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19 夢見るころを過ぎたとしても


 
 もうダメかもしれない、と何度もおもった。

 薬師高校との準々決勝は、十三時に試合が始まった。
 試合開始のサイレンの直後に、先発の降谷君は一番轟君と二番秋葉君に二連打を浴び、初回からあっさりと先制を許してしまった。
 ノミの心臓の私は初回から危うく卒倒しかけたけど、なんとか持ちこたえて試合は六回表まで進行している。

 先発の降谷君から継投し三回途中から登板した沢村君は、三巡目から継投の予定を変更して轟君との第二ラウンドを迎えていた。
 ボールカウントは0-2と打者が有利な状況で、インコース高めの釣り球を強振し、ボールは高々とレフト上空へと打ち上がる。

 (深い打球だけど……取れるかな!?)

 フェンスのすぐ手前まで下がっていた降谷君が、さらに後ろへと下がり落下地点に入ったかとおもいきや、打球はフェンスの外へと落ちて、弾んだ。

「……ツ、ツーランホームラン……」

 全身から冷たい汗が噴きでる。バクバクと脈打つ心臓が痛い。
 隣の高島先生も言葉を失っている。
 インハイを無理やり打った詰まった打球だと、きっと誰しもがそうおもっていた。それでも打球はスタンドまで届いてしまったのだから、沢村君が酷く動揺するのも想像できる。
 しかも彼にとって公式戦の初失点がホームランとなれば、そのショックは私たちの想像以上かもしれない。
 ただの傍観者の私でさえ胃はキリキリと痛むし、なんなら吐きそうだ。胃の中には胃液と不安が入り混じって、パンパンに膨らんで迫り上がってきた。

 沢村君は絶対にもっと辛い。
 でも、マウンドでは逃げも隠れもできない。
 彼にとっては譲りたくない場所なのだろうけど、きっと今のマウンドは上手く息も吸えないし、腕が重たく感じるだろう。目には見えないプレッシャーが、沢村君の肩にのしかかっている。

「うっ……吐きそうです」
「今は吐いてる場合じゃないわ。そのまま飲みこみなさい」
「……ハァイ」

 配慮のかけらも含まれていない高島先生のセリフに、素直に従って唾を飲みこむ。
 スタンドからはマウンドの沢村君へ「腕振れ!」「深呼吸しろ!」「とにかく落ち着け!」と叱咤激励の声が飛ぶ。
 ただ、その励ましの声が沢村君まで届いていないように見えるのは、おそらく気のせいではない。
 私は無意識に手を握り締めて、野球の神さまに祈るポーズで沢村君を見守る。
 轟君に豪快なツーランを打たれた後に、ピッチングを立て直しながら上位打線を抑えなければならない。打順の巡りは最悪だ。轟君が走者を一掃した後にも、再び上位打線でチャンスを作りやすい。
 気温はジリジリと三十二度まで上昇しているが、背中を伝うのは不快な冷や汗。
 不安な気持ちを抱えながらグラウンドを見つめるが、後続がヒットで出塁し、四球であっという間に一死一・二塁になってしまう。
 ……また胃液が迫り上がってきた。

「やっとここで川上君ですか……予定では三巡目から継投でしたよね?」
「沢村君が想像以上に好投してくれたから、替えづらかったのかもしれないわ」

 準備投球を投げこむ川上君を横目でチェックしながら、声を潜めて前夜のミーティングの内容を確認するけど、やはり私の記憶違いではないらしい。
 確かに、沢村君は轟君も抑えてテンポの良いピッチングで試合を作っていた。
 この回は一死二塁とはいえ、点差は四点あった。
 一番、二番と左打者も続くし、左腕の沢村君との相性が良いことを鑑みれば、続投も勝負を選んだのも、納得の選択だった。
 ただ、私たちの想像を超えたのは、土壇場でチームバッティングを仕掛けてきた薬師の対応力と、轟君の恐るべき打力の高さだ。

「……さ、さんてんめ……いってんさ……」
「しっかりしなさい! あなたが選手を信じてあげられなくてどうするの!」

 丸まった情けない背中をバシッと叩かれて、反射的に背筋を伸ばす。
 隣に高島先生がいてくれて良かった。そうでなければ、私はその場にへたりこんでしまっていただろう。
 川上君の立ち上がりは、四球とセンター前への適時打で一点差に詰め寄られる厳しい内容だ。まだ一つのアウトも取れていない。
 しかも、走者二塁・三塁とピンチは続いているし、二塁走者まで生還すれば逆転を許してしまう。
 観客たちは市大三戦と同じく、薬師の逆転劇を望んでいるかのように薬師コールをグラウンドへと送っている。非常に嫌な雰囲気だ。
 まさに青道がヒールで、薬師がベビーフェース。
 多くの高校野球ファンは、劣勢かと思っていたチームが下馬評を覆し、大金星を成し遂げるような波乱が起きることを楽しんでいる。
 ーーこれが、強豪校の宿命なのだろうか。
 神山高校での現役時代に味わったものとはまた違ったプレッシャーを、全身でひしひしと感じる。

