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23 エンドロールで終わらせないで


 
 まばゆいコバルトブルーの青空には、白く大きな入道雲が立ち昇っている。
 真夏の太陽がジリジリと肌を焦がし、南風が巨大なバックスクリーンの上を吹き抜けて主催の新聞社の社旗、国旗、東京都高野連の連盟旗をはためかす。

 ねっとりと湿度の高い空気がぴったりと肌に張りついて不快だ。額ににじむ汗を何度ぬぐったかわからない。

 スコアボードで確認すると、試合時間は二時間を超えていた。今が日中で最も気温が高くなる時間帯。
 携帯で新宿区の天気を確認すると、すでに気温は三十二度を超えているらしい。人工芝のグラウンドの温度はおそらく四十度は上回っているはず。

 スタンドでじりじりと日差しに焼かれながら、息の詰まるような蒸し暑さに体力を消耗するのもかなりしんどい。
 それでもグラウンドで戦っている選手たちは、もっとずっとしんどいはずだ。

 野球の神さまに祈り続けてはいるけど、青道のチャンスは初回以後、なかなか巡ってこない。 

 稲実エースの成宮鳴は、さすが関東No.1サウスポーといわれるだけあって、ストレートも変化球もキレている。
 これまで見てきた投球の中でも、今日がベストピッチングだろう。
 青道の攻撃はあと二イニングしか残されていない。
 しかも八回は下位打線からチャンスを作らなければならないから、頭を抱えたくなる。
 二点差の展開でクリーンアップに打席が回るのは、おそらくあと一回。
 それを考えると、この八回に少なくとも同点まで追いつかなければ──勝負が決まりかねない。

「……神さま」

 きつく結んだ指が食いこんで痛むけど、そんなこともお構いなしに祈り続ける。
 勝つための準備はしてきた。
 今の私にできることがあるとすれば、野球の神さまに祈りを捧げ、選手たちを信じるだけ。

「この回が降谷君からでよかったわ。左打者だと成宮君を捉えるのは、より難しくなるから」

 厳しい表情を浮かべた高島先生は、細い指先で眼鏡のフレームを押しあげる。 
 緊張感で張りつめた私を見かねて声をかけてくれたんだろうけど、彼女も私と同じくらいに緊張していた。さっきから眉間のシワは深まるばかりだ。

「降谷君は物怖じしないタイプですからね。成宮君が相手でも自分のバッティングをしてくれるはずです」

 そう言った矢先に、キンッと弾けるような打球音が響き、じっとりと重たい空気を切り裂くようなライト前ヒットを放って降谷君が出塁した。 

 打席のあいだ止まっていた息を吐きだすのと同時に、全身にブワッと汗が噴きだす。
 ゾクゾクとした興奮が皮膚の内側を走り、鳥肌が止まらなくて腕をさする。
 
 先頭打者が出塁すれば、四割ほどの確率で得点できる可能性があるのだ。
 このチャンスを生かせば同点まで追いつくのも夢ではない。

「沢村君かぁ」
「送るわね」
「送りますね」

 予想どおりに沢村君の送りバントが華麗に成功し、一死二塁。 
 次は九番の白州君。
 彼は打率が悪いから九番に置かれている選手ではない。
 本来なら六番あたりを打ってもいいくらいの選手だけど、片岡監督は彼に下位打線と上位打線をつなぐ役割を任せている。下位打線で出塁できた場合、チャンスを上位打線まで繋ぐことができれば大量得点の可能性が高まるからだ。 
 白州君は器用な選手なので、ヒットはもちろん、四球を選ぶことも、犠打で走者を送る技術もすでに身につけているし、守備も安定しているのでライトのスタメンも任されている。
 御幸君や倉持君の影に隠れがちだけど、とても優秀な二年生だ。

「ここはできればエンドランを仕掛けたいですね」
「白州君なら必ずバットに当ててくれるはずだから、エンドランの可能性は高いわね」

 そして案の定、降谷君はスタートを切り、白州君は右方向へ強い打球を飛ばす。
 鋭いバウンドはファーストの山岡君のミットを弾き、カバーに回ったセカンドの平井君が体制を崩しながら送球するも、打者走者の白州君は間一髪でセーフ! 
 
