×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -







10 とあるエピローグについての考察


「あっちゃ〜フォアボール三つでノーアウト満塁かぁ」

 グラウンドから目を逸らしたくなるのを歯を食いしばって耐える。
 今日はメンバー選考も佳境の練習試合。黒士館高校を相手に先発したのは、一年生左腕の沢村君だ。
 立ちあがりに苦労する投手は多いけど、沢村君の場合は想定される事態の中でも史上最悪のピッチングを披露している。
 観客席からも「かーわーれー」と野次が飛び交っている惨状だ。私は2四球目の時点で、すでに頭を抱えている。

 沢村君は最近身につけたばかりの新しいフォームを実践しようと、マウンドで必死にもがいているみたい。その様子を見ていると、どうしてもやきもきしてしまう。私にはどうすることもできないのに。やはり、彼ひとりでなんとか立て直せる状況でもないだろう。
 内心ハラハラしながら手に汗を握り、アナウンス室の窓から一塁側のベンチを覗く。ちょうど高島先生が片岡先生になにか話しかけているところだった。投手交代の進言をしているのかもしれない。

 そういえば、沢村君は高島先生がスカウティングしてきたらしい。
 ただ、在籍していた中学の野球部は弱小でなんの戦績も無いし、入部早々に片岡監督を激怒させて最近まで野球部「見習い」扱いを受けていたというのだから、心底驚いた。
 高島先生からしたら期待の新人なのかもしれないけど、今日の立ち上がりはマズすぎる。正直なところ、沢村君を代えたほうがいいと思う。このままでは、彼ひとりで試合を壊してしまいかねない。
 彼はまだ一年生だし、これから先にも実力をアピールするチャンスは巡ってくるはずだ。それよりもベンチ入りメンバーの当落線上にいるような三年生たちに、出場機会を与えてあげるべきだと、私は思う。

 初回からさっそく守備のタイムをかけたマウンドには、殺気立った様子の内野手陣が集まってくる。
 当然、投手交代だろうと思っていたのに、球審はアナウンス担当の藤原さんに「キャッチャー交代、滝川君ね」と告げた。
 隣に座っている私たちは驚いて顔を見あわせる。

「い、今、キャッチャー交代って言った?」
「はい、そうですね」

 どうやら私の聞き間違いではないらしい。藤原さんも困惑した様子でうなずく。
 一塁側のベンチを覗いて見るけど、片岡先生の目はマジだ。あの人は本当の鬼だな……。

 席からずり落ちそうになるのを堪えて、マウンドへと駆け寄る滝川君を見守る。
 まさか、この状況で滝川君が出場することになるなんて想像もしていなかったけど、でもこれはチャンスだ。しかも、早い回からの出番ならアピールする場面も多く作れるだろう。

「クリス君が試合に出る姿を久しぶりに見られて、すごく嬉しいです」
「あはは! 大ピンチだけどね」

 藤原さんは選手交代のアナウンスを告げた後、マイクをオフにしてからそっと呟いた。
 彼らの努力してきた過程を、彼女もずっとそばで見守ってきたんだ。感慨深げに目を細める横顔はやさしくて、まなざしは慈愛に満ちている。
 私も現役の頃は、グラウンドを見つめる横顔ってこんな感じだったんだろうか。
 そうだといいな。

「さて、滝川君はどうやって沢村君をリードすんのかな」

 守備のタイムが解けたグラウンドでは、滝川君が野手陣に前に出るように指示をしている。
 この場面なら、一、二失点覚悟でアウトを取りにくるのかと思いきや、どうやら一失点すら許さない強気な構えらしい。
 外野も内野のすぐ後ろまで前進している。
 この陣形だと内野の間をゴロで抜くのは厳しいが、内野の頭を越す打球はすべて長打になりかねないし、そんなことになれば初回から大量失点の大炎上間違いなしだ。
 かなりリスキーな戦法なのだけど、なぜかワクワクしてしまう。
 それはきっと、あのバッテリーならこの最悪の状況をなんとかしてしまうんじゃないかと、わずかばかりの期待がそうさせるのだ。

