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25 地図なき旅路をゆく者たちへfin.


 西東京大会決勝戦敗退後、チームには二日間のオフが与えられた。 
 青道野球部でまとまった連休が取れるのは、夏大後の二日間と年末年始の休みだけと決まっている。
 私も選手たちと同じく二日間ともオフを頂いていた。
 高島先生が「たまには羽を伸ばしなさい」と配慮してくれたので、お言葉に甘えることにしたのだ。 
 ここ最近、夜遅くまで残って相手校の分析に追われていたことを片岡監督も太田部長も心配してくれていたのよ──と高島先生経由で聞いた時には、とても恥ずかしかった。データ分析に夢中で周囲を気にする余裕もなかったことに、今になって気づかされる。

 夏は、終わった──終わって、しまった。 

 秋に向かってすぐに気持ちを切り替えなくてはいけないのはわかってはいても、泣きはらした顔の三年生たちを見ていると、とてもじゃないけど「決勝戦敗退」という結果を冷静に受け止められそうになかった。私にも選手たちと同じく、気持ちを切り替えるための時間が必要だった。 
 オフの間もグラウンドに顔を出していた高島先生からは、自主練に励む一・二年生の写真を添えたメッセージが届いていた。 
 ──これじゃオフなのにオフになってないじゃん。
 心の中でツッコミをしながらも、私も結局はオフらしいことが全然できていないので、苦笑いするしかなかった。



「おはよう、御幸君」
「……おはようございます」
「…………え、なに?」

 二日ぶりにグラウンドに顔を出してみれば、朝一番に御幸君と遭遇した。 
 最近は二日間も顔を合わせない日は無かったから、なんだか久しぶりに会った気がする。久しぶりとはいえ、たかだか二日だけなんだけど。
 御幸君は一瞬きょとんとした表情をして、目を丸くしてじーっと私の顔を見つめてくる。
 レンズ越しの目力が強すぎてたじろいでしまうし、後退する隙を与えずあっという間に距離を詰めてきた。近い、近すぎる。
 御幸君にパーソナルスペースという概念は無いのか……?

「みょうじセンセー……顧問辞めないですよね」
「はぁ!? 辞めないけど!? それ、なんの話?」

 私が「顧問を辞める」だなんて想像もしていなかった質問をされたものだから、心底びっくりして地面から一センチくらい飛び上がったと思う。 
 御幸君の不審なまなざしの理由は、どうやらこのしょうもない噂話が原因らしい。
 それにしても、たった二日の不在で大げさすぎる。いったいどこから流れてきた噂なのか、真相を確かめなくちゃいけない。

「あー……それならよかった」
「誰が私が辞めるって噂話をしてたの?」
「いや、違います。俺が勝手に勘ぐってただけで」
「なんで」
「……だって、二日もグラウンドに顔出さないから」

 御幸君にしては珍しく歯切れの悪い話し方だ。気まずさを誤魔化すかのように、雑に後ろ髪をかいている。 

 ──私のこと心配してくれていたのかな。 
 この杞憂をを彼なりのやさしさと捉えるべきか、まだ信頼には至っていないと捉えるべきか。

「また決勝戦で負けたから、ショックで顧問を辞めるとでも思ったの?」
「まぁ、否定はしないですけど……案外、平気そうですね」
「まだ腹わた煮えくりかえってるけどねぇ。でも、悔しがっても結果は変わらないなら、前を向くしかないでしょ」

 教師らしく諭すように問いかけてみれば、御幸君はぽかんと口を開けた無防備な顔をしている。
 いつもより少しだけ幼い表情に、まっすぐ向き合って、彼を見る。 
 朝の爽やかな風が日焼けした茶色の前髪をさらさらと揺らす。明るいブラウンの瞳が日差しをきらりと反射した。 
 高校球児に抱く感想としてはおかしいかもしれないけど──御幸君はとてもきれいだ、と思う。 

