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13 はじまりのファンファーレが聞こえる


 
 今ので何十回目の寝返りだろう。
 もやもやと悩んで考えこんでベットの中で転がり続けていたら、静まりかえっていた窓の外から新聞配達のバイクの走る音が聞こえてきた。
 漆黒に包まれていた室内がだんだんと薄明るくなってきて、暗闇に紛れていたインテリアの輪郭が浮かんでくる。
 ケチって遮光二級のカーテンを買ってしまったせいか、朝の光が布越しにもれでて、一睡もできなかったまぶたが眩しさのあまりズキズキとうずいた。
 もうどうせ眠れないかーーと諦めて薄く目を開くと、見慣れたあの色が広がっている。
 灰色と青色を混ぜて限りなく透明に近づくまで薄めたーー朝の色。

 結局、二十四時にベットに潜りこんでから七時間、うつらうつらするだけで夜が通りすぎてしまった。馬鹿か、私は。
 一晩中、悩みに悩んで、球場に行くべきか、教員採用試験に行くべきか、どちらが正解か決められなかった。

 もう一度言おう、私は馬鹿だ。


 朝ご飯も食べた、化粧もしたし、髪もとかした。服も着替えた、受験票も筆記用具もちゃんと準備した。あとは試験会場に向かうだけ。
 それでもまだ、足は玄関で止まったまま動けずにいた。私はこの期におよんでまだ迷っている。
 寝不足でぼんやりとした脳内に、昨日の夜の高島先生の言葉がよみがえる。

「明日は心配しなくていいわ。私たちはすべての試合に勝つと言ったでしょう。初戦は通過点なのよ」
 
 うっとりするくらい素敵な笑顔で、そう言って背中を押してくれた。片岡先生も太田部長も力強くうなずいてくれた。
 確かに高島先生の言うとおりだ。
 今日の初戦は油断さえしなければ、絶対に勝てる相手だ。偵察とデータ分析を手伝ったから、自分でもよくわかっている。
 夏に向けて鍛え抜かれた彼らにとっては、初戦はまだ前哨戦にすぎないのかもしれない。

 でも、今日は夏大の初戦だ。試合中になにが起こるかわからない。
 野球に限らずスポーツには、常に事故やケガのリスクも伴う。チームにもしものことがあったら、どうする。
 たった一点が足りないだけで、彼らの夏は終わる。勝ちと負けであっさりと区切られる。
 私の知らないところで「最悪の事態」が起こってしまったら……想像するだけで背筋がゾッとした。そんなの絶対に耐えられそうにない。

 でも、ずっと思い描いてきた未来には、いつの日か母校で教鞭をとる私の姿がある。
 尊敬し続けた藤代監督みたいに生徒たちを力強く導いていけるような、そんな先生になりたかった。
 その夢は今も変わらないし、夢を叶えるためには教採に受からなければならない。今の私はまだ、スタートラインにすら立っていないから。

 一度、深呼吸をする。
 ごちゃごちゃな思考をクリアにしたい。
 こういう時にぴったりな、いい言葉があった気がする。なんだっけな。私の好きな漫画の推しキャラが、悩める後輩にかけたセリフ。あのセリフに何度も助けられたことがあった。
 ……あぁ、そうだ、思い出した。
 
「考えられる選択肢を全て出して、一番最初に思いついたものをやればいい」

 声に出してセリフをなぞる。
 もう一度、深呼吸をして目を閉じた。
 昨晩、ベットに入って一番最初に思いついたのはどちらの選択肢だったか、記憶の糸を慎重に手繰り寄せる。

「なまえ、まだいるの? 時間は大丈夫なの?」 

 いつまで経っても「いってきます」が聞こえなくて、心配したお母さんがリビングから顔を出した。

「うん、大丈夫。まだ間に合うから」
「そう。気を付けてね、いってらっしゃい」
「よし、いってきます!」

 大丈夫、まだ間に合う。
 だって、今日も走れるパンプスを履いているし、寝不足の割には足取りは軽やかだ。
 玄関のドアを勢いよく開けて、駅までの道のりを走り出した。


