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1 タイムマシンをぶっ壊せ


 
 眩しすぎる夏空に、打球を弾いた甲高い金属音が響く。
 高々と舞い上がった大飛球は、センター方向へグングンと伸びていく。
 私は無我夢中でベンチから身を乗りだして、打球の行方を目で追いかける。あの打球を捕えれば、九回の裏が終わって延長戦に突入だ。

 私たち都立神山高校野球部は今、創部史上初の西東京大会決勝戦に進出し、そして甲子園初出場の頂点に手が届く一歩手前のところまできている。
 快足自慢のセンターが落下点まで全速力で駆けていく。バックアップのレフトとライトも後を追いかけて必死に走り、スタンドから歓声と悲鳴が入り混じったBGMのボリュームが上がる。
 いつの間にか止まっていた息が、ふっと漏れだすと同時に、握りしてめいたペンが手の中からするりと滑り落ちた。音を立てて転がったはずなのに、その落下音は耳に届かない。
 球場内の音が一瞬、潮が引いたかのように遠くなる。
 見上げた空の太陽が眩しすぎて一度まばたきをした、その瞬間……


 ──白球は美しいアーチを描いて、バックスクリーンへと飛びこんだ。


 二塁塁審は、腕を高々と掲げて回す仕草を何度も、何度も繰り返す。
 

『逆転サヨナラホームランだ!!』


 観客の誰かだろうか、それとも一塁側のベンチの誰かがそう叫んだ声が、確かに私の耳まで届いた。はっきりと、そう聞こえた。
 青い海原を思わせるようなスタンドが大きくうねり、地面を揺らすような雄叫びと黄色い歓声が湧き上がって、足元がすくわれてよろめく。


 胸元に抱き寄せていたスコアが、音を立てて落ちた。







「…………っは、」

 視界いっぱいに広がるのは、あの日の夏空じゃなくて、仄暗い天井。灰色に青を混ぜて、限りなく透明に近づくまで薄めたような、朝の色。
 カーテンの隙間から差しこむのは照りつけるような夏の日差しじゃなくて、柔らかな春の日差し。ひんやりとした室温なのに、全身にはじっとりと汗をかいていて不快だ。
 枕元のスマホに手を伸ばすと、ちょうどアラームをセットした時間の五分前。

「よりにもよって、今日あの日の夢見るのか……」

 寝癖でボサボサの頭ががっくりとうな垂れて、朝一番から深いため息を吐きだした。気分はもう、最悪である。
 胃液が喉元まで迫り上がってくる不快感、全身が脱力するような倦怠感に襲われている。心臓がひりつくように痛むから「忘れろ、忘れろ」と自分に言い聞かせてもう一度、目を閉じる。今日はあの日じゃない。もうあれから六年も経っているというのに、いまだに夢に見るからタチが悪い。
 今日から新生活の始まりだっていうのに、幸先が絶望的に悪すぎて、そのまま二度寝したくなった。

 薄い水色のシャツに真新しいネイビーのスーツを羽織ると、まだ着慣れないパリッとした着心地に違和感を覚える。心がけるのは薄づきだけど粗を隠した自然な血色感の社会人メイク。胸の上くらいまで伸びた毛先は軽く巻いてハーフアップに括った。
 朝のニュースを横目でチェックしながらトーストにバターを滑らせて、コーンスープと一緒に食べて空腹を満たす。
 今日のために走っても疲れないと巷で噂のパンプスを下ろした。確かにほどよいクッションが利いていて、履き着心地は抜群に良い。
 就職祝いにとお母さんに買ってもらった通勤バックを肩にかけて、リビングにいる家族にも聞こえるように声を張って「いってきます」とあいさつも忘れない。
 家から歩いて数分の停留所から、バスに揺られて約二十五分、最寄りのバス停からまた歩いて五分。あっという間に目的地に到着してしまった。
 本来なら、自宅から勤務地が三十分ほどの距離にあるのは喜ばしいことなのだろうけど、今朝ばかりはもう少し時間をかけてたどり着きたかったなぁ……と弱気な本音が顔を覗かせる。

 校門には「青道高等学校」の校名看板が堂々と掲げられている。
 その文字を見て心臓のひりつくような痛みがよみがってきて、胸を押さえた。
 先日、満開を迎えた桜の木々、私の新たな門出を祝うようにその身を散らして、花を添えてくれているみたいだ。
 この門を一歩またげば、私は「向こう側」の人間になる。正直、気も足も重たい。
 脳裏には、またあの忌々しい青のユニフォームが浮上してきた。今朝見たばかりの夢のせいだ……胸糞悪い。

 もう何年も、何度も同じ、あの青色の夢を見る。夏空の青、向こう側のスタンドの青いメガホンの波、青道のユニフォーム。
 そして、グラウンドに泣き崩れる、チームメイトたちの姿。

「……諦めろ、私。他人と過去は、変えられない」

 今が早朝で良かった。独り言を言っても誰も聞いていない。
 ここから一歩、踏みだせば、私は青道高校の常勤講師になる。
 それなのに、私はいまだに青道高校が好きにはなれないし、なれるはずもなくて。
 それでも、それもたったの一年の我慢だ。
 夏には教採にもう一度チャレンジして、来春には念願の都立高校での勤務をスタートさせている……はず。

 ──もう、負けたくない。二度と。

 ここに来ることを決断したのは、その思いだけだった。
 今度は私が、青道を踏み台にする。
 そして、今度こそ私が夢を叶える番だ。 

 一歩、足を前へと踏み出す。
 追い風が桜の花びらを巻き上げながら、強く吹いて背中を押した。