 青道スタンドから地響きのような歓声が沸きたつ。リードされている青道を後押しするように、高校野球ファンも熱っぽい拍手をグラウンドへと送ってくれる。
 私も手のひらが真っ赤になるほどに拍手をして、降谷君と白州君を心の中で称賛した。 

 これで降谷君も三塁に到達して、状況は一死一・三塁。白州君は大事な同点の走者だ。 
 
 さて、ここからどうやって走者を動かして得点につなげるか。 
 神宮球場の興奮のボルテージがジリジリと高まるのを肌で感じる。
 グラウンドの選手たちの緊張と観客たちの期待と不安が空気に混じって、静電気のように帯電しているみたいだ。

「強行してゲッツーになってしまうのだけは避けたいですよ」
「それを考えると、犠牲フライかスクイズの可能性が高いわね」
「ワンアウトを引き換えにしても一点とれるし、ツーアウトになっても二塁なので一打同点の可能性もありますからね」

 ネクストバッターズサークルから右打席へと向かう倉持君の背中を見送る。
 この回にあえて右打席を選択した意味は、もしかしたら──。

「カウントが1-1になりましたけど、動きがありませんよ」
「まだ打者有利なカウントよ。いくらでも仕掛けられるわ」

 その「仕掛け」がなんなのか、私にはまだ読めない。先行きのわからない不安で、背中に噴き出す冷や汗でシャツをしっとりと湿る。
 震える両手を握りしめ、野球の神さまへ願いを。どんな形でもいいから、まず一点が欲しい!

 成宮君が投じた三球目。
 降谷君が投球と同時にスタートを切り、スクイズを読んだウエストボールが外角高めに投げこまれる。
 倉持君は打席から勢いよく身を乗りだし、かろうじてバットにボールを当てた。打球はファールになり、すぐさま降谷君が帰塁する。

「……す、スクイズ」
「放心してる場合じゃないわよ。片岡監督は三回目もいくわ」
「……スリーバントスクイズ……」

 なぜ倉持くんがあえて右打席に入ったのか、ここでようやく理解ができた。
 右打席の方が左腕の成宮君の球筋がよく見える。タイムリーヒットの可能性を捨て、確実にスクイズを決めるための作戦だった。

 でも、もうスクイズは読まれている。
 それでも、最後のチャンスで倉持君はスクイズを決められるだろうか。
 プレッシャーに押し潰されてしまわないだろうか。それともそのプレッシャーごと跳ねのけてくれるだろうか。
 自問自答の答えは──圧倒的に後者だ。

「あ、当てたァァァ!」
「よく当てたわ、倉持君!」

 成宮君の投じた四球目は外角低めの難しいコースだったが、バッタースボックスから低く身を乗りだした倉持君は、きっちりフェアゾーンに打球を転がす。 
 二回目のスタートを完璧なタイミングで切っていた降谷君も、間一髪でホームに生還!
 
 青いメガホンが頭上に掲げられ、歓喜の雄叫びとともに勢いよく打ち鳴らされる。 
 その光景はまさに、あの夏にベンチから見あげた青い海原そのもので。青い波のうねりが神宮球場全体に広がり、青道カラーに染めていく。
 あの夏、あんなにも憎かった青が、今はこんなにも愛おしい。 
 一塁側のスタンドを見渡せば、青道の味方がこんなにもたくさんいてくれる。観客の声から、拍手から、勇気がもらえる。心が、震える。
 グラウンドの選手たちもきっと──いや、絶対に同じ気持ちだろう。
 
 打者走者の倉持君はアウトになったけど、これで二対三と点差は一点に縮まった。 
 状況はツーアウト二塁。
 青道のチャンスはまだ続いている。

「小湊君は送りバントさせますかね」
「小湊君は小湊君だけど、どうやら打席に立つのは弟の方みたいね」
「えっ、あ、ここで代打!?」

 予期せぬ采配に目を疑いたくなるが、打席に向かっているのは背番号19番──小湊春市君。
 場内アナウンスも代打を告げている。

「確かに春市君は代打に出れば打率十割ですもんね。彼に賭ける価値はある」
「彼がヒットを打ってくれれば同点に追いつくわ」

 しかし、兄の亮介君の負けん気の強さを考えれば、彼も打席に立ちたかっただろうと心中を察する。
 最後までグラウンドに立てない亮介君の悔しい心情が、手にとるようにわかる気がした。 
 それにしても、こんな重要な局面で抜擢される一年生の春市君も大したもの。彼の一打に勝負を預けた片岡監督の期待はとても大きい。
 相棒の木製バットを携えて、兄と仲間たちの期待を背負い、春市君が打席へと向かう。

