×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -







24 もし一つだけ、叶うとしたら


 優勝祝いのために依頼していたケータリングは、みるみるうちに温度を失って乾いていく。
 部員たちはお腹を空かせているはずだろうけど、ごちそうを目の前にしても食欲は舌から蒸発して消えうせている。
 食堂内はまるでお通夜みたいだ。
 こんな状況になるのも無理はない。 
 彼らは数時間前まで西東京大会決勝戦を、一点差でむかえた九回裏、ツーアウトまで稲実を追いこんでいた。
 念願の甲子園出場まで「あとアウト一つ」まで差し迫っていたーーはずだった。

 帰校後に部員全員が食堂へと集まったものの、三年生は泣き続けて誰も食事に手をつけることができない。
 それは下級生たちも同様で、みんな唇を噛みしめて泣くのを堪えながらうつむいていた。 
 私は、涙が止まらない三年生たちを前にしてかける言葉も無く、黙って見ていることしかできずにいる。なにもできない歯がゆさに、噛んだ唇が痛む。
 慰めの言葉も、労いの言葉も見つけられない。彼らを励ます言葉が見つからないほどに頭の中がぐちゃぐちゃのまま、ただ突っ立っているだけ。
 顧問としての体裁を保つために、冷静さを取り繕おうと必死に涙をこらえるので精一杯のありさま。 
 ただただ、泣き声と鼻をすする音だけが聞こえる。重々しい沈黙の時間だけが、流れていくだけだ。
 結局、誰もまともに食事に手をつけることなく「準優勝祝賀会」は、早々に解散となった。

 ここ最近はデータ分析で残業が続いていたし、今日はいつもより早く帰宅するようにと、高島先生から念を押されている。 
 本当は「優勝祝賀会」のあとに夜は指導者だけで祝い酒を酌み交わす「予定」だった。
 予定は所詮、予定でしかない。

 (……あれは)

 重たい沈黙が垂れこめる監督室から早々に抜け出して、室内練習場を通りすぎるところでベンチに人影を見つけた。鼻をすする音だけが聞こえてくる。おそらく、三年生の誰かだ。 
 静かに近いづいて影の正体を確かめる。

「……水分摂らないと、脱水症状になっちゃうよ」

 目の前の自販機でスポドリを買って、伊佐敷君のそばに置く。
 それを挟んで、私もベンチに腰かけた。
 彼はうつむいたまま、押し黙っている。 
 私も無性に喉が渇いていたので、バックから飲みかけのスポドリを取り出して一口飲んだ。球場で買ったものだから、生温くて美味しくない。べっとりとした甘ったるさがのどに張りつく感覚が不快だ。

「……みょうじ先生は、どうやって乗り越えたんですか」  

 沈黙を破って、投げかけられた質問。 
 「なに」を乗り越えたのか。
 伊佐敷君ははっきりと主語を口にしなかった。言葉にしなくてもわかってしまうから、改めて尋ねる必要もない。

「私はね、いまだに六年前の決勝戦で負けたこと、乗り越えられてないんだよね」

 これが本音で、正直な答えだ。 
 伊佐敷君には今の私がちゃんと「過去を乗り越えられた大人」に見えていることが、少しだけ嬉しく思う。 
 重たくて暗い視線を、真正面から受けとめる。こんなあいまいな答えで君は納得してくれるはずがないって、わかってるよ。

「いくら時間が経ったって、決勝戦で負けた事実は変わらないでしょ」
「……」
「私はいまだにね、青道の逆転サヨナラホームランがバックスクリーンに飛びこむ光景ばかり…...何度も繰りかえし夢に見る」

 伊佐敷君の表情がますますどんよりと曇る。
 本来なら明るく前向きになるようなアドバイスとか、励ましに言葉を選ぶべきなんだろうけど。 
 私だってまだあの夏の後悔も未練も昇華しきれないせいで、神宮の、あのベンチの片隅に「十七歳の亡霊」を置き去りにしたまま。 
 あの夏を乗り越えられる方法があるなら、私に教えてもらいたいくらいだ。

「……最悪っすね」
「きっと一生夢に見るんだろうなって思ってる」
「野球が……嫌いにならなかったんですか」
「嫌いというか……視界に入れられなかった。野球を見ると、どうしてもあの決勝戦のこと思いだしちゃうから」

