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12 君の夏はまだ青いか


「なまえに手紙が届いてたわよ」
「え、誰からだろ」

 今日もサービス残業で遅くまでデータ分析に追われ、帰りのバスに飛び乗り帰宅しても、やさしい母は夜食の準備を進めてくれている。母親は偉大だ。実家ってありがたい。
 私宛に届いていた郵便物もご丁寧に食卓に置いてくれている。一人暮らしならポストを覗き忘れて数日は放置していたかもしれない。
 茶封筒を手に取って送り主を確認して、どっと汗が噴き出した。

「やばい、教採の受験票だ」
「来月試験なんでしょう。あんた、最近部活で帰りが遅いけど大丈夫なの?」

 電子レンジでチンしてくれたご飯とおかずが食卓に並べながら、母は心配そうな声で尋ねた。焼き魚の香ばしい匂いと白米のほんのりと甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
 すごくお腹が空いていたはずなんだけど、急に食欲がどこかへいってしまった。
 そういえば、ゴールデンウイーク中に教員採用試験に申し込んでたっけ。
 でも、あの後すぐに半強制的に野球部の顧問になってしまってからバタバタと慌ただしく、教採のことをすっかりと失念していた。もちろん、試験対策など全くしていない。
 びりびりと雑に茶封筒を空けて受験票を確認して、頭を抱えた。

「……マ、マジか……」

 一次の試験日、青道の初戦と同じ日だ……

「その様子じゃ大丈夫じゃなさそうね」
「大丈夫かどうかはわかんない」
「あんたの好きにしたらいいけど、仕事は安定してるに越したことないのよ」
「わかってるよ」

 ずずっと一口お味噌汁をすすると、どこかへいってしまっていた食欲が駆け足で胃の中へ帰ってくる。
 呆れと心配が入り混じった眼差しで見つめる母の視線をかわしつつ、どうやって高島先生にこの事態を説明しようかといくつものパターンを脳内で想定する。
 うーん、ダメだ。どれも成功しそうにない。

 と思って頭を抱えていたが、交渉は案外すんなりと成立した。

「そういうことなら試験を優先しなさい。監督には私から伝えておくから」
「えっ、行かせてくれるんですか」

 昨晩、悩みに悩んだ作戦を恐る恐る実行して、返ってきたリアクションはとてもあっさりとしていて腰が抜けそうになった。目くじらを立てて怒られることも想定していたのだけど。
 高島先生はいたって普段通りの涼やかな表情を保っている。今日も相変わらず、顔面偏差値73だ。

「だって、うちの採用試験を受ける前から、今年の教採を再受験するって話になってたじゃない」
「そういえば、そうでしたね」
「本音を言えばね、球場に味方は一人でも多い方が良いわ。でもね、これは貴方の人生に関わる試験なのよ。しっかり頑張ってきなさい」
「ありがとうございます」
「その代わり、一回戦の偵察とデータ分析は任せたわよ。あと、開会式の引率もね」
「……頑張ります」

 にっこりと微笑みつつ、結構重要な仕事を押し付けてくるんだから、やっぱりこの人は美しい人の皮を被った美しい悪魔だ。
 生まれたままでも充分に美しいくせに、また美しい人の皮を被る傲慢な悪魔に、私は今日も振り回される。


* ・ * ・ *


 西国分寺駅から中央線で中野駅まで出て、そこから総武線に乗り換えて信濃町駅で降りる。
 改札から出ていく大勢の球児たちの群れを眺めていると、これから開会式が始まるんだという実感が湧いてきた。球児たちの行進に紛れながら流れに身を任せて十五分ほど歩くと、神宮球場の巨大なバックスクリーンが見えてきた。
 ここまでの道のりも、このバックスクリーンを見上げる風景も、六年前と変わったところは一つも見当たらなくて。
 あまりにも当時のまますぎて、高校三年生の私と、青道の顧問になった私の視線が混線する。
 今、目の前に広がる光景すべてが、あの日の朝と同じ眩しさだ……なんだか、くらくらするな。

「みょうじセンセー、大丈夫ですか」
「ん、あぁ。大丈夫だよ」
「もしかして、熱中症とか」
「違う、平気だから。心配しないで」

 ぼさっと突っ立っている私を不審に思ったのか、御幸君に肩をポンッと叩かれてハッとする。列に遅れないよう小走りで最後尾へ追いついた。
 今日の私は、高校の制服じゃなくて、パリッとした白い半そでのワイシャツにタイトスカートを纏い、走れるパンプスを履いている。胸元には、もうあの赤いリボンは揺れていない。
 そうだ、今の私はとっくに成人して教師になって青道野球部の顧問なったんだ。神山高校野球部マネージャーで高校三年生の私は、もうどこにもいない。