 沢村君が投じたまっすぐは、やっとバットに当たってガキンと鈍い金属音を響かせ、打球はセカンド方向へ転がった。

「4-2-9のホームゲッツー!? なにあれ、初めて見た!」
「すごいわ、クリス君!」
「ライトが一塁のベースカバーに入るとか、軟式野球みたい」

 セカンドゴロでホームを刺し、キャッチャーから一塁へベースカバーに入っていたライトへと送球する、大胆不敵なセットプレーであっという間に二死二・三塁になった。
 なおもピンチはつづくが、滝川君の矢のような三塁牽制で走者をタッチアウト。
 結局、滝川君の指示した超攻撃的な守備シフトの表すとおり、一人の生還も許さないで大ピンチを切りぬけることに成功した。

 青道は二回までに三点をリードし、この流れで守備にもだんだん良いリズムが……

「と、思ったんだけど。どうしたんだろう、滝川君」
「心配ですね」

 藤原さんはグラウンドを見つめたまま、表情をかすかに曇らせる。
 滝川君の放った二塁への牽制は悪送球になり、キャッチャー前のバントは三塁へ送球したがアウトにできずにフィルダースチョイスとなってしまった。
 状況は一死一・三塁と芳しくない。グラウンドには不穏な空気が流れだすのが、ここからでも見てとれた。握りしめた手の中が汗でじっとりと湿り気を帯びる。

 青道にとっては大ピンチ、裏を返せば黒士舘にとっては大チャンスの場面で、どうやら代打を出すらしい。黒土館側のベンチが動きだした。
 こんな良い場面で代打として出場するとは、よほどの好打者なんだろうと思いきや、財前君は初球スクイズを仕掛けてきた。意表を突いた攻撃に、ベンチや観客席からも驚きの声が沸きあがる。
 沢村君の投球は低めに外れたワンバンになったが、滝川君はきっちりと抑えた。あれが後ろに逸れていれば、確実に失点している。滝川君のナイスプレイだ!
 結局、再びスクイズを仕掛けてくることはなく、ヒッティングに切り替えた財前君は、ファールで粘るも最後は空振り三振。
 沢村-滝川バッテリーが見事にピンチを凌いでみせた。

「やるじゃん、沢村君!」
「クリス君もナイスリードですね!」

 藤原さんは嬉しそうにはにかんで、スコアに「S.O」と書きこんだ。
 沢村君は三回6四球被安打0無失点と、すごいのかすごくないのかよく分からない投手成績を残して、滝川君と共に交代。

 試合は三回以降、一年生から三年生まで即戦力として使えそうな選手を起用し、八対五で青道が勝利を収めた。





「夏への戦いはもうすでに始まっている。選手選考に時間をかけているヒマはない。今すぐ選手を集めろ」

 片岡先生の腹の底から響くような低い声は、聞いてるだけで背筋が伸びる。
 隣にいる高島先生と太田部長の息を飲む音が、私にもはっきりと聞こえた。
 片岡先生は最初から一軍に昇格させる二名に目星をつけて試合に臨んでいたんだと、瞬時に察する。それが誰なのかは、私にはわからない。
 せめて、三年生たちの誰かが選ばれてくれたらーーと脳裏に彼らの顔を思い浮かべる。
 その中にはもちろん、滝川君も含まれている。
 彼ほどの実力があれば、肩を故障していたとしても第三捕手としてブルペンキャッチャーを任せることもできるし、戦況を読みながら状況に応じた仕事をしてくれる。
 場合によっては、ランナーコーチャーや代打としての起用も計算できるはず。

 しかし、私の希望的観測は見事に外れてしまった。


「一軍昇格メンバーは、一年小湊春市、同じく一年沢村栄純、以上だ……」

 
 片岡先生がそう言った瞬間、室内練習場の空気が一気に重たくなり、じっとりと湿度が増した。
 選手たちの表情は様々で、涙を流したり、驚いたり、歯を食いしばったり、うつむいたりと、悲喜こもごもだ。
 私は悲しんだらいいのか、喜んだらいいのかわからなくて、平常心を保つために真顔で前を向く。

 片岡先生はメンバー外の三年生たちを残し、他の選手たちを解散させた。
 そして、選ばれなかった三年生たちへ向けて、丁寧に心をこめたメッセージを伝える。
 その場に残った誰しもが一字一句を聞き逃さないようにと、真剣な表情で片岡先生の言葉に聞き入っている。