「私のこと心配してくれてたんだね。御幸君って案外やさしいところもあるじゃん」
「別に、誰にでもやさしいわけじゃないですけど」

 からかうような軽い口調でいじってみれば、眼鏡の奥がくもってしまった。
 都合が悪くなるとだんまりしてしまうのは、彼の悪い癖。

「顧問の役得ってことね」
「とりあえず……今はそういうことにしときますよ」

 寮の方から賑やかな気配が迫ってきている。
 おそらく沢村君たちが土手に上がってきているのだろう。
 きっとみんな、私の顔を見て驚くんだろうな。どんなリアクションをされるか楽しみ。 
 そんなことを考えている隣で、御幸君は今のところなにも指摘してこない。さすがに気づかないなんてこと……ないよね?

「そういえば、髪切ったんですね。それにジャージ着てるのも珍しい」
「お、やっと気づいてくれたね」
「いや、さっきから気づいてましたけど」

 御幸君の言うとおり、胸上まで伸ばしていた髪をバッサリと切った。毛先はフェイスラインのすぐ下できれいに切りそろえられている。 
 決勝戦の日の夜、早めにベットに入ったところでやっぱり眠れるわけがなくて。
 泣きつかれてぼんやりと天井を見上げていたら、なぜか急に髪を切りたくなって、次の日に朝一番で美容室に駆けこんだ。髪を切ったら少しは憂鬱な気分が晴れるかな……って、単純な思いつきだった。 
 ショートヘアなんて中学生以来で、長い髪にハサミが入るときはドキドキしてしまったけど、肩の上で毛先が揺れる感覚が新鮮で、けっこう今の髪型も気にいっている。
 憂鬱だった気分は、ほんの少しだけ前向きになれた。頭が軽くなった分、身体にまとわりつく重たい感情から逃れられている気がする。 
 普段は仕事着のままでグラウンドに顔を出していたけど、ジャージも新しく買ったのでさっそく袖を通してみた。これからはこの格好でグラウンドに来ることが多くなるだろう。

「なんで髪切ったんですか」
「気分転換というか……心機一転したかったんだ。どう? ショートも似合ってるでしょ。ジャージも新調したんだ」
「自分で似合ってるって言うの、どうなんですか」
「だって、自分で言わないと御幸君は褒めてくれなさそうだし」
「……」
「ほーら、図星じゃん」

 また都合が悪くなったので、眼鏡の奥をくもらせて黙ってしまう。 
 土手の上から沢村君の「みょうじ先生〜! おはようございまぁす!」と特大のあいさつが聞こえてきた。あとに続いて一年生たちがぞろぞろと階段を下りてくる。みんなの表情は明るい。敗戦を引きずっている雰囲気じゃなくて、とりあえず一安心だ。

「みょうじ先生、頭切ったんですね! 似合っております!!」
「栄純君、頭じゃなくて髪だよ」
「……涼しそうです」
「あ、ほんとだ。ショートも似合ってますね」

 沢村君、小湊君、降谷君、東条君にぐるっと周りを囲まれて、一斉に話しかけられる。遅れて金丸君も合流して、みんなから物珍しそうなまなざしで見つめられた。 
 そうそう、私は求めていたのはこんな感じの驚きのリアクションなのだ。

「見てごらんよ、御幸君。一年生たちの方が褒め上手だよ」
「そうだぞ、御幸一也! 俺たちを見習え!!」
「……」
「朝からうるせーぞ沢村ぁ!」

 あとから追いついた倉持君も合流して、さっそく沢村君にタイキックをかました。 
 談笑しながらグランドインする彼らを見送りながら、新しい朝の空気を胸いっぱいに吸いこむと、まぶたに張りつく眠気がほんの少しだけ冴える気がする。

 もう、このチームには頼もしかった三年生たちはいない。 
 正直なところ……心細さはある。 
 クリーンナップは全員抜け、新チームの打力が落ちるのは目に見えているし、投手陣も夏大で急成長を見せたけど束になっても成宮君の実力にはまだ劣っている。
 投打においても、課題は山積みだ。 
 でも、これから新チームの主力になる彼らが元気なら、きっと活気のあるチームになるだろう。

