇宙空間に漂うみたいにふわふわと浮かんでいる。

 ──これはいったい、どういうこと?

 轟くんの顔がどんどん引きつり強張って、血の気がひいて青ざめていく。
 私たちはいまこの瞬間に、お互いがなにか壮大な「勘違い」をしていることに気づいてしまったらしい。

「ちょっと待って。私はいつから轟くんの彼女になってるの?」
「この間の、昼休みの時。一週間前くらいの」
「……あの時か!」

 ──「もし、付き合うなら、おまえがいい」

 あの時のセリフが再現ドラマでも見ているかのように再生されて……って、いや、違う!
 私は妄想で再現ドラマを見ているんじゃなくて、いま、あのときとまったく同じセリフを轟くんが言ったんだ。

「──それで、みょうじは『そうなんだ』って、言った」
「……うん」
「それって、『いいよ』ってことだよな」

 轟くんにしてはやけに慎重な口調で、臆病に声を震わせて、私にまっすぐに問いかける。
 ここで素直に私の解釈を言ってしまえば、「そういうつもりじゃなかったんだけど」になるんだけど、私は轟くんのことを傷つけたくないし、私も自分の言葉で傷つきたくない。
 本当は、轟くんに彼女がいるって聞いたとき、瞬時に頭の中が真っ白になった。
 ようやく我に帰った頃に、脳内のデジタルフォトフレームに飾られた写真が次々と浮かんでいく。ホームランを打つ姿、頭を抱えて課題をこなしている横顔、私が作ってきたおかずでタッパー飯を美味しそうにかきこむ顔のドアップ。
 隣の席の轟くんの写真ばかりが、鮮明によみがえっては消えてしまう。
 もう、あんな風に親しい距離感でクラスメイトでいることができなくなるのかもしれないと想像した瞬間に、心臓が壊れそうなほどに変なリズムで鼓動して、それはいまも続いている。
 開きかけた唇に乗せようとしている言葉を、舌と呼吸がさりげなくすり替えて、私はこう告げる。

「……うん、そうだよ」
「カッハッハ、そうだよなぁ!」

 グラウンドにいる時の笑い声が、すぐ隣で聞こえている。
 土と汗の匂いが鼻腔によみがえる夏の日差しのように眩しい笑顔が、私は好き。
 とりあえず、あとでカレンダーをさかのぼって記念日を確認しよう。
 きっと、この先はろくにデートもできない日々が待っているけど、月に一度の記念日には手作りお弁当にデザートも添えてふたりきりで食べるような、そんな時間を作ろう。

 私のいとしい、ホームランアーチストのために。





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