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それからのふたりは、
 ──もしかして、入るお店を間違えたりしていないよね?
 
 何度も不安になって御幸とのメッセージを読み返してみるけど、住所と店名で検索をかけるとやっぱりこのお店であっている。

 ここは想像以上におしゃれな、ダイニングバー。
 ドームから離れた場所を指定してきたことに疑問を感じていたけど、確かにこの雰囲気のお店は水道橋の近くにはないな、と妙に納得した。
 野球部のみんなと飲みに行く時はこんなにおしゃれなお店に入ったりしないから、どうしても気後れしてしまう。
 大きなガラス扉の前で呆然と立ち尽くしていると、私に気づいたウエイターにより扉は開かれて冷たそうなタイル貼りの店内に招かれる。予約はされていますか、と尋ねられて、御幸です、と答える。こんなささいなやりとりで心臓はバクバクと忙しく鼓動する。
 私は御幸の家族でもないのに、御幸ですと名乗るのがなんか変な感じ。手のひらがとてもくすぐったい。
 昔、好きな人の名字に自分の名前を書き足して、きゃあきゃあとはしゃいでいた感覚を思い出して、頬がカァッと熱くなる。成人してしばらく経つけど、そんな風に無邪気に恋にはしゃぐこともなくなった。

 ウエイターに連れられて予約されている個室まで向かう背後に、コツコツと女性の音がついてくる。
 今日のために美容院にも行って、新しい化粧品とスカートで身なりを整えて、きれいな靴を下ろした甲斐があった。慣れないヒールで歩く足元がふわふわと浮き足立って、下手なスキップを踏んでいるみたい。
 ひとりでニヤけてる私、変な客だと思われないといいけど。今日は昼間からずっと浮かれっぱなしで本当にこんな贅沢でいいのかと、際限のない幸福の反動があるかもしれないと根拠もない不安に突然陥る。

 御幸から招待された席はなかなか買えないバックネット裏の良席だったし、しかもスタメンマスクを被った御幸の決勝打でチームは勝利。御幸がヒーローインタビューに答えている様子はばっちりと動画に収められた。
 贔屓の球団との試合ではなかったので、今日は思いきり御幸のことを応援できて、なおかつ活躍と勝利を喜べることが嬉しかった。

 興奮冷めやらぬままドームを後にして、予約してもらったお店の個室に通された瞬間、落ち着きはじめていた興奮は一気に頂点に達してしまう。
 部屋の中は窓ガラス越しに都会の夜景が見下ろせるような素敵な空間で、しっとりと落ち着いた光のランプがテーブルと二脚のイスをぼんやりと浮かび上がらせていた。
 いつも野球部の同期たちと入るようなチェーン店の居酒屋とは、明らかに雰囲気が違う。なんていうか、すごくデートっぽい。 こんなおしゃれなお店で御幸とふたりっきりで、乾杯をする。
 そのあとは、どうしよう。いったい、なにを話せばいいの? 
 脳内検索エンジンの動作は重く、そして適当な話題もヒットしない。お互いに持ち合わせている話題なんて野球関連のことしかないし、このお店の雰囲気に合うような会話ができる気がしないのだ。

 席に通されてひとりなると、手持ちぶさたを紛らわすためにスマホで「20代 男性 デート 話題」とキーワード検索でいろいろと調べているうちに時間が過ぎていった。
 肝心の御幸は三十分経っても、一時間経っても現れない。メッセージも数分ごとに確認するけど、最後に私が送った「いまお店着いたよ! 先に入ってるね」に既読すらついていない。
 試合が終わって二時間あれば店に入れるって言っていたのに、どうしたんだろうか。
スマホを家に忘れてきてしまったのか、それとも充電が切れてしまっているのか、もしかして約束を忘れてしまっているのかな。
 
 ──まさか、事故に遭ったりしてないよね?
 一抹の不安は、水に黒いインクを落とすかのようにじわじわと脳内に広がっていく。
 ネットやSNSで検索をしてみても、それらしきニュースはヒットしない。でも、御幸がなかなかやってこない理由はわからないまま。