 今日から新チームが始動する。 
 チームの目標はもちろん「甲子園出場」
 ──そして「全国制覇」だ。 


*・*・*・*・*


 新キャプテンの御幸君を先頭に、長いランニングの列は砂ぼこりを巻きあげながらグラウンドを駆けぬける。 
 新チームが発足した初日って、どこのチームでも練習メニューは全員でのランニングからはじめることが多いらしい。
 なかなか全員の足並みがそろわなくて、時おり片岡監督の檄が飛んでいるのを横目に、新キャプテンへと心の中でエールを贈る。 

 私が神山高校野球部マネージャーだった、二年生の夏。 
 三年生たちが引退した翌日も、部員たちは一日中ランニングをしていたことをぼんやりと思いだしていた。

『ランニングもまともにできねーんなら、甲子園なんて夢のまた夢だぞ!』

 あの夏の日も、藤代監督も怒って檄を飛ばしていた。怒号と駆け足の音がグラウンドいっぱいに響きわたっていた日のことを、私はまだ鮮明に覚えている。 
 今日はあの日に似ているなと、ふと思った。 
 うだるような暑い空気も、湧き上がる入道雲と夏空の青も、日差しのまぶしさも。
 選手たちの真剣な表情も、声も、まなざしも。 
 私が通りすぎてきた「はじまりの日」とまるで同じ光景が、目前に広がっている。 
 三年生たちがいない不安と、新チームへの期待。ふたつの感情が入りまじって胸を弾ませて全身に熱がめぐっていく、この感覚も同じだ。

 彼らと同じように汗をかいて日焼けして、悔しさも喜びも共有して──私はもっと「野球」を知りたい。 



「これからBグラウンドでノックを行う! 参加を希望する者のみ五分後に集合しろ!」

 片岡監督の声に顔を青ざめつつ、全員が「はい!」と返事を飛ばした。 
 「希望者のみ」とつけ加えたのは、彼らが走りすぎて脚がパンパンなことを片岡監督も察していたからだろう。朝から昼食をはさんで終日ランニングをしていれば、疲労困憊になるのは無理もない。今ノックを受けたところで、まともに脚を動かせるわけがないのだ。 
 それでも、主に夏大でベンチを外れたメンバーがBグラウンドへ集まってきた。
 もうすでに秋大の背番号をかけたメンバー争いが始まっている。選手たちは顔に緊迫した表情を貼りつけ、真剣な雰囲気を漂わせながらキャッチボールで身体を動かし、各々がポジションへとつく。

「……え、みょうじセンセーがノック打つんですか?」

 ノックを見学するつもりだったのか、防具もミットも携えずに現れた御幸君は、背後ですっとんきょうな声をあげる。 
 私がノックバットを握っていることによほど驚いたのか、目を丸くしてまばたきを繰りかえした。
 それは他の選手たちも同じで、キョトンとした表情で私の仕草を観察している。 
 私はノックバットを片手に持ち、片岡監督はボールケースを肩から下げているのだから、傍から見たらなにかの間違いじゃないかと疑われるだろう。立場が逆ではないか、と。

「ノックと言うより『ノックを打つ練習』って感じだけどね。ご指導よろしくお願いします、片岡監督」  
 
 ご指導頂く敬意と感謝をこめて、片岡監督へ最敬礼を。片岡監督は唇を引き締めて頷いた。
 選手たちには黙っているけど、実はオフの二日間を母校の神山高校のグラウンドで過ごしていたのだ。 
 藤代監督はすでに新監督へチームを引き継いでいたけど、相変わらずグラウンドで指導を続けていて、突然会いにきた私が『ノックを教えてください』と直訴した時には、それはとても驚いていた。 
 それでも、ライバル校の関係者である私を藤代前監督は快く迎えいれてくれた。
 ただし、案の定とてつもない熱血指導でしごかれたため、今も全身筋肉痛だし、汗か涙がわからないくらいに汗水を流して、普段よりもずっと身体を酷使した。
 ノックを受けている選手たち以上に、ノッカーの運動量は多いのだと身をもって実感して、改めて藤代監督と片岡監督の偉大さに気づかされる二日間だった。
 藤代監督にだけは一生頭が上がらないだろう、とマシンガンのようにノックを打ち続ける恩師の背中を見つめていた。
 「いつかこの恩を『結果』で返せ」と、あの頃と同じ豪快な笑顔で約束を取りつけられて、私は素直に頷くしかなかった。