・ * ・


 朝は六時に起きて軽く朝練をして、朝食後は試合対策の振り返りのためにメンバーのみでのミーティングを開いた。
 その後は試合の準備と道具類の積み込み、自由時間で各自調整を行い、早めに昼食を食べた後にはグランドインまでの流れを確認しておく。
 野球部専用バスに乗って球場まで移動できるのは、ベンチ入りメンバーの特権だ。
 動き出した車内を見渡すと、ベンチ入りメンバー二十人、監督に太田部長に礼ちゃん、記録員のクリス先輩、マネージャーの藤原さん、ボールボーイの二人で正座席がすべて埋まっている。
 やっぱり、あの人だけが乗っていない。

「ねぇ、礼ちゃん。朝からみょうじセンセーの姿が見えないけど、今日いないの?」

 隣の席に座っている礼ちゃんに、小声で話しかける。礼ちゃんは「気づいていたのね」と答えると、小さくため息をもらした。

「そうよ。今日は事情があって、みょうじ先生は球場まで来れないの」
「……夏大の初戦より大事な事情ってなんだよ」
「大人にもね、色々あるの。あの子だって本当なら試合に来たかったはずよ。悪く思わないであげて」

 礼ちゃんはそう言ってあの人を庇うけど、内心では不信感が募っていく。
 最近のあの人は、出会った頃より少しずつ変わってきていると感じていたのは、俺の勘違いだったのかもしれない。なんか騙されたような気持ちになって、モヤモヤとした感覚が脳内を曇らせていく。

 入部当初は眉間にシワを寄せて気難しそうな顔をよくしていたのに、最近はグラウンドを見つめる横顔が、以前よりずっとやわらくなった。
 野球部にだけ嫌悪感たっぷりな冷たい態度で接していたのに、最近は野球部員から話しかけられても普通に対応しているし、時おり笑顔すら見せるようにもなっていた。俺以外の部員に限るけど。

 礼ちゃんに頼まれてからは、試合の偵察やデータ分析にも積極的に参加するようにもなっていた。
 ビデオやノートパソコンと向き合いながら、投手や打者の傾向を探ったり、スコアから数字を拾ってデータ化したりと、ここ最近は練習後も遅くまで残ってクリス先輩と共に作業をしてくれていた。
 その賜物が手元で開いているデータブックだ。
 一球ごとの配球チャートには投じた球種、コース、打球の方向、カウント別のリードの傾向がまとめられている。どれも相手投手の攻略に役立ちそうなデータばかり。
 その他にも、打者の得意・不得意なコース、球種の一覧表や、バッターボックスでの立ち位置、タイミングの取り方、盗塁やエンドランを仕掛けてきやすい状況やボールカウントなどのデータがまとめられていた。
 これほどのデータがあれば、リードを考える時にも参考にできる。
 データブックの紙面には、クリス先輩の角張った几帳面な字と、あの人の丸っこくてなめらかな字が並んでいる。俺と話す時の態度に可愛げはないくせに、文字はかわいいんだよな、文字は。
 そんなことをぼんやりと考えていると脳裏に浮かび上がってくる、あの人の青白い横顔。

 そういえば昨日の夜も、みょうじセンセーの帰りは遅かった。
 今日の不在を心配してのことか、クリス先輩や礼ちゃんとの打合せが長引いているようだった。帰りがけに見かけたうつむく横顔には、疲労の色と目の下には隈がくっきりと刻まれていた。
 あそこまで疲れ果てる理由は、毎晩遅くまでデータブックを作ってくれていたからだろう。これほどのデータをまとめるために、いったい何時間を費やして、いくら手間をかけたんだろうか。
 そんなことを尋ねてみても、きっと「君はそんなこと気にしなくていいの」って、いつものそっけない口調で話す姿が想像できる。