「すみません、スパークリングワインをください」

 からからに乾いた喉を潤すようにグラスを煽ると、一気にスイッチが入る。もういいや。シラフのまま御幸のことを待っていると不安と興奮と緊張で頭も心臓もおかしくなりそうだし、先に酔ってしまおう。
 細いグラスの中でしゅわしゅわと音を立てる炭酸を、水族館の水槽で泳ぐ魚を観察するようにじっと見つめる。細かい泡の粒が一筋の線を描いて、底から表面に向かって上っていく様子がきれいでいて、とても美味しい。
 もういったい何杯目かわからないスパークリングワインを煽り、テーブルに突っ伏す。足元だけじゃなくて、頭の中までふわふわしてきた。
 
 仄暗い照明と静かに奏でられるピアノのメロディーが、眠りの淵へと誘う。
 まぶたを閉じると暗闇が訪れて、足元がふわりと浮き上がるような感覚がした、その瞬間──突然響き渡る急ブレーキの甲高い摩擦音。それと同時になにかがぶつかる鈍い衝突音が聞こえて、誰かの悲鳴がこだまする。
 音のした方向へと必死に駆け寄ると足元には──血の海に沈む御幸が横たわっていて──、


「……い、……か?」
「……み、ゆき……」
「おい、みょうじ、大丈夫か?」
「……みゆき?」


 左肩に微かな振動、それと上から降ってくる聞きなれた声に、重たいまぶたと頭を持ちあげる。
 揺れる視界の真ん中に、御幸が立っている。
 ユニフォーム姿でもなくて、血の海に倒れているわけでもなくて、びっくりした顔をした私服姿の御幸が、肩で息をして目の前にいる。 
 頭から足の爪先までの輪郭を視線でなぞってからゆっくりとまばたきをすると、いつの間にか目の淵いっぱいに溜まっていた雫がこぼれ落ちる。

 ──あ、これ、夢じゃなくて現実だ。
 頬をつたう涙の生温さに驚いて、ぼやけた意識が冴えていく。
 私が突然涙をこぼしたので、御幸は焦って表情が忙しくなる。

「悪ぃな、遅くなっちまって。泣くほど寂しかったか?」
「御幸が……生きてる……!」
「へっ?」

 御幸が生きている証拠を確かめたくて、ふらつく足で駆け寄り大きな身体を抱きしめる。分厚い胸板に顔を埋め、たくましい腕を私の細腕に閉じこめ、背筋の伸びた背中で手を結ぶ。左胸のあたりにぴったりと耳を押しつけると、心臓は早鐘を打っている。
 ちゃんと生きてる。よかった、本当によかった。
 またじわじわと涙が迫り上がってくる。
 御幸はなんの前触れもなく抱き締められて困惑しているけど、無理に私の腕を解こうとしない。私に抱き締められることを嫌がってはいないと、信じたい。

「俺、いつの間に死んでることになってるわけ?」
「だって、全然既読にならないし、連絡もないし、お店にも来ないし」
「それはごめん」
「もしかしたら途中で事故に遭ったんじゃないかって、心配で」
「試合の後に取材があって、球場を出るのが遅くなったんだよ。こっちに向かってるときには連絡入れたけど……その様子じゃ、寝てて見てねぇよな」

 ボールを握る右手の親指がやわらかな手つきで涙を拭い、大きな手のひらで顔の輪郭がすっぽりと包まれる。
 黒縁眼鏡のレンズの向こう側の瞳がやさしい色をして私を見つめている。
 身体の芯からこみ上げてくるいとおしさと、適度な酔いが、理性をどこか遠くへ飛ばしてしまう。
 ほろ酔いになった帰り道まで取っておこうとしていた、とっておきのセリフをいま、言ってしまおうか。