「……厳しくいくぞ」
「はい!」
「はっはっはっ、おもしろそうじゃないですか! 俺も入ります!」

 御幸君は大慌てで防具を身につけて、なんとかボール回しに間にあった。 
 狩場君は御幸君のいきなりの乱入に恐縮している様子だけど、近くで正捕手の先輩のプレーを見られるのは彼にとってもいい刺激になるはず。 
 Bグラウンドの騒ぎを聞きつけた沢村君たちも「俺たちも入らせてください!」と懇願してきたけど、残念ながら彼は投手なので丁重にお断りをした。

「ごめんね、沢村君。投内連携のノックもいずれ打つ機会があるだろうから、その時にはよろしくね」
「了解しやした! 不肖沢村、本日はボール運びに徹します!」
「ありがとう、助かるよ!」

 ノックの参加をお断りしたにもかかわらず、沢村君は快くノックのボール運び役を買ってでてくれた。
 内野ノックは送球が一塁へと集まるから、定期的にボールをボール渡し役へと運ぶ必要がある。
 マネージャーたちは練習の後片付けに追われているし、彼の気遣いに素直に甘えることにして──さて、いよいよノック開始だ。

「内野、ボールファースト!」

 御幸君の声に続いて全員が声を上げ「お願いします!」とサードの金丸君が第一球目を処理するための低い体勢をとった。
 一気に緊張感が跳ね上がり、ノックバットを握る手に汗をかいてしまう。

 ──落ち着け、私。二日間しっかり指導してもらったんだから、大丈夫!

「最初は捕りやすいゴロを、正面に打て」
「はい!」

 左手でボールを上げ、瞬時にノックバットを握りボールをサードへと打つ。 
 打球の勢いが弱かったのか、金丸君はダッシュして定位置よりもずいぶん前で打球を処理した。

「おっかなびっくり打つな! これじゃ練習にならんぞ!」
「は、はい!」

 背後から片岡監督の檄が飛ぶ。
 おっしゃるとおりだ。選手たちにとって貴重な練習時間を下手くそなノックで消化させるわけにいかない。 
 バットのグリップを強く握り直して、今度は強めにボールを打つと正面にいい感じのゴロが転がった。片岡監督はなにも言わずに頷く。
 これぐらいの力加減でいい──ということだろう。 

「取りやすいゴロを、正面へ」と頭の中で何度も唱えながら、サードから順番にショート、セカンド、ファーストへと打球を打つ。 
 それからから内野ゲッツー、バント処理、キャッチャー牽制と続く。 
 マウンドの手前へと移動してキャッチャーへとボールを投げると、少しだけ軌道が逸れてしまう。 
 それでも御幸君はしっかりと捕球して、少し崩れた体勢からでも素早く二塁へと送球した。
 御幸君のプレーには無駄がなく、キャッチャーとしての技術は洗練されている。
 キャッチャーの守備におけるスローイング、ブロッキング、リード、フレーミングはどれもレベルが高く、この世代では東京でもNo.1の実力を持っていると言っても過言ではない。

 ──本当にすごいよ、御幸君は。
 プロのスカウトが注目するだけのセンスが、御幸君にはある。
 今までいろんなキャッチャーを見てきたけど、彼が断トツで賢くて優秀な選手だ。 
 私が御幸君に感心していることを見透かされたのか、サングラス越しに目が合うとニヤッと笑われて、その瞬間に倉持君が「アイツ、いけ好かないんすよね」と語っていたことを、唐突に思いだした。
 センスあふれるプレーに、自信があることを隠そうともしない堂々とした態度。
 確かにいけ好かないよね。倉持君のセリフに心から同意してしまう。 
 要するにカッコよすぎるんだ、御幸君は。
 周りの選手たちからも、そして私にも嫉妬されるほどに。

