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「今日も大好きでした」
七月下旬、受験勉強の真っ只中の昼下がり。蝉や牛蛙の鳴き声をBGMにしながら朝から勉強机にかじりついていた集中力も、さすがにぷっつりと途切れた頃だった。
そういえば朝食はおかかのおにぎり一個とお味噌汁だけで、明らかにエネルギーが足りてない。頭を使うにはそれなりにカロリーが必要だ。あとカラカラに乾いた喉も冷たい麦茶で潤したい。
もはや立ち上がるのすら億劫だったけど、椅子に張り付いたお尻を無理やり剥がし、ペタペタと素足で階段を降りると、案の定リビングには誰もいなかった。
母の作り置いてくれた冷やし中華のラップを剥がし、箸をつける前に氷をたっぷり浮かべた麦茶を一口。無音での食事はなんとなく寂しいから、何気なしにリモコンを手に取ってテレビをつけた。

「あれ、白龍高校だ」

チャンネルを替えることなくリモコンを置いて、身を乗り出すように肘をつく。
どうらや地元のケーブルテレビが高校野球の中継をしているようで、こんがりと日に焼けた高校球児たちが画面いっぱいに映し出されている。
目を細めてテロップを確認すると、群馬県大会準決勝だということが判明した。
夏は日本一暑いとも言われている地元で、炎天下の屋外で白球を追いかける彼らを、少し斜に構えながら眺める。
対戦中の白龍高校が高校野球の強豪校として全国にその名を馳せていることは、なんとなく知っていた。
純白のユニフォームがトレードマークだと聞いたことがあったけど、今は一様に黒土にまみれて薄汚れていて、どれだけ動き回ったらこんなに泥だらけになるのか想像できない。
こんな暑いのによく頑張れるよな……なんて独り言を呟きながら、冷やし中華をすする。

白龍高校と高崎育英高校の試合は、すでに九回の表、二対三と一点差を争う緊迫した展開になっていた。
野球のルールには疎い私にでも、この攻撃で一点入れなければ白龍高校が敗退することは理解できている。

『九回の表、白龍高校の攻撃はワンアウト、ランナー無しと、あとアウト二つに追い込まれました。……あっと、ここでピッチャーの打順でしたが代打を送るようです。一年生の背番号18番、美馬総一郎が打席に入ります』

アナウンサーが早口に、でも抑揚をつけたはっきりとした声で実況する。
美馬総一郎は他の選手たちに比べるとずいぶんと細身ですらりと背が高く、まだ真っ白なユニフォーム姿が日差しを反射して眩しく輝いていた。
ゆっくりとした足取りで打席に入り、審判にお辞儀をする仕草には品を感じる。
そして、ピッチャーと真っ直ぐに対峙する横顔がテレビ画面いっぱいに映されて、冷やし中華のきゅうりに伸ばしかけた箸がぴたりと止まった。

「か、かっこいい……」

凛々しい眉に、ぱっちりとした二重まぶたを睨むように細めると、目元は涼やかな印象になる。スッと通った鼻筋に、薄くて形の綺麗な唇は、まるで駆け出しの若手俳優のように整っている。
美馬総一郎のアップのままで画面を固定してほしい! とカメラマンに懇願したくなった。
野球のことなんてまったくもって何一つわからないんだけど、今この瞬間に直感が働く。美馬総一郎は、ヒットを打つ。
なんの根拠もない勘が脳裏を駆け巡って、そしてそれが現実になる。

『美馬は今大会初打席ですが、初球から打った! 鋭いスイングで打球はショートの深いところに……あーっ、ショートが追いつかない! バックアップに入ったレフトが打球を処理する間に、美馬は一塁を回った! レフトが処理にもたつく隙を突いてすかさず快足飛ばし…レフト前へのツーベースヒット!』

