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薬指にプラチナの約束を
 机上に転がっていた赤ペンを手に取って、カレンダーの十二月三十日に花丸を書きこむ。
 冬休みを返上して厳しい練習に耐え抜いてきた選手たちと、その選手たちを支えてきたスタッフ一同に、「大変良くできました」の意味を込めて。

 残すところあと一日のみになった十二月のカレンダーを眺めて、時の流れは速いなとしみじみと実感するし、やっと今年が終わる実感が湧いてきて、ふっと肩から力が抜けていく。
 青道にきてからの年末は冬合宿で慌ただしく過ぎていくので、いつの間にかクリスマスが終わっていて、あっという間に大晦日がやって来る。
 オフシーズンに突入しても、青道野球部の練習の強度は緩められることはない。来夏を戦い抜くためのたくましい身体と体力と、強靭な精神を育むための厳しい練習が朝から晩まで練習が行われるのが毎年の恒例行事──通称「地獄の冬合宿」。
 そんな地獄の日々も今日の午前で全てのメニューを消化し、クリスマスイヴから連日連夜つづいていた練習は無事に納められた。
 グラウンドに満ちていた活気の残響が、暗闇に塗りこめられたグラウンドの奥からいまにも聞こえてきそうなほどに、感動の余韻は長く続いている。 

 選手たちはすでにそれぞれの実家へ帰り、いまはグラウンドも寮もひっそりと静まりかえっている。
 一月三日の練習初めまではこのプレハブも無人だ。冬合宿の終わりが少しだけ寂しいような、でもそれと同時にとてもホッとするような、あたたかな達成感が身体の中をぐるぐると循環している。
 私も冬合宿中は朝から夕方まで何十、何百ものノックを打ってきたために肉刺がいくつもできては潰れ、腕も足腰も筋肉痛でボロボロ。
 選手たちも日に日に疲労を蓄積して、誰しもが辛い表情を隠しきれなくなっていった。それでも苦しい中で一球を貪欲に追いかけ、立ち止まりそうな足を動かして走り続けていた。
 最終日の今日は、最後のランメニューを終えた選手たちが涙を流してお互いの健闘を称え合っていた。
 グラウンドを囲んで見守っていた父母たちからのあたたかな拍手とともに、感動的な光景はその場に居合わせたすべての人の心に深く刻まれた。
 私も身体はボロボロだけど脱落することなく、最後まで見届けられて良かった、と心から思う。 
 きっと、このチームはもっともっと強くなる。
 そんな確かな手応えを掴んだ冬合宿だった。

「さて、私もそろそろ監督室に戻ろうかな」

 筋肉痛で満身創痍の身体を動かして、やっとの思いで着替えてからしばらく椅子に深く沈んでいたけど、重い腰を上げたところでドアがノックされる。
 このノックのリズムはたぶん彼だと気づいて「はーい」と答える。
 ドアから端正な顔を覗かせる彼もまた、時の流れの速さを感じさせる人物のひとりだ。

「みょうじ先生、いま時間もらえますか」
「いいよ。ちょうど帰り支度も終わったところだし」

 御幸君が卒業して二年が経っても、私を呼ぶ時の愛称は変わらず「みょうじ先生」。 
 私も「御幸選手」ではなく、「御幸君」のまま。 
 御幸君は高卒でプロ入りして以来、オフシーズンに帰省すると真っ先に青道へ顔を出してくれる。
 年明けの自主トレを青道のグラウンドで行うので、年末の挨拶と自主トレのスケジュール調整を兼ねての訪問だけど、やはり懐かしい顔に再会すると素直に嬉しい。 
 選手たちも遠巻きに憧れのOBを目の当たりにして、冬合宿最終日もモチベーションを高く保ったままで乗りきれたのだった。 
 こうして御幸君と顔を合わせるのも数ヶ月ぶり。
 なんの警戒もせずに彼を室内に招き入れた私は、このとき完全に油断していた。 
 
