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幸福な朝を、きみと何度でも
『今晩、うちくるか?』

 緑のアイコンをタップして先頭にあったのは、彼氏の信二からのメッセージだった。その他には友だち数人からのメッセージとキャンペーン告知で数件のメッセージが溜まっていたけど、どれも未読スルー状態になって数日が経過している。 

 ──あぁ、またやっちゃった。
 額に手をあててぐったりとうなだれると、枝毛や切れ毛だらけの髪がばさりと横顔に落ちてくる。 
 誰に伝えるわけでもないけど、心の内側で言い訳をさせてほしい。今月はシンプルに表現すると「地獄」だったのだ。いわゆる繁忙期というやつで、そして今日が繁忙期の最終日。ようやく地獄から解放された金曜日の夜である。
 イベントやキャンペーンのオンパレードが今日ですべてが終わって、いつもより早く上がれたら帰りに美容院に行こうと思っていた。この枯れ木の枝のような髪を剪定し、グレージュに染めて、トリートメントをしてつやつやの髪の毛を取り戻し、明日は久しぶりに信二の部屋に行こうと計画していたのに。
 やっぱり朝から晩まで慌ただしかったせいで、信二からのメッセージは見ていないし、美容院の予約はもちろんできていない。計画は実行されずに頓挫しかけている。
 いまの私はおしゃれとは程遠い通勤服に身を包み、身体のケアは少々疎かになっていて、しかも化粧はだいぶ崩れている始末。──それでも、やっぱり信二に会いたい。

『ごめん、朝から忙しくてメッセージ読めてなかった』 
『今からそっち行ってもいい?』

 手短に返信して既読がつくのも待たずに、自宅とは反対方向の電車に乗りこむ。ロングシートの一番端の席に深く腰かけると、身体中の酸素が風船から抜けるようにふーっと長い息で吐きだす。疲れた。本当に疲れた。「疲れた」という表現を疲れた以外の言葉で考えつかないほど、私はとても疲れている。 
 仕事で忙しかった日中の記憶が溶けだして、ぼんやりと脳内に浮かび上がってきたのは信二と会った最後の記憶。繁忙期の真ん中でも、貴重な休日にデートして映画を観に行ったはずなんだけど。あれは、いったい何日前だっけ。一緒に見た映画のタイトルは、なんだったっけ。私は大好きな恋人とのデートの記憶すら、仕事のせいで思い出せなくるのか。それはすごく、めちゃくちゃに嫌だな、と思う。

 最寄駅の改札を出て、夜遅くまで開いているスーパーに立ち寄ってお酒とおつまみを買い、そこから十分ほど住宅街を歩く。月明かりに照らされて夜の中にそびえたつ大きなシルエット。築三年のきれいな外観の六階建てのマンションを見上げる。あそこの二〇二号室、そこが信二の部屋。
 元気があれば階段を使うけど、今日はくたくたなのでワンフロアを上がるためにわざわざエレベーターを使う。エコロジーに反する生き方をしているな、と少しだけ反省した。 
 部屋の前まで到着してインターホンを押し、ピンポーンと室内に響くのと同時に玄関へと近づいてくる足音が聞こえてくる。家主は訪問者が誰かも確認せずにドアを開けると、室内の明かりとキッチンから鰹出汁の匂いがふわっと鼻腔をかすめた。ちゃんと生活している明るさと匂い。ここ最近はまともに料理すらできず、玄関の電球を換えることすらできていなかった私とは大違いだ。
 仕事も順調で生活力もある信二と、仕事に追われて生活に手が回らない私は、恋人同士なのにあまりにも対照的だった。

「よぉ」
「ごめん、連絡返すのが遅くなっちゃって」
「んなこと気にすんなよ。朝から忙しかったんだろ」

 持ち手が肩に食いこむほど荷物を詰めこんだトートバックをさりげなく肩から引き抜き、謝罪に対するフォローもしてくれる。しばらく連絡もまともに返せていなかったダメな私に、嫌味のひとつも言わず招き入れてくれる信二のやさしさに、鼻の奥がツンと突かれた。 
 ほとんど衝動的に目の前のスウェットの胸に顔を埋め、柔軟剤のシトラスを胸いっぱいに吸いこんで、がっちりとした腰に腕を回して抱きつく。途端に弱々しい声が喉の奥から這いでてくる。

「……信二、会いたかった」  

 そうだ、私、ずっと信二に会いたかったんだ。こんな風に甘えたかった。 
 でも、そんな想いを抱えこんだまま見失ってしまうくらい仕事に忙殺されて、余裕が無かった。 
 信二の顔を見て、声を聞いて、匂いを嗅いで、体温を感じて、張り詰めていた気持ちがとろりと和らいでいく。この人のそばは私にとって安心して自由に過ごせる場所なんだと、五感を満たされて思い出す。