私はもう夢中でテレビ画面に大きく映された美馬総一郎に釘付けになっている。
力強いフルスイングも、まるで白馬が駆けるかのような俊足も、ヒットを打ったのに喜ぶそぶりも見せない真剣な顔つきに、完全にノックアウトされてしまった。
この人のことが好きだ! と頭の中で何度も何度も唱える。目の前で花火が弾けるような錯覚に目が眩み、心臓が締め付けられる息苦しさで首筋に汗をかく。
会ったこともなければ、声を聞いたことすらない人に、なぜか強烈に惹かれているのが不思議だ。この感情が恋じゃないなら、私はいま悪い病気を患っている。
落ちるような恋というより、ハンマーで頭を殴られたかのような衝撃で、美馬総一郎に恋をした。この出会いはきっと運命なんだと、強く想う。

「ただいまぁ。あれ、あんた高校野球なんて興味あったの?」
「お母さん、私、やっぱり志望校は白龍高校にする」
「はぁ!?」

買い物から帰ってきた母は、娘からの唐突な発言に驚き、重たそうなレジ袋をどさりと大きな音を立てて落とした。買ってきたばかりの玉子が割れたりしていないか、少しだけ心配になる。

「……あんた、白龍高校って頭も良いのよ。わかってるの?」
「それはまぁ……これから頑張りますので」

お父さんにもちゃんと説明しなさいね、とかけられた声を適当に受け流して、試合の行く末を見守る。
結局、このあと美馬総一郎は後続の放ったタイムリーヒットで生還し、そのまま畳み掛けるかのような連打と相手のエラーも絡めて白龍高校が形成逆転に成功。
試合を土壇場でひっくり返し、九回の裏を三者凡退で締めくくり、決勝戦進出を決めたのは白龍高校だった。


これが、美馬総一郎と私の出会い。
そして、私は猛勉強の末、無事に白龍高校へ合格。
入学と同時に迷うことなく野球部マネージャーになって、早数ヶ月が過ぎていた。





白龍高校野球部マネージャーには、様々な業務が任されている。
グラウンドでの練習補助、補食の準備、備品管理に発注、日用品の買い出し、来客対応に試合運営など、数え出したらキリがない。
練習後のナイター消灯と忘れ物がないかの見回りは、後輩マネージャーに任された業務の一つ。
最後の一人の部員がグラウンドを出るまで待ち、真っ暗なグラウンドから引き上げてくるのが、ここ数ヶ月の私の日課になっていた。

「美馬先輩、お疲れ様です」
「あぁ」
「今日も相変わらずイケメンですね!」
「……そうか」

入念なダウンを終えた美馬先輩は、スパイクの土を落としながらさりげなく近づく私に適当な対応する。
毎日の塩対応にもすっかり慣れてしまった。受け答えが素っ気無いほど、むしろ快感に感じる。美馬先輩のおかげで、高校生になってから自分がドMだということに気がついた。
素っ気なくされたのに飄々としている私を、ひんやりとした目線で一瞥する。
私はいつもの調子でニコニコしながら、お決まりの台詞を口にする。

「私、今日も美馬先輩のことが、大好きでした!」

はぁ、と盛大な溜め息が溢れた。もちろん私の口からではなく、美馬先輩の口から。
憂鬱な雰囲気で目を伏せ、美しい眉間にしわが寄る。
女子に告白されてそんな不愉快そうなリアクションするなんて、群馬県のどこを探しても美馬先輩しかいないだろう。

「お前も毎日懲りないな」
「だって、美馬先輩が毎日のようにかっこいいからいけないんですよ」
「俺が悪いような言い方をするな」
「私は悪くありません。すべては美馬先輩の存在がかっこよすぎるせいなんです!」

あ、また溜め息ついた。しかもさっきよりも深くて長い。
いかにも鬱陶しいと文句を言いたげな態度をするくせに、ウザいとか面倒くさいとか、私が傷つきそうな言葉で突き放したりしないのが、美馬先輩の優しいところ。
私は後輩の特権として、その優しさに甘んじながら毎日のアプローチに勤しんでいる。

「俺はお前の言葉が、信用できない」

美馬先輩ははっきりとした声で、表情で、この場に流れる生温い空気を一刀両断する。
一瞬、私の周囲だけ真空になったのかと戸惑うくらいに、息ができなくなった。
私はいま試されている、とすぐさまに悟る。強張った表情をはにかみながらほぐして、小さく息継ぎをする。