 グラウンドでは片岡監督が前進守備の指示をだし、御幸君も同じく野手陣へと指示を飛ばすために声を張り上げている。
 もう一点も許さないことを強気なシフトで示すと、後続をサードライナーで打ち取り瞬時に三塁へ触球、ライナーバックの間に合わなかった三塁走者もアウト。
 薬師の怒涛の反撃も、増子君のファインプレーでやっと終わった。ふーっと止めていた息を吐きだす。

 (……本当に、ほんとうに長い攻撃だった……)

 六回裏は、結城君のソロホームランが飛び出し再び二点差に引き離すと、七回は両チームとも無得点に倒れた。
 八回表は、先頭打者の轟君を歩かせ、バスターエンドランを仕掛けられて無死二塁のピンチを背負う。
 二番秋葉君はセカンドへの進塁打を放ち、一死三塁となった。この場面なら、内野ゴロでも犠牲フライでも得点ができる。
 私の心臓もそろそろ悲鳴を上げそうなほどに激しく脈打っている。いつ止まってもおかしくない。喉もカラカラに渇いているのに、水を飲む余裕すら無い。
 それほどに、グラウンドから目が離せないのだ。

「ここでもまた前進守備……!」
「一つのアウトと引き換えに一点を差しだせるような相手ではないからね」

 内野手が前へ迫りだして打者へプレッシャーをかけるけど、三番三島君の打球はセンター前へと抜けて、轟君が生還。再び一点差になってしまった。
 あまりにも息詰まりすぎて、声も出せずに唇を噛んだ。今の私には、グラウンドで戦う選手たちを信じることしかできない。
 続く四番山内君の打球は右中間へと飛ぶが、これをセンター伊佐敷君がダイビングキャッチ。素早く一塁へ送球し、飛び出しかけていた一塁走者を刺そうと試みるがセーフ。
 これで二死一塁だ……やっと息ができる。

「伊佐敷君、ナイスキャッチー!」
「ランナーは刺せなかったけど、一塁への送球は良い判断だったわ。さすが伊佐敷君ね」
「周りがよく見えてますね。さすが三年生ですよ」

 こうして野手陣が盛り立ててくれるんだから投手陣も心強いだろう。
 だけど、今日の川上君の調子はあまり良くなさそうではある。球数もかさんできたし……心配だ。
 続く五番福田君もライト前へヒットを放ち、二死一・三塁とピンチが続く。
 ここでベンチが動いた。ブルペンからマウンドへと、丹波君が駆けていく。

「丹波君、本当に投げるんですね……大丈夫でしょうか」
「川上君も本調子ではないし、ここから先はエースの丹波君に懸けるしかないわ」

 チャンスに強い六番真田君の場面で、丹波君がマウンドへ。
 全身に武者震いが走り、鳥肌が立つ。
 片岡監督も生粋の勝負師だ。一打同点の最大のピンチで、怪我から復帰したばかりのエース丹波君を投げさせようとしている。
 しかも、この夏の初登板だ。
 もしここでエースが打たれたら、青道は……
 興奮して震える手を、強く強く握り締める。  
 野手陣の「おおおお」「守り抜くぞ!!」「打たせてこい!」「らああねじ伏せろ!」と丹波君の背中を押す頼もしい声に、自然と背筋が伸びる。手だけではなく、心まで震える。

 (……あぁ、やっぱり高校野球っておもしろい)

 こんな時に不謹慎かもしれないけど、この緊迫した真剣勝負にワクワクしてしまう。
 丹波君は二球で真田君をツーストライクに追いこむと、ここで初めてカーブを投じるが、低くワンバウンドになってしまう。
 ヤバイ、後逸する! と思った瞬間、御幸君はとっさに右腕でボールを受け止めた。ゴクリと息を飲む。
 口から飛び出しそうになった心臓をなんとか抑えこんだ。
 そして、丹波君は再びカーブを投じると、今度はきっちりとストライクゾーンへと投げ込まれた。真田君はまったく手が出ずに、見逃し三振!

「うわぁぁぁ丹波君ナイスピッチ! 御幸君ナイスリード!」

 ガッツポーズを決めたバッテリーを、無意識に大きな声で労っていた。
 一瞬、スタンドを見上げた御幸君と目が合ったような気がして、ニヤリと擬音が聞こえてきそうな笑顔をむけられる。
 ……さすがに声が大きすぎたかもしれない。隣で高島先生もクスクスと肩を震わせて笑っている。
 その一方で、青道スタンドは今日一番の盛り上がりで、ベンチへと帰ってきた選手たちを盛大な拍手で出迎えた。

 ーーさぁ、ここから反撃開始だ。
 八回裏の攻撃は、青道打線が真田君を攻めたてる。
 先頭打者の小湊君のサードのミスを誘う絶妙なセーフティーバントで出塁。
 結城君のショートへの強襲ヒット、増子君のレフト前へのタイムリーヒットと、御幸君のセンター前へ抜けていく連続タイムリーヒットで、リードは三点差になった。

