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5 ないものばかりが欲しくなる


「監督の片岡だ。副部長から話は聞いている。これからよろしく頼む」
「……よろしくお願いします」

 グラウンドに入って早々にヤクザとエンカンウントしてしまって、ビビりまくる私。
 ヤクザは自らを「監督」と名乗った。
 この見た目で監督って……マジか。
 ワイルドな髭、いかついグラサン、きっちりとセットした黒髪、現役のスポーツ選手みたいに立派な体格。
 この人が、青道の監督。
 あの日のグラウンドの向こう側、一塁側のベンチから見えていたのは、確かに若かりし頃の彼の姿。涙でにじんでいたけど、目に焼きつけたのは、間違いなく片岡先生だった。
 差しだされた手を握りかえす。
 熱い体温、肉厚で硬い手の皮の感触から、じわじわと熱が移される。本気で野球をやっている人の手のひら。何度もマメができてはまた潰れてを繰りかえして、その皮は分厚く硬くなっている。
 今の私の手はなんの苦労もしていないまっさらな手で、急に恥ずかしくなった。

「部長の太田です。マネージャー経験があると副部長から聞いていますよ! これから共に頑張りましょう!」
「よろしくお願いします」

 こっちの太田部長は片岡先生と違ってにこやかで、穏やかな雰囲気を醸しだしている。
 もしかしたら、野球経験があまり無いのかもしれない。
 差しだされた手のひらは、握りかえすと温かく柔らかで安心感があった。

「集合!」

 主将の発した号令で、グラウンド整備に散っていた部員たちが一斉に集まって来る。
 薄茶色の土埃が舞い、土と石灰の混じり合った匂いが鼻腔まで届いて、その懐かしい匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。
 そういえば、グラウンドに訪れるのも数年ぶりのことだと、ふと思い出した。
 軍隊のように美しく隊列した彼らのまなざしは、まっすぐに片岡先生へと注がれる。
 ピリッと緊張感の張りつめた空気に、喉の奥が苦しくなって息が詰まる。
 私はこの一年間、この空気に耐えられるんだろうか。自分に問うても聞こえるのは風の吹く音だけで、答えは返ってこない。

「こちらは、本日から顧問に就任されたみょうじなまえ先生だ。先生、なにか一言頂けますか」

 サングラス越しに目が合うと、冷や汗がぶわっと噴きだすような気がした。なんという威圧感。部員たちはよく耐えられるもんだと、少しだけ感心する。
 隊列に視線をずらすと、私を好奇の目で見てくるやつが大半だけど、一部で怪訝そうな目つきで観察しているやつもいる。後者の中には、あの御幸君もふくまれている。
 
 あぁ、もうやだなぁ……今すぐにでも帰りたい。

「みょうじなまえです……これからよろしくお願いします」
「「「よろしくお願いします!」」」

 約百名の部員たちから発せられる「よろしくお願いします!」の声量は半端なくて、圧倒されてしまう。
 上手く作り笑いもできずに引きつった表情をしていると、集団の中の御幸君と目が合った。
 敵意のこもったひんやりとした視線で、私の様子を観察している。睨みかえす勇気も無いので、さりげなく視線を逸らしての逃げた。
 
 片岡先生が練習メニューの指示をしている声をぼんやりと聞き流しながら、なんでこんなことになってしまったんだろう……と嘆きたい気持ちを必死で押しころす。
 「私はここにいるべきじゃない」って脳内で自分の声が反響するから、耳をふさぎたくなる。
 わかってるんだ、そんなこと。この状況は不可抗力によるものなんだから、仕方ない。
 私の意思なんかじゃないんだからーーと、自身に言い聞かせるのは虚しいだけだ。





「これで一通りの施設は紹介できたわ」
「やっぱり、強豪校は施設設備も充実してますね」
「環境整備には力を入れてるのよ。都内で二面の専用グラウンドを所有しているのは、青道くらいかしら」

 全体練習が始まってからは、高島先生にくっついてグラウンド周辺の施設を見学して回ったけど、その充実ぶりには驚きを通り越して感動してしまった。
 二面の野球部専用グラウンドには立派なナイター設備もあるし、アナウンス室や観客席まで備わっている。バッティングマシンは何台も使えるし、野球部専用バスもあった。
 広々とした室内練習場もあったし、グラウンド近くには野球部寮もある。
 なによりも校舎の近くにグラウンドがあるというのが一番の利点だ。他の強豪校は郊外にある専用グラウンドまで電車で通うチームも少なくない。授業が終わってすぐに練習をはじめることができれば、充分な練習時間を確保できる。

「……ずるいですね」

 胸の奥底から湧きあがってきた嫉妬がぽろっと口からあふれてしまって、私と高島先生のあいだを静かに転がった。
 やっぱりなんでもないです──と、言葉を続ける前に高島先生が先に口を開いてしまう。

「青道の恵まれた環境が羨ましい?」
「……えぇ、そうです。充実した環境に、甲子園準優勝投手が監督となれば、優秀な選手も集まってくる。都立がいくら頑張っても敵わない理由が、よくわかりました」