 みょうじセンセーは俺から見ても不器用だし、愛想がないし、感情がすぐに顔に出るし、要領もそこまで良くない。
 今だに選手たちと微妙に距離を置いているのが、妙に腹立たしい。
 でも、そんなみょうじセンセーのことを、なぜか嫌いになれない。こんなの矛盾してるって、わかってんだけど。
 

「あれ……あの人、みょうじ先生じゃねーか?」

 寮からバスで十五分ほど走り、府中市民球場の駐車場にバスが到着した時、窓の外を眺めていた純さんが驚いて声を上げた。
 データブックに落としていた視線を上げて、窓の外を見る。他の選手たちも窓の外へと視線を向けると、そこにはなぜか仁王立ちをしてバスを待ち構えるみょうじセンセーの姿があった。

「あなた、こんなところでなにをやっているの!? 試験はどうしたの!」

 珍しく取り乱した礼ちゃんが、みょうじセンセーの肩を掴んで激しく揺さぶっている。
 無抵抗に揺さぶられているみょうじセンセーの顔には、今日もくっきりと隈が刻まれていた。
 どこからどう見ても寝不足の様子で、揺さぶりから解放されてもフラフラしている。
 俺はふたりから距離を保って、さりげなく聞き耳を立てる。

「あはは……家を出て気づいたらここに来てました」
「なに寝ぼけたことを言ってるの!? 今から向かえばまだ間に合うわ、急いで行きなさい!」
「試合と教採と、どっちが大事なのか散々悩みました。それでどうしたらいいのかわからなくなって、一番最初に思いついた方を選んだんですよ」
「……藤代監督みたいな先生になるのが夢だって、言ってたじゃない」
「今の私には、夢より目先の目標の方が大事だったんです。目指せ甲子園、です!」

 みょうじセンセーの言葉が、頭の中で反響している。
 今、「夢より目先の目標の方が大事だった」「目指せ甲子園」と、確かに言った。

 この言葉で、はっきりとわかった。
 みょうじセンセーも、俺たちも、根本は同じだったんだ。
 出会った時の第一印象と、顧問になってからも一定の距離を置かれていたせいで、みょうじセンセーは俺たちとは違うーーと、勝手に決めつけていたことに、たった今、気がついた。
 今までわかりづらかっただけで、みょうじセンセーと俺たちは「同じ目標」で繋がっていた。
 あの人は素直になれないだけで、本当はただの野球バカで、どうしても甲子園に行きたくてしかたないんだ。
 胸の内側で引っかかっていた疑念の糸が、ようやく解けた。脳内を曇らせていたモヤモヤが、一気に晴れていく。
 心の中に抱いていたかすかな苛立ちは、みょうじセンセーの言葉を聞いた瞬間にきれいに消えてなくなった。

 あはは、と気まずい雰囲気をごまかすように、みょうじセンセーは力無く笑う。
 明らかに無理をして空元気を装っているのがバレバレだ。
 不意に眠たそうな目と視線が交わる。
 さりげなく見ているつもりだったのに、いつから俺が見ていることに気づいていたんだろう。なんだか急に気恥ずかしくなってきて、頬が熱くなってくる。
 みょうじセンセーは力の抜けるような笑みを浮かべ、ひらひらと手を振った。

「おはよ、御幸君。遅くなっちゃってごめんね」
「おはようって時間じゃないですけど……本当にこっちに来て良かったんですか。今日は大事な用事があったはずですよね」
「……君はそんなこと気にしなくていいの」

 ほら、やっぱりな。
 こっちが踏みこもうとすると、そっけなく突き放してすぐに距離を取ろうとする。
 不都合なことがあると目を合わそうとしない。強がる時には唇を尖らせる。
 まっすぐにみょうじセンセーと向き合えば、今まで見えていなかった表情の裏側の感情まで見えてくる。
 少し素直じゃないだけで、きちんと正面から向き合えばわかりやすい人なんだ。

