「授業に関係の無い物はしまいなさい」
頭上からひんやりとしたの声が降ってくる。
気づいた時には、身体の右側に人の気配。いつの間にそばまで来ていたのか、反射的に顔を上げると冷たい顔をした女教師と視線がぶつかる。
静電気の火花が散るような、そんな一瞬だった。
瞬時に視線を逸らした女教師は、すぐに教壇へと戻っていった。言われたとおりにスコアブックを閉じて机の中に大人しくしまう。その様子を見届けてから、女教師は授業は再開した。
バレように細心の注意を払って盗み見ていたのに、何がマズかったのだろうか。内心ハラハラとしながらも、居住まいを正してペンを握り直したけど、残り三十分であの女教師と目が合うことはなかった。
「ヒャハ! お前、また授業中にスコア読んでたのかよ」
「おー、まぁな」
「なにげに注意されんの初めてじゃね?」
「あー、言われてみたらそうかもな」
案の定、休み時間に倉持がやってきてニヤニヤした顔でからかってきた。
どうせおもしろがってからかってくるだろうとは予想してたけど。分かりやすいヤツだ。
「あのみょうじって教師、やたらと俺たち野球部に冷てぇよな」
「そーか?」
「授業中に注意する時の声とか目線が冷めてんだよ」
「それは……確かにそうかもな」
薄っすらと脳裏に浮かぶのは、あの冷たくて白い能面みたいな顔。感情の無い目の色。刺すように鋭い声。背筋がぞくりと震えるような威圧感。
倉持は隣の席が不在なことを確認して、浅く机に寄りかかった。
「他クラスの部員も同じこと言ってたぜ。他の生徒と態度が違う気がするってな」
「新任の女教師だからって、やたらと絡みたがるから悪ぃんだろ」
「その割に他の生徒の冗談とかには、授業中にも談笑したりすんだよ」
「野球部だけ嫌われてるって言いたいのかよ」
「その確証はねーけど……さっきのお前への態度見てたら、疑いたくもなんだろ」
顔をしかめてガシガシと頭を掻くのは、倉持が苛立ちを抑えようとしている時によく見せる仕草だ。
まぁ、倉持の言いたいこともわかる。
今、あの女教師に野球部が嫌われていないと証明できる証拠など、なに一つ無い。
ただ、あの女教師は今年からの新任教師でまだ着任して一ヶ月も経っていない。野球部が嫌われるにしても、まだ時期が早すぎるのではないかとも思う。
「あぁー、モヤモヤすんなぁ」
「俺、直接聞いてくるわ」
「えっ、お前、ちょっと気が早すぎんだろ」
椅子を引いて立ち上がると、驚いた顔した倉持に腕を掴んで引き止められる。
「だって、ここで考えこんでても答えなんて見つからねーだろ。それだったら、直接聞いた方が早い」
「……だからってなぁ、急すぎんだろ!」
「仮に、野球部の誰かがあの人に迷惑かけて不愉快な思いさせてんなら、問題が大きくなる前に解決しといた方がいいだろ」
つまらないことで問題になったり、噂話がこじれたりして、巡りめぐって高野連に処分を下されるようなことがあれば、俺たちの日々の努力が一瞬で水の泡となる危険性もある。
なによりも、俺の知らないところで問題が起きているかもしれない、という現状が耐えられない。問題になりそうな芽は、早く摘んでおくに越したことはないはずだ。
「お前、どうやって聞きだすつもりなんだよ」
「野球部を嫌ってるって噂を聞きましたけど、事実ですか? って聞く」
「ちょ、直接的すぎんだろ! もっと言葉を考えろよ」
「周りくどい言い方はめんどくせぇしな。まっ、上手いことやってくるわ」
後ろ手を振って席を立つと、じっとりとした視線を背中に感じる。
お前、本当に大丈夫かよ。
そんな倉持の心の声が聞こえてくるようで、聞こえないフリをして昼休みの廊下に出る。社会科準備室へと重い足取りで歩きだした。
*
「あの」
社会科準備室の戸に手を掛けた瞬間、突如背後から誰かを呼び止める声が聞こえた。
名前を呼ばれたわけではないのに、私を呼び止める声だとわかって振りかえる。
「少しお時間いいですか」
お伺いを立てているようで、有無を言わせない言葉の強さ。
私を呼び止めたのは、2年B組の御幸君だった。
どうしてこんなところに、彼はいるのだろう。なんの用があるんだ、青道野球部で不動の正捕手の彼が、私なんかに。
「……どうしたの」
「みょうじセンセーが野球部を嫌ってるという噂が立ってますけど、身に覚えはありますか」
全身の血液が凍りつくような、そんな悪寒が頭の先から足の爪先まで、一瞬で駆けぬける。手に持っていた教科書を落としそうになるから、ぎゅっと強く抱えこんだ。
御幸君の声は真剣だ。他の男子生徒たちが冷やかしでかけてくる声とは違って、上手く流したりごまかしたりできそうにない問いだと、すぐに悟る。
明るい栗色の瞳は、ひんやりとした視線で私の目を捉えて逃がそうとしない。さっき、授業中に御幸君を注意した時と、どうやら立場が逆転してしまったようだ。
「そんな噂、初めて聞いたけど」
「否定しないんですね」
御幸君の抑揚のない声には、はっきりとした敵意が混じっている。
今日初めて話したはずなのに、どうして心の中まで見透かされているような、そんな気持ちにさせられるんだろう。強いまなざしに根負けして、私から先に視線を逸らしてしまった。今すぐここから逃げだしたい。彼から遠ざかりたい。あの目に見られていたくない。
引き戸に手をかけ開けると、横目だけで御幸君を見る。私の周りだけ空気が薄いような気がして、一つ息を吐いた。
「……君たちには関係無いことだよ」
これは言い逃げだ。大人のくせに卑怯なことをしていると自覚はある。
室内に逃げこんでピシャリと戸を締めると、立ち去る彼の足音が遠ざかっていくのを確認してから、深く自席に腰かけた。他の先生たちは不在だったことがわずかな救いだ。
全身から力抜けてだらしなく上半身を机に突っ伏して、目を閉じる。
どうしてあんな噂が立ってしまったのか。
上手く自分の感情をコントロールしているつもりだったのに。彼らは私が距離を取ろうとラインを引いて接していた態度から、ひた隠しにしていた嫌悪感を敏感に察知してしまったらしい。
御幸君の瞳は、冷たくて見つめられると痛かった。はぐらかすことを許さない厳しさをふくんだ声だった。
まるで、彼らと接する時の私のような態度だった。生徒は教師の写し鏡だと、初任者研修でも指導されていたことを思いだす。
(……やっぱり、私には無理なのかも)
私ひとりの室内に弱気な独り言がぷかりと浮かんで、気怠そうにただよう。
さっきの一件のせいで、食欲はすっかり失せてしまった。
でも、午後も授業があるしなにかしら食べなくては体力が持たない。職員室でもらったお菓子の備蓄に手を伸ばし、てきとうに選んだチョコレートの包み紙を開くと溶けていた。
甘ったるいチョコレートの舌触りは、今の気分には最悪の相性だった。