「みょうじ先生って、香水つけてますか?」
四時間目の授業も終わり、教卓で教科書の角を揃えている時に聞き慣れた声に呼ぼれて、視線を上げる。
そこにはマネージャーの夏川さんと梅本さんがいて、期待に瞳を輝かせていた。
香水?……はて、なんのことやら。
最近は香水をつける余裕もない生活を送っているので、愛用していた香水瓶は部屋の片隅でほこりを被ったオブジェになっている。
今頃すっかり酸化してしまっているだろう。
「いや、最近はつけてないけど」
「そうなんですか! みょうじ先生とすれ違うといつもいい匂いがするから、香水つけてるんだと思ってました」
「ねぇ、川上君と白州君もそう思ってたでしょ?」
梅本さんがすぐ後ろの席で話している川上君と白州君に話しかけた。二人はお互いの顔を見あわせてから、少し間を空けて答える。
「……確かにいい匂いがするなぁとは思ってたけど」
「香水かどうかまではわからなかったな」
控えめなふたりらしい、控えめな回答。
川上君も白州君も一軍の主戦力だけど、ガツガツと自己主張してこないのがいいところだ。他の一軍の選手たちは自己主張強めのキャラが濃い子たちばかりなので、彼らのような存在がいてくれるとチームとしてのバランスが良くなる。
川上君と白州君はふたりで話しているところをはよく見かけるけど、人の輪の中に積極的に入ってくるようなタイプではない。そのせいか彼らと接する機会が少なかったので、今まであまり話したことがなかったのだ。
もしかしたら、私が野球部を嫌っているという噂を耳にしている可能性も否定できないけれど……。
(もしかして、私、川上君と白州君に嫌われてるのかも……?)
一瞬、脳裏に御幸君のひんやりとした表情を思い出す。
急に彼らの目を見るのが怖くなって、あいまいに視線をただよわせる。
「そういえば、ヘアトリートメントはこのあいだ買い替えたかな」
「それだー!」
「どこのやつ使ってるか教えてくれませんか!?」
「ドラックストアで売ってるやつだよ」
商品名を伝えると、彼女たちはスカートのポケットからサッとメモ帳とペンを取り出して、メモを取る。
二人とも三年生の藤原さんに相当鍛えられたんだろう。制服でもジャージ姿でも、メモ帳とペンを持ち歩きすぐにメモを取れるのは、優秀なマネージャーの証拠。
彼女たちは野球部のマネージャーでもあり、華の女子高生だ。人の使っている化粧品とか香水に興味を持つのも、当然のこと。
頑張り屋でしっかり者の梅本さんと夏川さんにも、年相応の可愛らしい一面があることを初めて知って、強張っていた心がほっこりする。
彼女たちのことを見ていると、私の現役の頃を思い出すようでくすぐったい気持ちになった。
「帰りにドラックストアに寄り道しよう!」
「ついでに消耗品も買っちゃおうか」
「あのさ、俺も一緒に行こうか?」
「……俺も」
お、川上君と白州君の方から会話に混じってきた。
私は口をつぐんでしばらく様子を見る。
「ふたりとも欲しい物でもあるの?」
「制汗剤が無くなりそうだから、買っておきたくてさ」
「シャンプーが無くなりそうだから」
「なにを買えばいいか教えてくれたら、代わり買っておいて明日渡すよ?」
彼女たちは気の利くマネージャーなので気を利かすけど、どうやら彼らのささやかな気遣いにはまだ勘づいていないらしい。
「俺たちも一緒に行けば、消耗品を寮に持ち帰れるし」
「いったん家に荷物を持ち帰って、また学校まで持ってくるのも大変だろ」
そう説明されてからようやく彼らの気遣いに気づいたらしく、梅本さんと夏川さんが驚いた顔で見つめあう。
一部始終を黙って見守っていた私も、我慢できずに口を挟んだ。
「川上君も白州君も優しいんだね。将来イイ男になるよ」
「べ、別にそんなことはないですけど。なぁ、白州」
「あ、あぁ。そうだな」
「あはは! 川上君と白州君は、野球部の良心だもんね!」
「じゃあ、お言葉に甘えて一緒に来てもらおうかな」
「ふたりのことをよろしく頼むね、川上君、白州君」
微笑ましい光景を目撃して、つい口元が緩んでしまう。
川上君と白州君の目を見て話しかけると、頬をほんのり赤く染めてこくりと頷く。
私の姿を映した彼らのまなざしは、コットンのようにやわらかく私の輪郭をなぞって、敵意は少しも感じられなくて心底ほっとした。
他愛もない話にはしゃいでいる彼ら彼女たちを見ていると、胸の中がじんわりと温かくなって心地良い。
しばらくのあいだ一緒に笑っていたら「笑ってるの珍しいですね」なんて驚かれてしまった。
……表情筋、もうちょっと動かさないといけないな。
*・*・*・*
毎年、五月頃になるとワイドショーやらニュースで「初任給の使い道ランキング」が話題になる。
