どうして一番大事な時期に、最悪の事態は降りかかってくるんだろうか。
「ピンチはチャンスになる」だなんて、誰が言い出したのだろう。
青道にとっては、この状況は大ピンチでしかない。
エース丹波君の負傷は、突然の出来事だった。
先日、青道主催で行われていた稲城実業と修北との変則ダブルヘッターの練習試合。
事故が起きたのは、青道と修北との試合中だった。
修北の投手が投じたインハイは高く浮き、打席に立っていた丹波君のアゴに直撃した。
打席の中で倒れこみ起き上がれない丹波君の姿を見て、私は一瞬で頭の中が真っ白になった。
それは周りの人々も同じで、みな言葉を失って呆然としていた。
すぐさま丹波君の元に駆けつけた片岡先生の指示に従い、私はグラウンドに居残って選手たちの面倒を見ることに。
私は上手い励ましの言葉も見つけられず、心配と不安に俯く選手たちのそばにいることしかできなかった。
事故の瞬間を目撃した選手たちも酷く動揺したはずなのに、私は動揺を悟られないようにすることで精一杯だった。教師以前に、大人失格だ。
「あ、やぐらが出ました」
「とりあえず十部くらい印刷してもらえるかしら」
「承知しました」
十八時頃から都高野連のホームページを開いて、数十秒ごとにF5ボタンを連打し続けていた。
そわそわと落ち着かない指先で『第89回全国高等学校野球選手権大会西東京大会抽選結果について』のリンクをクリックし、PDFを開く。
やっとお出ましになったやぐらの大きさと細かさには、毎年心底げんなりするのはもはや恒例行事だ。
西東京だけでも百十八校のチームが出場し、ノーシードからだと七戦連勝、シード校でも六戦連勝しなければ甲子園切符は掴めない。西東京の頂点は、頭上よりも遥かに高いところにある。
でも、六年前の夏、神山高校野球部は破竹の勢いで六連勝し、西東京の頂点に手の届く、あと一歩のところまで登りつめたのだ。
決勝点のホームランさえ無ければ、甲子園に行っていたのは私たちだったのに、どうして、
ピーピーピー
コピー機がトレイが空っぽになったと主張する鳴き声で、急に意識が戻ってきた。どうやら数十秒ほど、ぼーっとしていたらしい。
いけない、いけない、やぐらを印刷している最中だった。
A4用紙の束を空のトレイに突っこみ、残りの用紙を吐き出しきったコピー機をそっと撫でる。
印刷したやぐらを先生たちに配布すると、私も紙面に視線を落とす。
とりあえずシード校の青道は置いておいて、母校の神山高校がどの位置にいるのか確認のために、目を皿のようにする。
ふいに高島先生の細指が私の持っているやぐらの、青道の少し下のところを指した。……んん、嫌な予感がするぞ。
「ここよ。順当にいけば四回戦で対戦するわ」
「ゲッ、本当ですね」
高島先生は私より先に神山高校を見つけたらしく、ご丁寧に対戦予想まで添えて教えてくれた。
しかも、神山と対戦するであろうチームの地力から予想すれば、神山は四回戦まで順当に勝ち上がれそうな感じである。
ということは、四回戦で青道 vs 神山の再戦が現実となってしまうわけだ。
まぁ、お互いに順当に勝ち上がることができれば、という条件付きの話だけど。
一瞬、脳裏によぎるのは、ベンチから見上げた青一色に染まった一塁側のスタンド。
青道のユニフォームを身にまとって目をギラギラと光らせる選手たちと、若かりし頃の片岡先生の姿。
久しぶりに嫌悪感がよみがえってきて、せり上がってきたため息と一緒に無理やり飲み下した。
*
今年は六月二週目から梅雨入りし、最近はもっぱら曇りか雨模様の天気が続いている。
今日も朝から雨が降り続き、天気予報によると深夜までやまないらしい。室内練習場の屋根を弾く雨音が、静まりかえる室内に反響する。
制服姿で集められた選手たちは、息を殺すように押し黙って片岡先生の言葉に耳を傾けている。
「昨日のデッドボールで丹波のアゴの骨にはヒビが入っている……幸い骨折にはいたらず脳のほうにも影響はないそうだが……予選には間に合わないかもしれん」
片岡先生の厳しい言葉に、選手たちも険しい表情を浮かべ顔を強張らせた。
初戦まであと約一か月というところで、エースの離脱。ベンチ入りした投手陣は一、二年生の三投手のみ。しかも、一年生のふたりは実戦経験も浅い。
誰がどう考えたって、崖っぷちの大ピンチ、絶対絶命のノーアウト満塁で四番打者を迎えた──そんな状況だ。
降りやまない雨で高まった湿度のせいか、彼らの発する緊迫した空気のせいか、さっきから雰囲気が重たくて仕方ない。
そんな湿りきった空気を震わせ、選手たちを奮い立たせようとする片岡先生の声には、強い意志がこめられている。
「エースナンバーは丹波に渡す!! あいつが戻ってくるまでチーム一丸となって戦い抜くぞ!!!」
こんな逆境に立たされても、指揮官は選手たちに弱気な姿勢を決して見せない。
だからこそ、青道は強豪校であり続けるんだろう。選手たちが片岡先生のもとで野球がやりたいと集まってくるのも理解できる。