 成宮君は、あえて木製バットを選んだ春市君に腹を立てたのか、マウンドから見下ろすように彼を睨みつけている。
 なんて高慢な態度だろう。成宮君のマウンドでの仕草や態度を見ていると、スタンドからでも自信に満ちていることが見てとれた。 

 投手としては小柄な身体ではあるが、成宮君の持つ「投手としての才能」が全身からほとばしっている。
 野球の神さまから愛された才能と並々ならぬ努力の結晶が、成宮鳴という投手を構成している。
 あの完成度でまだ二年生とは末恐ろしい。 
 
 打席に入った春市君はベースに被さるように構えた。
 あの立ち位置は、内角を攻められたらデッドボールになりかねないし、腕をきれいに畳まないと打つことが難しい。
 お願いだから怪我だけはしないでよ、と心の中で呪文のように唱えて、祈りの形に指を結ぶ。 
 
 成宮君はセットポジションからストレートを投じた。
 内角に差しこむようなまっすぐの軌道を描く投球に、春市君は迷いなくバットを振りぬく。
 
 (──ヤバイ、あのコースは詰まる!)

 嫌な予感が頭上から足の爪先まで、電流のように貫く。 
 しかし、春市君は瞬時に左足を開き、スクエアスタンスからオープンスタンスへと構えを変えて、インコースへとしっかりボールを呼びこんだ。 
 パキッ──と乾いた打球音を響かせ、バットは折れながらも振りぬいた勢いで打球はレフト前へと運ばれ、ポトリと落ちた。

「うわァァァ! また打ちましたよ! すごい!」
「ふふふ、監督の期待にしっかりと応えたわね」

 一塁上で不器用に赤面ガッツポーズを掲げる春市君に、ベンチとスタンドから称賛の拍手が鳴りやまない。 
 険しい表情を浮かべていた高島先生も、頬を赤らめて手を叩く。
 私は何度も、すごい、すごい! と同じ言葉を繰りかえしてしまう。
 興奮すると極端に語彙力が低くなるのは、私の悪い癖だと自覚しているのだけど簡単に治せるものじゃない。

 さて、ここからが青道自慢のクリーンアップだ。この勢いに乗って連打が出れば逆転できる。

 (伊佐敷君、頼んだよ!)

 ここは野球の神さまではなく、打席に立つ伊佐敷君へと念を飛ばす。 
 成宮君をなかなか打ち崩せずにここまできてしまって、今頃さぞ殺気だっていることだろう。
 伊佐敷君が打席で吠えるたびに、なにか起こる予感がして期待で胸が高鳴る。 
 2-0と打者有利なカウントからたて続けにストレートがファールになって、ボールカウントは2-2になった。
 追いこまれて打者に不利なカウントになってしまい、固唾を飲んでさらに強く、つよく祈る。  

 (どんな形でもいいから、結城君まで繋いで!)

 必死の祈りが届いたのか、伊佐敷君は四球を選び出塁した。
 思わず目頭が熱くなって、唇を噛んで涙があふれるのを堪える。
 タイムリーを打てば今日のヒーロー間違いなしのこの場合で、伊佐敷君は振りたい気持ちを抑えて四球をしっかりと選んだ。
 ハートは熱く、頭は冷静な判断ができている。本当に頼もしい三年生だ。 
 そして、八番から回してきたチャンスは四番の結城君へと繋がっていく。

「結城君、打てるよ!」

 つい夢中になってしまって、大声で叫んでしまう自分がいる。 
 だって今、「甲子園」の残像が確かに見えたのだ。
 深緑のバックスクリーンが、球場を包むような銀傘が、遠くの空まで伸びあがる金管楽器の音色が、黒土の美しいグラウンドが、目の奥にはっきりと見えた。

 結城君は、絶対に打つ。打ってくれる。
 ──そして、青道が甲子園へ行く。

 予感が確信に変わった、六球目。
 成宮君が投じたのは、山なりの弧を描くチェンジアップ。結城君のきれいなフォームが崩れる。
 ヤバイ! と思うのも束の間だった。
 呼吸するのも忘れて、結城君のバットが弾いた打球の行方を追いかけると──低い弾道が右中間を真っ二つに破った。