「みょうじセンセーの夢より、今日の試合の方が大事ってことでーー本当にいいんですね」
「そうだよ。だから今、ここにいるの」

 まっすぐに視線が交わる。
 迷いも悩みも映さない凪いだ黒い瞳が、きれいだ。

「ほら、私のことはいいから。早くアップ始めなよ」

 生気の薄い顔にこれまた薄い笑顔を張りつけて、手を払う仕草で追い払おうとする。
 人を邪険に扱う仕草にイラっとして、急に仕返しをしたくなった。

 白いシャツから伸びた細腕を掴んでこちらへ引き寄せると、いとも簡単によろけてきたから危なっかしい。
 みょうじセンセーは目の前で火花が弾けたみたいに驚いた表情をして、まばたきを繰り返す。
 さらりと流れる髪のすきまから覗く耳に向かって、こう言ってやった。

「その選択、絶対に後悔させませんから」
「……っ!」

 それだけ言い残して、その場から足早に離れて先にアップにしていた集団に混じる。
 さりげなく後ろを振り返ると、ムスッとした顔のみょうじセンセーが思いっきり俺を睨んでいて、思わず吹き出してしまった。

「オメー、またみょうじ先生に絡んでやがったな……」
「んな怖い顔すんなって、倉持クン」
「お前が無駄絡みすると、二年の印象悪くなんだよ! やめろ!」
「そんなこと気にすんなよ。どうせマイナスからのスタートなんだから、プラスにしかなんねーよ」
「これから夏大の初戦だっていうのに、ずいぶんリラックスしてるね? ここは寮の部屋じゃないんだけど」
「アップから集中しやがれ! 隙見せてんじゃねーぞバカヤロー!」

 倉持に肩を小突かれ、亮さんにチョップを落とされ、純さんに怒鳴られると、余計に身が引き締まった。公式戦慣れしている三年生たちも、さすがに夏大の初戦となるとピリピリしている。
 そんな雰囲気の中でも、増子さんは慰めるように背をそっと叩いてくれた。「気にするな」とフォローしてくれているだろう。増子さんは口下手だけど優しい人だ。

「三年生の仰るとおりだぞ、御幸一也! 油断大敵!!」
「沢村、人の名前をフルネームで呼ぶのやめろ。それと俺これでも一応、先輩なんだけど」
「……僕が先発なんですから、ちゃんと集中してください」
「降谷君、先輩にプレッシャーかけるのはやめよう?」
「ほーら、一年は御幸に無駄絡みすんなよ」
「大人しくしてねーと、純にまた怒鳴られっぞ」
「ムフーッ」

 波状攻撃のように沢村と降谷が突っかかってくるのを、小湊が抑え、楠木さんと坂井さんが間に入り、宮内さんがガードしてくれる。こういう時に頼りになる先輩方で、本当に助かっている。

「ーーこれで役者は全員揃ったな」

 ひとり黙々とストレッチをしていた哲さんが、おもむろに立ち上がった。
 哲さんの視線はみょうじセンセーの姿をしっかりと捉えている。

「今年の夏は、全部勝つ。今日はその大事な初戦だ。全員気合を入れろ」
「「「おぉ!!!」」」

 哲さんの静かだが意志のこめられた決意表明に、選手全員が声を上げて沸き立つ。
 こういう時に、哲さんには敵わないと実感する。
 哲さんは普段から口数は多くないが、その実直な人柄とプレーで立派にチームを引っ張っている。俺には決して真似できそうもない。

 場内から鋭い打球音が響いたと同時に歓声が沸き上がり、メガホンが打ち鳴らされ、ブラスバンドがファンファーレを奏でる。
 一試合目の盛り上がりを肌で感じて、自然と気持ちが昂ってきた。だんだんと俺たちの出番が近づいている。
 さっきまで頬を火照らせていた熱は、心臓へと移り、鼓動をもっと激しく熱くする。

 (……あー、早く試合してぇな)

 二度目の夏のプレイボールは、もうすぐだ。