また一つ、このチームの強さの理由を痛感した。青道は本当にタフなチームだ。
「深刻そうな顔してますね」
「なんだ、御幸君か」
ぼーっとやぐらを眺めているところに、ふらっと現れたのは御幸君だ。背後から私のやぐらを覗き見ている。
そういう君だって、普段の余裕そうな表情がどっかに消えて険しい顔になってるよーーと、意地悪を言いたくなるのを慎む。
一応、私だって顧問だし。選手の士気の下がるようなことは口にしたくない。
「何度見たって抽選結果は変わりませんよ」
「それはわかってるんだけどさ」
「みょうじセンセーは青道と母校が対戦したら、どっちに勝ってほしいですか?」
「……は?」
凝視していたやぐらから顔を上げると、不敵に笑みを浮かべた御幸君と目が合う。なぜだ、考えてることがバレている。
「お互い順当に勝ち上がれば、四回戦で当たりますよね」
「そうだ、前にいろいろ話したんだった」
そういえばすっかり忘れていたんだけど、御幸君には私の個人情報を少しだけ開示していた。
あのあと、詳細は高島先生に聞けって言って逃げたけど、結局どうなったんだろう。
どこまで話を聞いたのか探りを入れた方がいいかもしれない。
「それで、みょうじセンセーはどっちに勝ってほしいですか」
「あのねぇ、まだ試合も始まってないのに、気が早いんじゃないの?」
「神山が四回戦まで勝ち上がれるかどうかは知らないですけど、俺たちは一試合も落とすつもりないですよ」
御幸君はいたって冷静に、さも当然というように六戦全勝を宣言した。
エースを欠いた最悪の状況で、西東京を制さなければなければならないのに。相当な自信家の一面が垣間見える。
御幸君のようなキャッチャーは、絶対敵に回したくないタイプだ。
こちらの考えは筒抜けなのに、彼がなにを考えているのか全くわからない。
しかも、私は仮にも顧問だというのに、めっちゃ舐められてる感じがする。というか、この遠慮のない態度は、確実に舐められている。
「この状況で大した自信だね」
「やるべき準備をきっちりしておけば、負けないですよ。そのために毎日練習してますから」
「とりあえず、丹波君が復帰するまで頑張らないとね」
「で、質問の答えは?」
一歩、二歩と距離を詰められて、異様な威圧感に息が詰まる。
上手いこと話を逸らせたと思ったのに、御幸君からは逃げられそうもないらしい。
彼の口角は上がってるのに、眼鏡の奥の目が笑ってなくて……怖いんですけど。
「そんなの母校なんだから、神山に決まってんでしょ。それに今年は特別なのよ」
「特別ってどういう意味ですか」
「はい、世間話はここまで! さっき滝川君に呼ばれてたでしょ。早く行きなさい」
しっしっ、と手で払う素振りをして追い払うと、渋々と引き下がった御幸君の背中を見送る。
生意気な御幸君も、さすがにあの滝川君には頭が上がらないらしい。
ひとりになった室内練習場で、一つため息を吐き出す。
野球部の顧問もなかなか大変だ。
というか、これからがなかなかに忙しい。
練習を監督するだけではなく、各メディアからの取材の日程調整に当日のアテンド、選手の通院に付き添ったり、父母会や後援会とのやりとり、夏合宿や壮行会の準備もあるし、野球応援のために吹奏楽部やチア部の顧問たちとの調整に、偵察やデータ分析にも時間を取られる。
もちろん、通常業務と期末テストの準備も並行するのは当たり前のことだ。
気を抜けばまたため息がこぼれそうになるので、口元を引き締めて我慢する。
その代わりに、独り言は短い呼吸のすきまからぽつりと落ちた。
「藤代監督はもっと大変だったんだろうな」
恩師の大きな背中が、記憶の底から浮かび上がる。
部内の誰よりも日焼けして、弱気なプレーには怒鳴り散らし、好プレーには豪快な笑顔で褒める横顔を、まるで昨日見たかのように思い出す。
自ら厳しく鍛え上げた選手たちが自分たちの意志で野球をしているのを見るのが、なによりも楽しい──と、語っていた。
私の恩師は、野球の魅力に取り憑かれ人生のすべてを甲子園に行くために捧げているような人だ。
監督のユニフォーム姿を見たのは、あの決勝戦が最後。
私はあの日以来、グラウンドにも球場にも、一度も足を運んでいない。
野球部の同期には「たまには球場に顔を出せ」と誘われることもあったけど、行きたくても、行けなかった。野球と、監督と向き合うことが、怖かったから。
でも、今だからこそ藤代監督に会いたいと思う。
私も社会人になって、未熟ながらも指導者側の人間になった。今ならお酒を酌み交わしながら、昔話をできるかもしれない。
「お前ならできるよ、頑張れ」って、あの頃みたいに励ましてもらいたい。
(弱気な私の背中を叩いてくれませんか、藤代監督)
心の中で呟いた弱音は、余計に私を臆病にしてしまうから耳を塞いで聞こえないフリをする。今は弱気になっている場合じゃない。
だって、もうすぐそこに夏が迫ってきているのだから。