 重たい沈黙がカーテンのように降りてきて、私たちの間を隔てる。 
 次に伊佐敷君がどんなことを訊いてくるのか、ぼんやりと想像しながら屋根と屋根に挟まれたせまい夜空を見あげる。雲のすきまからチラチラと星が見えた。頼りない、小さな光。夏の星ってなんだかぼんやりしている。

「そこまで落ちこんだのに、どうして青道の顧問になれたんですか」
「大学四年の時にたまたま高島先生を紹介してもらって、そのまま流れで青道に採用されることになってね」
「へぇ」
「本当は野球部の顧問なんてやるつもりなかったけど、高島先生に引きづりこまれて……いつの間にか落ち着いちゃったんだよね」
「自分たちを負かしたチームで顧問やるとか……俺じゃ考えらんねーっす」

 語尾からかすかな苛立ちを感じとる。 
 伊佐敷君の言うとおりだ。
 私だって、引退した直後に青道で働く自分の姿など考えもしなかった。考えられるはずがなかった。

「青道に入った理由はね、もう負けたくなかったからなの」

 「負け」というフレーズに、伊佐敷君の肩がピクリと反応する。今一番聞きたくないフレーズなはずだ。瞬時に複雑な心中を察する。
 私だって同じ痛みを知っているから余計に辛い。錆びたブリキのように、胸は鈍く軋む。 

「最初は採用試験を辞退しようと思ったけど、高島先生に『あなたがいま逃げ出したら、また青道に負けるってことと同じ』だって言われたの」
「……あの人えげつないこと言いますね」
「私も腹が立って『青道に二度も負けるつもりはありません』って勢いで言っちゃってさ。野球部の顧問だって半強制的に就任させられて、最初はしんどかったけど……君たちに出会ってから、気持ちが変わっていったんだ」
「俺たちが、みょうじ先生の気持ちを変えたんすか」

 伊佐敷君はもたげた首を持ち上げたて、私の目の中に光を探す。 
 悔しさと悲しみでぐちゃぐちゃな心の中に、優しくてあたたかな感情流れこんで交わる。
 君たちが教えてくれた新しい感情が、見せてくれた景色が、与えてくれた目標が、今の私を形作っているってーーちゃんと伝えたい。

「才能もあって体格にも恵まれている選手が多い環境で、『誰よりもうまくなりたい』『試合に出たい』『甲子園に行きたい』って、毎日必死に努力している君たちの姿を見て……あの夏、青道に勝てなかった理由がわかったような気がしたの。私たちには、足りないものがたくさんあった」

 強ばった表情をほぐすように、やわらく笑ってみる。
 きっとぎこちないかもしれないけど、笑っていないと泣いてしまいそうだから、無理にでも笑顔を作った。

「甲子園に行けなかった悔しさは、きっと一生乗り越えられないと思う。でも、君たちが私を変えてくれたおかげでまた野球に向きあうことができたの。何度だって甲子園に挑んでやるって、もう覚悟は決めたよ」
「…...みょうじ先生は強いっすね」

 伊佐敷君は薄い笑みを浮かべて、また視線を足元へと落とす。 
 私はスポドリを一口飲んだ。彼は差し入れたペッとボトルに手をつけようとしない。

「私は強くないよ。諦めが悪いだけ。甲子園に未練があるから、今また野球と向きあってる。だから、伊佐敷君も悔しいなら……諦めなくていいんだよ」

 ペットボトルを掴んで、伊佐敷君の顔の前に差しだす。
 伊佐敷君は少しためらいながら、それを手にとった。まるでバトンを渡しているみたいだ。 
 私が藤代監督から「熱」をもらったように、私の「熱」が伊佐敷君に届いたら……バトンのように繋がったら、いつかきっとーー。

「俺はもう引退したんですよ……諦めるしかないじゃないっすか」
「甲子園は選手じゃなきゃ目指せない、ってわけじゃないでしょ?」

 その証明が私であり、高島先生や太田部長ーーそして、片岡監督でもある。 
 伊佐敷君の曇っていた瞳に光が差しこんだ。 
 選手の視野を広げるのも顧問の役割でもある。落ち込んでいる選手の前では、私も少しは顧問らしくありたい。

「でも、どうしても辛ければ野球から離れたっていいし、自分が納得できるまでとことん野球と向きあったっていいんだよ。伊佐敷君がどちらを選択しても、私は応援する」
「……俺は」
「私だって野球と向きあうのに六年もかかったんだもん。伊佐敷君がこれからどうしていきたいかは、ゆっくり考えればいいよ」