「外野、ボールセカンド!」

 御幸君の声に外野手たちが威勢のいい声を上げて応えた。 
 
 正直、外野ノックは自信がない。
 どうしても腕力が貧弱なせいか飛距離がどうしても足りないのだ。ずいぶん前に出て打球を打ち上げても、どうしても内野の深い位置までしか打球が届かない。
 準備万端で待ち構えている外野手たちに申し訳なくて、焦ってしまって余計にフライが上がらなくなる。

「もういい、内野バックホームにいくぞ」
「すみません!」
「バットを振りきる筋力がつけば、外野フライも打てるようになる」

 片岡監督の判断で外野ノックは中断し、外野手たちは一球も打球を捌くことなく戻ってくる。
 せっかく準備していた外野手たちに申し訳なくて、平謝りをするしかなかった。

「みんな、ごめん! 今度は外野まで届くようにするから!」 

 自分へのふがいなさを噛みしめながらも気を取り直して、次は内野バックホーム。
 キャッチャーたちはマスクを被り、バックホームへと備える。 
 私は野手の正面に強めのゴロを転がし、力強い返球でキャッチャーミットがいい音を鳴らす。
 全員がバックホームを終えて内野手がグラウンドからはけると、次は締めのキャッチャーフライ。

「……いけますか、キャッチャーフライ」

 御幸君は背後から小声で話しかけてくる。 
 彼が言いたいのは「キャッチャーフライは打てないですよね」ということだろうけど、私はニヤッと笑って応える。

「いくに決まってるでしょ」

 ホームとマウンドの中間地点まで移動して、ボールをすくい上げるように真下から打つ。
 すると打球はすーっと上空に舞い、ホームベース後方のファールゾーンへと緩い速度で弧を描きながら落下していく。
 打球をキャッチした御幸君は、驚いた顔をして私を見た。

「ラスト!」

 最後の一球もすーっと上空へ打ちあがり、ホーム裏のファールゾーンへと落下していくボールを狩場君ががっちりと捕球した。

「ありがとうございました!」
「「「ありがとうございましたぁ!」」」
「こちらこそ、ありがとうございました!」 

 滝のように流れおちる汗を拭いながら、つたないノックにつきあってくれた選手たちへ感謝を伝える。 
 片岡監督からは「ノックは一朝一夕でできるようになるものではない。これから精進しろ」と叱咤激励をいただき、素直に頷くしかなかった。

「初めてのノックにしては、結構打ててましたね」

 プロテクターを外して身軽になった御幸君が、フェイスタオルで汗を拭いながら近づいてきた。 
 最後のキャッチャーフライ、すげー上手くてびっくりしました──なんて誉め言葉も添えて。

「藤代監督直伝だからね。あの人、キャッチャーフライをきれいに打ち上げるの得意なんだ」
「……もしかして、オフの間に神山に行ってノックを教わってたんですか」
「そういうこと」
 
 イタズラが成功した時みたいに得意げに笑いかけると、御幸君の顔はミステリー小説の伏線が回収できた瞬間みたいなすっきりとした表情になる。
 御幸君の胸のどこかに疑問が引っかかっていたのかもしれない。私のことなんかで心配させたり、不安にさせたりして……申し訳ないって思う。
 私はもっと、選手たちから信頼される顧問になりたい。

「……いったぁ」
「あーあ、肉刺が潰れちゃってるじゃないですか」

 つけっぱなしだったバッテをとると、手のひらに真新しい肉刺ができていて、そのうちのいくつかが潰れて血がにじんでいた。
 痛々しいそれを覗きこんで、御幸君は顔をしかめる。