 脳裏によみがえってくるのは、母校のグラウンド。
 野球部専用グラウンドなんてもちろん無くて、同じグラウンドを他の運動部と分けあって使用していたため、外野ノックすらまともにできなかった。
 室内練習場も寮もあるはずなんてなくて、雨が降ればまともに練習ができなかった。
 バッティングマシンは、OBや父母会が寄贈してくれた古めかしい物が二台だけ。
 ナイター設備も無いから日が暮れたら危険すぎて内野ノックすらできない。
 限られた時間で、限られたお金で、限られた環境で、工夫して試行錯誤して、二年半を費やしてようやくたどりついたのが、六年前の西東京大会の決勝戦だった。
 それなのに、試合が始まる前から青道と神山のあいだには、こんなにも大きな差があったなんて。
 そりゃ、青道が有利だよ。ずるいよ、こんなの。

「確かに青道の環境は恵まれているわ。でもね、多くの部員たちが二十人のメンバー入りを狙う熾烈な競争を、勝ち残らなければならない。彼らはそのことも覚悟した上で、自ら青道を選び、今ここにいるわ」

 そんなこと、わかってるよ。
 わかってるけど、でも……。

「わずか十五歳で親元を離れ、甲子園出場、そして全国制覇を目標として、より厳しい環境で切磋琢磨しているのよ。あなたはそんな覚悟を持って、進学先を選んだのかしら?」

 グラウンドの方向から吹きあがる風が、土手にたたずむ私たちの髪を揺らす。
 高島先生は凛とした横顔で、グラウンドの選手たちを見つめている。

 十五歳だった私は、グラウンドを所狭しと駆ける彼らと、なにが違っていたんだろう。
 同じ覚悟をして、同じ目標を追いかけて、同じように努力をしていたはずなのに。
 どうして勝利は、甲子園は、私たちの手のひらをすり抜けていったんだろう。
 どうしてたった一本のホームランで、勝敗は覆ってしまったのか。

「……私だって、甲子園を目指せるチームを選びました!」
「私たち青道高校野球部の目標は『全国制覇』よ。甲子園出場は通過点だわ。これから顧問になるんだから、よく覚えておきなさい」

 高島先生のたしなめるような物言いに、私はそれ以上なにかを言うことを諦めて言葉を飲んだ。
 本当は自分でもわかっていた。
 私は青道を「選べなかった」だけで、恵まれた環境を妬んで羨んで「ずるい」と口走ってしまった。我ながら馬鹿だと思う。
 十五歳の私には、「甲子園出場」を目指せるチームを選ぶことが精一杯の背伸びをした選択だった。
 「全国制覇」を目指す青道を選ぶ勇気も、覚悟も、あの頃の私には無かった。グラウンドにいる彼らには、その勇気と覚悟があって、青道を選んだ。
 私たちの違いは、ただそれだけのことだ。
 ただそれだけの違いが、こんなにも大きく私の運命を変えてしまったのだ。

「先にこれだけは聞いておくわ。あなたは神山高校を選んだことを、後悔しているの?」

 太陽が空を橙色に染めながらながら、遠くの街並みへゆっくりと沈んでいく。
 一筋の風が吹いて、グラウンドの土の匂いと、選手たちのかけ声をここまで運んできた。

 その瞬間、鮮明に思い出す。
 私たちのグラウンドを、泥だらけになって駆け回る選手たちの横顔と、流れ落ちる汗。
 怒鳴りながら延々とノックを打ち続ける監督の大きな後ろ姿。
 まるで映画のフィルムのようにコマ送りに流れていく、私の日常だったいとおしい光景の数々。
 たくさん喧嘩して、怒られて、話しあって、汗をかいて、日焼けをして、泣いて、笑って。
 挑戦するたびに失敗をして、グラウンドには何度も怒りの雷が落ちた。そうしてチームの絆は、少しづつ、でも確実に強くなっていった。
 あのグラウンドでなければ、大切な仲間たちとは出会えなかった。あのチームでなければ、決勝戦まで戦えなかった。
 後悔なんて、そんなもの、

「後悔なんてありません」
「その言葉が聞けて良かったわ」

 空気がふっと緩むのを感じて横目で高島先生を見ると、やわらかい微笑を口元に浮かべていた。
 グラウンドではナイター照明を点灯し、A面はロングティー、B面は走塁練習に移行した。
 来週にせまった春の関東大会にむけて選手たちも調整に余念がないのだと、高島先生は声を弾ませながら教えてくれる。
 グラウンドの隅から隅までピリピリとした空気が支配しているというのに、それを見つめる高島先生のまなざしはとてもやさしくて──まるで女神のようだ。
 そして、そのやさしいまなざしはまっすぐに私を捉えて、ドキッとする。私が男子高校生だったら、この瞬間に恋に落ちているだろう。

「私はね、彼らだけではなくて、あなたにも期待しているのよ」
「……私に期待されても困りますよ」
「ふふふ。これから先が楽しみだわ」

 私には、高島先生の言う「これから」のイメージが上手くできない。
 私にもいつか、青道で過ごす「これから」のイメージを上手く描くことができるのだろうか。
 もう一度、自分に問いかけても、聞こえてくるのは打球音と選手たちの声だけで、やっぱり答えは返ってこなかった。