 援護を貰った丹波君は、九回表も続投。
 順調に二死まで打ち取るが、サードゴロがイレギュラーバウンドし、増子君が打球の処理に手間取る間に打者走者は一塁へ滑り込みセーフ。一番轟君の前に走者を出してしまった。

「三点のリードもあるし、ここは勝負ですね」
「ここで轟君も抑えられれば、丹波君の自信にもなるわ」

 九回表、二死一塁。
 最終局面で迎えるのは、薬師最強のスラッガー轟君。
 ホームランを打たれれば、また一点差に詰め寄られてしまう。
 そんな緊迫した場面なのに、もう動揺はしない。
 私が選手たちを信じた分だけ、彼らが期待に答えつづけてくれたから。もう不安は一ミリもない。

 試合終了のサイレンはまだ鳴っていない。
 でも、もうすでに確信している。
 私たちがーー青道が必ず勝つと。

「お、落ちた!? あれはカーブ……じゃなくてフォーク……ですよね!?」
「この場面のためにフォークを隠してたのね。さすが御幸君だわ。こんな緊迫した場面でフォークのサインを出すなんて……」


 丹波君の投じた最後の一球は、カーブとは違った軌道を描いて御幸君のミットに届いた。
 轟君を打ち取るために最後の最後までフォークを隠していた、御幸君の計算高さに腰を抜かしそうになる。
 改めて御幸君は敵に回したくない選手だと実感しながら、試合終了のサイレンに耳を澄ませる。


 また一つ勝って、そしてもう一つの夏が、終わった。



* ・ * ・ * ・ *



「お疲れさま。今日もナイスリードだったね」
「みょうじセンセーもお疲れさまです。ずいぶんげっそりしてますね」

 ダウンを終えた選手たちが場外へ出てくるのを出迎えつつ、それぞれに労いの言葉をかけているところに御幸君が近づいてきた。この様子だと普段どおりで特に異常はなさそうだ。
 それでも確認しなくちゃいけないことがある。

「こんな試合展開ならげっそりもするよ。それより右腕は大丈夫? ボール止めた時に痛がってたけど」
「あれぐらいどーってことないですよ」
「ちょっと見せて」
「みょうじセンセー……今日はやけに積極的ですね」
「……殴られたくなかったら早く腕をだしなさい」
「ハイ」

 真顔で詰めよれば渋々と右腕を差し出してきたので、そっと触りつつ腫れや熱がないか確認する。
 御幸君も未成年とはいえど、さすが青道の正捕手だ。しっかりした骨格にしなやかな筋肉がまとっていて、ガッチリとしたたくましい腕をしている。
 念のために腕を曲げたり手をグーパーを動かしてみても、痛がるそぶりもないし、彼の言うとおりやはり特に異常はなさそうだ。

「とりあえず……大丈夫そうだね」
「だからどーってことないって言ったじゃないですか」
「それを確認したかったの。特に痛みもないならよかった」
「みょうじセンセーは心配しすぎなんですよ」
「選手の心配するのも私の仕事なの」

 ほっと胸を撫でおろしながら御幸君の腕を解放すると、今度はなぜか私の腕が掴まれる。
 この行動は予想していなくて虚をつかれてたじろいでいると、やわやわと二の腕を揉まれる。

「は、ちょ、なにすんの!」
「みょうじセンセーの腕、細いですね。ちゃんと飯食ってますか」
「余計なお世話よ! あ、汗かいてるから、離して!」

 ものすごく動揺したせいで声が掠れてしまって恥ずかしい。
 それ以上に、試合中に冷や汗をかきまくった腕を触られてしまったショックが大きい。絶対に汗でベトベトしていたはずだ。
 御幸君はあっさりと掴んでいた腕を解放して、なぜかニヤッと笑っている。
 私は彼のこの笑顔が苦手だ。何を企んでいるのか予想できなくて、胸がざわざわするから。
 怯んでわなわなと震えている私に、御幸君は信じられない発言をする。

「みょうじセンセー、二の腕のやわらかさって胸と同じだやわらかさだって知ってました?」
「……信じられない! ふざけんな! 最低! 今すぐ忘れなさい!」
「はっはっはっ」
「笑ってごまかすな!」

 御幸君はあとでゆっくり説教することにしてーーそれはさておき、青道高校は無事に準決勝進出を決めた。

 準決勝の対戦相手は「大巨人」という二つ名を持つ真木投手を擁する仙泉学園高校。
 高身長から投げおろされるストレートとカーブの精度にはプロも注目しているらしい。
 好投手攻略のためにはじっくり試合映像を観察する必要がある。まだしばらくは寝不足の日々がつづきそうだ。

 (……甲子園に行くためなら、寝不足くらいなんてことない)

 帰りのバスに揺られながら座席に深く身を預けているうちに、とろりとした眠気がやさしくまぶたを縫いつける。

 短い眠りのあいだに、私は夢を見た。


 ーーそびえたつバックスクリーン、深緑のスタンド、浜風にはためく大会旗、大きな銀傘。
 
 そして、美しい黒土のグラウンドで青道の選手たちがプレーをする姿をーー。