「うっ……うわァァァ! 逆転タイムリーツーベース……!!」

 二塁走者の春市君まで生還し、八回になってついに、ようやく──青道が逆転した。
 
 スライディングの勢いで二塁ベースに立った結城君が、眩しくて目を細める。 
 ベンチに向けてガッツポーズを掲げる姿を見ていたら、いつの間にか涙腺が決壊していた。涙が次から次へと頬を滑り落ちていくのが止められない。
 試合中に泣いてしまった私の背中を、高島先生は咎めることなくそっとさすってくれた。

「勝負はまだまだこれからよ」

 ほろほろと頬をつたう涙を拭いながら、うんうんと頷く。 
 感極まりすぎて声が喉で詰まってしまう。嬉しい、うれしい。同じ言葉ばかりが脳内をぐるぐると巡る。 

 続く五番の増子君は初球を打って、センター方向へライナー性の打球が飛んでいく。
 伸びのある打球はヒットになると思いきや、俊足の神谷君が落下点に追いついて捕球。
 スリーアウトになり、八回の攻撃が終了した。
 
 球場が揺れるほどの大きな拍手と歓声が、ベンチへと帰ってくる結城君と増子君に注がれる。
 ベンチの選手たちもふたりを囲むように出迎えた。あちらこちらでハイタッチが交わされている。 
 いわゆる野球でいう「流れ」が青道にきている。スタンドとベンチの雰囲気の良さが、なによりの証拠。 
 あとはこの流れを最後まで青道が握り続けることさえできれば──。

「得点した後の守備はきっちり締めたいですね」
「沢村君ならテンポ良く投げてくれるわ」

 逆転して迎えた八回裏。
 七回裏に1イニングを投げた沢村君が、回を跨いで続投するらしい。
 ちょっと危なっかしいところはあるけど、沢村君になら託せる。
 青道の逆転を招く良い流れを持ってきてくれたのは、間違いなく沢村君のピッチングだった。
 
 先頭打者の山岡君は詰まりながらもレフト前ヒットで出塁し、無死一塁になってしまう。
 八回の先頭打者を出塁させてしまい、ざわつく胸の鼓動を必死で抑えながら七番平井君の打席を見守る。山岡君は脚が速い選手ではない。点差も考慮すれば送りバントをしてくるのは予想がつく。 

 そして案の定、三塁方向へバントをしてきた。
 打球の勢いや方向からして二塁で刺すのは難しいと思いきや、マウンドから駆け下りた沢村君が増子君を制して素早い二塁送球を投げる──判定は二塁アウト。

 沢村君の身軽なフィールディングに拍手を贈りつつ、増子君と沢村君が接触しかけた瞬間を思い出すと嫌な汗が噴き出す。
 そうは言っても二塁でアウトがとれたのは大きい。 
 八番の梵君の打席は、御幸君が一つ牽制を挟んだあとの初球を打ち、5−4−3の併殺打でテンポよくスリーアウト。

 先頭打者に打たれた時は焦ったものの、無事に無失点で抑えることに成功してホッと胸を撫で下ろす。 
 青道スタンドからグラウンドの選手たちへ「青道」コールがフルボリュームで送られる。
 ベンチへと全速力で帰ってくる選手たちを鼓舞するように、何度も繰りかえされた。

「沢村君が投げるとグラウンドの雰囲気が明るくなりますね」
「彼の底ぬけの明るさにチームが引っぱられているみたいだわ」

 長野でも無名だった沢村君を連れてきた高島先生の先見の明には、本当に驚かされる。
 つい最近まで投内連係も危なっかしかったというのに、沢村君の急成長ぶりは本当にすごい。 
 彼には経験や実績は無かったけれど、それを凌駕する「努力の才能」があった。
 毎日、雨の日も風の日も、朝から晩までタイヤを引いて走っている沢村君の姿を見ない日は、一日たりともなかったくらい。
 私が想像していたよりもずっと速いスピードで、沢村君は成長していた。
 そして、今この瞬間にも彼は成長し続けている。  

 (──さて、御幸君は出塁できるかな)  

 九回裏、青道の攻撃は六番の御幸君から。
 彼の応援歌「狙い打ち」がアップテンポに演奏される。 
 御幸君は走者がいると集中力が増すクラッチヒッタータイプ。先頭打者としての期待値は低いけど、残り1イニングを残して一点リードだけでは心もとない。なんとしても出塁してもらって一点でも多くリードを広げておきたいところだ。
 