「俺も、会いたかった」 

 飾り気のないストレートな言葉は信二らしい愛情表現。背中に回された腕の力強さに、泣きたくなるくらいの愛おしさを感じる。とくとく、と弾む心音をずっと聞いていたいから暇さえあればずっとくっついていよう、と勝手に決めた。 
 そのままズルズルとフローリングを引きずられるように部屋に入れられて、バスタオルと部屋着を手渡された。バスタオルの中には下着も包まれている。

「飯の準備するから。とりあえず先に風呂入れ」

 ピカピカに磨かれた湯船にちょっと熱めのお湯を張って、肩まで浸かれば疲れた心も洗い流される。湯船に浸かるのもこれまた久しぶりだったので、気持ち良すぎてお湯に身体が溶けだしてしまうかと思った。
 私専用の部屋着もしばらく着ていなかったはずなのにきちんと洗濯してくれていたようで、信二と同じシトラスの柔軟剤がふんわりと香る。学生の頃、信二が好んで使っていた制汗剤と同じシトラス。爽やかな香りを嗅ぐと、ふと昔の記憶がよみがえってくる。

 信二とは大学で出会ったけど、実のところ最初の印象はあまり好ましいものではなかった。 
 大学には推薦入学で入り、野球部(これは偏見)に所属しているし、とにかく目つきが悪いし、一見ガサツそうに見えていた。 
 でも、同じゼミになって一緒に過ごす時間が増えていくにつれて、信二の人間性を外見だけで性格を判断していたことに気づき、それはそれは深く反省したのだった。
 信二はペットボトルはラベルとキャップをきちんと分別してから捨てるし、ゼミ仲間の部屋で飲めば後片付けや皿洗いを率先してやったし、私が貸した本はちゃんと袋に入れてお礼のお菓子も添えて返却してくれた。どの行為もあまりにも自然にやっていたので、わざわざ褒めたりする者はほとんどいなかった。 
 私は信二のさりげない気遣いや社会性の高さに気づくたびに、好ましくなかった第一印象がどんどん覆されていくのが痛快で、信二のことをもっと知りたくなって自ら近づいていったた。すると、なぜか信二は私のことも気に入ってくれたので、そのまま流れでお付き合いをはじめたというのが、私たちの甘酸っぱいなれそめ。
 
 今思いかえしてみると、研究に打ちこんで生活がおざなりになるような私と付き合い続けて、大学生と社会人としての生活のほとんどを一緒に過ごしてきたけど、信二はそれで良かったの? と思ってしまう。 
 信二は本当によくできた彼氏なのだ。
 お風呂から上がればドライヤーまでかけてくれるし、冷たいお茶を出してくれるし、それで喉を潤しているうちに食事を運んでくれる。至れり尽くせりとは、まさにこのこと。
 私専用の薄桃色の茶碗にふんわりとよそられた白いご飯。皮がパリパリで身はふっくらしている焼き鮭、小松菜の胡麻和え、茄子の煮浸し、豆腐とわかめのお味噌汁。赤と青のお揃いのお箸はきちんと箸置きに置かれる。

「信二はいいお嫁さんになるね」
「そこは夫じゃねーのかよ」

 的確なツッコミと、食べる前から美味しいってわかるラインナップが食卓に並ぶ。 
 まるで実家のような安心感に包まれながら、私は久しぶりに人の手作りした料理を味わって食べた。
 自炊するのも外食するのも面倒で、朝の昼も夜もコンビニ飯ばかり食べていたから信二の味が身体中に染み渡る。 
 美味しい、美味しい、と壊れたおもちゃの人形みたいに繰り返していたら、「大袈裟なんだよ」って呆れたように笑われる。なによりも、信二と一緒に食卓を囲めることが幸せでたまらない気持ちでいっぱいになる。 
 この部屋に上がってから私ばかりが満たされているけど、信二は機嫌がよさそうに表情を緩めている。
 今日ここに来てよかったんだ、って思わせてくれる彼のことが、だいすきだ。

「皿洗いくらい私がやるよ」
「別にいいって。今日、疲れてんだろ」
「これぐらい大丈夫だって。信二はお風呂入ってきて」
「ありがとな」  
 
 一番風呂に食事まで用意してくれたのに、皿洗いまでしようとしてくれる気遣いが申し訳なるほどにありがたい。信二は私の頭にポンっと手を置いてから、脱衣所に向かった。
 私は皿を洗い、同時に洗濯機も回す。この家のドラム式洗濯機は優秀だ。乾燥までやってくれるから外干しをする手間も、夜に帰宅して冷えきった洗濯物を取りこむ必要もない。初期投資をケチった私と、家事の時短のために大きな買い物をした信二とは、こういうささいなところで生活力に差が出てくるのだとつくづく思う。
 