 ドアが静かに閉ざされ、内鍵が閉まる冷たい音を聞いて、私はその瞬間に思い出す──この状況、去年の今頃と同じだ──と。 
 デジャブかと思うくらいそっくりそのまま「あの日」と同じ状況で、御幸君と私は対面している。
 「御幸選手」を間近で見ると、去年よりもさらに身体の厚みを増して、よりプロ野球選手らしい体格になっているのだ。
 でも、その熱っぽいまなざしは高校生の頃から変わらない。

「やっとふたりきりになれた」
「ちょっと待って、話の続きは監督室でしよう」
「ダメです。逃げないでくださいよ」

 目の前に立ち塞がれると体当たりしたって退かせそうになくて、途端に途方にくれてしまう。それほどに体格差が広がっているのを実感させられる。ちゃんと「大人」に成長しているんだ、とまざまざと見せつけられて少し悔しくなった。
 私が知っているのは「高校生」の御幸君だけ。
 いつの間にかどんどん大きくなって、プロ野球選手らしくなっていく。その過程を間近で見届けられないことが、正直悔しいし、少しだけ寂しい。

「……御幸君、あの、近いよ」
「わざと近づいてるんですけど」
「きみにはパーソナルスペースの概念はないわけ!?」
「そんなもんあるわけないじゃないですか。みょうじ先生限定で」
「はぁ!?」

 じりじりと近づいてくる御幸君から遠ざかろうと後退していると、壁という終着地に踵と背中がぴたりとくっつく。正面には御幸君、背後には壁。限りなくどちらとも近くて、私は完全に逃げ場を失ってしまう。彼の脇から逃走しようにも、どうせすぐに腕を掴まれて捕獲されてしまうだろう。もしくは股の間を潜って逃走しようか。でも、いまは全身筋肉痛なのでしゃがむという行為が困難である。 
 要するに、今の私は完全に「詰んでいる」状況だ。

「みょうじ先生、油断してましたね」
「だって、このあいだ食事したときは普通だったし。もう他に彼女でもできたんじゃないかって思ってたんだよ」
「彼女なんかいないですよ。まぁ、向こうではいろいろありましたけど……」
「い、いろいろ……?」
「気になります?」
「別に! 気にならないよ!」

 私のリアクションを見てからかうように笑った御幸君は、急にすっと真剣な顔つきになる。
 私は御幸君のこの表情が、苦手だ。この時ばかりは逃げる隙を与えてくれない。聞き逃れも言い逃れも、許してくれないのだ。

 ──御幸君はおそらく、これから三度目の告白をしようとしている。 
 彼が醸しだす甘酸っぱい緊張感には、確かに覚えがあった。あまりにも鮮明すぎて忘れられるはずがない。



 ──「みょうじ先生のことが好きです」

 一度目の告白は、卒業式の日。
 卒業証書を胸に抱えた御幸君を見送りに行った、空港のロビーだった。 
 私の運転する車で空港に向かっている途中、なにを話しかけても助手席でむっつりと黙りこんでいたくせに、搭乗直前にようやく重たい口を開いた。
 どんな感動的な惜別のセリフを言ってくれるのかと思ったら──それは突然の告白で。
 それはそれはとても慌てふためいたことを、昨日起きた出来事のように覚えている。 
 そのときは答える前に「返事はまだ待ってください」と釘を刺されて、吐露された恋心をただ受け止めて、去っていく御幸君の後ろ姿を黙って見送るしかなかった。

 そして、二度目は去年のいまごろ、冬合宿の最終日の夜のこと。 
 年末の挨拶に訪れていた御幸君とプレハブでふたりきりになって、一度目と同じセリフで想いを告げられた。 
 私の答えは一年かけてじっくりと考えた結果「ごめんなさい」だった。
 その理由は簡単だ。御幸君がまだ「未成年」で、彼にもっとふさわしい女性とこれから出会う可能性があること。
 