「それは、毎日のように告白してくるからですか?」
「それもそうだが。練習中と今の態度が違いすぎて、からかわれているようにしか思えない」

からかう? 全国の高校野球ファンに美少年ともてはやされる美馬総一郎を、この私が?
美馬先輩は普段からあまり自分の心情をペラペラと喋ってくれるタイプではないので、吐き出すように言った本音に目を丸くする。
とんでもない勘違いだ。私なんて毎日命がけで告白してるんだから、誤解されたままでは本当に報われなくなる。

「私、思ったことは口にしないと気が済まないタイプなんです! あと、公私混同するつもりはないので、練習中は気持ちを態度に出さないようにしてました」
「……なるほど」

考え事をする時の顎に手を添える仕草は、まるであの少年探偵のように優美だ。
美馬先輩は男子高校生かつ高校球児であるのにも関わらず、ガサツな言動は一切しない。立ち振る舞いにどこか気品を感じるのは、きっと育ちが良いからなんだろう。
図々しく毎日のように告白する私とは大違いだ。

「どうしたら俺のことを諦める」

真面目な顔をして、真剣な声色で突き放されて、動揺して一瞬だけ動けなくなる。
再び歩き出した美馬先輩の背中を早歩きで追いかけて、離れないようについていく。
背中を見ているだけじゃ、横顔を眺めているだけじゃ、嫌だ。ちゃんと目を見て、向き合って話したい。

「……私に諦めさせたいんですか?」
「まぁ……そういうことになる」
「好きでいちゃダメなんですか? 片想いでもダメですか?」
「他にみょうじのことを大事にしてくれる奴がいるだろう。そういう奴を好きになった方が、お前の気持ちが報われる」

なんだそれ。私のことを大事にしてくれる奴なんて、どこにいるんだ。
仮に、そんな奴を見つけ出して目の前に差し出されたって、美馬先輩を想うこの気持ちはどこへ追いやれというのか。
私は誰かに大事にされたいわけじゃなくて、報われたいだけでもなくて、ただ美馬先輩のことがどうしようもなく、大好きで。
それだけじゃ、ダメなのかな。好きでもない奴に好かれても、迷惑なだけなのかな。
鼻の奥がツンとする。私はいま完璧に振られている。完全なる失恋だ。すごく泣きたい。
片想いすら許されないなら、私はいったいこれから先、どうしたらいいの。

「……お前のことが嫌いだ、って面と向かって言われたら、さすがの私も心が折れるかもしれません」

一瞬の沈黙の後に、美馬先輩の息遣いだけが微かに耳元へ届く。これが告白の前の緊張をはらんだ沈黙だったとしたら、どれほど幸せなんだろう。私は静かに地獄へ叩き落とされるための、心の準備を始める。

「俺は、みょうじのことが」
「……はい」

自分で言っておきながら、美馬先輩の口から『嫌いだ』と言うフレーズが紡がれることが心底怖い。
美馬先輩は至って冷静で、普段通りに綺麗な顔で、私の心を抉ろうとしている。
再び歩みを止めた私たちは、暮れて闇が深くなるグラウンドを背にしながら、真っ直ぐに向かい合う。
冷や汗が背中を伝い、呼吸は浅く、手は震えるから固く握りしめた。美馬先輩の薄い唇が開く。

「……嫌い」
「……はい」
「……なわけではない」
「…………はい?」

十六年間鼓動を止めなかった心臓に、とうとうとどめが刺された、と思った瞬間だった。
私は思わず聞き返す。美馬先輩の顔を下から覗き込むと、視線は空を彷徨いながら逸らされて、またあの考える仕草。問いかけの返事は、まだ無い。

「嫌い……なわけでないということは、好き……ということですか?!」
「勝手に拡大解釈をするな。思ってもいないことを言うのが、癪に障るだけだ」
「……き、厳しい。でも私、嫌われてはいないんですね! 良かったぁ」
「お前は恐ろしいほどに前向きだな」