 あの日の私は、六年前の夏の三塁側のベンチに置き去りにしたままで。今でもあの場所でひっそりと息をしている。

「懐かしいですか、神宮球場」
「まぁ、六年ぶりだからね」
「えっ、後輩の応援しに来たりしなかったんですか」
「うん。一回も来てない」
「みょうじセンセーって、結構薄情なんですね」
「うるさいよ!」

 御幸君は最近やたらとちょっかいをかけてくる。牽制のために睨みを利かせると、上手く視線を外してニヤニヤしているから余計に憎たらしい。
 しかし、神宮球場に来るのも本当に久しぶりなので、この風景が懐かしすぎてきょろきょろと忙しなく辺りを見渡してしまう。
 場内の売店も案外入れ替わったりしていないみたいだ。プロ野球選手とのコラボフードやドリンクは、やはり多少の入れ替わりはあるらしく、三年生の小湊君が伊佐敷君を相手に解説している声が聞こえてきた。
 夏風に乗って増子君のお腹が鳴る音もかすかに聞こえてきて、思わずクスッと笑ってしまう。ちょうどお昼時だし、私もお腹が空いてきたなぁ。
 選手たちは一旦ユニフォームに着替えるため、一同は一度外野席へと入場していく。
 スタンドへの入口には眩しすぎる日差しが斜めに差し込んで、灰色の床を白く焼いている。
 一瞬、スタンドへ入ろうとして自然と歩みが止まった。

 だって、六年ぶりだ。あの決勝戦以来の神宮球場。トラウマが足元に忍び寄って、あっという間に脳内まで蝕まれそうになってしまう。
 今の私は、あの頃の私じゃない。
 あれから六年も経ったのだから、きっともう大丈夫なはすだ。
 勇気を振り絞って顔を上げると、前に進んでいく選手たちの白いシャツが日差しに溶けていく。誰ひとり振り返らないから、なぜかその後ろ姿に震える心が救われるような気がして。
 重たい足が、途端に軽くなる。
 彼らの背中を見つめながら一歩足を踏み出して、私も日差しの中へ。

「うわっ、眩しいな」
「神宮の土と芝って、結構照り返すんだよね」
「観客の白シャツとか、うちわに反射する日差しも、結構眩しいですね」

 御幸君は眩しそうに目を細めて、グラウンドを一望した。私はその隣で大きく深呼吸をする。
 あまりの蒸し暑さと強烈な日差しに、額に汗が噴き出す感覚が不快だ。でも、神宮の風は時折少し強めに吹いて、前髪をさらっていくからすぐに乾きそう。

 (思っていたより、大丈夫だ)

 なにげなく空を見上げると、大きな入道雲と眩しすぎる太陽と、キャンバスを青の絵の具一色で塗りつぶしたような夏空が広がっている。
 最後の開会式の時も、今日みたいによく晴れて蒸し暑い日だったような気がする。
 まさか、六年経って青道の顧問として開会式に参加することになるなんて、あの頃の私には到底想像しがたいことだろうと思う。
 
「私、さっき一回も応援に来てないって言ったよね」
「あー、はい」
「あれね、正確に言うと『来れなかった』んだよね」

 私の不規則な発言に、御幸君は眉を寄せる。

「それはどういうことですか?」
「怖かったの。ここに来るのが」

 あれ、なんでこんなこと御幸君に打ち明けてんだろ。
 御幸君も「なんのことだかよくわからないぞ」って顔してる。
 私も話しかけておいてなんだけど、御幸君になにが言いたかったのか、なにを伝えたかったのか、自分でもよくわかっていない。
 その場の勢いだけで話しかけるんじゃなかったと、軽く後悔する。

「準決と決勝は神宮でやるんだから、ビビってる場合じゃないですよ」
「ふふっ、そうだったね。でもね、今は全然怖くないの。来てみたら思ったより、平気だった」
「そりゃ良かった」
「ありがとう。これも君たちのおかげかな」

 またここに来たら、あの夏に感じた胸を締めつけられるような苦しさと、悔しすぎて涙が止まらなかった生々しい記憶が、よみがえって足がすくむと思ってた。

 でも、実際はそうじゃなかった。 
 選手たちの背中についてきたら、新しい景色が見えた。 

 大嫌いだった青道のユニフォームを着た彼らが、神宮のグラウンドで堂々とプレーする姿がはっきりと見えた。
 投手はマウンドで躍動し、野手陣はバックを盛り立てて、扇の要には御幸君がいる。
 その光景には、不思議と違和感も苛まれてきた嫌悪感も感じない。
 真夏の日差しに熱せられた神宮の風が、よどんだ胸の内側を通り抜けて、心の中に不思議な爽快感を運んでくる。