「せっかくきれいな手なのに」
「いいんだよ、別に」

 肉刺だらけでよく日に焼けた手のひらは、私の憧れ。恩師の藤代監督や片岡監督の手のひらは、肉刺が潰れて固くて分厚かった。
 私の手は……まだまだきれい。努力が足りていない証拠だ。

「でも、どうしてノックを打とうと思ったんですか」
「片岡監督は右打ちだし、左打ちの私がノックを打てるようになれば少しは役に立つかなって思って」
「そんなことまで考えてたんですね」
「それに、私もグラウンドに出てこないとダメだって気づいたの。プレハブにこもって相手校のデータ分析してるだけじゃ……足りなかった。ウチの選手たちのことをちゃんと理解できてないと、本当にベンチが必要としているデータを提供できない……ってね」

 藍色の街並みの向こう側に沈んでいく太陽が、強烈な西日を放っている。夕陽の橙色が紺碧の空を焼いていき、何色ものグラデーションになる。
 私たちはしばし、言葉もなくマジックアワーの空を眺めていた。 
 夕方から夜へと移ろいゆく空に見惚れていた横顔に、ふと視線を感じて隣を見ると、打席に立っている時のような真剣な目をした御幸君と視線がぶつかった。
 強いまなざしに射抜かれて目も逸らせない。
 張りつめた緊張感に息を呑む。またこの瞳から目が離せなくなる。 
         
「はっはっはっ! みょうじセンセーって本当に『野球バカ』ですよね」
「……そのセリフ、君にだけは言われたくないんだけど」
「お互い様ですね」
                       
 顧問と選手という関係にしては、私と御幸君の距離感はやはり近すぎるような気がする。
 気づいたら懐に入られているのが癪に障るけど、叱ったり拒むほどでもないから、ちょっと困ってしまうな。 
 ちらりと御幸君の横顔を見やる。ばっちりと目が合うとなぜか緊張してしまうから、さりげなく横目で。
 やっぱり、歳の割に大人びて見える。
 でも、滝川君の「大人っぽい」とはちょっと違う感じ。
 今の御幸くんには、正捕手としての「プライド」と、新たに芽生えた主将としての「覚悟」が入りまじっている──ように見える。 
 新たに与えられた主将しての役割が、御幸君をさらに大人にさせようとしているのだ。
 私たちが支えてあげなくちゃいけない。
 身体の芯から強い使命感が湧き上がる感覚に、自然と拳を握り締める。
 
「これから頑張ろうね、新キャプテン」
「……そうやってプレッシャーかけないでくださいよ」
「ちゃんとフォローしてあげるから、自分らしく頑張りなさい」

 珍しく丸まった背中をさすって「大丈夫だよ」と励ましのセリフも添える。
 頼もしかった結城君の後釜となれば、御幸君でさえ相当なプレッシャーを感じるらしい。
 御幸君は主将で正捕手で、なおかつ四番候補だ。これからのことを考えると気が重くなるのもわかる気がする。
 励ますようにポンポンと背中を叩くと、気を持ちなおしたらしく背筋が伸びた。
 レンズの向こう側でしょぼしょぼしていた目が、私を試すように楽しげに細められる。 

「そういうみょうじセンセーも……腹くくれたみたいですね」

 暗に「もう野球から逃げたりしないですよね」と問われているような気がして、息が詰まった。 
 御幸君は私の弱さを知っている。
 野球も甲子園も遠ざけて、逃げていた過去を。最初は青道野球部を毛嫌いしていたことも。
 だから、確認せずにはいられないんだ。
 また逃げたりしないですよね──と。 
 だったら、この際はっきりと宣言してやろうじゃないか。

「とっくに覚悟は決まってるっつーの。地獄でも天国でも甲子園でも、どこだって一緒に行ってあげるからね」
「はっはっはっ! みょうじセンセーと一緒だったら、地獄行きでもいいかもしれないですね」