「……すき」
「……なにが?」
「御幸のことが、好き」

 頭一つ分も大きな御幸を、精一杯に見上げる。
 首がもげそうになっても、恥ずかしくて顔から発火しそうになっても、絶対に目は逸らさない。
 本当はずっと言いたかった。この関係を失いたくなくて、何年も言えずにいたけど。
 いつかこの恋に疲れて、きっと他の恋を探したくなるだろう。そう考えていた時期もあったけど、結局のところ私はずっと御幸のことが好きなままで、この恋を諦めきれずにしがみついている。
 たった一言の気持ちが言えないまま、私たちはいたずらに歳を重ねて大人になった。大人になると素直に告白するのがスマートじゃないような気がして、なんとなく好意を匂わせてみても気づいてすらもらえなくて。どうあがいても私は御幸にとって恋愛対象にならないんだと、自分に言い訳ばかりして「好き」を飲みこみ続けていた。
 でもいつか、この恋も命にも強制シャットダウンされる瞬間を迎えるのなら、いま伝えた方がいい。
 どんな返事が返ってきたとしても、血の海に沈む御幸の姿を夢に見て「あぁ、告白しておけばよかった」なんて後悔はしたくないから。

 御幸は目を見開いて、言葉を失って唇をまっすぐに結んでいる。まなざしは私の目へ注がれて、なんて答えるべきか瞳の中に言葉を探しているみたい。
 ただこの時間をもらえただけでも、告白して良かったなって思う。いまだけは御幸の時間を私だけのために使ってくれている。
 こんな幸せなこと、きっともう二度とない。

「酔っ払ってんのか?」
「ちょっと酔ってるけど──私は本気だよ」
「……マジかよ」
「本当は帰り道で告白するつもりだったんだけど、予定より言っちゃった」
「俺もそのつもりだったんだけどな」
「……俺も?」
「俺も帰り道に告白するつもりだったんだよ」
「……なにを?」
「みょうじのことが好きだから、付き合って欲しいって」

 今度は私が言葉を失い、真意を確かめようと御幸の瞳の中を探る。まあるい瞳はやっぱりやさしい色をしたままで、からかったりするときの意地悪な色は見えない。
 まさかの事態に大混乱した私は、矢継ぎ早に「なんで、いつから、どうして!?」と質問をすると、御幸は視線を空にさまよわせて、去年の出来事を話しだした。

 去年の春のキャンプので死球を受けて手の指を骨折したこと、覚えてるか? と訊かれて、その出来事をあまりにも鮮明に覚えていたので、何度も頷く。
 御幸は今まであれほど大きな故障を抱えたことがなくて、私もすごく心配したのを昨日のことのように思い出せる。去年は5月になるまでまともにプレーもできずに、二軍でのリハビリ生活が続いていた。
 数ヶ月におよぶリハビリ生活の気分転換になればと考えて、青道の同期を集めて飲み会をしたり、差し入れを持って二軍の施設まで様子を見にったり、定期的に連絡を取ったりしていたのだった。
 いまもみょうじに支えられてるなって実感したんだよ、と照れくさそうに目を細めて教えてくれる。 

「プレーできない俺には、プロ野球選手としての価値がないって思ってた」
「そんなことない」
「俺は高校生の頃からいまも、みょうじのやさしさに支えられてた。だから、これからは俺もみょうじになにかを返していけるになりたい」

 ──好きになった理由はそれだけじゃダメか? 
 そんな甘い声で訊かれたら、首を横に振るしかないじゃない。
 しがみつくように抱き締める腕の力を強くすると、それに答えるように背中に回された御幸の腕がぎゅうっと私を抱き寄せる。
 そのまま吸い寄せられるように重なる唇は、涙とスパークリングワインの混じった複雑な味がした。

 乾杯をする前からすっかりと出来上がってしまった私たちは、お互いに顔を赤らめながらテーブルを囲んで、美味しいはずの食事も味がよくわからなかった。御幸も同じような感想を言っていて、私たちは顔を見合わせて笑った。
 眠らない街の明かりを数えながら、ずっと触れてみたかった手と手を繋いでたどった帰り道のことを、私はずっと忘れない。
 御幸の手のあたたかさも、抱きしめた身体のたくましさも、汗と香水の匂いも、私の名前を呼ぶいとしい声も、全部。

 そして、今晩の出来事はのちに夫婦になる私たちの馴れ初めとして長く語られることになるとは、この時の私はまだ知らない。





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