 自然と目頭が熱くなる。涙の膜が色鮮やかな景色を揺らす。
 こんな爽やかな気持ちを、私はしばらくのあいだ、すっかりと忘れていた。
 選手たちが見せてくれる景色、教えてくれた新しい感情、与えてくれた目標。
 私は抱えきれない多くのギフトを貰って、どうやってこの子たちに返していけばいいんだろう。
 どうしたらこの子たちの積み重ねてきた努力が、きちんと全部報われるんだろう。

 私にはいったい、彼らのために何ができるんだろう。


「みょうじさん、始まるわよ」
「いよいよですね」

 私と高島先生は、外野席の荷物の見張りを藤原さんに託して、内野スタンドへと移動していた。
 開式までの間、スタンドで見かけた他校の指導者や、選手たちの所属していたチームの指導者を見つけては、私の紹介がてらに挨拶をして回っていたのだ。

 いよいよ開式の時刻になって、日陰になっている内野席を見つけ、ようやく二人並んで腰を落ち着ける。 
 席に着いたのとほぼ同じタイミングで、東京消防庁の音楽隊の演奏する「栄冠は君に輝く」と共に、選手入場が始まった。
 開会式は毎年、先頭に昨年夏の優勝校が入場する。
 西東京代表は稲城実業、東東京代表は帝東だ。優勝校の後に準優勝校が続いて入場してきた。
 目の前の光景に、ズクリと心臓の奥を深く刺された感覚がして、鈍い痛みに軽くえずきそうになる。

 (後輩たちにはあの場所を行進させちゃったんだ)

 後輩たちには、本当は二番目ではなく、準優勝杯ではなくて、優勝旗を持って先頭を歩かせてあげたかった。
 引退した翌年の夏は、準優勝に終わった強い後悔に苛まされて、後輩たちの入場行進を見られなかった。
 後輩たちはどんな想いで、二番目を行進したんだろうか。
 昨夏の準優勝校として、誇らしい気持ちだったのか。それとも、甲子園に行けなかった悔しさを抱えていたのだろうか。
 その答えは、今となっては確認のしようがない。


「ほら、見て。あの子たち立派だわ」
「そうですね。なんだか眩しいな」

 うつむいていた私の腿をパンパンと叩いて、高島先生は興奮気味にグラウンドを指差す。
 その先には、青道の選手たちの行進する姿。
 昨日、入場行進の練習をしたおかげか手と足がちゃんと揃っている。
 「イチ、二、イチ、二」の掛け声も元気よくここまで聞こえてきた。特に沢村君の声が大きく響いている。
 今日だってとても暑いはずなのに、沢村君はチームで一番元気いっぱいだ。
 選手たちの雄姿はばっちり写真と動画に収める。彼らの立派な入場行進を見たら、鬼の片岡先生も優しい表情を見せてくれるかもしれない。帰ってから片岡先生と太田部長に写真を見せるのが楽しみだ。

「開会式も久しぶりみたいね」
「えぇ、六年ぶりです。やっぱり、東西の全チームが揃うと壮観ですね」
「ここから甲子園に行けるのは、東西で一校ずつ。今年もハードな夏になるわ」
「百十八分の一かぁ。まったく、とんでもない競争率ですよね」
「今年こそ全部勝つわよ。だから貴方は来週の試験、頑張りなさいね」
「……はい」

 励ましのつもりの「頑張りなさい」は、プレッシャーがたっぷり含まれているように聞こえて胃に障る。
 すべてのチームが選手入場を終え、東西合わせて二百十六校が神宮のグラウンドに横一列で並び立った。その光景は、壮観の一言に尽きる。
 入場が終わった直後から、ヘリコプターのプロペラ音がだんだんと神宮へ近づいてくる気配を察知した。大掛かりな演出に思わず吹き出しそうになるのを我慢する。

 (高校一年生の夏、初めて開会式に来た時もびっくりしたもんなぁ)

 あっという間にヘリコプターは神宮の上空にやってきて、始球式用のボールをマウンドめがけて投下した。観客席から、ワーッと歓声が上がる。
 紅白の旗をはためかせながら、ボールは三塁付近に落ちた。

「あはは、この演出まだやってるんですね」
「えぇ、毎年恒例よ」

 会場に一笑いと拍手が起きた後、来賓やら連盟のお偉いさんの長々とした祝辞は適当に聞き流す。
 じっとりとした暑さに耐えきれず、タオル地のハンカチでにじむ汗を拭うと「あぁ、本当に夏がきたんだな」って実感した。

 私にとって四度目の夏が、はじまる。