見惚れてしまうほどに美しく張り詰めていた表情が、とうとう綻んだ。
私もやっと楽に息ができる。さっきまでの私は、無酸素でエベレストを登頂する愚かなクライマーのようだった。もう酸素が吸い放題なので、嬉しくって深呼吸をして盛大に吐き出す。
そんな私の様子を横目で見て、寮まであともう少しの距離をさっきよりもゆっくりな歩調で歩き出す。慌てなくても隣を並んで歩ける速度に、いつもと同じ優しさを感じる。
私はまた甘やかされている。先輩でも同級生でもなくて、後輩として出会えて良かったと心から思う。

「美馬先輩は野球が好きですよね?」
「当たり前だろう。好きに決まっている」
「いいなぁ、野球は。美馬先輩に『好き』って言ってもらえて。私もバットとかボールに生まれてきたかったです」
「……何を言っているんだお前は」

私の不規則な発言に、美馬先輩はまた呆れている。
今日も早朝から練習だったし、澄ました顔にも僅かに疲労の色が滲んでいた。
寮までもうあと少しだけでいいから、私のペースに巻き込まれていて、お願い。

「あ、やっぱりベースの方がいいかも。美馬先輩に毎日踏んでもらえるし!」
「正気か? とうとう頭までおかしくなったか?」
「美馬先輩、心配しなくても私は通常運転です」
「俺はベースに向かって好きとは言わない」
「まぁ、そりゃそうですよね」

美馬先輩に冗談がいまいち通じないのは、いつものこと。
こうして数分だけの二人きりの時間に、命がけの告白と返事をはぐらかすための他愛もない会話をするのが、いつのまにか私と美馬先輩の日課になっている。

「……でも、まだ人間の方が可能性がある」

それは何気ない一言だった。
僅かに、本当に微かに、目の前に明かりが灯ったような、そんな気がして。矢継ぎ早に沈黙を繋ぐ。

「……ということは、私にもまだ好きになってもらえる可能性があるってことですね!」
「だから、拡大解釈をするなと言っただろ」
「人間に生まれてきて良かったぁ!」
「……騒がしい」

騒がしくて鬱陶しいなら、さっきみたいに適当にあしらえばいいのに。
それができないのか、あえてしないのか、今の私にはわからないけど、その謎はこれからゆっくり紐解いていけばいい。
寮の玄関に辿り着いて一度こちらを振り返った美馬先輩に、今日一番の満面の笑みを浮かべる。

「美馬先輩」
「今度はなんだ」
「野球も恋愛も粘りが大事ですね!」
「もう勝手にしろ!」

足早に自室へと向かう背中を見送って、ニヤニヤと顔を溶かしながら、その場にうずくまる。
とりあえず、今日の駆け引きは私の押し切り勝ちということでいいだろう。美馬先輩を好きでいる権利を勝ち取って、浮かれるのも束の間。明日が来れば、また命がけの告白をするのだから。
それでも私は、めげずに好きだと告げる。
イエスかノーかはさておき、美馬先輩に『わかった』と言わせるまでは、絶対に諦めたりしない。

「おい、いつまでそんなところにいるんだ。早く帰れ」

頭の上から聞き慣れた、低く深い声が降ってくる。
廊下の窓から顔を出して見下ろす美馬先輩を下から見上げるこのアングルも、最高に素敵だ、すごくかっこいい。
そして、なんだかんだ心配してさりげなく私が帰ったか確認してるあたりも、もうたまらなく好きだ。

「美馬先輩、また明日!」
「あぁ」

深々とお辞儀をして大きく手を振り、部室へ向かおうとした目の端に、小さく手を振る美馬先輩の姿を捉えた。
何かの見間違いかとびっくりして、ちゃんと確認しようと振り返ると、もう窓辺には誰もいなかった。

「美馬先輩が好きすぎて辛い……!」

苛立ちのような気持ちの昂りを抑えられなくて、思わず声に出してしまった。
早く明日になればいいのに。たったいま分かれたばかりの美馬先輩に、もうすでに会いたい。一刻も早く伝えたい、「今日も大好きでした」って。
そして、また『お前も毎日懲りないな』って呆れはてた声を聞きたい。
どんなに突き放されたって、適当にあしらわれたって、私は折れたりしないから。
いつか、あの冷たそうな頬と無骨な指先に触れる、その日までは。




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