 ──「御幸君の世界はこれからどんどん広がって、素敵な人たちとのたくさんの出会いが待ってるんだよ」

 御幸君に諭すように告げたセリフの一字一句を、いまでもはっきりと思い出せる。
 それは決して私の本心ではなく、「御幸君のため」に用意したセリフだった。
 私は顔面に余裕のある微笑を貼りつけておいて、内心ではやわらかな臓器を千本の針で刺されるかのような痛みに苛まれていた。 
 そのときの御幸君は、大変不満そうな顔で「わかりました」と引き下がってくれた。
 彼の歪んだ表情を目の当たりにして、これで私たちの間で「なにか」がはじまる前に永遠に終わらせてしまったと静かに悟った。
 これで良かったんだ、こうするしかなかったんだよ──そう心の中で何度も自分に言い聞かせた。
 本当は、私の元を去っていく寂しげな背中を追いかけたかった。でも、私の存在で御幸君を縛ってしまったら、これから増えていくであろう多くの選択肢と、ありあまるほどの可能性が失われてしまうかもしれない。
 それだけは指導者として、教育者としても、絶対に避けなければならない。
 大人としての理性が、身勝手な欲望に蓋をした。
 私の御幸君への気持ちは、あのときに完璧に封印して胸の奥底に無理やり沈めたのだ。
 
 二度目の告白の後は、顧問と元教え子という関係性はそのままで、たまに近況報告も兼ねて連絡は取りあっていた。
 夏大前には御幸君から誘われて、ふたりで食事に行ったこともあった。
 二度目の告白をされたとき以来の再会だったので最初こそ身構えてしまっていたけど、御幸君からは下心なんかちっとも感じなくて、安心しつつも少し寂しいような、複雑な心境だったというのに。


「俺はまだみょうじ先生のことが好きです──結婚を前提に付き合ってください」  


 御幸君はいま、下心をたっぷり含んだ甘ったるい声とまなざしで私を見下ろして、三度目の告白をした。
 しかも聞きなれないフレーズが付け加えられて、脳内が混乱して情報処理能力が打ち落とされた鳥のように急降下していく。

「……けっ、けっこん?」
「そうです。『結婚』です」

 あえて「結婚」のフレーズを強調して、これは現実だと言い聞かせてくる御幸君は本当に意地悪だ。
 これはただの告白じゃない、といまごろ察しても、逃げるにはタイミングが遅すぎる。 
 ていうか、付き合ってくださいと言うならならまだしも「結婚を前提に」って話が急に飛躍しすぎじゃない?

「結婚を前提に……って、きみはまだ二十歳になったばかりなんだよ。なにもそんなに焦って結婚相手を探さなくてもいいんじゃない?」
「結婚するならみょうじ先生以外に考えられないんですよ」
「……その理由は訊いてもいい?」
「みょうじ先生はそろそろ結婚を考えたっておかしくない時期だし、俺はあなたが他の男と一緒になるところなんて祝いたくない」
「そんなこと心配しなくたって、私に結婚の予定なんかないよ」
「だからいま一生懸命に口説いてるんですけど」

 砂糖と蜂蜜とチョコレートを一度に口の中に放りこんだような声が、私の手も足も、心臓も鼓膜も、瞳も唇も、すべてを甘やかに溶かそうとしている。 
 大きくてあたたかな手のひらがやさしい手つきで頭の輪郭を撫で、繊細な砂糖菓子を扱うようにそっと触れたと思ったら頬をすっぽりと包むこむ。 
 こんな風に異性からまっすぐな愛おしさを注がれることは、いまだかつて経験がしたことがなかった。 
 半年くらい付き合っては別れてを繰り返していた学生時代に、形式的に交わしていた「好きだよ」というセリフよりも、数百倍も真摯な告白。
 御幸君の言葉には迷いが一切含まれていない。 