 伊佐敷君はなにか考えこむように、むっつりと押し黙る。
 今、彼の頭の中ではどんな光景が広がっているんだろう。脳内の真っ白なキャンバスに思い描くのは過去か、それとも未来かーー。

「……もし今、一つだけ」
「うん?」
「もし今、一つだけ願いが叶うとしたら……みょうじ先生は、なにを願いますか」

 それは試すようなまなざし、すがるような声。
 伊佐敷君は「正しい答え」を欲しがっている。
 だけど、残念ながら私には彼の望むような「模範解答」はできそうにない。

「んーそうだな……。今一つだけしか叶えられないなら、私は願いを選べないかな」
「なんで、ですか」
「私は欲深い人間なのよ。神山野球部で甲子園にも行きたいし、青道野球部で甲子園にも行きたいし。それに宝くじを当てて億万長者にもなりたいし、結婚だってしたい……!」

 話しているうちにいつの間にか立ち上がり拳を握って、演説口調になってしまっていた。最後の願いは切実すぎて鼻息が荒くなった。
 そんな私の様子を、伊佐敷君は目を丸くして見上げている。

「私は欲張りだから、今一つしか叶わない願い事なんて決められないよ。それにね、神さまに願い事するのも祈るのも、試合中だけって決めてるから」

 よく日に焼けした顔へ、にっこりと笑いかけてもつられて笑うこともなく、足元へと視線が沈む。
 私も伊佐敷君へ、同じ問いを差し出す。

「もし今、一つだけ願いが叶うとしたら、伊佐敷君はなにを願う?」

 問いかけに、答えは返ってこない。
 そんなの答えるまでもないし、答え合わせをするまでもないことだ。
 私はさっき「願い事は決められない」と建前を言ったけど本音を言えば、一つだけ、ある。
 私も、伊佐敷君も、同じ答えを胸の内側に持っている。まだ心臓で熱く脈打っている、一つのだけの願い。
 それは二度と叶うことのない、願い事。


「……さてと、私はそろそろ帰ろうかな」

 しばしの沈黙の後。
 うつむいたまま思いを巡らせる伊佐敷君のそばを離れ、バス停へと歩きだす。
 さっきはつい声をかけてしまったけど、彼にもひとりで考える時間が必要だ。今晩くらいは一晩中、泣き明かしたっていいだろう。

「……みょうじ先生!」

 掠れた声に呼びとめられて、足が止まる。 
 伊佐敷君はずんずんとこちらへ歩みよってきて、目の前でぴたりと止まって「ありがとうございました!」と言って深く頭を下げた。

「俺たちのために頑張ってくれて、本当に……ありがとうございました」
「……伊佐敷君」
「これからはアイツらのこと……後輩たちのことを、よろしくお願いします」

 ピシッと伸びた背筋で深々とお辞儀をする。 
 こんな時でも後輩たちのために頭を下げる伊佐敷君の姿を見ていたら、我慢していたはずの涙がほろほろとあふれだして止まらなくなってしまった。 
 涙腺が決壊した顔を見られたくなくて、後ろ手を振ってバス停へとふたたび歩きだす。
 涙でにじんだ帰路をたどりながら、繰りかえし記憶に刻み続けた。

 一球一打に、輝きを放った選手たち。
 ひたむきに声援を送り続けたスタンドの応援団。
 青道が勝ち越した、あの瞬間。
 サヨナラ負けの場面。
 そして、三年生たちの泣き崩れる姿を。

 私は生涯この悔しさを、忘れることはできない。
 それでも、悔しさに打ちひしがれても立ち止まっている時間なんてないんだ。 
 前へ進むーーそれがたとえ茨の道だとしても。
 私たちがたどりつくのは、天国という名の「甲子園」か…...はたまた地獄だろうか。 
 今はまだ活路が見えない。でも、選手を導くのは私たち指導者だ。

 「私にしかできないこと」は、まだ無い。
 でも、「私にだってできること」は、たくさんある。

 携帯電話の明かりが眩しくて、目の奥に沁みる。 
 藤代監督に話したいことがある。それと、お願いしたいことも。 
 液晶にぴったりと耳をつけてコール音を聞きながら、まずはなにから話そうかと思いを巡らせた。