五月は新社会人の初めての給料日を迎え、まだスーツに着られている新社会人の街頭インタビューがお茶の間をにぎわせるのだ。
私も初任給が振りこまれたら、親にプレゼントでも買おうとぼんりや考えていた。
なにせ初任給の使い道ランキング第一位は「親へのプレゼント」が定番で王道な使い道だからだ。
しかし、野球部の顧問に就任してからは休む暇もなく、口座からお金を引きだしたのは給料日からしばらく経った今日のこと。
そして、私は今スーパーで買い物をしている。
手当たり次第に商品をカゴに放り込んでいる。それらの商品は、もちろん親へのプレゼントではない。
今日は比較的早めに上がれた帰り道だというのに、バスに揺られている時にも、苦しそうな表情で白米を口に運ぶ一年生たちの姿が、脳裏から消えてくれなかった。
青道野球部は食事もトレーニングの一環としていて、白米を山盛り三杯を完食することをノルマと課している。
このノルマにも慣れた上級生は、三十分もあればぺろりと完食するのだけど、まだ要領を得ない一年生は苦戦している子たちが多い。
能力の高い選手たちに囲まれ、厳しいうえに練習量も多く、寮生活にはまだ慣れない。
そんな彼らにとって、食事は数少ない楽しみのはずなのに、私から見ると白米を無理やりかきこむ姿は、まるで辛い修行に耐えている修行僧のように見える。
彼らの大半は、山盛り二杯目まではおかずとバランスよく食べられる。
けれど、どうしても最後の一杯はおかずを食べきってしまって、白米のみを食べるしかない。そうなってくると、味気がなくなり途端に食が進まなくなる。
無言の食卓には、脂汗を額に浮かべる者もいれば、涙目を受かべる者もいる。
食事だって本来は、食べる喜びを感じて、作り手に感謝するべきなのに、彼らにはそんな余裕すらないようで、私は彼らに同情している。あまりにもかわいそうで見ていられない。
この中から脱落者が出てしまったら……そう考えると、いてもたってもいられなかった。
昨晩買ってきた商品を食堂に持ち込んで、頬袋を膨らませたリスみたいな顔の一年生たちの前に置く。
彼らは頭の上にクエスチョンマークを浮かべて、私の顔を見た。
レジ袋から、ふりかけ、鮭フレーク、食べるラー油、お茶漬け、インスタント味噌汁などを取りだして並べる。
その様子を見て、席を立ってわらわらと集まってきた一年生たちは、一様に目を丸くしていておもしろい。
「みょうじ先生、これはなんですか……?」
狩場君はおそるおそる第一声をあげ、食べるラー油を片手に取ってラベルを眺める。
「これは私から君たちへの差し入れです」
「えっ!」
「本当ですか!?」
間髪入れずに喜々とした声をあげたのは、金丸君と東条君だ。同じシニア出身のふたりはとても仲が良いらしく、顔を見あわせてグータッチをしている。
さっきまでシーンとしていた食堂の空気が、一気にざわつく。
「助かるわ」とか「神だ……」とか、安堵の混じった声があちらこちらから聞こえてきた。
ただし注意事項があるので、それをきちんと説明しておかなければならない。
わざとらしく咳払いすると、彼らの注目が集まってきた。
「この差し入れは最初で最後だよ。みんなは作ってもらったおかずだけで、山盛り三杯を食べきれるコツを早く掴むこと。これはコツを掴むまでのサポートアイテムだからね」
「「「はい!」」」
「好きなように食べていいから。みんなで分け合って使うように」
「「「ありがとうございます!」」」
思いおもいのサポートアイテムを手にした彼らは、目を輝かせながら白米をかきこむ。
食堂のいたる所から「美味い!」「これならイケる」という声が聞こえてきて、どんどん低くなっていく白米の山をぼんやりと眺めていた。
「……みょうじ先生」
「降谷君も食べ終わった?」
「はい。差し入れありがとうございました」
完食した降谷君がふらりと目前にやってきて、ぺこっと頭を下げた。いつもは見えないつむじが、きれいな渦を巻いている。
「いつも最後まで残ってたもんね。早く食べ終わって良かった」
「今日は早く食べ終われたので、これから走ってきます」
顔を上げた降谷君の表情は、いつものクールな無表情ではなくて、ちょっとほくほくしていて微笑ましい。
「もう少し食休みしてからのほうがいいよ」
「わかりました」
「外は暗いから気をつけてね」
降谷君ってなんだか取っつきにくい印象だったけど、喋ってみれば案外素直でちょっとびっくりした。
降谷君が自室に戻ってからも、食べ終わった子たちは彼を見習って律義にお礼を述べてから、食堂をあとにした。
両親にプレゼントを贈る前に、選手たちへの差し入れを買ってしまったわけだけど、こんな初任給の使い方もありなのかもしれない。
そう納得するのに、彼らの元気のいい「ごちそうさまでした!」が聞けたから……まぁ、これはこれで悪くないかな、と思うのだ。