 私はいま心底驚いている。去年あれほどしっかりと振ったのに、御幸君は絶やすことなく人知れず恋心を育みつづけていたことに。その事実を知って無性に泣きだしたくなる。いま泣きたくてしょうがないのは、きっと御幸君の方なのに。
 それでも私は、御幸君をまた突き放さなければならない。

「もう成人もしました。大人として自立した生活ができています」
「……でもね、私は『プロ野球選手』の御幸君に相応しい人間じゃないんだよ」
「それはどういう意味ですか」

 やっと喉の奥から引っ張り出してきた言葉に、御幸君は間髪入れずに厳しい口調で質問を重ねてくる。 
 この話は御幸君の自主トレが終わってから話そうとしてことだけど、予定より早く打ち明けるタイミングがきたらしい。 
 壁に後頭部を擦りつけながら、二十センチメートルほど背の高い御幸君の目をまっすぐに見上げる。
 私の真剣なまなざしを察して、御幸君も唇をきゅっと引き締めた。

「私、青道を離れることになったの」
「……え」
「教員採用試験に合格したの。春から公立高校の先生になるんだ」

 御幸君のレンズ越しの目は、まるで夢から覚めていくように大きく開かれる。
 なぜ、とは問われない。
 以前、御幸君にはデータ分析につきあってもらったついでに、夏大初戦の日に教員採用試験を受験する予定だったことや、恩師の藤代監督に憧れているとを話したことがあった。そういった記憶の端々を結びつけて、彼なりの結論にたどり着いたらしい。 
 そうですか、とぽつりとつぶやくとそのまま閉口する。

「私は東京都に採用されているから、しばらくここから離れることはできないの。御幸君のそばにはいられないんだ。だから、私はきみに相応しくない」
「だったら、なおさら逃せない」

 私に降ってくる影が大きく、濃くなる。
 御幸君の両腕で壁とのすきまが塞がれて、お互いの吐息が頬に触れてしまいそうなほどに距離が近い。 
 さすがに目を合わせているのが恥ずかしくて困難になり、私は触れ合っているふたつのつま先へ視線を落とす。横顔に熱い視線が注がれて、頬の皮膚が日焼けした時のようにヒリヒリと痛む。     

「みょうじ先生が青道を離れたら、俺とあなたを繋ぎとめる場所がなくなる。そうなる前に、みょうじ先生の気持ちを俺にください」
「だから、私は御幸君のそばにいてあげられないし、プロ野球選手を支えられるような器量のある人間じゃないんだってば!」

 弾けるような勢いで視線を上げる。
 私は本気なんだと訴える気持ちをまなざしにこめて、明るいブラウンの瞳を見つめた。あまりにも切実な想いが込み上げて、私は涙目になってしまっている。

「私もずいぶんと大人になったけど、いまだに自分ひとりのことで手一杯なの。御幸君の人生を支えてあげられるだけの余裕が無い」

 御幸君は私の大事な教え子だから、きみの人生に寄り添える素敵な誰かと出会って、プロ野球選手としての人生を支えてもらってほしい。真剣にそう願っている。 
 そしてその役割はおそらく、私に担えるものではないことをはっきりと自覚している。
 私には私の目標があって、御幸君が目指す目標と同じ場所にゴールがあるわけではないと、知っているから。 
 もう、いいかげんに折れてよ──。
 口の中でひとりごちるけど、心の中ではまったく逆のことを願っているのだから、私はもしかしたら二重人格なのかもしれない。  

 (でも、私も本当は御幸君のことが、──好き。)

 選手としても、ひとりの人間としても、私は御幸君にずっと心惹かれてきた。それは理性でどうにかしようがない感情。それに名前をつけることをずっと拒んできた。一度自覚してしまったら、新たに芽生えた感情に振り回されてしまいそうだったから。 
 でも、本当に御幸君の幸せと成功を願うなら、名もない感情に名前をつけてはいけないし、差し出された手を取るべきではないということは、火を見るよりも明らかだった。 
 そして、私が選ぶべきパートナーは御幸君のようなスーパースターになりえるような人じゃなくて、平凡でも穏やかな日々をともに過ごしていけるような人がいい。 
 私たちはお互いに相応しい人をパートナーに選んで、別々の人生を歩んでいくべきなのだ。 
 これは、私から御幸君へ教えられる最後にして唯一のことなのかもしれない。