 初球は落差のあるフォークを空振り。
 よし、それでいい。初球から積極的に打ちにいく姿勢がバッテリーにプレッシャーを与える。 
 二球目、緩急を生かして投じたストレートを打ち、鋭い打球はライト線を破った。

「ランナーいなくても打てるじゃん……!」

 盛りあがる青道スタンドの雄叫びにまぎれて、高島先生の吹きだす声が聞こえた。たぶん私と同じことを考えていたのだろう。
 
 こうして遠目から眺めている分には、御幸君も「かっこいい」とか「イケメン」に分類されるタイプなんだなと、しみじみと実感する。 
 彼は走攻守で存在感を放っているし、なおかつ顔も良いのだから、時おり高校野球誌に「イケメンキャッチャー」と取りあげられるのも頷ける。

 こうしてスタンドとグラウンドに分かれ、フェンスで隔てられているこの距離感であれば「御幸一也」を冷静に見つめることができるのに。彼はふとした瞬間にパーソナルスペースを詰めてくるので、時々まっすぐに目を見ることもためらってしまう。
 
 だって、私にとって御幸君はあまりにも眩しすぎる。彼は私も他の選手たちにも持っていないものを、たくさん持っている。 
 それが羨ましくて、妬ましくて──どうしても、憧れてしまうのだ。  

 続く降谷君はヒッティングで右方向へ進塁打を打ち、一死三塁とチャンスメイクができた。 
 ここで稲実は二回目の守備のタイムをとり、マウンドの成宮君を囲むように輪が広がる。
 片岡監督も沢村君を呼びよせて言葉を交わしていた。あの会話で指示された作戦は、おそらく……。

「スクイズですね」
「間違いないわ」  

 沢村君はなぜか初球を打ちにいって、スクイズを予想していたスタンドを騒つかせた。
 しかし、二球目はきっちりスクイズを仕掛け、三塁走者の御幸君は完璧なスタートを切った。観客の驚いた声がドッと沸き上がる。
 打球の勢いはころせているが、コースは投手の前に転がっていく。成宮君が素早くマウンドから駆けおりて、捕手の原田君へとグラブトスを試みる。

 (──御幸君、突っ込め!)

 御幸君の本塁突入と成宮君のグラブトスはほぼ同時に重なって、砂埃が舞いあがった本塁付近の状況が、スタンドからではよく見えない。

「セーフだ!」

 無意識に願望を叫んでいた。
 セーフであってほしい。強い思いがいつの間にか口をついて飛びだしていた。
 球審が高々と拳を掲げる。 

 判定は──アウト。

 ため息を吐き出したくなる衝動を抑えつけて、歯を固く噛みしめる。
 成宮君はピッチングだけではない、フィールディングも超一級品なのだ。マウンドから駆け降りてトスするまでの動作には、無駄な動きがひとつもない。 
 後続も連続で三振に倒れ、青道の九回の攻撃が終了した。 
 
 本来ならもっとリードを広げてから九回裏を迎えたかったところだけど、成宮君のピッチングを見ていたらそんな贅沢なことも言えない。 
 それどころかよく四点もとったものだと胸を張りたい心持ちで、九回裏の守備に勢いよく散っていく選手たちの背中を見送った。

「あとアウト三つで甲子園……!」

 藤原さんの興奮で震えた声が耳元まで届き、後輩マネージャーたちも高揚した表情で頷いている。 
 そう、あとアウト三つで私たちが勝つ──そして、青道が甲子園へ行ける。 

 (でも、六年前の夏、私たちは三つ目のアウトをとれずに──負けた)

 あの夏、神山高校は二十七個目のアウトをとれずに、サヨナラ負けをして甲子園出場を逃した。 
 逆転サヨナラホームランがバックスクリーンに吸い込まれた、あの瞬間の絶望をどうしても思いだしてしまう。
 身体に力が入らなくて膝から崩れ落ちて、頭が真っ白になりながら泣きつづけた感覚を、今も生々しく覚えている。 
 
 嫌なイメージを振りはらいたくて頭を振ってみるけど、脳裏にこびりついた悪夢の残像はなかなか消えてくれない。
 どうして今、あの夏を鮮明に思い出してしまうのだろう。どうしてこんなにも不安が身体の芯から沸き上がってくるのだろう。  
 その理由を探るために稲実側のベンチを見やると、国友監督と選手たちの醸しだす雰囲気にスタンドからでも気圧された。
 