 決意をこめた宣言だったのに、腹を抱えて笑い飛ばされて(……いつか絶対に殴る!)と固く握り締めた拳に誓う。
 御幸君が引退するまでの我慢だ。今ぶん殴ったら暴力問題で大変なことになる。

「でも、とりあえず行き先は──甲子園ってことで」
「秋大優勝すればセンバツ当確だからね。まずは春の甲子園を目指そう」

 今日は新チームがスタートラインに立った日。 
 少しの不安と大きな期待を背負って、私たちはここから新たにはじまる。 
 結城君たちが作り上げたチームを超える強さを育てなければ、甲子園には行けない。 
 その強烈なプレッシャーにうつむきたくもなる。

 『本当にそんなことできるの?』

 十七歳の亡霊の声が、耳の奥で聞こえる。
 同じタイミングで御幸君が問いかける。

「新チームで甲子園に行けるか……不安ですか?」
「……『行けるか』じゃないでしょ」  

 あの夏、果たせなかった甲子園出場の夢を叶えて、あの青いベンチの片隅から十七歳の亡霊を救いだす。 
 そして、引退した青道の三年生たちの雪辱を果たしてみせる。あの子たちの強さを証明できるのは、私たちにしかできないことだから。

 胸を張って強い決意をこめて、今ここで宣言しよう。 


「絶対に行く」
「絶対に行く」

 ふたつの声が重なって、お互いに目を丸くする私たち。 
 急に気恥ずかしくなって御幸君の顔をじーっと睨んだ。彼も少し照れくさそうにしている。

「……なんですか」
「……真似しないでよ」
「そっちこそ」

 今度は吹きだすタイミングまで同じだった。
 笑い上戸の御幸君につられて、私も声をあげて笑ってしまう。 
 御幸君はさりげなく手を差し出し、私は自然に握りかえして握手を交わす。私よりずっと年下のくせに、一回りも大きな手のひら。
 よく日に焼けて、無骨で、この手で瞬足の走者も刺してしまう。悔しいけど、かっこいい。
 私もこんな手のひらになりたかった。
 藤代監督や片岡監督のような──御幸君のような。
 努力の跡が残る手のひらに、私はこれから近づいていく。自分の手で、チームを支える。
 そして今度こそ、甲子園に行くんだ。
 みんなで、一緒に。 

 力強くぎゅうっと握りかえされて、触れている箇所からじわじわと熱が移される。電流が走っているみたいだ。手のひらも、心も、ビリビリと痺れている。

「まずはブロック予選ですね」
「あっという間に抽選会だからね。気合い入れいていこう」


 三年生たちの夏は終わったばかりだというのに、日が暮れたって暑い空気がグラウンドに熱を残している。 
 八月は始まったばかり。夏真っ盛りだ。
 それでも、新チームは秋へと向かって走りだす。

 ──いや、やっぱりまだ、終わってなんかいない。
 
 六年前の夏から今年の夏までずっと、長いながい旅が続いているような気がする。
 スタートの合図で走りだしてがむしゃらに前に進み続けて、旅のゴールに手が届きかけたこともあったけど、ゴールを見失ってからはふらふらと寄り道ばかりをしていた。
 もう一度走りだす勇気が、私には無かった。
 神山野球部の仲間たちとも道は別れて、ひとりだけの旅路をまた全力で走って、肺も心臓も燃えるように熱くなって、転んでも自力で立ち上がって、また走って、走り続けて……。
 それでもゴールにたどりつけなかったら──と考えると、怖かった。
 でも、臆病で寄り道ばかりしていた私は、青道野球部と出会って、彼らの背中に導かれるように再び走りだした。
 広げた地図には進むべき道も、正しいルートも、なにひとつ描かれていない。描いてあるのはゴールの場所だけで、この旅路にとって地図はなんの役にも立たない紙切れだ。

 道は選手たちが切り拓く。
 私は、彼らの後ろ盾になってみせる。
 ゴールという名の甲子園に、必ずたどりついてみせる。


 そして、甲子園でプレーする選手たちの姿をこの目に焼きつけるその日まで、私たちの夏は終わらないから。