「これからもずっと……俺の誇りであってくれ」

 メッセージの最後を締めくくり深々と頭を下げた片岡先生の背中と、涙があふれだす三年生たちを、言葉もなく見つめる。
 地に膝をつきうつむく者、天を仰いで涙を堪えようとする者、それぞれの頬には汗がにじみ、そして涙が流れる。
 いくつもの泣き声が、いつまでも止まない雨のように静かに響く。

 夏大のメンバー発表は、すべての選手にとって特別な時間だ。
 目を伏せるとまぶたの裏側には、通り過ぎていった夏の面影が顔を覗かせる。
 私も数年前は彼らと同じ高校生で、メンバーに漏れた選手の涙を見つめていた。
 その時は決まって、胸の奥がジクジクと痛んだ。
 まるで冷凍保存してあった痛みが解凍されたかのように、あの頃と同じ痛みで胸がうずく。

「滝川君は泣かないんだね」

 残された三年生たちも自室に帰り、片岡先生たちもその場を後にしても、私は足に根が張ったように動けなくなっていた。
 そして、気づいた時には室内練習場に滝川君と私のふたりきり。
 多くの三年生たちが悔し泣きをするなかで、涙一つ見せない彼の横顔に問いかける。

「泣く時は嬉し泣きにしようと決めているんです」

 本当はとても悔しいはずなのに、それでも気丈に振る舞ってみせる彼は、やはり同世代の男子よりずいぶん大人びている。

 ふと、脳裏に一つの疑問が浮かび上がる。
 滝川君になら、訊いても許されるだろうか。

「滝川君ほどの実力があれば、今の状態でもベンチ入りできるチームはあったはずだよ。それなのに、どうして青道を選んだの?」

 強豪校であれば百人を超える部員を抱えるチームも少なくない。青道は一般生の入部も認めているチームだと、入学前にもわかっていたはずで。
 その中でもベンチ入りできるのは、精鋭の二十人のみ。甲子園出場が決まれば、そこからさらに二人が削られる。青道くらいの規模になれば、才能や体格に恵まれた選手でさえ、埋もれてしまうことだってよくあることだ。
 私はそのことについて、ずっと疑問に思っていた。
 他の中堅校や都立校に進んでいればスタメンで出場し、チームの大黒柱としての活躍が期待できる選手は、青道にも大勢いる。
 仮に、怪我や故障を抱えていたとしても。
 そして、その大勢の中にはもちろん、滝川君も含まれていて。

 彼らは第一線で活躍するようなーー今と違う未来だって選べたはずなのに、それでもなぜ競争率の高い強豪校の青道を選んだのか、ずっと訊いてみたかった。

「俺は六年前、甲子園に出場した青道の試合を見てから、青道で全国制覇を目指すことに憧れていました。レベルの高い環境で自分の実力を試してみたい、自分の力をどこまで伸ばせるか挑戦してみたかったんです」

 静かだけど芯の通った声に耳を澄ます。
 滝川君は昔を懐かしく思い出しているのだろうか、遠い目で天を仰いだ。

「確かに、他のチームからもいくつか誘いがありました。でも、青道でなければ意味が無かったんです。それはきっと、他のメンバー外の三年生たちも同じ気持ちだと思います」
「自分の選択に……後悔はしてない?」
「後悔はありません。それに俺は最後の最後で、選手として最高のボールを受けることができましたから」

 その答えは、胸にストンと落ちてきた。
 滝川君は決して気丈に振る舞っていたわけじゃない。本当に晴れ晴れとした気持ちだったから、涙を流さなかったんだ。

『キャッチャーとしての最大の幸福は、ピッチャーの最高のボールを引き出し自らの手でリードすることだ』と、どこかのプロ野球選手のインタービューを見かけたことを、唐突に思い出した。まさに、滝川君の言葉と重なる。
 滝川君は本当に根からのキャッチャーだ。
 そんな彼に球を受けてもらえた沢村君は、今日の試合を胸に刻んでさらに成長していくだろう。

「不躾な質問だったのに、答えてくれてありがとう」
「いえ。何かの参考になりましたか」
「参考っていうか、勉強になるっていうか。私、先生なのにさ、君たちに教えられてばっかりだよ」

 いい歳した大人なのにね、と自虐気味に言うと、滝川君は小さく声をあげて笑う。


 (いつか、彼らの努力が次のステージで報われる日がきますように)

 今の私にできることは、そんなささやかな願いを心の中で祈り続ける。
 
 ただ、それだけだ。