「だからいい加減、諦めてよ」
「嫌だ」
「……なんで、私なの」

 いつの間にかぎゅっとスカートを握りしめていた手を、一回りも大きな手のひらで包まれる。
 まばたきをするたびにぽろぽろとこぼれる涙がまつげの先に引っかかって、御幸君のたくましい身体の輪郭をきらめかせた。 

「みょうじ先生は放っておくと、すぐに自分のことを疎かにしてチームのために無理しますよね」
「……」
「でも、そんな風に目標のためにまっすぐに生きている人だから、俺はあなたに惚れたんです」
「…………」
「俺の人生は自分でなんとかします。だけど、みょうじ先生の人生は俺が半分預かりたい。みょうじ先生のそばに、俺を置いてほしいんです」

 ふいに、御幸君の端正な顔が歪んだ。
 それは彼の表情が歪んだからではなくて、私の視界が潤んであふれてしまったからで。
 御幸君の言葉が無遠慮に心の琴線に触れてくるせいで、しゃくりあげるほどに感極まってしまって、私は肩も声も振るわせて泣く。拭っても拭っても涙があふれてくるから諦めて顔を両手で覆うと、その隙を突いて抱き寄せられて腕の中に閉じこめられてしまう。
 ここまでくると、もう逃れる術は見つからない。
 私は抵抗することも諦めて、胸のくぼみのあたりにぐりぐりとおでこを寄せた。 

「……御幸君は、ばかだなぁ」
「ばかで結構です」
「私なんかのどこがいいわけ?」
「寝る間も惜しんで分析して目の下にクマを作ったり、ちょっとからかうとすぐに怒ったり、喜怒哀楽がわかりやすくて表情がコロコロ変わるところとか」
「……それ、全部私のダメなところじゃん……」
「ダメなところも含めて、みょうじ先生が好きなんですよ。そばにいると楽しくて、目が離せなくなる」

 ほんの数センチ先にある端正な顔がくしゃっとした笑みを浮かべる。その無防備すぎる表情には見覚えがあった。 
 御幸君が現役だった頃、ふたりきりになると時折見せていた笑顔によく似ている。本当にずっと前から私のことを想ってくれていたんだと、はっきりと自覚すると全身が茹でられたように熱い。 

「私、きみのそばにいられないんだよ。たぶん、会いに行くのも難しいと思う」
「それはわかってます。だから、俺がみょうじ先生のところへ会いに行きますよ」
「……本当にいいの?」
「みょうじ先生の気持ちが手に入るなら……なんでもいいです」

 意志の強い目がじっと私の目を見つめてくる。
 私は御幸君の目が苦手だった。だって、見つめ合えば逸せなくなる。なにもかも、胸の奥底に沈めた熱っぽい感情さえ見透かされてしまいそうで怖かった。
 でも、いまは怖くない。もうすべてさらけだしてしまおうって、決めたから。
 私の隠していた感情も、弱さも、ダメなところも。
 御幸君になら、見つけられてしまっても構わない。

「わかった。私の半分は御幸君にあげる」
「!」
「だから、御幸君の半分は私にちょうだい。そうしたら、ふたりで一人前になるでしょ」
「……本当にいいんですか」
「いいよ。御幸君のために私になにができるかわからないけど──それはこれからふたりで考えよう」