 『絶対に甲子園は譲らない』
 
 そんな強気なオーラが立ち昇っている。
 この威圧感のある雰囲気は、六年前の青道と似ていた。 
 青道の血の気が多くて野心的な選手たちが目の奥を光らせていた姿と、稲実の選手たちの放つ鋭利で高圧的なプレッシャーは、よく似ている。

「みょうじ先生、顔色が悪いわ。熱中症かしら」

 高島先生の声でハッと我にかえる。
 伏せていた顔をあげると、長いまつ毛に縁取られた目と視線が交わった。
 額からこめかみへと汗が流れる感覚が気持ち悪くて、ハンカチで拭う。それでもとめどなく噴き出す汗。
 私の第六感が叫んでいる。なにか嫌な予感がする、と。

「大丈夫ですよ。水分はちゃんと摂ってますから」
「それならいいけど。あと一イニング、しっかり見届けるわよ」

 余裕の無さはすぐに見抜かれてしまう。
 高島先生にも、御幸君にも。 
 
 スタンドからもっとも離れた場所。
 キャッチャースボックスにいる御幸君を見つめる。
 キャッチャーマスクとサングラスに覆われた彼の表情は見えない。
 御幸君は今、どんな表情をしているのだろう。いつもの余裕ある勝気な笑顔だろうか、それとも緊張感の張りつめた顔だろうか。

 私の不安をよそに、九回のマウンドにも登板した沢村君はテンポよくツーアウトに打ちとって、正真正銘の「あとひとつ」まで稲実を追いこんだ。
 
 全身がドクドクと激しく脈打つ。
 「甲子園に行ける」と確信する手ごたえが、六年前の決勝戦と同じ感覚で、生々しく手のひらによみがえる。

 「あとひとつ」からほとんど、まばたきも、息も、できなかった。

 沢村君が白河君に頭部へのデッドボールを与え、臨時代走で神谷君が塁上に立ち、そこで投手交代。
 継投のバトンは川上君へと繋がった。
 川上君は吉沢君に四球を与え、二死一二塁。

 四番の原田君にはセカンドへの内野安打を放たれ、二塁でアウトを取ろうとして──セーフになってしまう。 
 その間に神谷君が激走し、本塁へ生還。
 九回裏二死走者なしから、土壇場で同点に追いつかれてしまった。

 (──そうだ、この感覚は「あの時」と同じ)

 嫌な予感が全身を貫き、全身の震えが止まらなくなる。
 稲実の逆転を期待する観客の声援や手拍子が、まるで地鳴りみたいに足元を揺らす。
 土壇場で振り出しに戻されてしまった絶望で、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐えていた、その瞬間だった。
 
 五番 成宮君の一振りが歓声と悲鳴を起こし、私は声を失ってその場に立ち尽くす。
 ライナー性の打球がぐんぐん伸びて、野手の間へ飛んでいく。打球はセンターの遥か頭上を越えて──右中間を深く切り裂いた。
 走者が拳を突き上げながら、本塁を踏む。

 逆転、サヨナラ──。 

 マウンドに歓喜の輪が広がる。
 それは思い描いてきた青道のではなく、稲実のもので。 
 私は呆然としたまま、スコアボードを見上げる。
 
 四 対 五
 
 稲実の一点リードで終えられている、それ。  
 静まりかえる青道スタンドからは鼻をすする音と、泣き声が聞こえてきて、耳を塞ぎたくなる。ため息をつく声と、咬みころした嗚咽がベッタリと耳に張りついて、頭の中が真っ白に染まる。

「……どうして……」

 さっきまで青道がリードしていたのに土壇場で試合がひっくり返されてしまった。
 それもたったの数分で。こちらに考える時間すら与えてくれない猛攻。気持ちを立て直す前に逆転されていた。
 私の中の時計は、まだ九回の裏、ツーアウトの場面で時間が止まっている。高島先生も同じように言葉を失ったまま、その場に佇んでじっと泣き崩れる選手たちを見つめている。

 試合終了の挨拶を終えた選手たちは青道スタンドの前までやってくるけど、その足取りは重たい。
 途中で泣き崩れて足が止まる三年生がほとんどで。選手たちは泣きながら頭を深く下げて、なんとか応援のお礼の挨拶を済ませた。
 その場で膝から崩れ落ちる三年生たちが、地面に顔を伏せる。