 信二がお風呂から上がり、適当なテレビ番組を流して、私の買ってきたビールで乾杯。
 退屈なバラエティ番組をまたぎ話題の恋愛ドラマがはじまり、ビールを三缶空けたところで、頬をうっすらと赤らめた信二がもぞもぞと身じろぐ。隣に座って左腕をぴったりとくっついていたけど、こてんと頭を私の太ももに乗せてくる。ウエストに腕を回してぐりぐりと額を押しつけてきた。 
 これは付き合ってから知ったことだけど、信二はふたりきりになるとこうして甘えてくる。決して他の人には見せない表情を私にだけは見せてくれるのが、嬉しい。仕事も生活も順調そうではあるけれど、信二なりにストレスを溜めこんでいるのだ。日々の生活に疲れているのは私だけじゃない。

「どうしたの? 甘えんぼうさんだね」
「……だってよぉ、なまえから連絡返ってこねーし、なかなか会えねーし」
「最近忙しかったから寂しかったよね。ほんとごめん」
「そんなに忙しくて大丈夫かよ」
「今日でひと段落したから、大丈夫」
「転職とかは考えてんのか?」
「ううん。毎日忙しいけど、仕事内容も職場の人たちのことも嫌いじゃないから。今の職場で頑張りたいんだ」
「……そっか」

 無防備な後頭部をやさしく撫でつけると、短くて硬い毛が手のひらをチクチクと刺激するけどそれがまた心地良くてクセになる。しばしの沈黙。でも嫌じゃない静かさ。お互いの体温を分け合うだけの時間が、私たちには必要だった。 
 大型犬の頭を撫でるような気持ちで丸くて形の良い輪郭をなぞっていると、太ももに埋めていた赤ら顔をあげてジッと目を見てきた。なぁに?って訊きながらその目を覗きこめば、むくりと起き上がって頭に置いていた右手を取って握る。ぎゅうぎゅうと、少しきついくらいに。

「俺たちさ、そろそろ一緒に住まねぇか?」

 いつの間にかドラマは終盤になっていて、エンディングテーマがちょうどいいタイミングで流れだす。 
 告白をしてれた時と同じくらい、いやもっと真剣な顔つきで信二と向き合い、私は握られている左手の甲に右手を添えた。首振り人形のように何度も、何度も頷く。 
 いつから同棲を考えていたのか話を訊いてみれば、半年くらい前からだと。迫ってきている部屋の更新をしてこのまま住み続けるか、同棲の提案をするかで迷っていたらしい。私たちはそれぞれの職場に近いところで一人暮らしをはじめて、春になれば社会人三年目。それなりに貯金もできたし、同棲するために少し広い部屋を借りる余力もあるから、そろそろタイミングなんじゃないかって。 
 でも、理由はそれだけじゃないらしい。

「それに」
「それに?」
「おまえ、ちゃんと飯食ってなさそうだし」
「うっ」
「家事はちゃんとできてるか怪しいし」
「……ぐぅ」
「ふたりで一緒に暮らせば役割分担できるし。そうすればなまえの負担も減るだろ」
「……すき……信二のそういうところ……だいすき」

 じりじりとすり寄って肩口に顔を埋める。
 信二と一緒に暮らせば、毎日こんな風にそばにいられるんだ。そんな幸せな可能性があることを、私はどうして今まで考えられなかったんだろう。信二は天才かもしれない。

「そうと決まればさっそく部屋探しをしよう!」

 スマホでお部屋探しの検索サイトを開けば、二人暮らしにちょうどいい広さの部屋はいくつも出てくるからワクワクが止まらない。駅近でオートロック付きのマンションか、ちょっと駅から離れるけど日当たりも良くて広めなアパートか。 
 ねぇ、どれがいいと思う? とスマホの画面を見せるとするりとスマホを抜き取られて、ベットの隅へポイっと投げられてしまった。

「あぁ、ちょっとなにすんの!」
「部屋探しは後にしろよ。……俺、まだ甘え足りねーんだけど」  

 そのまま背もたれにしていたベットへと押し倒されて、スプリングがギシッと音を立ててふたりの身体を受け入れる。覆い被さってきた信二の目がギラリと光を放ち、ぎゅっと掴まれた心臓から甘やかな痺れが全身へと広がっていく。  

 ──甘えるっていうより、襲うの間違いじゃないかな。 

 冷静な頭の片隅でそう考えながらも、熱っぽく奪われた唇に酔いしれるように私はうっとりとまぶたを閉じて、愛しい恋人に身を委ねる。
 とろりと甘やかな金曜日の夜を、今からふたりではじめよう。





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