 そっと手を差し出して、初めて私から御幸君に触れる。
 シャープな輪郭の顔におそるおそる指を伸ばし、紅く染まる頬を両方の手のひらで包んでみる。
 成人男性の割にすっきりとした顔の輪郭。目や鼻や唇などのパーツはどれも作り物みたいに整っている。
 端正なマスクと確かな実力で注目を集め、プロ入り二年目にして野球雑誌の巻頭ページを飾るほどに注目されているのが「御幸一也選手」なのだ。
 アラサーの私には眩しいくらいに若くて美しい顔の男が、真顔で私に問う。

「みょうじ先生って、俺のこと好きなんですか」
「……めっちゃストレートに聞いてくるね」
「みょうじ先生の口から『好き』だって聞いてないんですけど」

 端正な顔面の吐息が頬にかかる距離までジリジリと近づいてくる。私は危機的な状況を察して、胸の奥深くに沈めていた想いを急浮上させる。

「……す、す……」
「ほら、早く」
「すき……やき!」
「小学生みたいな恥ずかしがり方しないでくださいよ」
「すき」
「……っ」
「私も御幸君のことが……好きだよ」

 あぁ、どうせ告白するのならこんな風に言わされるんじゃなくて、きちんとおしゃれして素敵な場所で告白したかったのに。どうして私は職場に行くような適当な服で、プレハブの中にいるんだろう。心の中でため息をつく。
 ……でも、まぁいいか。
 この場所は私たちのはじまりの場所でもあるから。ここ以上に特別な場所は、日本中どこを探したって見つからない。

「ハハッ……すげぇ破壊力。たまんねぇ」
「きみ、絶対に後悔するよ。その気になれば女子アナとかモデルとだって付き合えたのに」
「女子アナも女優も興味ないです」
「本当に欲が無いんだから」

 緊張で張り詰めていた涙の膜が、明るいブラウンの瞳の上で揺らめいている。
 御幸君の目には、私はどんな風に映っているんだろう。きっと、私の知らない「私」をたくさん知っているんだろうな。これから少しずつ教えてほしい。御幸君のことも、御幸君から見た私のことも。 

 そして、教えてあげたい。
 私の目から見た御幸君がいかにかっこよくて眩しく輝いて見えるのか──そのすべてを。

「あと、教えてほしいんですけど」
「なにを?」
「指輪のサイズ。左手の薬指の」
「それってまさか」
「婚約指輪ですよ。さっき言いましたよね『結婚を前提に付き合ってください』って」
「……そうだっけ?」
「いまさらとぼけても無駄ですよ。今度会うときには必ず渡します」
 
 矢のような牽制球を放つ右手が、私の左手を取って顔の高さまで持ち上げたと思ったら、薬指にそっと触れるだけのキスを落とす。ちゅ、ってわざとリップ音を立てて、ニヤリと口角を上げる唇に視線が縫いつけられてしまう。
 たった一度のキスで、しかも触れたのは薬指だというのに。私の顔は沸騰しそうなほどに熱くて、脳が溶けだしそうなほどに煮えている。
 そういえば、まともに恋愛をするのは数年ぶりのことで、しかも相手が策士な御幸君だなんて──私、本当に大丈夫なのかな?

「そうと決まれば、さっそく監督たちへ報告しに行きましょう」
「えっ、いまから!?」
「善は急げって言うでしょ」
「それはそうだけど……。まだ心の準備ができてないってば!」
「大丈夫ですよ。俺がちゃんとリードするんで」
「『キャッチャー』だけに……?」
「はっはっはっ! そういうことです」

 御幸君に手を引かれて、私たちは同じ歩幅で歩きだす。 
 私が一方的に終わらせたと思っていた恋は、どうやら今日からはじまるらしい。
 ひとりとひとりが「ふたり」になって、顧問と元教え子の関係性の他に、新たに「恋人同士」が加わる。
 実ったばかりのこの恋が、これから先うまくいくかはまだわからないけれど。やっぱり私に飽きて、女子アナやモデルに心変わりする日がくるかもしれない。

 それでも願わずにはいられない──あわよくば、はじまったばかりのふたりにささやかな幸せを分かち合う日々が訪れますように──と。






 

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