 スタンドの至る所から咽び泣く声が聞こえる。
 声を枯らして応援し続けた控え選手と、抱きしめ合って涙を流すマネージャーたち。
 選手たちの家族と父母会の皆さん、OBOGと後援会の方々。
 懸命にチームを鼓舞してくれた吹奏楽部とチアリーダーの生徒たち。
 誰ひとり青道の勝利を信じて疑わなかった──つい、さっきまでは。
 
 (稲実にあって、青道に足りなかったもの。稲実が優っていて、青道が劣っていたこと)

 (どうして稲実が勝って、青道が負けたんだろう)
 
 どこか他人事のように、閉会式をぼんやりと眺める。 
 稲実の選手たちには、優勝旗と金色のメダルが授けられた。あの夏、青道の選手たちの胸で輝いていた、忌々しい金色。今はえんじ色で刺繍された「INASHIRO」の上で、強い日差しを反射して堂々と輝く。 

 青道の選手の胸には、銀色のメダルをかけられた。結城君の腕には、準優勝の盾が抱かれている。
 神山が準優勝した時と同じ、準優勝の銀色。傾きはじめた日差しを反射して、鈍く光っている。

 三年生たちは涙を流しながらも、歯を食いしばってまっすぐに前を向く。時々、俯いたまま肩を振るわせる選手の姿に、胸のうちが掻きむしられる。ただひたすらに、辛いだけの時間が流れていく。
 
 そんな光景を見つめながら、稲実との差についてずっと考えこんでいた。
 打線も守備のレベルも互角だったことは間違いない──でも、負けた。
 青道と稲実の差は、いったいなんだったのか。

 (……成宮君、か……)

 たった一人で九回を投げて四失点したものの、試合を作ったエース。
 なおかつ、自ら逆転サヨナラタイムリーを放った五番打者としての打力も兼ね備えていた。 
 
 エースの成宮君を筆頭に個性的で能力の高い選手が集まり、国友監督の的確な采配でしっかりと統率も取れている稲城実業。 
 それに対して、打線、守備のレベルは全国クラスでも、エースが怪我から復帰した直後で投手陣は万全な状態ではなかった青道。
 
 冷静に振りかえってみると、両校の戦力の差はハッキリとしていた。 
 そして、私自身に足りていなかったことにも気づかされる。
 相手校の分析にばかり偏って、青道の選手たちのことをちゃんと理解できていなかった、ということに。 

 私の予想を超えて、好投してくれた一年生の降谷君と沢村君。
 結城君は、私が「捨てた方がいい」といったチェンジアップを見事に打ってくれた。 
 逆に、亮介君は怪我が原因で途中交代したという裏事情は、さっきベンチから伝えられてはじめて気がついたことだった。 
 
 試合映像を見たり、スコアから数字を拾ってきたり、データ分析は確かに重要なこと。
 でも、そのデータを活用するのは選手たちであって、その選手たちへの理解が疎かになっていれば、本当の意味でチームに必要なデータが提供できない。
 なんでこんな大事なことに、もっと早く気づくことができなかったんだろう。  

 『今さら後悔したって遅いよ』
 
 耳元で声が聞こえたような気がして、顔を上げる。
 聞こえたのは、『私』の声。 
 一塁側のベンチ、その片隅を見ると、十七歳の姿のままの『私』が佇んでいた。
 その姿はまるで亡霊のようで、悲しげに首をもたげている。前髪の隙間から泣き腫らした目が覗き、切なげなまなざしと視線が交わった。  

「……成仏しそこなちゃったね」

 誰にも聞こえないような小さな声で亡霊の『私』に語りかける。

 (私たちはまたここに戻ってくる。今度こそちゃんと成仏させてあげるからね)

 そう心の声で語りかけると、亡霊の『私』は肯定も否定もせずに、煙のように消えてしまった。 
 今度こそ、と言ったその「今度」は、いつになるだろう。 
 また途方もない努力を積み重ね、激戦のトーナメントを勝ち上がれなければここまでたどり着けない。
 ここからまた一年後か、五年後か──はたまた十年後か、もっと先の未来だろうか。
 
 (──上等だよ。何度だって、何十回だって、挑んでやる)
 
 まっさらな手のひらを、ギュッと握りしめる。
 チームにも自分にも足りないものを、この手で補ってみせる──絶対に。
 三年生たちの号泣する姿を見つめながら、その覚悟を静かに、青く燃やし続けた。